【漫画化】帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
「どうしたのぉ? 飲まないのぉ?」
低めだが甘みの強い黒蜜みたいな声が、僕にそう促す。
「葛根」「甘草」「赤芍」「亀板」……いろんな漢字の張り紙がしてある正方形の引き出しばかりの
三角状に置かれた三つの
「い、いただきます」
お構いなく、と言いたかったが、随分と手の込んだお茶の準備をしていたため、軽々しくそう言うのも気が引けた。なので謹んで頂くことにする。御猪口みたいな小さな茶杯を口に持ってきて、香りを嗅いでから
「……美味しい」
「
向かい側に座る女性が口元を微笑ませながら、黒蜜めいた声で言った。
なんというか、美人であることは疑いようがないのだが、どこか濃密な
その物腰は一見柔らかだが、決して柔弱ではないと感じる。仮に僕が今テーブルに立てかけてある木刀を手に襲い掛かろうものなら、すぐに反応し、刃を掻い潜られて嵐のようにねじ伏せられる。そんな、侮れない感じがする。直感だが。
……僕より先に彼女と知り合ったエカっぺ曰く「綺麗な毒蛇みたいな人」。
「あ、ありがとうございます。えっと……
「そうよぉ。私が買桂芳で間違いないわぁ。
「や、やっぱり僕のこと、ご存知でしたか」
「もちろんよぉ。あんな可愛らしい子に好かれておきながら、別の女の尻を追いかけ回してる、罪な男の子でしょぉ?」
ちくり、と心を細い針で刺された気分になる僕。
「
「……それにしても、さっきは危ないところだったな、秋津くん」
買桂芳さんも自分の片頬を掌で触れながら、ちょっと困った顔で、
「さっきはごめんなさいねぇ。うちの人達がぁ。最近はピリピリしてていけないわぁ」
「あ、まぁ……怪我はしてないんで、大丈夫です。させはしちゃったけど……」
話の内容は、言うまでもなく
——僕は追いかけられている途中、輝秀と遭遇した。
これは僕にとって嬉しい偶然だった。まさか輝秀までここにいるとは思わなかったからだ。この男とも一度ゆっくり話をしたいと思っていた。
輝秀はこの中華街においても「趙凌霄」で通っていた。さらに言うと、この辺りでちょっとした有名人だった。……この街でも重要人物らしい、買桂芳さんの兄弟弟子として。
そういう身分であるためか、僕の追っ手にも顔は知られていて、その顔を見るやすぐに立ち止まった。
そこから先は簡単だった。「この子の友達が、俺の師姐(中国語で「姉弟子」という意味らしい)に命を救われたというのは本当のことだ。だからこの子は怪しい者じゃないよ。俺の名に賭ける」と輝秀が中国語で告げると(意味は後から尋ねた)、すごい剣幕で僕を追いかけ回していた男達が嘘みたいに大人しくなった。
のちに輝秀に案内されるまま、僕は裏通りに入り、そしてこの店に連れてこられた。漢方屋だった。表通りに軒を連ねる中華っぽい
入って早々出迎えてくれた買桂芳さんと自己紹介、挨拶を交わし……今に至る。
「あの、これ……よろしければ」
言いながら、僕はおずおずと紙袋を買桂芳さんに差し出した。
「あらありがとぉ、御丁寧にぃ。……あらあらあら、このお羊羹好きなのよねぇ。喜んで頂くわぁ」
紙袋を受け取った彼女は、中身を覗き込んでそう言ってくれた。良かった。気に入ってもらえたようだ。
言うべき時機と直感した僕は席を立ち、深く頭を下げ、誠心誠意告げた。
「この
——エカっぺが望月派に戻ってきたその日、彼女は「全て」を話してくれた。
自分を治すために行動してくれた二人の中国人のことも、その「全て」の中に含まれていた。
その二人のうち、直接治療をしてくれたのが、この買桂芳さんである。
言葉は返ってこない。
まるで、治した後のことを教えろと言わんばかりの沈黙。
そのように勝手に判断した僕は、言葉を続けた。
「あなたのお陰で、あの子の眼は見えるようになりました。ずっとぎこちなかった僕との関係にも……一応の決着をつけることができました。姉弟子とも、積極的に交流を持つようになりました。あなたには、どのように感謝を告げればいいのか……うまく言葉が見つかりません」
「いいのよぉ。あの子が元気にやってるなら、私はそれで満足よぉ」
買桂芳さんはそう言いながら、針金製スタンドの上に置かれた鉄瓶の把手を持ち、一番大きな茶器の
この蓋碗に葉っぱを入れて湯に浸し、少し待ってから
……手がかかるが、面白い飲み方だ。
そのようにして再び満たされた三つの茶杯。
僕はその一杯を手に取り、香りをひと吸いしてからゆっくり煽る。
青く深みのある後味。少ない量なのに、それ以上の満足感だった。
「……美味しいですね、中国のお茶って」
「これ以外にも美味しいお茶はたくさんあるわぁ。大陸のお茶は日本以上に多様性に溢れているものぉ。良かったらこの機会に始めてみなぁい?」
「考えてみます……」
気が緩んでいるのを自覚し、僕は気を引き締め直す。
それから、輝秀——いや、趙凌霄の方を見た。
「その……あんたも、ありがとう。感謝してる、本当に」
彼に向かって、さっきと同じように頭を下げた。
「俺は買師姐を連れてきただけだよ」
「
そうだ。
確かにエカっぺを治してくれたのは、買桂芳さんだ。
けど、彼女はどうやってエカっぺの家の場所を知った?
いや、そもそもどうやって、エカテリーナ・ルドルフォヴナ・伊藤という人物のことを知った?
答えは明白——それらを知っている人間に、案内されたからだ。
この
繋がりの無かったエカっぺと買桂芳さんを繋ぎ合わせてくれたのは、彼を置いて他に考えられなかった。
彼もまた、エカっぺを救った恩人の一人だ。だから買桂芳さんだけでなく、彼にも感謝を告げたかった。
過去に因縁があるとはいえ、そこは認めなければならない。だから僕は頭を下げることに抵抗は無い。
「それから……あんたがエカっぺの家に来たってことは、僕も、螢さんも、
輝秀は一瞬きょとんとしてから、「配慮に感謝する」と微笑んだ。
——今回の輝秀の行動には、もう一つ「工夫」がなされている。
それは、目が見えなかった頃のエカっぺの面前に、「趙凌霄」という
輝秀は嘉戸宗家の人間だ。
そして望月派と嘉戸宗家は、
そして、エカっぺもまた望月派だ。「嘉戸輝秀」として彼女の前に姿を現したら、戒められている「干渉」をすることを意味してしまう。
だからこそ——「趙凌霄」という別人として振る舞った。
「趙凌霄」なんて人間は、嘉戸宗家にはいない。
つまり「干渉」には当たらない。気兼ねなく、堂々とエカっぺを助けられる。
そして、目が見えなかった状態も手伝って、エカっぺの前で見事に別人としてやり通すことができた。
——「趙凌霄」の正体を知る僕と螢さんが、
「そうねぇ。
えっ、と僕は再び輝秀を凝視した。
輝秀は嘆息する。
「高くつきはしたけど、別に巨大な額でも無かったよ。ただ、次の中国行きのための旅費は綺麗さっぱり消えたけどね。その分、今日みたく買師姐に稽古をつけていただいているが」
……輝秀。
「どうして、そこまで……?」
輝秀は丸型サングラスを整えつつ、決まりが悪そうに答えた。
「……あの子にも、前に散々迷惑かけたからね。迷惑料とでも思ってくれたまえ」
その「迷惑」というのは、僕が中学一年生だった頃に「天狗男」として起こした事件だろう。僕をおびき寄せて叩きのめすための餌として、エカっぺを拉致したのだ。
あの時の事は今でも忘れないし、許せもしない。けれど、今の輝秀がその事に対して負い目を感じているという事からも目を逸らしてはいけないと思った。その負い目が無ければ、エカっぺが救われることも無かったのだから。
「……そっか」
だから、僕はあえて「ありがとう」とは言わず、承認のみを示した。輝秀もそれを望んでいると思ったから。
そこから僕は話題を変えた。一つ気になることがあったからだ。
「ところで、エカっぺの病気の事をどうやって知ったのさ? やっぱり
ここでいう「情報網」とは、嘉戸宗家のモノを指す。
すでに全国百万人を超える門下生を抱える最大流派、至剣流剣術。
その最大流派の宗家として君臨している嘉戸宗家は、全国に張り巡らされた流派のネットワークを利用して、様々な情報を手に入れることが出来るという。
その「情報網」を使えば、病院のカルテの中まで覗き見ることすら可能なのではないか——そのような意味を含んだ僕の問いに、しかし輝秀は首を横に振った。
「その通り、と言いたいところだが、違うんだ」
「じゃあどうやって?」
「ええっとだね……」
なんだろう。輝秀がひどく居心地が悪そうな顔をしている。そしてそんな輝秀を、なんかニヤけ顔で小突いている買桂芳さん。
ズレてもいない丸型サングラスをまた整えてから、輝秀は気が重そうな声で説明した。
「……その、秋津くんさ、あのロシア娘のいる病室に行った時、会わなかったかな?
「え……ああそういえば、佐田さんって人がエカっぺの症状について説明してくれてたよ」
あの人は女性だった。疲れた色気云々に関しては、当時エカっぺが倒れたと聞いて気が気でなかったので確かめる余裕が無かったけど。
輝秀の声が、さらに低くなる。自分のイタズラを渋々白状する子供みたいに。
「えっと…………俺ね、昔その佐田さんと、さ…………その……
「……あぁ、そういう……」
彼の発言の意味は、考察するまでもなかった。
「し、仕方ないじゃないか。結構好みだったし。向こうも医療従事者としての不摂生な日常でストレスが溜まってたみたいでさ、気がついたら仲良くなって……って感じで」
「うちの弟弟子は
輝秀は鉄瓶のお湯を蓋碗に注ぎながら、話を強引に軌道修正しにかかった。
「あぁこの話やめやめ。このままだと
「またなかよししたのぉ?」
「真面目に話を進めさせてもらっていいですかね師姐? ……二人で喫茶店に入ってさ、彼女がなんか落ち込んでたから理由を伺ってみたら、「治せないまま家に帰しちゃった女の子がいる」って。その子はロシア人の親御さんがいるっていうのも教えてくれたよ。流石に名前とかは伏せていたけど、ロシア人ってだけで素性を明かしたも同然だ。帝都東京、特に千代田あたりでロシア人はかなり目立つ。戦後間も無くて反露気風の強い今の帝都に住みたがる物好きなロシア人はひどく少数だ。そして患者の性別は女。ロシア人なのは父親の方。であれば、自然と身元は割れるってわけさ」
「それで、買桂芳さんを連れて、エカっぺの家に行ったの?」
「まぁ雑に言えばそうだ。……ちなみに半ば強引に家に押し入っちゃったから、あの子の母親から長刀を向けられたよ。もう少しで一撃入れて眠らせなきゃいけなくなるところだったが、あの子が俺達を信じてくれたお陰で穏便に治療に持ち込めたよ」
僕は再び驚いた。一歩間違えたら強盗扱いで事案になっていただろう。
「どうして……そこまで」
さっきと同じ質問を、もう一度してしまった。
費用とリスクを背負ってまで、どうしてエカっぺを治そうとしてくれたのか、と。
「——あのロシア娘の患ったという症状に、心当たりがあったからだ」