【漫画化】帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
——エカっぺの原因不明の凶行ののち、僕が最初に足を運んだのは、エカっぺの家であった。
走り去ったエカっぺを呆然と見送ってしまったが、しばらくして追いかけようと思った。
エカっぺがあんな真似をするなんて、よっぽどの理由が無いと考えられないからだ。
僕らの関係性云々は置いておいて、今回の件に関しては対話をしても許されると思ったし、しなければならないとも思った。
しかし、そう思った時には、すでに彼女がどちらへ行ったのか分からなくなっていた。なので、考えられそうな場所へ向かうしかなかった。
そこで僕が選んだのは、やはりというか……エカっぺの家である。
かつての敵国人の血を引くエカっぺにとって、今の日本社会には悲しいほど居場所が少ない。考えられるのは、剣を学んでいる望月家か、もしくは実家。そしてその二つを天秤にかければ、やはり後者に傾くだろうというのは想像に難くない。自分の親がいる場所だからだ。
……そんな子を、僕はあんなに傷つけて。
そう思いかけて、やめた。
いつまであの子の英雄気取りなんだ僕は。
僕はどこまでいっても僕でしかない。会津武士の血を引く古本屋の息子で、
その懐には定員がある。全員まとめて幸せにするなんて出来ないし、できると思うことは傲慢だ。身の程を知れ。
それでも、やはり今回の事については、しっかりと話をつけなければならないと思った。
なにせこちらは刃を向けられたのだ。今まで友達で、しかも剣の同門同士が刃を向け合うなど、ただ事ではない。
ここでどうにかしないと、僕とエカっぺの間には永遠に修復不可能な溝ができてしまうだろう。
神田平川神社から飛び出し、伊藤家までまっすぐ向かった。
着いてから、伊藤家のインターホンと数秒睨めっこする。僕は緊張していた。エカっぺと話すという事に対してもそうだが、この家の場所を最初に知ったのは、「帝戦連《ていせんれん》」との闘争という荒事がきっかけだ。色んな意味で、この家は緊張感を連想する象徴となってしまっていた。
それでも勇気を出して、インターホンのボタンを押す。スピーカーから返ってきた
「こ、こんにちは。僕、その、
僕はぎこちなく自分の名前を告げてから、次に要件を言おうとすると、エカっぺのお母さんが先手を取るように『ちょっと待っててね』と告げて、通話を切った。……さっきまでのふんわりした声の響きが、少し硬くなっていたような気がした。
程なくして、玄関のドアが開いた。出てきたのは一人の女性。見るからに小柄な日本人女性だが、ふんわり広がった後ろ髪と、愛嬌のある童顔に、どこかエカっぺの面影があった。エカっぺのお母さんである。
胸から喉に緊張を覚えながら、僕は挨拶した。
「こ、こんにちは。秋津です」
「こんにちは。それでどうしたの?」
彼女は早速要件を尋ねてきた。まるで、早く話を終わらせよう、という気持ちを感じた。
そこはかとなく歓迎されていない雰囲気みたいなモノを感じとりつつも、僕はエカっぺの所在を確認した。
いないわよ、とのこと。
せっかくのエカっぺのお母さんとの会話だ。これだけで終わらせるのは勿体がないと思ったので、もう一歩踏み込んでみることにした。
そこでネタにしたのが、「今日、誰かお客さんが来ているのですか?」であった。……エカっぺが僕に襲いかかる直前に言っていた事であった。
「いいえ。誰も来ていないけど……」
その怪訝そうな返答に僕は驚く。つまり、エカっぺは僕に嘘をついていたということだ。
そうまでして、神社に呼び出し、刀を振りかざしてきた理由とは一体何なのか——謎はさらに深まった。
「……あのね、光一郎君。言いにくいんだけどね」
僕が考えていると、エカっぺのお母さんが不意に声の調子を変えた。低く、重いものに。
「私と夫はね——あなたにとても複雑な感情を抱いているの」
それを聞いた瞬間、僕は息が一瞬詰まった。
「確かに、あなたがあの子と仲良くしてくれたお陰で、あの子、学校が毎日楽しそうだった。あんなに嫌々行ってた学校でのことを、よく話してくれるようになった。その話の中には……必ずあなたが登場してたわ。話してる時、あの子すごく幸せそうに笑ってた。私達も、そんなあの子を見ていて嬉しかった。……その事に関しては、あなたに本当に感謝しているの」
彼女の声に宿る
「だけどね……あの子が今、とっても辛そうにしている理由も、あなたなの。光一郎君」
エカっぺのお母さんも、
僕が「帝戦連」の連中と対していた現場に。
だからこそ、見て、聞いて、知っているはずだ。
エカっぺのした「告白」を。
「分かってるわ。あなたにだって、あなたの意思と選択権があるもの。それに口を出す権利は私達には無い。でもね……それがあの子を傷つけて、泣かせるものだというのなら、私達はせめて、あなたをあの子に近づけたくない」
母親の顔だった。
「だから、本当に申し訳ないけど——できれば、もうここへは来ないでもらえるかしら」
柔らかい響きの中に、拒絶の針を
その針に抉られるような痛みを心に覚え、怯みそうになる。
それでも僕は一歩退き、深く一礼した。
「——失礼いたします」
もう来ない、とは言いたくなかった。
かといって、ごめんなさい、と言っても仕方がなかった。
だからこそ、言葉を濁した。
エカっぺの事を
背を向けて、背筋を正して歩き去り、そして曲がり角を曲がった瞬間に僕の背中はくたりと丸まった。エカっぺとの関係は、これでさらなる悪化を免れないだろう。
エカっぺを探そうとも思ったが、どこに行ったか全く検討がつかない上、もうすぐ暗くなるので、しぶしぶ自宅へと引き返すことにした。帰宅した頃には日没となっていた。
家に帰って早々、僕は螢さんからの電話を受けることとなる。
『コウ君、どうか落ち着いて聞いて欲しい』
わずかな緊張を孕んだ声で、螢さんは告げた。
『エカテリーナさんが、病院に緊急搬送された』
血の気が引くのを実感した。あまりのショックに呆然としてしまい、受話器から聞こえてくる螢さんの呼びかけを何度か聞き流してしまった。
——その後、かろうじて意識を保ちながら、螢さんの説明を聴いた。
エカっぺが、望月家の稽古場で意識を失ったこと。
すぐに救急車を呼び、付き添いでエカっぺと一緒に乗ったこと。
現在、病院で検査を受けていること。……さらにその病院が、去年に螢さんが入院した病院であること。
そして螢さんは現在、その病院で電話を借りてこの家にかけていること。
全て聞き終えて電話を切るや否や、僕はすぐに家を飛び出した。「どうして望月家にいたのか?」などの疑問は浮かぶが、エカっぺの緊急事態となればそんなコトは些事だった。行った事があるので病院の場所は知っている。少し遠いけど、足で行けない距離ではない。
夜闇が下り始めた神田の街中を走り続ける。走るたびに、今なお左腰に差してある木刀が揺れる。ついさっきまで、襲いくるエカっぺの剣を受けていた木刀。
(いったい、何がどうなってるんだ……!!)
エカっぺがいきなり斬りかかってきて、かと思えば望月家に行って、そこで倒れて緊急搬送。
何から何まで訳が分からない。
しかし、分からなくても、足は動かさなくてはならない。あらゆる疑問は一旦心の片隅に置き、僕は走り続けた。
到着した瞬間、体力を無視して走ってきた分の疲れと汗が一気に吹き上がった。息切れによる脈動で目ん玉がどくんどくんと飛び出そうな感じを覚えつつも、僕は入口ロビーを視線で探り……ヨシ女の夏制服姿の螢さんを見つけた。螢さんもまた僕を見つけ、歩み寄ってきた。
「こっち」
短くそう告げてから僕を案内し始める。僕は腕で汗を乱暴に拭いながら付いていく。
階段を登って三階に上がり、「315」という番号札の取り付けられた病室の扉を開けて入る螢さんに、僕も追従する。
病室には、ベッドが左右二つずつあるようだった。その四つのうち、右奥だけがカーテンで仕切られていた。そのカーテンの前には、白衣を纏った三十代ほどの女性が佇んでいた。
清潔そうな白いベッドには——まるで眠り姫のように目を閉じ、静かに仰向けとなったエカっぺの姿。
「エカっぺ……!」
混血に由来する色白な肌が、いつもより一層白く見えた。
思わず手を伸ばそうとした僕を、女医の佐田さんの説明が静止させた。エカっぺの事で気が気でなかった僕であったが、それでも説明を聴けるだけの余裕はあった。
——現時点では特に異常は見られず、急を要する状態では無いとのこと。
——その一方で、より精密に検査するために、検査入院を勧めたいとのこと。
それを耳にして、僕はひとまず安堵する。エカっぺの寝顔があまりに白く儚く見えたので、死んでしまったのではと縁起でもないことを考えていたからだ。
佐田医師が次に問うてきたのは、僕らはこの子の家族なのか、ということであった。
螢さんが簡潔に答えた。家族ではない、けれどその子の家族には先ほど電話をかけた、と。
それを聞いた僕はドキリとした。エカっぺの家族……それはつまり、エカっぺのご両親である。「もう来ないで欲しい」と、今日の夕方にエカっぺのお母さんから言われたばかりだったから。
少し経つと、病室の扉が開いた。ご両親の到着かと僕は身構えたが、入ってきたのは作務衣姿の望月先生だった。螢さんがエカっぺの家に電話を掛けた後、先生にも連絡を入れたのだそうだ。
望月先生の顔を見て驚いた様子の佐田医師であったが、先生は気にせずエカっぺの様子を見た。佐田医師が僕らにしたのと同じ説明をすると「……そうでありますか」とため息混じりの一言をこぼした。
佐田医師が仕事のため一度その場を後にし、病室には師弟四人だけとなった。しかし、久しく会った一人は、いつ覚めるかも分からない眠りについている。
眠っている己の弟子に気遣わしい視線を向けた後、望月先生は静かに問うてきた。
「……螢よ。彼女が、お前を刀で斬ろうとしてきたというのは、本当なのか?」
螢さんは無言で頷く。
そして僕はその問答に驚いた。
「えっ……螢さん
「——も?」
僕の呟きに、螢さんは敏感に乗ってきた。
なので僕も話した。今日の放課後、エカっぺがいきなり僕に刀で襲いかかってきたという事実を。
望月先生は、難しそうな顔をした。先の未曾有の国難を退けた英雄であっても、エカっぺの不可解な行動に対しては考え込まざるを得ない様子だ。
ちょうどそこで——再び病室のドアが勢いよく開いた。
入ってきたのは、身長差のある二人組の男女。
エカっぺのお母さんと、もう一人。望月先生と同じくらい大柄な白人男性。短く切られた彼の髪は金色で、骨張った眉間の両端に開かれた瞳は青かった。エカっぺと同じ色。……この人が、エカっぺのお父さんで間違いないだろう。
来て早々、僕とお母さんの目が合った。当然ながら好意的なモノとはいえないその眼差しに、僕はおくびにも出さなかったが心の中でたじろいだ。だがすぐにその視線は開かれたカーテンと、その奥に眠るエカっぺへと移ろい、かと思えば早歩きで近寄った。お父さんもそれに続く。
カチューシャ、と呼びかけ、肩を揺さぶるお母さんに、螢さんが説明した。今のところ、命の危険は見られないこと、一方で詳しい原因を追求すべく、医師から検査入院を勧められていることなど。
電話と同じ声であることに気づいたのか、エカっぺのお母さんは螢さんへ視線を移した。「電話したのは、あなた?」という問いに、螢さんは「はい」と短く簡潔に返事をした。
「わたしは望月螢。エカテリーナさんの姉弟子です」
その紹介の次に、望月先生がその隣に立ち、続けて厳かに言った。
「こうして直接お会いするのは初めてでありますな。……貴方がたの娘さんに剣を教えております、望月源悟郎です。以後、お見知り置きを」
その名乗りと、望月先生の姿を確認した瞬間、ご両親は絶句して驚いていた。無理もない。現代日本における大英雄たる人物の姿と顔を、テレビではなく直接目にしたのだから。
ご両親の驚愕ぶりはしばらく続いたが、その驚愕からいち早く覚めたのは、お母さんの方だった。先生に背を向け、眠るエカっぺの頬を優しく撫でながら、皮肉に歪んだ声で言った。
「……日本を守ることはできたくせに、この子一人を守る程度のことはできないんですね」
「どうして……この子ばかり、こんな目に遭うの? この子が何をしたの? 何もしてないじゃない。髪と目と肌が他の子と違うだけの、将来の夢に向かって頑張ってただけの女の子じゃない。ロシアの血が入ってるってだけで、どうしてここまで酷い目に遭わないといけないの? そんなのおかしいじゃない」
抑制された早口、とでも言えばいいのか。
静かではあるが、震えていて今にも爆発しそうなその語気が、僕の不安を冷たく煽った。
「あなた英雄なんでしょう? この国を丸ごと救った英雄なんでしょう? だったら、娘のことも、他の在日ロシア人も丸ごと救ってくださいよ。一億人以上も救えたんだから、その中の少数を救うなんて簡単なはずでしょう? なんでそんな簡単なこともやってくれないんですか? その程度ができないのに、何が英雄なんですか」
お父さんが彼女の肩を掴んで静止を訴える。
しかし、母親は止まらない。お腹を痛めて産んだ娘のためなら、たとえ英雄であろうと母親は牙を向ける。どれだけ支離滅裂で理不尽な理由であっても。
「そもそも、あなたがあの戦争に勝ったりなんかしなければ————!」
その先は、乾いた弾き音によって止められた。
エカっぺのお父さん……つまり旦那さんに頬を叩かれたからだ。
その叩いた大きな手は、震えていた。
お母さんもまた、自分の発言を後悔したように、唇を震わせて絶句していた。
彼女が何事か言うよりも早く、望月先生は夫婦から一歩退き、
「——誠に、申し訳ない」
平身低頭。深く頭を下げ、そう重々しく謝罪した。
……その光景に、僕はあらゆる感情を抱いた。
たとえエカっぺのお母さんでも、望月先生の苦しみと功績を侮辱するようなことを言おうとしたのだ。その事へのほのかな
それなのに頭を下げた望月先生への敬意。
僕よりもひとまわり以上歳上で、子供までいる大人達の見せる余裕の無さに対する、言いようのない不安感。
エカっぺを除いて、一番苦しんでいるであろうご両親への同情。
まるで
「帰ろう。螢。コウ坊。……我々がここにいても、いらぬ迷惑をかけるだけだ」
そう告げて病室を後にした先生に、僕と螢さんも続いた。もう少しエカっぺの側に居たいけど、それは親御さんの役目だ。僕らがいたのでは、それすら邪魔しかねない。
その後、後藤さんの運転する車に三人で乗った。僕も家の近くまで送ってもらうことになった。
「今日はもう遅い。続きは明日、家で話そう」と望月先生の言葉を聞いてから、僕は車を降りた。夜の神田の街中を歩き、家へとトボトボ入った。
何も言わず遅くまで外に出ていたことに対するお母さんのお小言も、ひどく他人事みたいに思えた。
†
……エカテリーナは、眠りから覚めた。
始めに感じたのは、その場所の情景ではなく、匂いだった。
徹底的に除菌されたような、清潔なのに若干鼻につく匂い。その匂いは、今自分が横たわっているふかふかとした感触と、自分を上から覆っている薄い布切れの感触からもつんと香ってきた。
「……あ」
何気なく漏らした小さな一声が、薄く広く響いた。どうやら、それなりに広い場所であるようだ。
静かではあるが、少し遠くからわずかにざわめくのが聞こえる。二人か三人程度のまとまった声。どれも知らない声だが、会話の内容は断片的にだがかろうじて聴き取れた。315号室……患者……入院……この病院…………
(……ここ、病院なの)
それを聴いて、エカテリーナは初めてその空間の正体を理解できた。
清潔すぎる匂いも、広い空間も、そしてそんな場所で眠っている自分の状況も、それで全て氷解した。
——目など、とっくに開いているというのに。
目の前に映る光景は、ぼんやりとした薄闇の世界のみ。
天井も、ベッドも、仕切りのカーテンも、
「——カチューシャっ!」
飛び込んできた声と、抱きしめられた時の匂い。ああ、これは
……抱きしめられて、初めてそれが判った。
「ママ…………あたし……」
驚くほど虚な感情のまま、エカテリーナは己の「欠落」を静かに告げた。
「あたし、目が