帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
リュドミラとの電話からすぐに家を出て、エカテリーナが訪れたのは、駄菓子屋だった。リュドミラと初めて会った場所。
……その軒下のベンチで、リュドミラは初めて会った時と同じように、足をぶらぶらさせながら座っていた。
「リュドーチカっ」
それがなぜだかとても嬉しく感じ、エカテリーナは弾んだ声で呼びかけた。
リュドミラも首だけ振り向き、小さくこくりと頷く。可愛いと思った。
「はぁっ……はぁっ……」
駄菓子屋の前で止まった途端に、息切れがやってくる。体の中からも熱とともに汗が吹き上がる。いつのまにか、走っていたようだ。
「走ってきたの?」
リュドミラの問いに、「う、うんっ……」と息継ぎしながら答えた。額を腕で拭うと、びしゃり、と汗が跳ねた。
「……ありがとう」
そっとそう告げると、リュドミラは立ち上がり、
「暑いから、アイス、食べない? 今日は私が奢ってあげる」
「え、いいの?」
「うん。走って来てくれたお礼。……私も、少しでも長く、カチューシャと一緒にいたかったから」
それを聞いて、顔に宿っていた運動の熱に、別の熱がほのかに追加された。
エカテリーナをベンチに座らせるや、リュドミラは駄菓子屋の中へ赴いた。翻った拍子に、風圧で白いワンピースのスカートが円形に膨らみ、躍動した長い黒髪から小麦っぽい匂いがふぅっと薫ってきた。サンダルを履いた細くも健康的な足が無音で歩んでいくのを、見るともなく見る。
少ししてから、リュドミラがゴリゴリ君を二本手にして戻ってきた。エカテリーナの左隣にすっと腰を下ろすと、一本を手渡してきた。ちなみに二本ともコーラ味だった。
包装から取り出したアイスキャンディーの
あっという間にアイスを食べ終えた。
「……はずれ」
「あははっ、あたしもー。そう何度も当たるもんじゃないね」
何も書かれていないお互いのアイス棒を確認し合い、エカテリーナは思わず笑う。
アイスの冷たい余韻を感じながら、ベンチを這うように左手を自然と伸ばす。
リュドミラもまた同じように右手を伸ばす。
二人の手が握り合わされた。
少しひんやりした手だが、すぐにお互いの熱で暖かくなった。
女の子にしては少し硬めな掌の感触を実感すると、自然と口ずさんでいた。
『расцветали яблони и груши(林檎と梨の花が咲き)』
その歌を、リュドミラもまた同じ拍子に口にしていた。
『Поплыли туманы над рекой(川の水面に霧が漂う)』
二人の歌声が溶け合い、一つの歌声となる。
『Выходила на берег катюша(カチューシャが岸に出てきた)』
握り合った手を介して、一つの体温を共有する。
『На высокий берег на крутой(高く険しい岸に)』
同じ歌。同じ声。同じ体温。
『Выходила на берег катюша(カチューシャが岸に出てきた)
На высокий берег на крутой(高く険しい岸に)』
お互いの存在を共有し、歌った。
歌が止まった後も、お互いの存在が溶け合ったような心地良さは残っていた。
「……ね、今日はどうして遊べるようになったの?」
しなだれかかるようなこそばゆい甘さをもった声が、エカテリーナの口から自然にこぼれる。
質問を催促するように、リュドミラの爪先へ自分のソレをこてんこてんとぶつける。
「……その、カチューシャ」
すると、リュドミラは言い
エカテリーナは思わず振り向いた。物静かだがスラスラとモノを言う彼女が、今みたいに言葉に詰まるというのは珍しい。まだ出会ってひと月も経っていない程度の仲ではあるが、過ごした時間の密度になら自信があった。
ぎゅっと、手を握ってくる力が少し強まった。彼女の掌中は湿っぽかった。
「どうしたの?」
彼女に先を促す。
胸騒ぎのようなものを感じていた。
これまでのリュドミラには無かった、説明しにくい微々たる変化を、しかしエカテリーナは確かに感じていたからだ。
だからこそ、直感で解った。……これから、この二人の関係を揺るがすに足る言葉が、彼女の口から出てくると。
聞きたいけど聞きたく無い。そんな矛盾した気持ちなど差し置き、現実は淡々と進んでいく。
かくして、リュドミラは告げた。いつも通りの静かな、しかしどこか無理矢理そうしているような硬さを帯びた語気で。
「——私、ロシアに帰ることになった」
エカテリーナの予想は、当たった。
だからだろうか。ショックこそ受けたもののそこまでではなく、リュドミラに掠れた声で続きを問う余裕くらいはあった。
「……いつ」
「明日の早朝。国際線で日本を発つ予定」
しかし、告げられたあまりにも早い別れの時は、猶予などくれなかった。
エカテリーナの握力が強まる。嫌だ、別れたくない、離したくない、もっと一緒にいたい……そんな子供の駄々みたいな考えが頭の中を濁流みたいに駆け抜ける。
「痛い、カチューシャ」
リュドミラの言葉を聞いて我に返り、思わず彼女の手を離した。「ご、ごめんね」
それから、沈黙が訪れる。ショックで力が抜け、ベンチに座る体が枯れ木になったような気分になる。
不意に告げられたリュドミラとの別離の時間。そこまでのあまりの猶予の無さを考えると、この無言の時間が酷くもったいないはずなのに、言葉が見つからない。
「ごめんなさい、カチューシャ。こんなことになって」
リュドミラにそう告げられたことで、ようやくこれから言えそうな言葉が思いつけた。
「……やっぱり、「
「うん。私が日本にいるのは、あくまで「
状況の不可逆性を確信して、さらに気持ちが萎むのを実感する。彼女は「
「——そっか」
エカテリーナは、無理矢理明るい声を出した。
嫌だが、受け入れるしかなかった。
……今日が、リュドミラと過ごせる、最後の一日だ。
「じゃあせめてさ、見送りさせてよ。空港はどこ?」
「千葉県の
「あぁ……まぁ、そりゃそうか。国際線はアッチの方が豊富だもんね」
県を跨ぐとなると、中学生の財力では少し骨が折れる。
「それに……出発前にあなたの顔を見たら、「
リュドミラのその言葉は、「見送りには来るな」という遠回しの拒絶だった。
だったら、裏切っちゃえばいいじゃない——その子供じみた言葉が、喉元で引っ掛かる。
彼女にとって「
(でも……たったひと月の間でも、あたしにとっては大きかったんだ)
分かっているつもりでも、ずっと目を背け続けていて、最近になって現実として思い知らされた失恋。
リュドミラと出会わなければ、自分はきっとこの夏休み中、ずっと家の中で引きこもって、泣いてばかりいたに違いない。
彼女との出会いと日々は、傷ついた自分の心を、少しながら確かに癒してくれたのだ。
ぼろり、と、白い膝の素肌に一滴、一滴と落ちる。
自分の視界に潤いが生じては、それが粒として落ちていく。
「カチューシャ」
リュドミラの呼びかけに振り向くと、彼女は笑うでも泣くでもない真顔で、両腕を広げてこちらを待ち構えていた。
エカテリーナは、まるで吸い寄せられるように抱擁に応じた。
胸に飛び込みたかったが、肩に顎を乗せた。この綺麗なワンピースを自分の涙や鼻水で汚して無理矢理帰れなくしてやりたいとも思ったが、彼女を困らせたくはなかったので我慢した。
互いの背中にしゅるりと腕が回り、互いを真綿のように締め付ける。
リュドミラの匂いと、体温と、髪の感触が、容赦無く心を緩め、決壊させた。
「リュドーチカぁぁ……っ!」
ひたすらに泣いた。
……あぁ、この夏休み、あたしは泣いてばっかりだ。
しかし、リュドミラは最後まで、そんな泣き虫を拒まず受け入れてくれた。
ひとしきり、涙を流したあと。
「——またいつかっ、日本に来てよねっ」
エカテリーナは目に残った涙を拭いながら、しゃくりの混じった声で言う。
泣き腫らして赤い笑み。生来の色白さもあり、余計に赤みがあった。
だけど、作り笑顔ではなかった。涙とともに悲しさを流して生じた、本物の笑み。
「…………うん」
そう返事をしたリュドミラは、いつものぼんやりした表情に見えて、少し浮かない様子に感じた。
彼女もまた、自分との別れを惜しんでくれているのだと再確認できて、嬉しく思う。自分だけの一方的な感情の押し付けではないのだと。
それから、またも無言の時間が訪れる。
いつのまにか分厚い雲が掛かり始めた青空に、
彼らのように、自分も残り少ない彼女との時間を一秒も無駄にしたくないのに、また言葉が思い浮かばなくなる。
この沈黙でもまた、リュドミラが話を再開するきっかけをくれた。
「——カチューシャ、あなたはすぐに日本を出るべきだと思う」
そう口にした彼女の語気と、表情は、いつもの彼女らしからぬ硬さがあった。