【漫画化】帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
「——それ以上その子に近づかないでっ!!」
小柄な女性が、その童顔を敵意一色にしながら、
(
先ほどこの伊藤家へと
「聞いているのっ!? 馬鹿にしないで!! その子に何かしようとしたら……!!」
雪菜は怒気をみなぎらせて、長刀の刀身をギラつかせた。
流石は子を想う母親だ。本気さがよく伝わってくる。こちらが娘に何かしようものなら迷いなく突き刺しに来る。そんな無言の殺意を感じる。
しかし残念だが、武器選びの時点で素人丸出しだ。長刀は遠くから突き斬り両方ができる優れた武器だが、この狭い室内では満足に振り回せぬ無用の
ふと、隣に立つ
「——どうするのぉ?
低くも甘い声の中国語で言ったその女性——
文句無しに美女と呼べるが、どこか
「……とりあえず、今は刺激するような真似は控えましょう。買
以前横浜で出会った己の姉弟子に対し、輝秀はそう静かに注意を訴える。同じく中国語で。
「出ていって!! 早くっ!!」
雪菜はそう叫び、さらに一歩踏み入った。同時にその手に握られた長刀の刃も近づく。
今、輝秀は無手だ。しかし彼女程度の腕前ならば容易く刃を掻い潜って間合いへ入り、瞬時に制圧することができるだろう。
しかし、輝秀としては極力その展開は避けたかった。たとえ無力化程度でも、母に手をかけた男を娘は許しはしないだろう。心証の悪化は
どうしたものかと思案していると、
「——待って、ママ」
その娘、エカテリーナが静かに口を挟んできた。
雪菜に心配そうな目を向けられると、娘はさらに告げた。
「もう少しだけ……その人達と、話をさせて」
「え……でも、カチューシャ」
「お願い……」
娘の言葉に、母は気勢を少し緩めた。
輝秀はひとまず穏当に事が運びそうな展開に安堵した。これで話し合いの余地が出来た。
「それで……あたしを助ける、って、どういう意味なの?」
エカテリーナの問いに、輝秀は再び「趙凌霄」として意識を持ち直してから、片言の日本語で答えた。
「言葉通りの意味ヨ。あなたのその、見えない目、治せるかもしれないですヨ。
隣の買桂芳を手で
それを察したのであろう姉弟子は、その甘く低い声で名乗った。
「初めましてぇ。私は買桂芳。横浜から来たのぉ。よろしくねぇ、ロシア混じりの可愛いお嬢さん」
エカテリーナは唖然としながら、独りごちるように呟いた。「……日本語」
「あぁ、私は日本暮らしが長いからぁ。だから日本語も問題ないわぁ。これから楽しくお話ししましょぉ」
そう言って浮かべた微笑は、やはりどこか蛇っぽい陰性のある笑みだった。エカテリーナは盲目なためその顔は見えないだろうが、彼女の発する黒蜜めいた甘い低音はどこか退廃的な響きがあり、そのせいか少し身構えた様子だった。それでもそこで退くことはせず、ややこわばった声で話を進めた。
「あんたが……あたしを治してくれるっていうの?」
「私の本業は医者だからぁ、一応それがお仕事ではあるわねぇ。でも、だからあなたを治す、かというのはまた別の問題よぉ。まずはあなたに、差し出すべきモノを差し出してもらわないといけないわぁ」
「……お金ってこと?」
「違うわぁ。そんな状況によって価値が変動するようなくだらないモノじゃないわぁ。もっと本質的な価値のあるモノよぉ」
「なんなのよ……?」
姉弟子がゆるりと動き出す。エカテリーナの領地であるベッドの上に膝で乗り込んだ。ぎしり、ぎしり、と近づき、人種に由来する白い頬を細指で撫で、ゆっくりと両手で包み込んだ。斜め上から下へいつでもキスできそうな体勢で顔を間近に突き合わせながら、黒蜜のような声でささやいた。
「それはねぇ——信頼よぉ」
ここにきて初めて、エカテリーナの青い瞳が真っ直ぐに買桂芳のいる位置を向いた。
「
楽しげだが、どことなく
「どうかしらぁ? 信じられるぅ? 信頼できるぅ? 赤の他人なのに、あなたの家の場所と、その目のことを知ってるぅ、胡散臭い中国女のことをぉ? それができないのなら、残念だけど私は手を貸したくないわぁ。時間の無駄だものぉ」
その笑みは、美しくもどこか毒々しかった。象すらひと咬みで殺せる白蛇のごとく。
(……やっぱり性格悪いな、この
輝秀は、呆れ半分、恐れ半分といった心境だった。
武医同根という言葉がある。武術も医術も、人体を扱うという根本は同一であるため、人体を破壊する武術に長ずることは、そのまま人体を治す医術にも長ずるという意味である。実際、日本における整復師などには柔術の熟練者がかなり多いが、中国においては特にそれが顕著である。
——この姉弟子は、優れた武術家であると同時に、治療にも優れた良医だ。
だが、なにぶん治療の対象を選ぶところがある。自分に対する全幅の信頼を持たない相手は治癒したがらないのである。
曰く——医者を信じない人間は医者の言うことを聞かない。だから勝手に自己判断でいらぬモノを摂ったり生活を乱したりしかねない。そのような人格の時点で不治の病に等しいので、時間を割くのは無駄である。
だから、まず治療する前に、ああやって強い言葉で患者を試すのだ。
ここから先は、あの娘次第だ。
あの娘が頷かなければ、治療はできなくなったも同然だ。
(この娘の症状を
輝秀は祈るような気持ちだった。
「……あたし、は」
——エカテリーナもまた、悩んでいた。買桂芳の漂わせる白檀みたいな体臭に包まれながら。
薄闇しか映さないこの目を治す方法は、今は分からない。
それを治せると豪語するこの二人組に対しても、残念ながら自分の中では得体の知れなさがまだ拭えない。
そもそも何で家の場所を知ってる? 症状を知ってる? 自分がロシア人混じりだと知ってる? 縁もゆかりもなかったはずの中国人の口からそれらの情報が飛び出した時点で警戒は禁じ得ない。
信頼しろ、といわれても、普通なら無理な話だろう。
信じてこの身を託したとしても、どういう目に遭わされるのか想像がつかない。
そうした果てに治るという保証があるかどうかはさらに怪しい。
(なら……ずっとこのままでいいの?)
もうどうせ治らない、と何もかも拒絶して、そのまま朽ちていく。
治る可能性に手を伸ばしてみる。
自分は本当は、どちらを望むのだろうか。
——仮に、本当に治ると仮定した時。治った状態と治さないでいる状態の、どっちが自分にとって幸せだろうか?
考えるまでもない。
見えないより、見えた方が良い。
この目で、もっと見たい。
パパの顔、ママの顔、峰子の顔、望月先生の顔、二刀流馬鹿の顔……コウの顔。
見たいに、決まっている。
このまま見れなくなるなんて、いやだ。
——どうせ、一度は朽ち果ててしまおうと思ったこの身だ。ここで捨て身でこの女を信じてしまったところで、大して変わりはしないだろう。
エカテリーナの心は決まった。
「——分かった。あんたのこと、信じてみる。だからその代わり……全力を尽くしてくれる?」
目は見えないはずなのに、目の前の医者が確かに笑ったと分かった。
「決まり、ねぇ。あ、お代に関しては安心していいわぁ。ちゃんと
「別口……?」
「あなたは知らなくてもいいわぁ」
憂鬱そうな溜め息が聞こえた。買桂芳のモノではない。では、誰の溜め息?
「——それじゃあ、早速始めようかしらぁ。まずは
エカテリーナのそんな思考を余所に、魔女の怪しげな治療は始まろうとしていた。