帝都初恋剣戟譚   作:新免ムニムニ斎

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二〇〇三年八月二十七日 〜血の玉章《下》〜

 エカテリーナは自然と、感情の乗りが薄い声で問いかけていた。「どうして、そんなこと言うの?」

 

 リュドミラは返事に窮した様子を少し見せてから、またも少し強めの口調で告げた。

 

「この国は、あなたを幸せにはしてくれない。それは最近になって分かっているはず」

 

 まるで、こちらを説得しているようにも聞こえた。

 

 そして……彼女の言っていることは、(おおむ)ね正しい。

 

 反米感情の高まりとともに何故か誘発された反露感情、そこに端を発する排外主義の蔓延(まんえん)、乱れる世相……外国にルーツのある者、特にロシア系にとって安全に過ごせる社会かどうか怪しいことは、エカテリーナとて承知していた。

 

 リュドミラは、手を差し出す。

 

「——あなたがそれを望むというのなら、私はあなたを連れていってもいい。どうにか「先生(ウチーチェリ)」に頼み込んで、あなたをこの国から解放してあげる」

 

 その目は、いつもの眠そうな感じではなかった。

 

 戯れも、嘘偽りも無い、決然とした瞳。その眼差しを真っ向からぶつけられる。

 

「……リュドーチカ」

 

 エカテリーナは、胸を打たれた気分になった。

 

 ……もし、これから訪れる別れが無くなり、これからも彼女と一緒にいられて、さらに自分を虐げるこの社会から抜け出せたら、どれほど素晴らしいだろう?

 

「ありがと、リュドーチカ。でも——あたしは、この国で生きるって決めたから」

 

 それを与えようとしてくれている彼女への嬉しさで、エカテリーナは甘く微笑し、しかしかぶりを振った。

 

「もう決めたのに、ちょっといじめられたからってその考えを曲げたりしたら、負けた気になるじゃん。だからね……絶対に出てってなんかやらないの」

 

 もう振り向いてはくれない想い人から貰った目標を、改めて口にした。

 

「この国でしぶとく生きて、戦ってやるの。山川(やまかわ)(ひろし)っていう、昔いたサムライみたいにさ」

 

 そのリュドミラは、驚くように目を瞬かせた。

 

「……会津藩(あいづはん)家老(かろう)

 

「知ってるの?」

 

「うん。「先生(ウチーチェリ)」に、聞いたことがあるから」

 

 現政権の前身となった薩長にとって、会津藩は賊軍だ。そのためか、今の日本では会津武士出身の人物は陰が薄い。それを知っているという「先生(ウチーチェリ)」なる人物は、きっとなかなかの知日家なのだろう。

 

「だからとにかく……ごめんね、リュドーチカ。あたしは、そっち(・・・)には行けない」

 

 エカテリーナは、最後にそうはっきり断った。

 

 リュドミラは何か言いたそうに、視線を足元とこちらへ行ったり来たりさせてから、しばらくして観念したように言う。

 

「カチューシャは、やっぱり強い」

 

「……強くなんかないよ。ずっと虚勢張ってきただけ。その虚勢を今でも張ってられてるのは……あなたのお陰よ、リュドーチカ」

 

 「日本で生きる」という選択肢をくれたのは、他ならぬ光一郎(こういちろう)だ。

 

 だけどそれを今、改めて口にすることができたのは、きっと、リュドミラと過ごした日々のおかげだ。

 

 たった一ヶ月でも、自分の拠り所となってくれたリュドミラの。

 

「なら、せめて——あなたの助けになるかもしれないモノを、あなたにあげる」

 

 リュドミラはそのように言うや、ふわり、と距離を詰めて来た。

 

 麦畑のそよ風のように近づいた彼女との差は、ちゅっ、と左頬へ触れた瑞々しく柔らかな感触とともにゼロとなる。

 

 頬にキスされた。そう認識するのと同時に、視界の右側から()()が届くのを感じた。

 

(え——)

 

 リュドミラの左手に握られた()()だった。

 

 ちくり、という微かな刺激を右腕に知覚した次の瞬間——エカテリーナの意識が唐突に闇に沈んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白い世界が、広がっていた。

 

 土や山や草木や建物などが一つも見当たらず、ゴミ一つどころか塵や埃も落ちていない。白以外の色を徹底的に排した、不気味なほどに清潔な純白の世界。

 

 もしもこの世界に一人きりでいたら、間違いなく気が狂っていただろう。

 

 自分が今そうなっていないのは、この世界で色を持つ存在が、自分の他に()()()()いたからだ。

 

 ——(わし)

 

 細くもしなやかな両脚。刀のように鋭利な鉤爪と(くちばし)

 それら以外の全てを包むのは、いぶし銀のような薄墨色(うすずみいろ)の羽毛。

 ふわりとした羽毛の奥では、とても穏やかな瞳が慎ましく光っており、こちらを真っ直ぐに見つめていた。

 

 自分もまた、「彼」へ眼差しを真っ直ぐ向けていた。

 

 縋るような、憂うような、愛おしむような目の中に、「彼」を収めていた。

 

 しかし、「彼」の瞳は、ひたすら穏やかなだけだ。熱情や、慕情や、征服欲といった、ギラつきつつも甘みのある光を自分へは向けてくれない。

 

 やがて「彼」は、その大きく立派な翼を広げて、飛び立ってしまう。

 

 ——待って。

 

 「彼」に見放されたら、自分はこの白い世界で独りぼっちとなってしまう。

 

 暴力的な清潔さと空虚さ、そして孤独によって、心を殺されてしまう。

 

 しかし、「彼」の灰色の後ろ姿は、だんだんと小さくなっていく。

 

 ——いやだ。いかないで。あたしを独りにしないで。

 

 ——食べ物が欲しいの? 食べ物がここに無いから、あなたは飛んでいってしまうの?

 

 ——だったら、()()()()()()()()()

 

 気がつくと、自分で自分の指を強く噛んでいた。

 

 噛み傷から、真紅の生き血がぷっくりと浮かび上がる。

 

 生き血はこんこんと手から流れ、白い地へ滴り落ちていき、やがて真っ赤な水溜りを作る。

 

 すると、力強い羽音が近づいてくる。

 

 「彼」が、戻ってきてくれた。

 

 血溜まりの前で着地すると、そこへ嘴を突っ込み、こくこくと血を飲み始めた。

 

 この身から流れ出たモノを懸命に欲し、喰らう「彼」の姿に、恍惚(こうこつ)を覚える。

 

 あっという間に、「彼」は血溜まりを腹に収めた。

 

 しかし、「彼」はなおもこちらを見つめ続ける。

 

 その目には、先ほどの穏やかさなど見る影も無いほど、熱情と征服欲の光がギラついていた。

 

 まるで、血という玉章(たまずさ)と、そこに(つづ)られた想いを受け取ったように。

 

 自分は幸福感で胸をいっぱいにしながら、両腕を広げた。

 

 ——いいよ。おいで。

 

 ——あたしを食べたいなら、隅から隅まであげる。

 

 ——その鋭い爪と嘴で、あたしの体を好きなだけ蹂躙(じゅうりん)して。

 

 ——あたしの血と肉を、好きなだけ食べさせてあげる。

 

 ——あなたの血肉になりたい。

 

 ——あなたと、一つになりたい。

 

 「彼」は、翼を大きく開いて、気勢良く飛びかかってきた。

 

 柔肌に爪を立ててくる「彼」を、自分は拒まなかった。

 肌を暴力的に裂き、そこから溢れ出た血を溺れるように飲む「彼」を、自分は拒まなかった。

 鋭い嘴で自分の肉を引き千切り、食らっていく「彼」を、自分は拒まなかった。

 

 何もかもが痛く、そして心地よかった。

 

 自分という存在が「彼」に取り込まれていく被征服感が、とても幸せだった。

 

 ——ああ、うれしい。うれしい。

 

 ——もっと。もっと。

 

 ——あたしを、骨の髄まで、あなたのモノにして。

 

 己の存在の一片まで捧げる気持ちで、自分は「彼」のされるがままとなり続けた。

 

 それが、どこまでも幸せだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「————はっ!?」

 

 そこで、エカテリーナは目を覚ました。

 

 目覚めと同時に知覚したのは、後頭部に伝わる硬い感触と、目前にある見慣れない天井……いや、庇。駄菓子屋の庇だ。

 

 意識と思考が、一気に現実へと引き戻される。

 

 自分は今、駄菓子屋のベンチに横たわっていた。

 

「あたし……寝てたの……?」

 

 誰が答えるでもない問いに、しかし誰も答えなかった。

 

 ——()()

 

「リュドーチカ……リュドーチカっ!? どこっ!?」

 

 エカテリーナは周囲へ視線を巡らせるが、誰もいない。

 

 少し遠くを見ても、彼女らしい後ろ姿は見えなかった。

 

 駄菓子屋に入って、店主のおばあちゃんに尋ねたら「どこかにいっちゃったわよ」とのこと。

 

「それっ、何分前くらいっ?」

 

「えぇ? そうねぇ……二分くらい前、だったかしら?」

 

「二分……」

 

 自分は眠ってしまう直前に、リュドミラに頬にキスされた。

 

 つまり、眠ってしまってから、二分経過しているということだ。

 

 ——まだ、どこかにいるかもしれない!

 

「ありがと、おばあちゃん!」

 

 軽くおばあちゃんにお礼を言ってから、エカテリーナは店を飛び出した。

 

 全速力で走りながら見回し、リュドミラの姿を懸命に探す。

 

「リュドーチカ! リュドーチカー! どこーっ!?」

 

 大声も出す。道ゆく人々は怪訝な顔をこちらへ向ける。……その中に、リュドミラの姿は無かった。

 

「リュドーチカァ————っ!!」

 

 さらに走って呼びかけるが、やはり見つからず。

 

 やがて、その足が止まる。

 

「リュドーチカ……」

 

 歩道に立ちながら、ぽつりとその愛称を呟く。その小さな声は、いつのまにか空を覆っていた曇天の重鈍な唸り声によって潰される。

 

「バカッ……こんな別れ方って無いわよ……!」

 

 それは、黙っていなくなったリュドミラに対してだけでなく、自分に対する苦言でもあった。

 

 自分が、あんなふうに眠ったりしなければ、リュドミラが黙っていなくなることはなかったのに。

 

 なんで、自分は眠ってしまったんだ。

 

 そうだ、なんで——

 

「っ……」

 

 不意に、ひりつくような微かな痛みを、右の二の腕に感じた。

 

 そこには、細く浅い切り傷があった。血はすでに固まっている。

 

 ——傷を見ると同時に、あの時見た夢が、自然と想起された。

 

 己自身を鷲に食わせるという、痛々しく、おぞましい夢だ。

 

 だけど……なぜか、幸せな気持ちになれる夢。

 

 自分を置いて去ろうとした「彼」を引き止めるために、自分は自分の血を流した。

 

 その匂いを嗅ぎつけた「彼」はその血を飲み、そして自分の血肉を求めてくれた。

 

 まるで、秘めたる想いを綴った玉章を読んだ想い人が、その想いに応えてくれたように。

 

 血という玉章を。

 

「————『()玉章(たまずさ)』」

 

 自然と、エカテリーナは熱に浮かされたように、小さく呟いていた。

 

 さらに自覚する。

 

 自分の中で、今までに無かった感覚が、()()()ことを。

 

 ——新たな、()()()()()を。

 

 雨粒が、一滴、また一滴と、数を急激に増やしていく。

 

 鈍色の空が、待ちかねたように雨を降らせ、雷鳴を轟かせ始めた。

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