【漫画化】帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
二〇〇三年九月二十六日、昼過ぎ——
軍人であった父を三歳の頃に戦争で亡くしている峰子は、母一人子一人の母子家庭で育った。母は現在看護師の仕事のため家にはおらず、峰子一人で黙々と受験勉強に励んでいるのであった。
……さらに言うと、今日は
勉強が一区切りついたところで、峰子は手を止めて畳から立ち上がり、冷蔵庫から取り出した麦茶と氷を同じグラスに入れ、また同じ場所へ座り込んだ。グラスの半分くらいまで麦茶を一気に煽る。残暑と勉強の熱気で熱くなった体が、内側から冷めていく感覚。
ふぁー、と音を立てて回り続けている扇風機の微風を浴びながら、網戸の向こうに見える夏空を見た。空がいつも以上に遠く感じた。
「……私も、まだまだ子供だわ」
そして、溜め息とともに、独りごちる。
——峰子は現在、一週間の
事の発端は、先週の木曜日だ。……エカテリーナと喧嘩をしてしまった翌日である。
彼女が自分に向けて言った言葉には傷ついたし翌日でも腹が立っていたが、それでも足は自然とエカテリーナの教室へと動いてしまう。来ているのではないか、治ったのではないか、そんな淡い期待をしながら。そしてその淡い期待はやはり裏切られた。
彼女はもう四日も休み続けているが、同級には彼女の身を案じている声など一つも聞こえてこなかった。
それどころか、せせら笑う声が聞こえた。
あいつどうしたんだろ? ガッコ辞めたんじゃね? ロシアにでも引っ越したんかね? 工作員のガッコでも行ったんじゃね? 今頃色仕掛けのやり方教わってたりしてな、死んだって可能性もあるかもよ、自殺かね……聴いているだけで胸糞が悪くなってくる言葉の数々。
『あんなアバズレ、いっそ死んでてくれた方がいいよね。その方が世の中のためになるもん』
思考が白熱するほどの激情を覚えた時には、峰子はその女子めがけて疾駆し、拳で顔面を殴打していた。
鼻血を散らしながら仰向けに倒れたところを馬乗りになって、さらに殴りつけてやろうとしたところで、そのクラスの担任に羽交い締めにされた。
その後、見事に停学処分を食らった。
峰子は家からほとんど出ることなく停学に甘んじ……ちょうど一週間後である今に至る。
「ほんと、何やってるのかしら……受験の年だっていうのに、これじゃ内申書に響くわ……」
再びの溜め息。
エカテリーナと喧嘩して機嫌が悪かったからとはいえ、あんなに簡単に暴力に走ってしまった自分の未熟さに、多少の自己嫌悪を覚えた。こんなことでは、陸士に合格できたところで先が思いやられる。軍隊とは、理不尽への耐性を持っていなければやっていけない組織だ。
残りの麦茶も全部飲み干し、中の氷もゴリゴリ噛み砕くと、峰子は勉強を一時中断した。時刻はすでに午後三時を過ぎていた。時が経つのは早い。
気晴らしに刀の手入れでもしよう——タンス上の
手入れ道具の入った木箱も持ってきて、刀を分解しようとした時、インターホンが鳴った。
「……だれよ」
軽くぼやき、いったん納刀。玄関へ近づき、覗き穴から訪問者の顔を拝んだ。
「————え」
そして、その顔を見た瞬間、我が目を疑った。
(うそ……でも、そんな……そんなわけ……だって
今見ている光景が信じられない。しかし体は本当なのかどうかと結論を急いだ。鍵を外し、ドアノブを回して前へ押した。
ドアが前へ開かれ、露わになったのは——
「…………
「……うん」
その訪問者——エカテリーナ・ルドルフォヴナ・
「な、んで。どうして……」
どうしてここに来たのか。体調は大丈夫なのか。同伴者は誰もいないのか。一人で来たのか。目も見えないはずなのにどうやって——
いくつもの疑問を思い浮かべる峰子を余所に、エカテリーナは手を伸ばしてきた。白く滑らかそうでありつつもどこか硬そうな石膏めいた彼女の手。それはおもむろに、しかし
「……カチューシャ、あなた」
気づきによって見開かれた峰子の瞳を、エカテリーナはその青い瞳で真っ直ぐ見返しながらうっとりと微笑んでいる。まるで、遠く離れていた愛しい人に久しく会えたような、そんな笑み。
「まさか…………
根っからの金髪が、小さな首肯で揺れた。
「もう、全部治ったよ」
エカテリーナのその言葉に、峰子の胸中から何かが猛烈に込み上げてきた。
「……夢じゃ、ない、わよね?」
「夢なんかじゃないわよ。なんなら、そのほっぺたにチューでもしよっか?」
その冗談めかした発言を聞いた瞬間、まるで胸の奥から噴き出したように、瞳が一気に潤いでいっぱいになった。
気がつくと、エカテリーナの胸の中に飛び込んでいた。
「うぉっと」
それを甘んじて受け止めてくれた彼女は、こちらの背中に手を回してくれた。
峰子の頭は、ちょうどエカテリーナの豊かな双丘の間に埋まっていた。シャツに染みついた洗剤の匂いと、彼女自身のほんのりした匂い。去年、失恋に痛んでいた自分を包み込んでくれた匂いと柔らかさに、
「ばかっ!! 心配させないでよぉっ……!! もうなおらないんじゃないかって思ってたんだからぁっ!!」
「……ごめんね」
「あなたが心配させるからっ……私、ずっと怖くて……あなたが死んじゃうんじゃないかって怖くてっ…………あなたの悪口言われて怒って人殴って、停学になっちゃうしっ……もうさんざんよっ……!!」
「ごめん……」
「あやまってばっかり!! もっとなにか言ってよ他のことっ!!」
子供の駄々のように、エカテリーナの胸を叩きながらぐずぐずと言う。
「——ごめん」
しかし、エカテリーナの謝罪は変わらなかった。
「あの時、あんたが見舞いに来てくれてたことを「無駄なこと」なんて言って、ごめん」
より一層抱きしめる力を強めてくる。
静かだが決然とした声音が、耳元で囁かれた。
「もう——あたしは
「うんっ……!」
エカテリーナの背中に、峰子も腕を回す。
「私も……たたいてごめんね」
「いいのよ。あたしが馬鹿だったんだから。本当はあんたに泣きついていいところを、追い出しちゃったんだから」
「……もう、あんなこと、言わないでよね」
「言わないわ。ぜったい」
——ああ、神様。神様。
こんな奇跡が、あっていいのかと、心配になった。
それくらいに、この結果と温もりが、信じがたかった。
このまま身を委ねるのが怖かった。
また、何かの拍子に、この幸せが失われてしまうのではないかと。
でも、エカテリーナは言ったのだ。「逃げない」と。
だったら、自分も逃げたくない。
この温もりに、浸かれるだけ浸かっていたい。
「大好きよ、峰子」
「カチューシャ……私も、大好き」
再び、お互いに抱擁を強めた。
二つの重みを一つにするように。
†
『もう——あたしは逃げない』
峰子の髪の匂いに浸りながら、先ほど口にした自分の言葉を再び心の中で思い起こす。
そう。
あたしはもう、逃げない。
怖くても、向き合うと決めた。
——己の愚かな行いの結果と。
——実ることのない「初恋」と。
それらの結末を、この目で見ると決めた。
それが、色ある世界を取り戻した理由なのだと、信じて。