【漫画化】帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
「北方帰り」とは、日本においては英雄の称号だ。
十二年前、突如軍事侵攻を仕掛けてきたソ連軍。
侵略者から祖国を護るために銃を取り、戦い抜いて護国を成した英雄である。
銃後の臣民はそんな彼らに惜しみない称賛を与え、国も身命を賭した彼らのその後を手厚く保障した。
——今年で十五歳となる
まだ物心がついていなかったので、戦時中の経験や、戦争初期における国内の混乱や悲壮感を味わった実感がまだ無かった。
だからこそだろう。こんな事を言ったら国賊だのと言われてしまうかもしれないし、そも戦争に勝ったから言える事なのだろうが、自分にとって日ソ戦争はどこか他人事のようなものだった。
——修介の父は、その戦争から帰還した「北方帰り」だった。
しかし、父の優しかったり、立派だったりする姿を一度も見たことが無かった。
常に酒浸りだったり、酔いに任せて暴れてモノを壊したり、母に暴力を振るったりするロクデナシの姿ばかり見てきた。
母曰く「戦争が起こる前は優しかった」。
よくある話だという。
英雄たる「北方帰り」の中には、戦場における過剰なストレスのせいで、戦場へ行く前とは人間が変わってしまった者も少なくない。
アルコールや薬物に走ったり、怒りっぽくなったり、そうなってしまうそう。
どんなに国や在郷軍人会が援助をしようとも、そればかりはどうにもならなかった。
そういう事情は理解できる。
だが、恩給金までも酒に費やして枯渇させるような父のことを、修介は英雄視などできなかった。
母は身を挺して自分を父の暴力から守りつつ、酒浸りの父の代わりに働いて家計を支えた。
しかし限界は来るべくして来た。
ある日突然、父が蒸発したのだ。……自分達に黙って作っていた、莫大な借金を押し付けて。
あの愚かな父は、酒だけでなく、賭博にまで手を出していたのだ。横浜を根城にしている博徒系ヤクザ「
修介と母は、連日悪質な取り立てを受けた。「
母はそれでも一人息子を守ろうと必死に働いて借金を返していったが、生活費や家賃を削ればスズメの涙だった。
父の面倒を見てすり減った心身をさらにすり減らした。
このままでは母が壊れてしまう——そう思った修介は、どうにか大金を手にいれる方法は無いかと頭を捻った。しかし、中学三年になったばかりの修介には、盗みを働く以外の方法以外に大金を手にする方法が無かった。
そんな時だった。
『ある人物を殺してくれないか。もし殺してくれたら、大金をやる』
そう持ちかけた見知らぬ男は、前払いとしてポンと金を渡した。母がひと月で稼ぐ倍以上の金だった。
殺してくれたら、その数十倍もの報酬をくれてやると男は言った。
お前はまだ子供だから、捕まっても大した罪には問われないとも。
捕まろうが捕まるまいが、殺せればお前の家に報酬を送ることを約束すると。
「——誰を殺せばいい?」
気がつけば、修介はそのように口にしていた。
すると、一枚の写真を渡された。
隠し撮りしたらしいその写真に写っていたのは、女だった。
名を——
なんでも、中華街に住む漢方医で、同時に中華街における長老的存在の一人であるらしい。やや暗めの美女だが、実年齢は見た目を大きく超えるそう。
中国武術の達人でもあるらしく、決して侮ってかかれない女性。正攻法で殺すのは至難であるとのこと。
この女を殺せ。方法は任せる——それだけ言うと、その男は去っていった。
一人になった修介はその場で立ち尽くし、心中で
人殺しを引き受けてしまった——あの男がいなくなってから、そのことをようやく自覚した。
体の芯が冷たく震える感じがした。人の命を奪う。ロクでもない父のせいで貧困だった修介でも義務教育は受けていたため、その行為が社会において最も罪深き行為の一つであるということは知っていた。
自分は今、金のためにその禁忌を犯そうとしている。
そのことに、心の内を支配する倫理が否応無く躊躇いを覚えた。
だが、その躊躇いから抜け出せたのもまたすぐだった。
この誘いを断ったとて、その後どうなる? 終わりの見えない地獄の日々がまた続くだけだ。母も心身をすり減らしていき、そしていずれ限界が来るだろう。そして子供の自分は、それを今はまだ座視しているしかない。……あんなクソみたいな父親のせいで。
これは私利私欲の殺しではない。大切なモノを護るための戦いだ。
自分の手は確実に血で汚れる。しかし、この地獄から抜け出すことは出来る。母も助けられる。
人殺しで捕まったとしても、あの男の言う通り、少年犯罪であれば成人よりも刑は軽い。十年くらい獄につながれても、死刑にはならないだろう。
……問題はもう一つある。
買桂芳という女一人殺すのに、あそこまで金をかけないといけないのはどうしてだ?
人殺しの汚名と引き換えに? おそらくそれだけではない。高い金を出してまで背負わせるに足るリスクが、その女の暗殺には含まれているのでは?
武術の達人と聞いた。つまり、真っ向から刀で斬りかかっても、失敗して返り討ちにされかねない。修介の習武歴は学校の剣術授業以外に皆無。
ならば銃で撃つ? 無理だ。そもそも銃なんてどこで手に入る? 日本は銃器所持に厳格だ。持っているのは軍か警察かヤクザか。なら借りる? 無理だ。なら盗む? もっと危険だ。
爆弾は? そもそも作り方が分からない。
うまく殺す方法が思いつかず、途方に暮れていた修介の耳に、こんな情報が入って来た。
——
最近、帝都で急激に勢力を大きくしているという宗教団体。
「剣は大和の
神懸かりを経験したという開祖の刃で肌を斬られると、『
にわかに信じがたい話だが、信者の中には開祖に『枢剣』を授けられたその瞬間に使ってみせた者もいるようで、本当の事らしい。
さらにその『枢剣』をもらうのに、別に特別な資格や信用を持つ必要は全く無い。「枢剣教に入りたい」と言えばすぐにくれるそうだ。
おまけに入会費や上納金のようなものはほぼ無く、定期的な集会や
それらの話を信じるとするなら、まさにローリスクハイリターン。貰えるモノの凄さに比べて、敷居の低い団体である。
修介は、その枢剣教に入ることに決めた。
『枢剣』とやらを手に入れれば、買桂芳を殺すことが出来るかもしれないと思ったからだ。
まだ『枢剣』の存在には半信半疑ではあったものの、もう掴めるモノは
単身で帝都へ向かい、信者を探した。
枢剣教には国家主義者が多数入信しているという。彼らは現在、軍縮反対の抗議デモを活発に行なっている最中だ。
内堀通り付近で街宣している団体を捕まえて、その中から信者を一人見つけられた。
その信者の前で愛国精神に溢れた若者を演じてその日のうちに心を掴み、開祖に紹介してもらうまでに漕ぎつけられた。
後日、再び帝都へ赴き、枢剣教の支部へと入った。
そして、ようやく開祖と対面が叶った。
装い全てが白く、白い仮面で素顔を隠していることも相まってどこか浮世離れした雰囲気を持った女性だった。
さらに驚いたのは、声からして自分とそれほど歳が違っていない点だった。だが、そんな幼さすらも霞むような、神秘的な気配があった。まさしく神の使いのような。
枢剣教になど欠片も興味が無かった修介でさえ、恐縮を覚えた。
そんな修介に対し、開祖は剣を手に取り、それを鞘から抜いた拍子に振るった。その刃が頬を掠め、その熱をひりりと感じた瞬間には、修介の意識は闇に落ちていた。
——夢に見たのは、幼い日の一幕。
五才の頃のことだ。酒に酔った父が、カッとなった拍子にグラスを投げつけ、それが台所のシンクの角に当たって破砕。その輝く破片の一枚が飛んできて額に刺さり、血が出て、それが目に入った痛みで泣き出した思い出。……その時の傷跡は、今でも額にうっすら残っている。
そんな痛々しい夢から覚めたのは、後から訊いたところによると二分後だった。
覚醒と同時に、修介はすぐに感じた。うまく形容できないが、自分の体の中で新たな
頭に思い浮かぶ。……自分の中に生じた『枢剣』の名が。
その『枢剣』をどのように使うか、またどのような威力を秘めているのか……実際に試したことがないのに、それが何故か確信できた。まるで生まれ落ちたその瞬間から、手足の使い方も教わることなく四肢をばたつかせる赤子のように。
『枢剣』を目覚めさせた修介に対し、開祖は粛々と説いた。
その『枢剣』は与えたモノではなく、元から己の中にあったモノであること。
『枢剣』を閉ざしていた「蔵」の鍵を、自分の『
しかし、そのせいで外気にさらされた『枢剣』は、みだりに外気の中で振るうと「穢れ」を刀身に帯びること。
その「穢れ」は定期的に行によって払い落とさなければ、たちまち肉体をも蝕み殺してしまうこと——
(——どうでもいい)
こいつさえ……この『枢剣』さえあれば、買桂芳を殺せる。
しかも自分が殺したという証拠さえ残らない。
これさえあれば、たとえどんな達人だろうと暗殺できる。それができる力がある。
そして……母とともに、この借金地獄から抜け出すことができる。
『枢剣』を手に入れた今、すでに修介は枢剣教に対する興味を失っていた。開祖の説法を拝聴しているフリをして聴き流してから、横浜へ帰った。
翌日——修介は早速動き出した。
持ち物は短刀と、買桂芳の写真。それらを手に中華街へと向かう。
到着後は、短刀を目立たないよう隠し持ちながら、買桂芳の居所を聞き込もうと考えた。
——だが、その必要は無くなった。
公園の方がなんだか騒がしい。行ってみると、そこでは木刀を手にした少年と、己の背丈より長い棒を操る少女が試合を繰り広げていた。
衆人は二人の卓越した武技とそのやり取りに注目していたが、修介だけは別の方向を見ていた。
二人の勝負を、離れた場所の
勝負を終え、衆人を退けてどこかへ出ていく二人とすれ違う。衆人も公園への興味を失って散開しだす中、修介だけはその場に根を生やしたように立ち続けていた。
だが、買桂芳が四阿の席から立ち上がった瞬間、修介は慌ててそっぽを向いた。そのまま散開する人々の中に紛れつつ、買桂芳の様子をこっそり伺った。
気づかれにくい距離感を保ちながら、買桂芳の後を尾ける。
懐に隠した短刀の柄を握りながら、修介は
今すぐにでも殺しにかかりたいが、いかんせん人が多い。これでは自分の『枢剣』で買桂芳をうまく狙えない。
観光客の多い通りを抜けるまで、じっくりと機会を待つ必要がある。
そうして尾行を続けていた、その途中。
「——おまえ、さっきからなにしてる?」
片言の日本語とともに、肩を掴まれた。
気を張っていたため、思わず反射的に振り解いて、その見知らぬ男と顔を合わせた。日焼けした中年の顔には、
「おまえ買桂芳じっと見てた!
「買桂芳」という単語がでてきたこと、そして怒鳴り声に周囲の観光客が注目し始めたこと——ただでさえ気を張っていた修介を、それらの状況がさらに焦らせた。
考えも挟まず、懐の中で短刀の鞘を抜き、その剣尖を男の顔に向けた。
その名を心中で唱え、修介は『枢剣』を使った。
(——『