【漫画化】帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
エカテリーナは、生きながら死のうとしていた。
目をつぶっている時と開けている時の区別がつきにくい。濃淡差はあれど両方とも闇だからだ。
ときどき、全身が水風呂に放り込まれたように、悪寒が突然やってくる。
体の中心の筋肉が時折震える。
呼吸が苦しくなる時がある。
——以上が、九月九日の朝に目覚めた時から続く諸症状であった。
突然意識を失ったことも含めて、明らかに異常な状態。何らかの病に冒されたことを誰もが疑うであろう症状の数々。その日見舞いに訪れていた両親は、即日検査入院を依頼。
丸三日かけて行われた大掛かりな検査入院の果てに、医師が導き出した答えは——原因不明。
全身のあらゆる場所を検査したが、どこにも異常らしきモノは見つからなかったという。
脳は綺麗な状態。
糖尿病にかかってもいない。
感染症でもない。
その他の臓器にも異常は無し。
強いて言えば、脊柱の一部がほんの少しだけ歪んでいたとのことだが、症状との因果関係は薄いとのこと。
症状の原因が判っていない以上、現代医学としては肉体にメスを入れるわけにはいかない。入院費がかかることも考慮して、エカテリーナはひとまず退院するしかなかった。
目がほとんど見えていない状態なので、今までのようにひとりで歩くことができなくなった。両親に手を引かれてゆっくりと院内を移動し、階段は父の大きく逞しい背中におぶさりながら降りた。
家に帰る。当然ながらシャワーも一人では不安なので、母に手伝ってもらった。着替えも手伝ってもらってどうにか着てから、部屋に案内されてそのまま寝かされる。夕飯もベッドで食べさせてもらった。
翌日、母が学校に連絡した。しばらく欠席すると。
行きたくないなら、無理に行かなくてもいいのよ——そんな母の優しさに、エカテリーナは肯定でも否定でもなくただ頷いた。
病欠初日である九月十五日月曜日、
峰子は楽しそうにいろんな話をしてくれた。楽しそうに。
しかし、その楽しげに話す声に、
目が見えない分、耳が良くなっていた。
だから上手く笑って話に乗れなかった。
次の日も、その次の日も、峰子は来てくれた。
嬉しいはずなのに、嬉しくない。全く笑えない。声が聞こえるだけで、峰子の可愛い顔が見えない。声だけ取り繕ってるだけで本当は笑っていないんじゃないか、と邪推してしまう。
だから、三日目の時、言ってしまった。
「別に、無理してあたしに構わなくていいよ。あんたも受験で忙しいんだからさ。もう軍人になれないあたしなんかと一緒にいたって時間の無駄でしょ。無駄はさっさと切り捨てて、あんたは自分の進路に専念すればいいじゃない」
数秒の張り詰めた沈黙ののち、左頬に平たい衝撃が訪る。ぱしんっ、という乾いた音が、部屋全体に強く響いた。
「なによっ…………無駄って何よっ!!」
金属を引っ掻くような怒号ののち、すぐに峰子の存在が足音とともに遠ざかる。玄関のドアを乱暴に開け閉めする音。
体を支える軸を失ったように、エカテリーナはベッドに倒れ込んだ。ほぼ同時に訪れる息苦しさ。時々現れる原因不明の諸症状の一つである。
「っ……はぁっ、はぁっ…………はは、はははは」
少しして症状がおさまった後、口からすするような笑声がひとりでに溢れた。
(……馬鹿だ、あたし)
自分なんかと率先して仲良くしてくれる稀有な人を、気分と衝動で切り捨てて。
だが、馬鹿な自分には相応しい展開だ。
——これはきっと、自分への天罰。
『
その愛欲に駆られた剣を、事もあろうに想い人に向かって振るってしまった、大切なモノを見る目を失った自分への。
さらには、その想い人の「初恋」を破壊しようと、姉弟子に対しても刃を向けた、剣士の風上にも置けない自分への。
……それでも、螢に対していきなり襲いかかることはせず、「勝負」という体裁で真剣を振るったのは、狂乱した心の片隅に残った、剣士としてのなけなしの矜持が働いたためだろうか。
だが、愚行は愚行だ。罰は罰だ。
自分が持っていたモノに目を向けず、叶うことのない「初恋」に執着した結果、最終的にどちらも失う羽目になった。
——自分にはもう、何もない。
目が見えない。
だからもう軍人になるという進路は絶たれたも同然。
陸士に入校し、ロシア人という陰口など歯牙にも掛けず訓練と勉学に勤しみ頭角を現し、陸大へ進んでからは
光一郎が教えてくれた、
軍人どころか、今日の日にちや時間すら自力で知ることができない。親の顔も、好きな人の顔ももう見ることができない。人間として一人で当たり前のようにできていたことが、もう独力では行えない。
かつての敵国人の血筋である自分に優しくしてくれた得難い人達も、みんな失った。
剣士としてもおしまいだ。目が見えないのでは、満足に剣を振るうこともできない。姉弟子に刃を向けたのだから、至剣流剣術も問答無用で破門だろう。
全て、何もかも、自分の愚行が招いた因果応報。
(……もう、いい)
もう、何もかもが疲れた。
何と戦う気力も、能力も無い。
そんな人生に、いったい何の価値があるのだろうか。何を為せるのか。
だから、このまま、何もせずに眠り続けたい。
朽ち果てるまで、ずっと。
今日の夕飯を、エカテリーナは拒否した。そのまま寝た。
翌朝の食事も、昼食も。
痛いくらいの空腹感が襲ってくるが、それでも食べたくなかった。
このまま飲まず食わずで、部屋の中で朽ち果ててしまおう。
何もかも失った、この価値の無い人生に、終止符を打ってしまいたかった。
恒例の過呼吸の苦しみを味わいながら、部屋に衣擦れの音が近づいてくるのを聞いた。ドアが開く。
「……ママ?」
何も食べない自分を見かねた母が物申しに来たのだろうか。もしそうだとしたら適当にあしらってしまおう。エカテリーナはベッドの上でごろりと寝返りを打ち、母に背中を向けた。
背後にいる母から発せられた言葉は、
「私、あなたのお母さんちがうですヨ」
奇妙なイントネーションの、甲高い声だった。
——ママじゃない。
というか、
強烈な警戒心を覚えたエカテリーナは、勢いよく上半身を起こして毛布で我が身を隠す。さっきの声の聞こえた方向を睨む。
「……少し痩せましたカ?」
「誰っ!?」
猜疑と用心で尖った声を投じると、謎の声がなおも片言めいた奇妙なイントネーションで
「そこに私いないですヨ。……どうやら、
「な……!?」
ますます警戒で身が縮こまった。——こいつ、なんであたしの目のことを。
「——那個姑娘是美國人嗎?」
さらに新しい声。今度は女だ。当然ながら知らない人間。というか日本語ですらない。これは……中国語か。
「不對。是俄人和日本人的混血」
「哦、好可愛啊。對她治療嗎?」
さっきの片言の男の声が、女の声に中国語で話す。
「な、何よっ? なんなのよあんた達っ……!」
そう強く問いかける。久しく大きな声が出た。
「っ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
そのせいだろうか。過呼吸の症状が襲ってきた。肺が空気を寄越せと催促する。しかしいくら早く吸っても吸い足りない。
すると、ふぅ、と
とすん、と軽く打たれる。感触からして掌である。
「っ!? ——はぁーっ、はぁーっ……!」
かと思えば、急に呼吸が楽になった。苦しくない。まるで気道が一気に広がったように、空気がどんどん肺に吸い込まれる。爽快である。
今までになかったその体験に、エカテリーナは拍子抜けしていた。未だ薄闇しか見えぬ視界の中から、白檀の匂いのする方向を見つめる。
「……いったい、誰なの?」
再びの
薄闇の中から、再びあの胡散臭そうな片言の声が返ってきた。
「