【漫画化】帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
——世情が乱れ、友人が病にかかろうとも、自分のやるべき事は無くならない。
九月二十七日、朝。
季節はすでに秋になりかけているのだろう。昼間はまだ少しだけ暑いが、朝か夜は肌寒さ寄りの涼しさが空気に宿っていた。稽古着姿にそのひんやりした気温を感じる。
時の流れを感じるのは、学校においても同じだった。受験の季節は刻一刻と迫っている。あと三ヶ月だ。その時に備え、光一郎は受験勉強を地道に続けている。
終わりが見えない受験勉強に気疲れを覚える一方、このような気分が味わえるのは今だけであるとも思い、その貴重さを噛み締めている。義務教育もあと五ヶ月ほどだ。もし現役合格を果たしたと仮定して、高校に入ればもう義務教育ではない。のほほんとしながらでも進級進学が出来る身分ではなくなる。たとえ帝都大付属高校であっても、成績が振るわなければ大学進学が叶わないことだってあり得るのだ。
だからこそ、残った中学生としての時間の中で、受験勉強の他にもやっておかなければならないことがあるような気分になり、なんとなく焦燥感を少し覚える。
それを考えて、真っ先に連想したのが——エカテリーナの顔だった。
(……エカっぺ、結局今週もずっと休みだったな)
先週初日を境に、エカテリーナは学校に来なくなった。
彼女のクラスの担任も、病気のことと、そのためしばらく休学する旨を生徒達に伝えた。
……そして、その「しばらく」は、今なお続いている。
(
エカテリーナの病気について、同クラスの生徒らは心配している様子は見せなかった。無関心か、笑い話にしている人間の二種類だった。
後者の生徒の放った陰口に激怒した峰子が、その生徒を殴り倒してしまった。そのせいで一週間の停学となった。
エカテリーナが欠席し、峰子という理解者までもが学校に来れなくなったことで、光一郎は久しく孤立無援の気分を味わった。剣を学んでそれなりに強くなれていたから良かったものの、もしも入学して間もない頃のままであったら虐めの一つも受けていたかも分からない。
そして、その剣で自分しか守れないという事実が、光一郎は悔しくもあった。
エカテリーナに起きた今度の問題は、失恋云々よりも始末に負えない。
原因も、治療法も分からない症状。
医者ですら白旗を揚げざるを得ないのに、ただの中学生である自分に一体何が出来ると言うのだろうか。
一方で、ふと思う。……これこそが、「大人になった」と言うことなのではないだろうか、と。
幼い頃は、大仰な夢や理想を主張しがちだ。大金持ちになりたい、天下無双の剣士になりたい、ノーベル賞を取るほどの学者になりたい、総理大臣になりたい、日本一の刀鍛冶になりたい、望月源悟郎みたいな偉大な軍人になりたい……
しかし、成長していき世の中のことを知っていくにつれて、己の分際を知り、幼児的万能感は心から削ぎ落とされ、抱いていた夢はより現実的なモノへと研ぎ澄まされていく。
自分はこの中学校生活を、ひたすら剣に費やしてきた。その握った剣によって、あらゆる絶望的な状況を斬り開いてきた。それこそ、『呪剣』という一国を揺るがすほどの脅威を一刀両断したこともあった。
だからだろうか。自分は無意識のうちに、剣を磨けばなんでも解決できると思っていたのかもしれない。
そうでない現実の方が圧倒的に多いということを、ここ最近で何度も思い知らされた。
そうして、自分は「大人になった」のかもしれない。
(……だからって、このままエカっぺが弱ったままでいるのを、受け入れられるかよ)
さらに、そのように心中で息巻いたところで、自分には何も出来ないという現実を再認識するだけである。
エカテリーナの病を治せないどころか、こちらから彼女に近づくことさえ許されない。
彼女が自分で立ち直るのを、待っていることしかできない。
(
気がつくと、足が止まっていた。
心の重みで動けない。
木刀の入った刀袋が、ぎゅっと握られる。
——こんな調子で望月家に行ったところで、ロクな稽古にならないのではないだろうか。
——そもそも、剣なんかやってて、何の意味がある?
——エカテリーナを救うこともできない、受験にすら役に立たない、剣なんか。
「馬鹿っ」
ダメな方に流れそうになった己の思考に、光一郎は一喝した。
この考えは、今までの自分を否定するモノだ。
どれだけ落ち込んでいても、無力感に苛まれていても、絶対に抱いてはいけない考えだ。
——剣には、真摯であれ。
そうであったからこそ、自分は剣を通じて多くのモノを得られた。
素晴らしい剣術、尊敬できる剣師、兄弟弟子、多くの友達、充実した日々、数々の出会いと教訓……全て、螢を追いかけて剣を取ったからこそ、得られたモノだ。
確かに、剣だけでは、救えないモノもあるだろう。
けれどそれは、剣を否定する理由にはならない。してはいけない。
それは、
自分で自分を否定したら、本当に何も出来なくなってしまう。
「……よしっ」
気を取り直し、光一郎は歩き始めた。
問題は山積している。だけど、自分を蔑ろにしてはいけない。いたわり、少しずつ高めていかなければならない。
なればこそ、前へ進む。
そのようにして、歩き出した時だった。
——遠くに、
「え……」
光一郎は掠れた声を漏らす。
金色を発する「誰か」の姿は、急激に視界の中で大きく、はっきりしたものになっていく。
光一郎の歩みが自ずと早まり、その「誰か」もまた歩いてきているからだ。
末端がふんわりとした地毛の金髪、
稽古着と袴に包まれた長身、
日本人離れした色白の肌、
強気だがどこか愛嬌の宿る顔立ち、
そして——こちらをまっすぐに見つめる、明るい青色の瞳。
「……
うわごとのように呼びかけられたエカテリーナは、軽く苦笑し、
「誰だと思ったの?」
「え、いや……でも……」
光一郎はうろたえながら、彼女の青い瞳を見つめる。
「エカっぺ……目」
「もう治ったよ」
エカテリーナはあっさりと己の完治を告げた。
あ、え、え、とさらに狼狽を見せる光一郎。
目が治った? 見えるようになったということか?
それは喜ばしいことだ。だけど今のところ、完治の喜びよりも戸惑いの方が勝っていた。だから「やったー!」というような喜び方は出来なかった。
なぜ、彼女は自分の前に現れた? 病院すら匙を投げた病状をどうやって治した? そもそも、彼女はなぜ
「エカっぺ……」
ああ、情けない。さっきからオウムみたいに名前を呼ぶことしかできないのか。
そんな光一郎に、エカテリーナは、次のように切り出した。
「コウ……あたしね、あんたに言わないといけないこととか、謝らないといけないことが、いくつもあるの」
光を取り戻したその青い瞳で、光一郎を見据えてくる。
少し怖がるように強張ってはいるものの、謀など混ざっていない、真剣な眼差し。
「だけど……その前に一つだけ、お願いがあるの」
言うや、エカテリーナが掲げたのは、左手に握られた木刀。
「お願い、コウ——
思いがけない要望に、光一郎はまたも目を見張る。
けれど、「どうして?」とは訊かなかった。
「——分かった」
訊く必要が無い、と思ったからだ。
剣を交えればすぐに意味が分かる、と。
それは、剣士という生き物の本能みたいなモノであった。
さらに光一郎は、根拠が無いが、確信していた。
——これから始まる剣戟が、彼女の恋に、本格的に終止符を打つモノになるということも。