【漫画化】帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
騒ぎの渦中がどこであるのかはすぐに判った。
ただでさえ観光客で賑わっている中華街の中で、嫌なざわめき方のする方を進んでいけばいい。
そうすれば、ほら——顔面を押さえて倒れている人を発見。
知っている人らしく、
しかし安心はできない。すぐ近くに、もう三人ほど倒れていたからだ。
「ぎゃああああ!?」
かと思えば、人波の向こう側から絶叫が聞こえてきた。
昀昀さんの姿が消えた。かと思えば、大人の背丈以上の高さにまで跳躍しており、混み合った人々の肩を足場代わりにしながら軽やかに向こう側へと走っていった。
「ちょっ……!?」
その驚異的な身体能力に舌を巻きつつも、僕は昀昀さんを追いかけた。だけど彼女と違って人混みをかき分けて進まないといけないので、自ずと遅くなった。
ごめんなさいと繰り返しながら、懸命に人と人の間を縫って進む僕。だけどしばらく進むと急に人混みが薄くなり、全力疾走できるくらいにまで空間が広がった。……その空間には、またも人がまばらに倒れていた。
さらに、複数の怒声の重複と、新たな絶叫。
音源は、僕のすぐ先にあった。昀昀さんも立ち止まってそれを見つめていた。その隣に僕も立つ。
二十代くらいの若者から、四十代くらいの中年まで、さまざまな年代の男達が、各々の武器を手にして「誰か」を取り囲んでいた。
彼らの隙間から見えるその「誰か」は……短刀を握った一人の少年。見た目からして、僕と歳が近い。
そんな少年に、取り囲む男の一人が飛びかかる。振り上げられたその手にはなんと中華包丁。刃物である。
危ない——そう心の中で叫んだが、次に起こったのはそんな僕の予想を遥かに超える出来事だった。
「ぐぁぁぁぁ!?」
中華包丁の男が、突然右胸を押さえて叫び出したのである。
その男が倒れると、すぐに
さらに、残った男達も一人一人、次々と叫びで痛苦を訴えてしゃがみ込んだ。遮る人の壁がなくなったことで、両手にしっかりと短刀を握った少年の緊張の表情が見えた。
一瞬目が合う。まるで追い詰められた手負いの獣のような、ギラギラした目つきだった。
彼はすぐに背中を見せて走り出した。
「待ちなさい!」
昀昀さんがそれを追いかけた。
流石の俊足である。短刀の少年に追いつくどころか、その行く手へ瞬時に回り込んだ。
じりじりと歩を進めてくる昀昀さんに、少年は後退りしていた。たとえ女の子相手でも、その動きと気勢から格上と察したからだろう。しかし、いや、だからこそか、両手に握る短刀をいっそう強く握りしめていた。まるでそれが命綱であるかのごとく。
その短刀の剣尖が昀昀さんへ向くのと、昀昀さんが加速したのは、ほぼ同時であった。
弾丸のごとく少年へ突っ込んだ昀昀さんが……突如としてその体勢を崩して地面を転がった。少年がそれを避けたことで、昀昀さんはそのまま僕の足元近くまで達した。それをしゃがんで受け止める。
「っ、ぐぅっ……!」
昀昀さんは、お腹を強く押さえて表情を苦痛に歪めていた。そう……まるで刃物で腹を刺されたみたいに。
「昀昀さんっ!?」
強烈な危機感を覚えつつも、冷静に彼女の様子を確認する。着ている七分袖セーターの生地が歪むほどに握り押さえられた彼女の腹部からは、生地の色を侵す黒っぽい赤がじわじわと——広がっていない。
そう。昀昀さんは刺されてなどいなかったのだ。
ハッとなり、周囲で倒れてる男達にも素早く視線を走らせる。昀昀さんと同じように痛がってはいるものの……血は全く流れていない。
——
少年が再度駆け出す。
「待っ……!」
僕はそれを思わず追いかけようとするが、昀昀さんのことも気がかりであったため、駆け出すのを躊躇ってしまう。その間に、少年との距離が開いてしまう。
逃してしまう——そう考えた時だった。
「待ちなさぁい」
やんわりとした、しかしどこか有無を言わせぬ威厳を秘めた一声が、ざわめきの中に投じられた。
僕の視線が、自然と右へ吸い寄せられる。
人混みを割りながら悠然と歩み出てきたのは、やはり僕が予想していた通りの
「買、桂芳……!」
驚いたのは、その人物の名前が、短刀の少年の口から出てきたことだった。驚愕と、殺気の宿った声。
買桂芳さんは、ちっぽけな被食者を見つけた蛇みたいにニヤリと笑った。
「あらぁ。やっぱり私のことご存知なのねぇ。初っ端から語るに落ちるなんてお粗末な刺客だわぁ。少なくともプロではないようねぇ」
少年はギョッとした顔をするも、すぐに表情に殺意をみなぎらせ、それを込めるかのように彼女へ切っ尖を向けた。
明確な殺意と刃を己に向けられても、しかし買桂芳さんは変わらず余裕のある物腰で、
「そんなもの出してどうするのぉ?」
「——こうすんだよっ!!」
少年が、その手に握る短刀をさらに前へかざした。
……僕は今、二人の対面を真横から見れる位置にいた。なので、少年の短刀と、買桂芳さんとの距離が、すぐには詰められないほどにまで離れていることも視認できていた。
だというのに——買桂芳さんの表情が歪み、その場に片膝を付いた。
「
(どういうことだっ? 何もしてないのに、買桂芳さんが崩れ落ちた……?)
短刀は彼女の体にはいっさい触れていない。それなのに、痛みを感じている……
昀昀さんを確認する。先ほど彼女が押さえていた腹部には、いまだに血の赤色は少しも見当たらない。それどころか、セーターにも傷一つ無かった。
……買桂芳さんも、昀昀さんも、あの少年に剣尖を向けられた瞬間に苦しみだしている。
信じがたい話だが、これはもう断定する他無い。
あの少年の短刀には——剣尖を向けただけで、相手に苦痛を与える力が宿っている。
神通力として片付けてしまいたくなる謎の力。
その力をもたらす「剣」。
(まさか、あれって——)
「ぅ、ああああああ!!」
僕が心中で結論を下そうとした時、少年が裏返った絶叫を上げた。濃厚にみなぎらせた殺気を視線に込め、剣尖を通して、買桂芳さんへと真っ直ぐに向けている。
ビクッ! ビクンッ! 買桂芳さんはしきりに体を激しく震わせた。片膝だけでなく両膝も付き、やがて地面にうずくまる。なおも痙攣を繰り返す。
少年の剣尖は、ずっと買桂芳さんに向いていた。剣尖を通して彼女を凝視する眼は、飛び出んばかりに剥き出しでギラついており、歯を食いしばる口の端からは唾液が流れて滴り落ちていた。まるで狂犬を思わせる形相。
しばらくすると、少年は剣尖を真下へ垂らした。
今なお大きく剥かれた眼をうずくまる女性へ向けながら、浅く間隔の狭い呼吸を繰り返していた。
買桂芳さんも、体の痙攣を止めていた。だが微動だにもしなかった。膝も肘も頭も地面につけたまま動かないその様は、まるで魂を抜かれているかのようだった。
まさか、死——
「……んっふふふふふ…………」
頭の中に浮かんだ最悪の予想を裏切るように、買桂芳さんは体を震わせながら、すするような笑声をこぼし始めた。
「久しぶりだわぁ……こんなに痛いのはぁ…………
苦痛による軋みと、それでいてどこか嬉しそうな響きをもった声で言いながら、ゆっくりと体を起こしていく。
黒煙が昇るさまのように、その黒ずくめの身をゆらゆらと立ち上がらせた。
「……あは! あっはははは————!!」
興奮した毒蛇のような破顔。聞く者の心胆を震わせる狂喜の哄笑。
ひとしきり笑った後、彼女は嗜虐的な目を少年へ向け、口端を吊り上げた。
少年の表情に恐怖が浮かぶ。その足が一歩後退。剣尖は再び買桂芳さんへ向く。
再び彼女の体が大きく痙攣。しかし今度は体勢を崩すことはなかった。表情も変わらず嗜虐的な笑みのままだ。
「うふふふふ……痛いわぁ。すごく痛ぁい。
再びビクッと身を震わせる。
だが、彼女の笑みはさらに深みを増した。
「でもぉ…………
美味しそうな獲物をじっくり狙う、美しい白蛇の眼光。
「知ってるかしらぁ、お坊ちゃん? 痛みというのは、訓練すれば案外耐えられるものなのよぉ? 十六世紀から十八世紀にかけてのフランスの裁判記録によるとねぇ、水責めや関節破壊などの拷問を受けた人の九割近くが口を割らなかったらしいわぁ。三世紀のローマの法学者も、拷問を受けた多くの者が苦痛では屈しない精神の持ち主だった、という記録を残しているわねぇ」
まるで見えない二又舌に顔を舐められたように、短刀の少年が薄気味悪さを表情に表した。
「まして……
——この技。
「まず、教えてあげるわぁ。私を狙ってやってきた子供は——あなたで五人目よぉ」
買桂芳さんは、さらに追い込むように告げた。
「もしかしたらだけどぉ、あなたってぇ……「
少年がうろたえた様子を見せた。「な、なんでそれを……!」
「図星ねぇ。……「旭濱会」とぉ、この中華街はぁ、いま冷戦状態なのぉ。「旭濱会」の連中はずっとこの中華街には深く関わらないようにしていたけどぉ、連中の
彼女は深く微笑し、舐めるような目で少年を睨んだ。
「あなたぁ、たぶん中学生でしょぉ? 世間知らずで、騙されやすくて、おまけに犯罪を犯しても刑が軽い……悪い大人にとっては絶好のカモだわぁ。それに、殺される側も油断する。そんなふうに鉄砲玉に仕立てた子供に命じるのはぁ、私を含めた今の中華街の頭脳である五人の長老の暗殺。いわゆる斬首作戦みたいなものねぇ。それによって中華街の危機対応能力を減退させる腹積りだと思うわぁ」
「な、何言ってんだよ……意味わかんねぇよ……!」
「あぁかわいそぉにぃ。何も知らないのねぇ。まぁ「旭濱会」の連中もぉ、自分達の差し金である証拠は残さないようにしているから無理もないわねぇ。バレたら冷戦が熱戦になっちゃうものぉ。あなた自身もお金にずいぶん困っているようだろうからぁ、大金をチラつかされて目が曇ったのも仕方ないわぁ」
買桂芳さんの顔つきがスッと変わった。
嗜虐的な蛇めいた笑みから、
「中華街の長老としてじゃなくてぇ、一人の医者としてはっきり言うわぁ。——それ以上『
少年の表情の変化は劇的だった。まるで心の中を覗かれたような驚きよう。
——やっぱり『枢剣』。
「己の器に過ぎた力は身を滅ぼす……これは武術においても同じよぉ。手軽に手に入る絶技というのは、修行の年月以上の代償を要求されるわぁ。——分かるぅ? 触れずに相手を刺せるその『枢剣』はぁ、あなたの未熟な器には過ぎたシロモノよぉ。悪いことは言わないわぁ、その『枢剣』のことは綺麗さっぱり忘れてぇ、普通の子供に戻りなさぁい。あなたが今日ここでしでかしたことはぁ、全部忘れてあげるわぁ。死傷者もいないみたいだしぃ」
少年がうなだれて、静かになる。剣尖も降ろされて垂れる。
だが、垂れた短刀が、わなわなと震え出す。
「……何が、ただの子供に戻れ、だよ。『枢剣』を使うな、だよ。なにも知らないくせに……」
それは、怒りの震えだった。
「それができるなら——俺だってそうしてぇんだよっ!!」
憤怒の眼光が、剣尖とともに一直線に向いた。買桂芳さんへと。
それとともに、彼女へ向けて不可視の刺突が突き刺さったのだろう。彼女の体が小さく震える。
「——っふ。うふふふふ。あっはははは!」
しかし、彼女は
「なんだか痛くなくなってきたわぁ! むしろ気持ち良くなってきたかもぉ!!」
「ぐっ……くそっ! くそぉっ!! なんでだよぉ!? なんで俺の『枢剣』がっ……『
もはややけくそになって、不可視の刺突を続けている少年。
ソレが刺さる瞬間はこれまで買桂芳さんの痙攣でなんとなく分かっていたが、ついにその痙攣すらしなくなった。
「死ねっ!! さっさと死ねよ!! 死ねぇぇ——っ!!」
「あっはっ!! あははは!! あっははははは————!!」
……異様な光景だった。
かたや、獣のような殺意と怒りを見せて剣を向け続け。
かたや、それを向けられて愉快に高笑いしている。
やっていることや表情こそ違えど、どこか狂気的であることは共通していた。
すぐ目の前の出来事のはずなのに、随分と遠い場所から見ているような気さえした。
それほどまでに、僕という人間と、あの二人の世界における気風や考え方というのは、大きく
……だが、その狂気的なやりとりは、突如として終わりを迎えた。
きぃん、という金属音。
短刀が地面に落ちた音だ。
「——っ、ぐ、か」
その持ち主である少年は、両手で胸を押さえて天を仰いでいた。
「く、くる、し、い……な、なん、これ……」
口角の泡を膨らませ、飛び出んばかりに剥かれた眼球で何も無い場所を凝視しながら、焦った手つきで胸を掻きむしる。
両膝をガクンと地につけ、そのまま倒れ伏す。
「た、た……すけ、か、あさ…………ん……」
這いずってどこかへ行こうとばかりに、左手で地面を何度も引っ掻く。
引っ掻く手の動きはだんだんと遅くなっていき……やがて止まる。
彼自身も、ギョッと目玉をひん剥いた状態で、表情を固めていた。
その目と視線を合わせていた僕は、呼吸をすることを忘れそうなほど、心胆に怖気を覚えていた。その悪寒に凍てつかされたように、動くことができなかった。
隣の昀昀さんも、微動だにしなかった。
買桂芳さんは何事も無かったように歩きだし、少年のそばへしゃがみ、体のあちこちを触れていき——やがて、諦めたように目を深く閉じた。
「……だから、医者の言う事を聞かない人って嫌い。地獄のありかを教えたら、そこへ自ら突っ走るんだもの」
†
買桂芳さんの反応からでも分かった。
短刀の少年は死んでいた。
『枢剣』を使い続けた果てに。
のちに誰かの通報でかけつけた警官に、買桂芳さんは事情を尋ねられた。彼女は明らかに被害者なのだが、警官の目は疑惑に満ちていた。
僕も側から見ていた一人だったので証言しようと思ったが、後からやってきた
そうして僕と昀昀さんは、輝秀に警官の目の届かない脇道まで案内された。
「
輝秀は夕日で赤紫になりつつある空を指差しながら、昀昀さんにそんなことを勝手に告げた。まぁでも、確かにすでに夕空であり、この脇道も薄暗い。そろそろ電車に乗って帰った方が良いだろう。
昀昀さんは残念そうに唇を尖らせてから、どこか申し訳なさそうな笑みを浮かべて僕を見つめた。
「今日はとんでもない事になっちゃったけど……いつもは楽しくて賑やかな街なんだよ。だから、その……また今度、遊びに来てね? あと、その時はウチに食べに来てね?」
彼女のそんなお願いに、僕は「うん」と答えた。今のところ、再び中華街に来る予定は無いけれど、可能であれば是非ともまた来たいと思った。今度は純粋に、遊ぶために。……螢さんやエカっぺ、あとは
「あ、なんだったら私のほうから会いに行っちゃおうかな。
名案とばかりにそう言い出した昀昀さんに「彼の家は『
なに勝手に教えてるんだ、と抗議したくなったが、昀昀さんが「ふぅん、そっか! そうなんだ!」と嬉しそうに笑ったから、その気は失せてしまった。
「それじゃあ、
昀昀さんはそうウキウキした様子で手を振りながら走り去った。曲がり角に入るまでずっと僕の方を向き続けていて、僕もまたそんな彼女の姿が消えるまで見送った。
……なんだか、突風みたいな子だったな。
でも、悪い子では無かったし、会えるならまた是非会いたいと思った。
「君ってやつは、また女の子に懐かれちゃってるね。あのロシア娘といい、隅に置けないやつだよ」
別れの余韻に浸っていたところを、輝秀がニヤニヤしながら絡んでくる。
うざいと感じた僕の応じ方が、自然とぶっきらぼうになる。
「あんたにだけは言われたくないしっ。…………
勝手に「僕はもう帰る」などと口にしたのは、僕の予想が正しければ、昀昀さんを先に帰らせるためだ。
さらに、彼女に『秋津書肆』のことを教えたのも、会おうと思えば自分からいつでも会いに行ける、と思わせてここで別れやすくするためだろう。
そうして、僕と二人きりになるため。
二人でしかしにくい話をするため……
輝秀は近くの電柱に背を預け、丸型サングラスを持ち上げた。僕の知っている「
「君は見たんだろう? 『枢剣』を使い過ぎた少年が、
僕は頷く。昀昀さんとのやり取りで目を逸らしていた過去の光景を再び思い出し、気分が重くなった。
……いきなり苦しみだしたかと思えば、あっという間に息絶えてしまった少年。
僕と歳がそう違わないというのも、僕の心をさらに鬱々とさせた。
あれが『枢剣』を使い過ぎた者の、末路。
「——やはり、枢剣は危険だ」
輝秀は、今度こそ断言した。
「何の為にこんなもんをチラシみたいに配ってるのかは知らないが、これを放置していいとは思えない。このままだと、またあの少年のような犠牲者が出かねない」
「……嘉戸宗家の力で、どうにかできないの?」
「宗家も万能じゃない。出来ることといえば、せいぜい門下生に注意喚起をするくらいだ。まぁ至剣流門下は国内には百万人以上いるから、それなりに広めることはできるけど、それでも完全に入信者を無くす効果は期待できそうにない。
結局、その場ではロクな対策も浮かばなかった。
僕も空が暗くなってきたため、帰らざるを得なかった。
……後味の悪さを引きずりながら、僕は中華街から去ったのだった。