【漫画化】帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
翌日——九月九日の放課後。
僕は学校を出た足で、そのまま望月家へと向かった。
本当はエカっぺのお見舞いに行きたかったが、エカっぺのご両親と、何よりエカっぺ本人の気持ちを考えると、僕が行くことは躊躇われた。……その代わりというわけではないが、エカっぺのお見舞いには
峰子には後で僕の家に電話して、エカっぺの様子を教えてもらうという約束をしてある。ひとまずエカっぺのことは峰子に任せ、僕は僕の用事を済ませなければならない。
そうして僕は、望月家にやってきた。
——正直言うと、来たくはなかった。
エカっぺが僕と螢さんに対して
……しかし、もしこのことを知ったとして、望月先生は
同門に刃を向ける——これは一門においてあまりに大きな問題だ。
僕だけならばまだしも、姉弟子である螢さんにまで斬りかかったというのだ。
門下における秩序の乱れを、望月先生が許すとは思えない。先生から二度も謹慎を食らっている僕だからこそ言える。まだ目的が分からないとはいえ、兄弟弟子に対して刃を振るったエカっぺには、何らかの処分が下ることは間違いない。
最悪の場合——破門もあり得る。
正直、ここで引き返したかった。この件について何も話さず、有耶無耶にしてしまいたかった。
だけど、そんなことができないのも知っていた。
なので僕は覚悟を決めた。望月家の門をくぐり、家へ入った。
出迎えてくれた螢さんに付いていくまま、線香っぽい匂いのする廊下をひたひた歩き、やがて居間へと到着。
……毎週見ている場所のはずなのに、まるで知らない場所に来ている気分だった。
山みたいな望月先生の座り姿勢。僕と螢さんは、テーブルを挟んでそんな先生と向かい合う形で正座した。
「望月先生、あの……」
「——
意味の無い前置きをしようとした僕に対し、望月先生は有無を言わせぬ語気でそう促してきた。
言い訳も脚色も気遣いも要らない。ただ事実だけを話せ——そういう感じだ。結局、最終的には真実を包み隠さず話す他無い。すべてはそこから始まる。この『望月派』の師が望月先生である以上、最終的な判断は先生に委ねるしかない。僕の口八丁でどうにかできるほど、先生は甘くない。
胃袋に
昨日の放課後、エカっぺに呼び出され、持参の刀で斬られそうになったこと。
どうにかやり過ごすと、彼女が僕の元から走り去ったこと。
その後にエカっぺの家で門前払いを食らい、家に戻った時に螢さんから電話を受け、病院まで来たこと。——病院から先のことは、この場の全員が知っているので説明は不要。
螢さんもまた、自分とエカっぺの間で起きた事の真相を話してくれた。
昨日の夕方、エカっぺが望月家に久しく姿を現したと思ったら、勝負を挑まれたこと。……その時に持参していた真剣を掲げて。
エカっぺは互いに真剣での勝負を望んだが、螢さんは木刀を使い、そしてエカっぺから傷一つ負うことなく全ての攻撃をあしらったこと。
勝負が長引くほどエカっぺが狂乱の
やがて、見当違いの場所へ刀を振い、そして突然全身を震わせて意識を失ったこと。
それからすぐに救急車を呼び、僕や望月先生、エカっぺのご両親に電話を掛けたこと。
——双方の話の場面が「病院」へと収束したところで、僕らの証言は終わった。
「……なるほど。詳しい事情は分かった」
望月先生は静かな表情と声でそう納得を示した。
僕もまた、今回の件に関するモヤモヤがある程度払拭された。エカっぺが望月家に来ていたのは、そういう事情だったのか。話が全てつながった。
——だが、もう一つ。
「螢よ、一つ聞こう。……なぜ、勝負など受けようと思った?」
望月先生の静かで重い問いかけに、螢さんはたじろぐことなく淡々と答えた。
「わたしも最初は断ろうと思った。だけど、彼女の目を見て、
——ただならぬ事情。
それこそが、僕の中に残っている疑念。
エカっぺは、
しかし、それを答えられるのは、今のところエカっぺのみ。
そのエカっぺも、まだ目を覚ましてるか分からないのだ。
つまるところ、今の僕らにそれを知る術は無い。
だからこそ、望月先生も現時点で可能な裁量を行うしか無い。
「……そうか。確かに彼女には、何かあったとしか思えない。いきなり兄弟弟子に刀で斬りかかってくるなど、よほどの事情が無ければあり得ぬ事だろう。——だが、門人同士での斬り合いに頷いた上、腕に自身があるとはいえ刀剣に対し木刀で挑むなどという
エカっぺの武器が木刀であったなら、まだ良かったかもしれない。僕と螢さんが時々やっている木刀での勝負と同じだ。
しかし、今回の武器は木刀とは訳が違う。当たっても
人の命を容易く奪う刃を使う勝負。
どういう理由があったとしても、螢さんはそんな危険な勝負に応じたのだ。
「望月螢——其方に、一週間の謹慎を言い渡す。その間、許可無く剣を持つことは許さん」
先生は、静謐な、抗いがたい重さを帯びた声で告げた。
「承知しました」
螢さんは怯えも落胆も見せなかった。ただ事実を事実として受け入れ、いつも通りの語気でそう告げて一礼。
「あの、望月先生、僕は……」
恐る恐る己の処遇を問うた僕に、先生は「コウ坊に対しては何も無い。お前さんは自分の身を守っただけだ」と告げた。
確かに、僕も刀を持ったエカっぺと木刀でやりあったけど、それは不可抗力だ。エカっぺが斬りかかってくるから応戦した。
(——あれ? そういえば)
「……コウ君には、
僕がふと思った心中の疑問をまるで見抜いたように、螢さんがそう口からこぼした。
……そうだ。僕はエカっぺと「勝負」はしていない。彼女の方から一方的に襲いかかってきたのだ。
螢さんとは「勝負」をして、僕とはしていない。
考えるが、やはり分からない。これもまた、エカっぺに直接聞かなければハッキリしないことだ。
——エカっぺ。
「……望月先生。エカっぺは……破門、になるんでしょうか」
僕は膝の上で拳を強く握り、気がつくとそのように問うていた。
自分があれだけ有耶無耶になることを望んだことなのに。自らそう処遇の内容を問うてしまった。
しかし、ここまで話が進んでしまった以上、もう避けては通れないとも思っていた。だからせめて、エカっぺに対する処遇を聞く事くらいは自分の随意にしたいと思っての問いであった。
「普通ならば、破門だろうな」
あっさりと返って来た先生の返答に、僕は思わず膝を見下ろす。制服のズボンが、僕の手に掴まれてぐしゃぐしゃになっていた。
「……だが、その判断は彼女から事情を問いただした後でも、遅くはあるまい」
ズボンを掴む己の手指が緩んだ。それはつまり。
「保留……ということでしょうか」
ん、と望月先生は頷いた。
それを目にした瞬間、僕は全身から力が抜けるのを実感した。まだ完全に処分の内容が決まったわけではないけれど、少なくともエカっぺの破門はひとまず回避することができたのだ。それを聞いて安心した。
今日のところはそこで話は終わりとなり、僕は望月家を後にした。
電車に乗って家の最寄駅で降り、夕焼けの神田の街を歩く。
その途中、遠くから大勢の声の重複が聞こえてきた。「超大国の横暴を許すな」「
(エカっぺは、どうしてあんなことをしたんだろう……)
考えても答えが出るはずのないことに関して考察を繰り返しているうちに、我が家「
だが、店の前に、誰かが立っていた。
「……峰子?」
そう、峰子だった。放課後別れた時の姿、富武中学校の夏用セーラー服姿のまま、家の前に立っていた。ポニーテールを形作る大きなラメ入りビーズの髪飾りが、夕日を受けてきらめいていた。
何だろう。エカっぺのことで話に来たのかな。でもそれは電話でいいって言ったのに。それとも僕ではなく、店に用事かな。
近づくにつれて、その横顔の表情がハッキリしてくる。どこか憂いを帯びたような横顔。
声をかける前に、僕の接近に気づいたようだ。峰子が振り返る。
僕の姿をハッキリと捉えた瞬間——その瞳の
(涙——)
それに僕が驚いた時には、峰子が駆け寄り、僕の胸の中に飛び込んできた。
「峰」
子、と続ける前に、峰子が顔を上げた。歪んだ泣き顔だった。
気丈な彼女が滅多に見せないその表情に、僕は胸を鋭く刺された気分になる。
「
ぼろぼろと大粒の涙をこぼす峰子の肩を、鞄を持っていない方の手でそっと抱く。その手も震えていた。
「……どうしたの、峰子」
そう問いはしたものの、彼女を抱く僕の手も震えていた。
具体的な内容は分からずとも、彼女のこれから告げる内容が、どういう性質を持ったものであるのかが。
それが、僕にとっても、泣きかねないものだということが。
僕の胸の中に顔を埋め、しくしくとすすり泣きをしながら、峰子は涙声で告げた。
「カチューシャ……
二度目の冷たい斬れ味が、僕の胸を襲った。
どさっ、という音がした。
僕の片手から、鞄が滑り落ちた音である。
その手が、寄る辺を探すまま、峰子の肩に置かれた。
峰子がさらに強く胸中へ顔をうずめ、悲痛に訴えた。
「カチューシャねっ……言ったの…………私がお見舞いに来た時にっ、誰ですか、って……! 声かけて、初めて私だって気づいたの……!」
それは、残酷な現実を、さらに残酷に補強してきた。
「ずっと薄暗くて、何も視えないって…………人に聞かないと、今が朝か夜かも分からないって……カチューシャが…………!」
「……峰子」
「私と、話すときっ…………目が全然違う場所を見てたのっ……!」
僕は両腕を峰子の背中に回し、強く抱きしめた。
峰子は、大きく泣き出した。
「こんなのっ、こんなのあんまりよぉっ……!!」
僕のワイシャツを両手で強く掴み、悲嘆をぶつけてきた。
「なんでっ……? なんで、あの子ばっかり、こんなひどい目にあうのっ? あの子はなにもしてないのに! ふつうに生きてるだけなのに! なんで? なんでなのっ……? 教えてよぉ。こういちろぉぉっ……」
——こんなふうに素直に泣くことのできる峰子が、羨ましかった。
僕は、涙ひとつこぼれなかった。
思考が、麻痺していた。
いろいろな謎と悲劇が積み重なって、これ以上の悲劇の受け入れを僕の心が拒否していた。
考えることを、嫌がっていた。
……遠くから発せられているはずの反米シュプレヒコールが、今はやけにはっきりと聞こえてきた。