【漫画化】帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
——その後、
門の前で出迎えた
エカテリーナもまた、自分が兇刃を向けてしまった姉弟子を前に、気まずそうに目を逸らそうとする。しかし、すぐに気を持ち直して、螢の澄んだ黒い瞳をまっすぐ見つめ返した。そして告げた。
こちらへの処遇を言い渡される前に、先の非礼を詫びとうございます——
それから、たった四人の望月派至剣流の門人が、小さな稽古場に会する。
横並びに座する師と兄弟弟子に対し、エカテリーナは静かに平伏し、己の犯した
「——重ね重ねの非礼、怠慢、そして狼藉。申し開きの余地がございません」
まさに土下座の手本のような彼女の姿に、光一郎は予想できてはいたもののたじろぎを禁じ得ない。残った師と姉弟子は、表情を変えぬまま述べるに任せていた。
「
最後の辺りを話す口調が、特に苦しげだった。
「
すでに深々と頭を下げているのに、それよりもさらに下げようとしているかのように、エカテリーナの平伏姿勢は盤石だった。蹴られたとしてもその場から動かないだろう。
無言の時が、稽古場に訪れた。
まるで石の中に全身を埋められたような重苦しい沈黙。光一郎は額に一筋の汗が流れるのを実感する。
「——エカテリーナ・ルドルフォヴナ・
やがて源悟郎が、その沈黙を破った。厳かに名を呼ぶ。
「
息を呑む声。光一郎だった。
エカテリーナは、声も音も出さなかった。己に対する沙汰を、無言で受け止めていた。
「……このまま何も言わず、ただ詫びるだけで終わらせようというのであればな」
だが、そんなエカテリーナも、次の源悟郎の発言には顔を上げざるを得なかった。
惚けた表情で師の顔を見上げる。
いつも通りのいかめしく武張った顔つき。だがその鋭い瞳の奥には、淑女めいた柔らかな光が宿っていた。
「わしとお前さんの付き合いは二年ほどだ。こんな老いぼれにとっては矢が過ぎるがごとき時間だが、それでも、お前さんの事はそれなりに理解している。ぞんざいに見えて思慮深く、聡明な娘だと知っている。よほどの理由が無ければ、刃物を兄弟弟子に向けたりなどしないことも、当然ながら分かっている」
「……先生」
「だからどうか——
エカテリーナは耳を疑った。
(つまり……
あのような真似をした、こんな
心の中で、筆舌では表現したくてもできない感情が膨らんでいく。
嬉しさでもない、怒りでもない、悲しみでもない、ただただ大きい謎の感情。
「……ちょっと、いい?」
そこで、螢が挙手しながらゆっくり立ち上がった。
座して唖然としているエカテリーナの前まで音も無く歩み寄る。
ぱちっ——という乾いた音が、稽古場に響いた。
「……え」
左頬を襲った平たい衝撃で、エカテリーナは意思とは関係なく右を向いていた。
虚空には、振り抜かれた小さな右手が止まっていた。螢の手だ。
「姉弟子のわたしに対して剣を向けた事に関しては、これで許す」
左頬に残った痛みの余韻を感じながら耳にしたその発言に、エカテリーナは我知らず向き直っていた。
「でも……エカテリーナさん、わたしは今回の件で、それなりに傷ついてる」
普段通りにしか見えない彼女の言葉に、エカテリーナは内心驚けばいいのか首をかしげればいいのか分からずにいた。
「嫌い、って言われたから」
姉弟子のその発言に、あっ、と目を見開く。
『——あんたが嫌いだった!! ずっとずっと嫌いだったっ!!』
……言った。確かに。
嫉妬。憎悪。悲嘆。半狂乱で『
正常な心理状態ではなかったとはいえ、あの
多分、今でも自分は、この姉弟子のことが嫌いだ。
理由は明白。自分は光一郎が好きで、彼女は光一郎の想い人だからだ。
「薄々分かってはいた。でも、あそこまで強く言われてしまうと、わたしでも悲しいと思ってしまうし、傷つきもする」
「……ごめん、なさい」
「謝る必要は無い。あなたの謝罪はすでに済んでいる。それに……嫌われていたのは、わたしにも落ち度があると思っている」
落ち度? 何の落ち度があるというのか。自分が勝手に光一郎を好きになり、その恋敵として勝手に嫌っていただけなのに。
「今にして思えば……わたしは稽古の時以外、あなたと一緒の時間を作ったことがあまり無かった。あったとしても、それは必ずコウ君か誰かが一緒だった。あなたと二人きりで、面と向かって話した事がほとんど無かった」
そうかもしれない。
エカテリーナにとって望月螢とは、望月派に入門すると同時に付属してきた関係に過ぎなかった。
好意を抱いた光一郎や、剣の師と仰いだ源悟郎と違い、望んで作った関係性ではなかった。
恋敵であったこととは別に、姉弟子のことをただの「望月派の付属品」のようにしか考えておらず、交流に前向きではなかった気がする。
螢もまた、自分からグイグイ来るような性格ではなかった。
それらのせいで、同じ剣を学んでおきながら、二人の関係はどこか希薄だった。
「だから、これからわたし、あなたともっとお話をしないといけないと思った。あなたのことをもっと知って、わたしのことももっと知ってもらわないといけないって」
螢の指先が、エカテリーナの左頬にそっと触れる。先ほど打った頬に、ひんやりとした滑らかな感触。
「だからわたし……これからはあなたのことを「エカっぺ」って呼ぶから」
予想の斜め上なその発言に、エカテリーナはきょとんとした。
「
以前の自分だったら、まず許可しなかっただろう。
「エカっぺ」は、光一郎にしか呼ぶ事を許さなかった。それが彼との絆であると勝手に決めていたから。
……だけどそれは、その呼び方を考えた光一郎の意思にそぐわないものだ。
「エカっぺ」とは、証だ。自分がこの国をふわふわと
光一郎はそのために、ロシア的な愛称である「カチューシャ」とは呼ばず、日本的な「エカっぺ」という愛称を考えてくれたのだ。
であるならば、光一郎以外の人にそう呼ばせることに、いったい何の不都合があろうか。
まして、姉弟子である彼女に。
エカテリーナは、涙を堪えたような微笑を浮かべた。
「構いません。——
自分もまたそう新たに呼ぶことで、彼女のことを、単なる立場以上の意味で「姉弟子」と認められた気がした。
なおもこちらの左頬に触れる螢の指が、そっとひと撫でしてくる。螢はいつも通りの静かな、しかしどこか請うような語気で、問うてきた。
「——話して、くれる?」
エカテリーナは静かに平伏した。
——なんて、良いひと達に出会えたのだろうか。
ずっと周りから後ろ指を差されながら育った自分が。両親しか気を許せなかった自分が。
こんな、宝石みたいな出会いと、その「絆」を、本当に享受していいのだろうか。
……確かに、光一郎との恋は叶わない。ずっと一緒にはいられない。
だけど、それでも、流派という「絆」は残る。
残してくれると、今、言われたのだ。
その「絆」を、一度は兇刃で引き裂こうとした、こんな自分に。
涙が出そうになる。泣きたい。幼子みたいに大泣きしたくなる。
だけど堪えた。それは今すべきことではない。
その前に、兇刃を振るった愚か者としての責任を、果たさなければならない。
泣きたい気持ちを丹田まで思いっきり呑み込み、エカテリーナは顔を上げる。
偽り無き澄んだ意思が、表情に現れていた。
「分かりました——では、ご厚意に甘えて、お話しさせていただきます。今年の八月から、今日に至るまでに、この身に起こった出来事の全てを」
今回の連投はここまで。
また書き溜めてから連投いたします。
次回はようやく枢剣の正体が明かされる予定。
最終章の展開が大きく動き始めます。