帝都初恋剣戟譚   作:新免ムニムニ斎

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二〇〇三年八月二十七日 〜いとわしくうらやましいタチヤーナ〜

 

 夏休み中、エカテリーナはリュドミラとたくさん過ごした。

 

 お互いに会える日は必ず会って、色々なことをして楽しんだ。

 

 全ての日において、呼び出したのはエカテリーナからだ。しかしリュドミラはそのことに嫌な顔一つ見せることなく、遊びたいと言えば必ず来てくれた。

 

 それがとても嬉しかった。気がつけば、彼女に甘えてしまっていた。

 

 ——そして今日のように、会えない日が訪れると、寂しい気持ちになってくる。

 

 そんな今日——八月二十七日の昼下がり、エカテリーナは冷房の効いたリビングにて独り座り、本を一冊読み終えたところであった。

 

 古い文庫本だった。カバー表紙に表記されている題名は「オネーギン」。

 

 近代ロシアの文豪、アレクサンドル・プーシキンの作品だ。プーシキンと聞けばこの「オネーギン」を思い浮かべるロシア人が多いくらいに代表的な一冊である。

 

 小学生の頃に父から譲ってもらったその一冊を、エカテリーナはこれまで一度もまともに読んだ事が無かった。

 

 当時はまだ小学校低学年だったから、その文章がひどく難解に思えて敬遠していた。

 

 だけど、リュドミラがこの本に言及したため、急に興味が湧いてきたのだ。

 

 中学三年生に成長したからか、訳者の腕が良いからか、今ではその文庫本の文章がすんなりと読めるようになっていた。文学作品らしく迂遠(うえん)な文章でこそあるものの、少なくともかつて三十ページでリタイアしたシェイクスピアの「リア王」よりはずっと読み易く、たった三日で読了してしまった。

 

 「オネーギン」のあらすじを簡単にまとめると、こうだ。

 貴族出身の若者エヴゲーニイ・オネーギンは、叔父の死後にその財を受け継いで田舎の地主となり、そこで出会った貴族令嬢タチヤーナから慕情と恋文を捧げられる。

 しかし虚栄心が強く気取った若者であったオネーギンは、タチヤーナの純朴な想いを取り済ました態度と言動で袖にして、彼女を傷つけた。

 ……そして月日が経ち、二人は再会を果たす。

 放埒(ほうらつ)の果てにすっかりみずぼらしく零落(れいらく)してしまったオネーギンに対し、タチヤーナは社交界でも一目置かれるほどの、立派な公爵夫人となっていた。

 すっかり垢抜けたタチヤーナに、オネーギンは恋に落ち、そしてかつての純朴だった頃の彼女のように恋慕と恋文を捧げる。

 しかしタチヤーナは、そんなオネーギンの想いに対してかぶりを振った。「もう私は他の方に身を任せました」と。

 ……そこで、この話は終わりとなっている。

 

 読後感は——はっきりいって、良くはなかった。

 

 決してつまらなかったわけではない。

 

 だけど、色々な意味で、わだかまりのようなものが残留する結末だった。

 

 ……オネーギンも、タチヤーナも、それぞれ気に入らない部分があったからだ。

 

 オネーギンはひどいやつだ。

 タチヤーナの純粋な告白を気取ったふうにからかい断っただけでなく、(たわむ)れに彼女の妹と仲良さげに振る舞い、その妹を好いていた親友を嫉妬に駆らせて決闘となり、そして射殺したのだ。

 頭の中に何が詰まってるのか確かめてやりたいやつだった。

 

 ……一方で、タチヤーナに対しても「臭み」のようなものを感じた。

 

 オネーギンに振られるまでの彼女は、確かに純朴な娘だった。

 その純朴な娘から時を経て、N公爵の「公爵夫人」となった。

 「公爵夫人タチヤーナ」は、長年の放蕩で劣化したオネーギンを、別の男に操を立てたからと()()()

 その時の丁寧腐った彼女の言い回しから、いかにも上流階級に()()()()、ジャラジャラ無駄に飾り立てたような「臭み」を感じてしまい、不快に思った。……まるで、取り澄ました態度で彼女の熱愛を切り捨てた、かつてのオネーギンみたいに。

 別の男に操を立てたから想いには応えられない? ならその「別の男」が貧乏人であっても、彼女は同じ言葉をその口から吐けたのだろうか。自分にはそうは思えない。「別の男」とやらが公爵という身分で、なおかつその男にしなだれかかった今の立場を捨てたくないから、かつて胸が痛くなるくらいに愛した男を捨てたのだ。社交界の空気に肺腑の底まで侵された、打算的な女だ。

 

 ……ああ、分かっている。

 「オネーギン」の舞台は、おそらく帝政ロシアだ。

 近代の結婚というのは、恋愛の延長というより、イエの生存戦略的な意味合いの方が強かったのだ。貴族社会ではなおのこと。

 まして当時はまだ女性の立場も強くなく、実力のある男に嫁ぐくらいしか安定への道が存在しなかっただろう。

 自分のこのタチヤーナに対する嫌悪感は、現在続く失恋の痛みと、女性の地位が昔より高まった時代に生まれた人間特有の権利意識から来るものであろう。

 ……分かっているのだ。百も承知なのだ。

 

 承知の上で、自分はタチヤーナが嫌いだった。

 

 純朴だが可憐な田舎貴族の娘が、都会にスレて俗物に変貌したように見えて仕方がなかった。

 

 あれほど焦がれた恋が叶うはずなのに、それを選ばなかった女。

 

 そのような女であるタチヤーナは、救い難い馬鹿女に思えた。

 

 ——あたしだったら、駆け落ちしてでも、好きな男についていく。

 

 ——本当にその男が好きなら、一緒にいて得するだけの金持ちよりも、そっちを選ぶ。

 

 ——こいつは所詮、ラクな方へ流れただけだ。

 

 エカテリーナは思いっきり椅子を立ち、涼しいリビングから出て、自室へ行った。

 

 手に持った「オネーギン」を、本棚の奥の方に()し入れる。

 

 本当なら捨てるか売りに出したいところだが、父からの貰い物なのでそれはできない。なので見えない所に封印する。もう自分がこの本を再び開くことは無いだろう。

 

 エカテリーナは無理やり気持ちを切り替え、外着のシャツと短パンに着替える。外は暑いけど、このまま家の中に閉じこもってばかりいても、タチヤーナへの苛立ちが熟成されていくだけだ。こんなんじゃ受験勉強すらおぼつかない。気晴らしに外へ出よう。

 

 財布を持ち、さらに春夏仕様のキャスケットをかぶる。愛国団体の排外主義的デモ活動はまだ盛んに続いているらしく、この根っからの金髪を見たら睨まれるかもしれない。

 

 玄関の扉を開けて、外の空気に身を投じた瞬間、むぅっとした暑気に包み込まれた。一方で日差しは生温い。雲の中に太陽が隠れていたからだ。

 

 エカテリーナは家の門から細い道路へ出て、歩き出したところで……足が止まった。

 

「…………あ」

 

 息が引っ込み、喉の奥が固く詰まる感じがした。

 

 その視線の先には——光一郎(こういちろう)がいた。

 

 久しぶりに見る好きな男の子の顔は、自分と同じく驚いた顔だった。

 

(なんで、ここに、コウが)

 

 その疑問を境に、思考が一気に加速する。

 光一郎の家は、この家とは全く違う方向に存在する。わざわざ用を作らなければ、ここまで来ることは無い。そして、この家の近くには、彼が必要とするような店は無い。

 そう。だからこそ彼は、学校から決して遠くない場所であるこの家が、エカテリーナの家であることに今まで気づけなかったのだ。

 であるならば、彼がここに来た理由として考えられるものは一つ。 

 ——この家に、用があって来た。

 ——自分に、会いに来た。

 

 うれしい。

 

 うれしい、はずなのに。

 

「え、エカっぺ……その、こんにちは」

 

「う、うん……こんちわ……」

 

「えっと、その…………ひさしぶり、だね」

 

「そう、ね。ほんと……ひさしぶり……」

 

「最近、調子とか……どう?」

 

「調子……?」

 

「うん。その、あれだよ……受験勉強とか、さ」

 

「受験……あぁ、うん、それなりに……かな…………」

 

 うれしい、はずなのに——こんなにも、苦しい。

 

 自分と対した瞬間、光一郎の態度が見るからに不自然になっていったのが、見ていて辛かった。

 

 やめて。

 そんな、取り繕うような態度とらないで。

 そんな、ぎこちない喋り方しないで。

 いつもの、お日様みたいに能天気な態度で接してよ。

 気を遣うの、やめてよ。

 

 胸の苦しさが、吐き気に近い錯覚に変じるのを実感した瞬間、エカテリーナは衝動的に背中を見せていた。

 

「エカっぺ、ちょっと——」

 

「ごめん」

 

 光一郎の呼び止めも振り払い、エカテリーナは再び家の中に逃げた。

 

 強引に扉を閉じ、鍵をかけ、チェーンも付ける。

 

「っ……うぅぅっ、く、ぁあぁ……!」

 

 固く閉ざされたドアに縋るようにして膝を屈しながら、エカテリーナは嗚咽を漏らす。

 

 潤いを持つ視界と、三和土(たたき)のタイルに滴る雫を他人事みたいに見つめながら、胸中の苦しみに浸る。

 

 ——期待してしまった。

 

 もしかすると、自分のあの最悪の告白が彼の気持ちを揺さぶり、好意の天秤を自分へ傾けてくれたのではないかという、甘やかで愚かな期待を。

 

 だけど、もしそうだとするなら、あんな取り繕うような態度は取らない。

 

 その態度を見てしまっただけで、もう自分の「初恋」は終わってしまったのだということを、嫌でも再認識してしまった。

 

 自分はこうして泣いている。

 だけど、ドア一枚隔てた先にいる光一郎は、ドアを叩いてはくれない。

 叩いて欲しかった。

 むしろこのドアをその左腰の木刀で打ち壊して、強引にこじ開けて欲しかった。 

 そして、抱きしめて、耳元で「やっぱりエカっぺの方が好きだ」って言って欲しかった。

 そうしたら、自分は喜んで彼にあげるのに。自分の全部を。

 

 ——やっぱりあたしは、タチヤーナなんか嫌いだ。

 

 愛していた相手に想いを伝えてもらっておいて、それを袖にできてしまうあいつが。

 

 自分に無いモノを得ておいて、それを捨てられたあいつが。

 

 そんなタチヤーナがどうしようもなく嫌いで……羨ましかった。

 

「ちくしょう…………ちくしょうっ……!」

 

 胸中の苦しみの赴くまま、ドアに爪を立てて何度も引っ掻き下ろす。

 

 その時、リビングから電話が鳴った。

 

 どうせ嫌がらせの電話か何かだろう。今は放っておいて欲しい。

 

 そう思って居留守を使おうとしたが、電話は鳴り続ける。

 

 エカテリーナは腹立ちまぎれに立ち上がり、靴を脱いでリビングへ向かう。

 

 受話器を乱暴に取り、吐き捨てるように怒鳴った。

 

「いい加減にしろこの閑人(ひまじん)!! 平日の真っ昼間にこんなことしてる暇があるなら働け!!」

 

 黙って切られるか、ロシア人は出てけ的な事を言い捨ててから切るかのどちらかだろうと思っていたが、相手の反応はどちらでも無かった。

 

『……()()()()()()、私、働いてないよ』

 

 聞き覚えのある声。静かで素朴そうな響きを持った女の子の声。

 

 それを聞いた瞬間、エカテリーナは毒気を抜かれた。

 

「え……()()()()()()?」

 

『うん』

 

「あ、ご、ごめんね怒鳴って。イタ電かと思ったのっ。それで……どうしたの?」

 

 声が自然と弾んでいるのを自覚しながら、エカテリーナは受話器の向こうにいる女の子——リュドミラに問いかけた。すると、

 

『……これから、会えないかなって』

 

「えっ……」

 

 胸の中に少しばかり明るい気持ちを覚えると同時に、疑問も湧いた。

 

「リュドーチカ、今日は確か遊べないんじゃ……」

 

『……遊べるようになった。ううん、()()()()()()()()()()()()

 

「……どういうこと?」

 

 歯切れの悪い言い方に、エカテリーナは思わず問うた。

 

『それは、会ってから話したい。……だめ?』

 

「う、ううんっ」

 

 相手が目の前にいない電話だというのに、思わずかぶりを振ってしまった。

 

「あたしも、会いたい。今すぐ」

 

『……ありがとう。それじゃ、待ち合わせ場所は——』

 

 いつの間にか弾んでいる自分の声を自覚せぬまま、エカテリーナは電話越しの会話を滑らかに進めていった。

 

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