帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
——休み明けから一週間の学校生活は、「誘惑」と「後ろめたさ」との葛藤の日々だった。
『
ろくな報道を流さないテレビを、母の
エカテリーナも、それと同じテーブルで朝食を食べている父ルドルフも、それに異議を申し立てなかった。静かな朝食の時間が訪れる。
「……カチューシャ、学校は最近どうだい?」
話の種を静かに投じたのは父のルドルフだった。多くの外国人が嫌いな日本食筆頭として挙げる納豆だが、ルドルフは白人の顔で納豆入りご飯を当たり前のように食べている。
そんなチグハグな光景が改めて何だか可笑しく感じ、エカテリーナは小さく一笑を漏らしてから明るく告げた。
「ダイジョブよ。前と変わんないわ」
良くも悪くも——エカテリーナはその言葉をあえて省略した。
それは、半分本当で、半分は嘘だった。
「その……カチューシャは、まだ、軍人を目指すつもりなの?」
ルドルフの隣に座る雪菜が、やや触れ難そうに訊いてきた。
どうしてそんなこと聞くの? などと尋ねるまでも無い。母の言いたいことは自明であった。
——
——嫌だったら、無理しなくていいのよ。
——今ならまだ引き返せるわよ。
「もちろん。もう決めた事だから」
エカテリーナは、はっきりとそう告げた。
両親はおもんばかるような顔で互いを見合わせてから、再び娘へと向き直る。
「お前が自分で決めた事なら、もう何も言わない。好きにしなさい。だけど本当に困ったら、遠慮せずにお父さん達にいいなさい」
「私達だけは、カチューシャの味方なんだからね」
少しだけ寂しそうな微笑でそう告げる両親に、エカテリーナは胸にじんわりと優しい熱を覚える。
「……ありがと。パパ、ママ」
——変わらないものがあるというのは、こんなにもありがたい。
どんなに世の中が変わっても、周りとの関係性が変わっても、この二人だけは変わることなく一緒にいてくれている。
両親のありがたみを、改めて思い知った。
——変わってしまった人がいるから、余計に。
夏休み最初の一週間が過ぎた後は、もう半ドンではなくなり、通常通り午後までの授業に戻っていた。
九月八日、月曜日の朝。エカテリーナは富武中学校の校門をくぐった。
大勢の生徒の中に入るや、その多くの視線をこの一身に浴びた。どれひとつとして、友好的な眼差しは皆無。まるで得体の知れない獣を遠巻きに見ているような目だ。
『
時々、そんな陰口も耳にしたが、無視した。同じ鳴き声しか出せない犬だとでも思えばいい。
授業が始まり、そして昼休みとなる。
教室に「カチューシャ」という女子の呼び声が聞こえた。学校でそんな呼び方をしてくるのは、
自分へ向けるのと同じ類の視線が周囲から注がれるが、峰子はそれを何処吹く風とばかりに真っ直ぐ自分へ歩み寄ってきて、持参してきたお弁当を無遠慮に机の上に置いた。……その無遠慮さが、なんだか嬉しかった。
「ねぇ、今朝のニュース見た? 私は別に宝田首相が嫌いじゃないけど、流石に次世代戦闘機の開発まで日米共同というのは納得がいかないわよっ。国際協調は大切だけど、協調させていい部分とそうでない部分があると思うのよ。まして戦闘機! その技術の一端をいつ手切れするかも分からない外つ国に委ねるなんて、平和ボケもいいところだわ! 十二年前の戦争での緊張感がもう緩んだのかしらっ? いま蓄積を怠った分だけ未来で高くつくのが安全保障というものなんだから」
そしていつもの軍事談義へと移る。今回の話題はタイムリーなもので、そのことについて峰子はやや気が立った様子で語っていた。弁当の減るペースもいつもより遅めである。
自分と同じく軍人志望である彼女の不平不満をやんわり受け止めながら、エカテリーナは思っていた。
——そう、いつも通りだ。
自分が当たり前のように学校へ行っているのも。
周囲から陰口を叩かれ、それを無視しながら過ごすのも。
こうやって峰子と一緒に昼食をとりながら話すのも。
いつも通りだ。
だけど……その「いつも通り」には、欠落と歪みがあった。
「それでね私ねっ、陸軍だから畑違いかもしれないけど、望月閣下がどういう意見をお持ちなのかを聞きたいと思って
早口で言い募っていた峰子の言葉が、何か触れがたいモノに触れたようにピタッと止まった。……「光一郎」という単語が出てきた直前だった。
かつてはいつも同席していた、しかし今は全く姿を見せない、想い人の名前。
「……そう。コウに、頼むわけね」
そんな自分の声は、いつもより低く、うずもれたような響きだった。
……極力、頭の中に思い浮かべないようにしていたのに。
だって、思い出してしまうから。
光一郎にした、最悪の告白のことではない。
——『
「……ご、ごめんなさい。カチューシャ」
「いいわよ。別に」
「うん。ごめん……」
「だからいいって」
済まなそうにする峰子に、エカテリーナは投げやりみたいな態度でそう言う。
それから会話はふっつりと消え、その分弁当の中身の減るスピードは早まり、あっという間に昼食は終わった。食べるモノは無くなり、沈黙だけが残る。
「ちょっとその辺散歩してくるわ」
その沈黙に耐えかねたエカテリーナは、席を立った。
峰子も慌てたように腰を上げ、
「な、なら私も一緒に——」
「ごめん、峰子。一人がいい。……あんたにまで、
学校で唯一の女友達が黙り込むのを見るや、エカテリーナは少し心に疼きを覚えつつも、背中を見せて教室を後にした。
廊下の往来の中を、足早に進む。会う生徒会う生徒が、こちらの顔を目にした瞬間に危険物でも避けるような慌てようで道を開ける。まるでこの学校に君臨しているような感覚になり、多少
しかし……それはすぐに、最近ずっと頭の中で渦巻いている葛藤に飲み込まれる。
——『血玉章』。己の中に目覚めた、己の手に余る力。
コレを使えば、光一郎の心はこちらに傾く。
光一郎の螢への恋情と愛情は相当なモノだ。螢の命を救うため、
しかし『血玉章』は、その愛情の天秤を容易く動かす。
その刃をほんの僅かにでも光一郎の肌に滑らせれば、光一郎の中におけるこちらへの好意が増幅される。
刃を通せば通すほど好意は無限に増幅していく。
それはやがて——螢に対するソレを上回ることだろう。
螢ではなく、自分を選んでくれるだろう。
……それは、なんと甘美で、夢のようなことだろうか。
手を繋いだり、腕を組んだり、座って身を寄せ合ったり、髪の匂いを嗅ぎ合ったり、「愛してる」と囁き合ったり、耳たぶをついばんだり、唇同士を軽く合わせ、だんだんねじ込み合うようにそれを深めていき、互いの重みと想いを一つにしていく——夢でしか見たことの無い、そんなどろどろの蜜に浸したような妄想を、全て現実のモノとできる。
刀を少し振るい、光一郎を多少斬り付けるだけで、その願いは簡単に叶うのだ。
——
それは、自分の中にある
肉体を傷つけるという意味でも、心の聖域へ土足へ踏み入るという意味でも、最低下劣の行いだ。
光一郎を本気で好きならば、『血玉章』を光一郎に振るってはいけない——エカテリーナはそうも思っていた。
もしもソレをしてしまったら、自分の光一郎への想いは、ただの卑しい所有欲ということになってしまいそうだから。
自分の想いを、自分で否定する行為に思えた。
——だけど、『血玉章』を使えば、卒業した後もずっと一緒にいられる。ううん、それだけじゃない。結婚だってきっと出来る。
「……くそっ!!」
すぐにまた溢れ出した桃色の妄想に自己嫌悪を覚え、苛立ち任せに壁に拳を叩きつけた。結構大きな音が鳴ったので周囲から注目を浴びたが、そんなものは些事であった。
——彼が欲しい、という「誘惑」。
——そのために彼の心を操ることへの「後ろめたさ」。
『血玉章』を授かった時から、エカテリーナの中ではその葛藤が常に渦巻いていた。
昼休みが終わり、午後の授業が始まる。その最中でも、葛藤はずっと続いていた。
リュドミラから最後に貰った——と思われる——モノで、このような悩み方をしているのが、彼女に申し訳なくも感じた。これではまるで、彼女に呪われたようなものである。
——しかし、そんなエカテリーナの葛藤は、突然に
「……あ」
まさに不意打ちだった。
放課後、下校する生徒たちの流れに乗る形でエカテリーナも教室を出て、下り階段へ差し掛かりそうになったところで、誰かと真正面からぶつかった。
知らない相手なら軽く謝るか、それよりも早く舌打ちされて去られるかのどちらかだっただろう。しかし、どちらでもなかった。
「——
だって、知らない相手ではなかったから。
「……コウ」
我知らず、その相手の
川のように流れ続ける大勢の生徒。その川の流れの中で留まる石のように、エカテリーナと光一郎は顔を見合わせて立ち尽くしていた。
同じ学校同士なのに久しぶりに見る光一郎の顔は、最初は何を言えば良いか分からない様子で表情を固めていたが、すぐにその固さを微笑で緩め、
「その、久しぶりだね、エカっぺ」
「う、うん……久しぶり」
エカテリーナも当たり障りの無い返答をする。
しかし、それからの会話が続かなくなった。
何を話せばいいのだろう? 今まではコウと顔を突き合わせるだけで湯水のごとく話題が出てきていたのに、今は全く出てこない。どうして? いったい何が違うの? 今までと同じように、コウと一緒にいるのに——
(——
だって、たとえ叶わない恋でも、それでも好きな人の隣にいられたから。
その想いを隠して、せめて友達として堂々と彼の隣で接し続けられるのが、幸せだった。
(——今が、
だって、自分の中で封じていた想いが、解き放たれてしまったから。
愚かにも、自分で解き放ってしまったから。
だからこそ、自分は今までと同じような接し方を出来ずにいる。
光一郎も、そんな自分に対して、どう対応しようか分からずにいる。
……ああ、そうだ。今、コウと一緒にいるのが、楽しくない。
楽しくないし、好きな人と一緒にいることに対してそう思っている自分自身が、とても嫌だった。
だからこそ、辛かった。
「エカっぺ」
光一郎もこちらの顔を見て何かに勘付いたのか、少し張り詰めた声で名前を呼んできた。
——自分が、そんな光一郎に背を向けて逃げ出したことを自覚したのは、その途中で生徒とぶつかった時だった。
思考して導き出した行動ではない。ほぼ反射的に等しかった。
逃げて、逃げて、逃げて——その足は自ずと、屋上に来ていた。
どうして屋上なのだろうか。
——ああ。そういえばあたし、ここでコウの事助けたんだっけ。
一年生の頃の話だ。自分と仲良くしているせいで上級生らに目を付けられた光一郎は、ここで脅されていた。もうあのロシア人とは仲良くするな、孤独のままにしろ、と。
数の暴力を見せつけられ威圧されるが、それでも光一郎は折れなかった。「あなた達には無理でも、僕はあの子と仲良くなれるんだ」と、ハッキリと言い放った。まだ剣も下手くそで弱かったくせに。思えば彼はこの頃からすでに勇敢だった。
だから自分は彼を本気で信じようと思ったのだ。隠れて見ている状況から飛び出し、彼を守るために上級生達相手に大立ち回りを演じた。
——きっとここが、自分と光一郎の関係が、本当の意味で始まった場所なのだろう。
「……最っ悪」
そんな場所に、無意識に駆け込んでしまうなんて。
骨の髄まで染み込んだ自分の未練たらしさに嫌悪を覚える。
ぼんやりと青空を見上げる。青く果ての無い蒼穹。自分を含む人々を下界に閉じこめ縛りつける青い檻。
——解放されたい、と思った。
この想いから。この執着から。この苦しみから。それらが沈殿しているこの下界から。
飛び立って、どこかへ行きたい。
しかし、地に足を付いている感覚が、それを絵空事と断じる。所詮自分は、羽を持たない人間だ。苦しみが渦巻くこの大地を這い続けるしかない。
——だったら、解放されればいい。
どうやって?
ここから飛び降りるのか? 日ソ戦後間もない日本におけるロシア系の混血児、そんな足枷しかない人生を捨てて来世に期待しろと? 馬鹿馬鹿しい。
——そんな事はしなくてもいい。
——あるではないか。『血玉章』が。
(だめ。考えるな)
光一郎を、『血玉章』で斬ればいい。
ほんの極浅い切り傷でも、その刃を彼の体に通すことができれば、彼の心はこちらへ傾く。
(そんなの望んでない)
善悪や倫理を無視すれば、最も簡単な手段だ。
何かを得るということは、何かを捨てるということだ。
でなければ、このままずっと、苦しいままだ。
逆に、それらを捨てれば、自分の欲しかったモノは容易く手に入る。
彼の愛情も。彼の言葉も。彼の体温も。
気兼ねなく、彼の懐へ飛び込める。
——光一郎と、死ぬまでずっと一緒にいられる。
あたしは、タチヤーナとは違う。
かつて叶わなかった恋を成就できる機会が得られたら、それを快く受け入れる。
損か得か、なんてどうでもいい。
光一郎さえいればいい。他に何も要らない。
光一郎だけが欲しい。
「コウ…………愛してる」
不思議だ。
今なら、この残酷なくらいに広大な蒼穹の中を、自由に飛び回れそうな気分だった。