【漫画化】帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
二〇〇三年十月十一日、昼過ぎ——
中学三年生である今年は就職活動などに忙しい
行の日には、開祖が顔を見せる日とそうでない日が存在する。
枢剣教支部は、
開祖は一人しかいない。なのでその日に開祖が顔を出さない支部では、開祖から任ぜられた古参の信者が行の進行役をやるのである。
そして今日、開祖はこの台東支部に現れた。
引き眉の女性の顔を模った白い仮面、白い
その純白がさらに眩しく見えるほどの
大変失礼だが、敏志はあまり開祖には来てほしくなかった。
断じて嫌いなわけではなく、恐縮してしまうからだ。
その恐縮で体がギクシャクして、『呪振ノ行』の最中にそれを指摘し注意されたりすることを想像すると、なんか嫌なのだ。周囲が大人ばっかりで少々肩身が狭いので、なおのこと。
だが、訪れて早々に開祖が放った言葉は、極めて驚愕すべきものだった。
「今日は、皆様に凶報がございます。——先日、我らの若き同志、
「十月四日の午後、神奈川県横浜市の中華街にて複数人と乱闘し、その末に突然死されたそうです。外傷も無く、持病などもありませんでした。なのに突然苦しみだし、その場で息を引き取ったそうです。警察は急性の心臓麻痺という判断を下したようですが、気になって現地を訪れた神奈川在住の枢剣教信者が、そこに住む中国人の一人からこのように聞いたそうです。……『枢剣』という単語を口走っていたと」
最後の言葉のあたりから、事務的な説明口調に、どこか悔しげな響きが宿る。
さらにざわめきが増す。
「彼に『枢剣』を与えた者として、断言せざるを得ません。——彼は、荒谷さんは、その乱闘において『枢剣』を振りかざしたことで、命を落としたのです」
沸騰して泡立ち続ける熱湯のように、大きなざわつきが継続する。
……だが敏志は、そのざわつきの一声にはなれなかった。
あまりのショックに、声すら出なかった。
『枢剣』を使って死んだ。
この意味を、枢剣教信者である敏志は当然心得ている。
——石動開祖の振るう『
ゆえに、『枢剣』は振るうべき時にしか振るってはならぬと、石動開祖は常々信者達に説き続けてきた。
その「『枢剣』を使って死ぬ」というのが、とうとう現実のものとなったのだ。
正直に言うと、敏志は「剣」への信仰はしていても、『枢剣』の使いすぎで死ぬ、という注意に対してはこれまで半信半疑だった。だからこそ、今回の一件が衝撃的だった。
加えて、荒谷修介は敏志と歳が近いと聞く。そんな子供が、それも自分と同じ団体に属する身近な少年が死んだというのは、やはりそれなりに怖いものだ。……自分のような子供にも何かの間違いで死ぬ可能性が平等に与えられているのだ、という現実を無理やり突きつけられた気分になったから。
「正直に申しますと……私は『枢剣』を与える前の段階から、荒谷さんに対してどこか殺伐としたものを直感で覚えておりました。しかし、「剣」を尊崇しているという彼の言葉を信じ、私は『刀自剣』を振るいました。その結果が、今申し上げた通りです。…………私は、後悔を禁じ得ません。なにゆえ、己の直感を信じることができなかったのか。なにゆえ、前途ある若い命をこのような形で散らさなければならなかったのか…………私は、思い上がっていたのかもしれません。
白い引き眉の仮面から、申し訳なさそうな響きを持った言葉。
それを聞いた途端、敏志は急に不安になった。
己の信ずる人物が、まるで普通の少女みたいな弱気の声を漏らしただけで、こうまで心をかき乱されるものなのか。
他の信者も、先ほどまでのざわめきを一気に潜ませていた。まるで通夜のようだ。
……開祖と信者が、考え方や感情を一体化させている。
それはつまり、信者の感情が、開祖の振る舞い次第でどうとでも変わることを意味していた。
「——ですが、それでも私は、すでに受け取ってしまったのです。『刀自剣』と、それを振るって世を平らげるという使命を。ゆえに私は、たとえ人として失敗しようとも、反省はしたとして、足を止めるわけにはまいりません。今、この国は危機の
低まっていた石動開祖の声が、ハリと鋭さを取り戻していた。
敏志の気分も、不思議と持ち上がっていく。
「しかし、私の力だけでは足りません。このような未熟な私についてきて「剣」を取ってくださった、皆様のような志士がいなければ世は変えられません。私を見限り、ここで降りたいとおっしゃる方がいるならば、止めはしません。責めもいたしません。全ては私の不徳の致すところ。ですが、このような失敗を重ねてもなお私を見捨てず、ついて来ていただけるというのであれば、これほど心強いことはございません」
そこには完全に、いつもの静かな威厳のある「石動開祖」が立ち戻っていた。
いや、もしかすると、以前よりさらに立派に、荘厳となったような……己の間違いを認め、それでもなお前へ進む決意を見せたことで、より一層開祖としての在り方に磨きをかけたような。まさしく、研ぎを経た刀のように。
己の中に高揚感が生まれるのを実感しながら、敏志は奥に立つ聖女に視線を吸い寄せられる。闇の中から光の指す場所を見つめるような目。……他の信者も、そのように開祖へ眼差しを注いでいた。
最初に動き、言葉を発したのは、ずっとその聖女の隣に控えていた鴉天狗の仮面の男だった。
「——いかなることがあろうとも、自分は
その仮面の男、
「今回の荒谷の死、我々は悲しむと同時に、教訓として胸に刻むべきです。『枢剣』を己が欲のままに振りかざせば必ず身を滅ぼすこと、『枢剣』はやはり抜くべき時に抜かねばならないこと、そして……我々はもう、足を止めてはならぬこと。もしここでやめれば、荒谷に顔向けできませぬ」
彼はこの枢剣教の「最初の信者」であるという。それゆえか、枢剣教と開祖に対する尊崇は並並ならぬモノがあった。
彼はきっと、どれほどの拷問をされたとて、信仰を裏切らないだろう。
「吾妻……ありがとう…………貴方のような人に巡り会えて、私は幸せです」
石動開祖は慈しむようにそう言う。その声に涙が含まれてるのを、敏志は聞き逃さなかった。
全ての信者が、次々と両手を床に付き平伏していく。
あっという間に全員が、清廉なる開祖に対する尊崇に伏した。
敏志もまた、気がつけば同じようにしていた。
——自分の心の一部が自分のモノでなくなったような、不気味な違和感から目を背けながら。
†
「——ははっ。まったく能天気なことだぜ」
トーシャは椅子に身を投げるように座りながら、せせら笑いとともに吐き捨てた。
「ちょろい
現時刻は午後五時。
『呪振ノ行』の指導を終えたトーシャは、「吾妻」という仮面を脱ぎ捨てて別の人間へと姿を変え、クラヴディアの泊まる新宿のビジネスホテルの一室へと訪れていた。
……背中に達するほどの黒髪、四角いサングラス、ショートボックス髭、そして焦茶色のビジネススーツという装いの今のトーシャは、「韓国企業から日本へ出張中のビジネスマン」という設定である。
「……『枢剣』、だっけ? あれって、本当に使ったら死んじゃうの?」
ベッドに横たわっているクラヴディアが、やや眠たげな口調で訊いてきた。
ジャケットを脱いでワイシャツとタイトスカートだけになった彼女がごろりと振り返った拍子に、ワイシャツ越しでも判る豊満で形の良い胸部が柔和に潰れて強調される。タイトスカートから伸びるストッキングの美脚がぬらりと黒光りし、長いハニーブロンドの髪の間から憂いと潤いを帯びた瞳が覗いている。
寝そべる姿にさえ強い色香を備えたエキゾチックな美女に、トーシャは一笑して答える。
「必ず死ぬってわけじゃねぇ。死ぬのは
「ひどい人ねぇ。そんなモノを、さも神の加護であるかのように配って回るなんて」
「お前のロシアンバレエの腕前はプロ級だが、その実力はどうやって手に入れた? ある日突然降って湧いたモノか? 違うだろ。才能はあったのかもしれねぇが、そこに訓練を積み重ねて得た実力だろ。……剣術も同じさ。ただの凡夫がいきなり剣豪に飛躍できるような賢者の石は存在しねぇ。その真理を弁えず、神秘に目が眩んでる時点で、「剣」への信仰なんざ奴らには百年早ぇんだよ」
内なる
みだりに使うとその剣に外界の穢れがこびりつく?
その穢れがやがて使い手をも蝕み死に至る?
『呪振ノ行』を定期的に行えばその穢れを祓って清い状態を保てる?
——全部、何もかも嘘だ。
信者達を納得させ、無闇に『枢剣』を振るわせないための嘘だ。
『枢剣』は、枢剣教の信者連中が考えているような、神秘的なモノなどでは一切ない。
なぜなら『枢剣』とは、『
「『
「あぁ。奴に「石動マヤ」をやらせている時は『刀自剣』と呼ばせている。「人間の内にある蔵の鍵を開けて『枢剣』を解放する」という
……リュドミラが、至剣『麦の采配』を開眼させたのは去年の十月だ。
そこで育った『
そして——リュドミラの至剣の開眼によって、その投資は大きく身を結んだ。
「ヴェーレス、といったかしら? 家畜を増やしてくれたりする
「ああ。ロシアのキリスト教化とともに多くのスラブ神が川に捨てられたが、ヴェーレス信仰だけは近代までしぶとく残り続けた。昔の田舎じゃ「ヴェーレスの髪を縮らす」といって、農婦が畑に麦の一束を置いて豊穣を願ったんだ。——豊穣の願いが込められた麦の束。その形は軍を指揮する采配にも似ている。そこからいくつも生まれる家畜の群れ。どうだ?
揶揄の笑みを見せたトーシャに、クラヴディアは「やっぱりひどい人」と男好きする深い微笑を浮かべる。
「考えたものね。『麦の采配』を利用して、新しい宗教をでっち上げようだなんて。しかもそれが今や飛ぶ鳥を落とす勢いで大きくなってきているのだもの。人材豊富な『
「まぁ、偶然が味方した点も小さくないがな。バークリーの馬鹿がアメリカの
「でも、反米という火に油を注いだのは、貴方でしょう?」
トーシャはひと笑いするだけで答えない。この女は味方だが、数多くの男にベッドの上で情報を吐かせた優秀な工作員だ。だからだろうか、自らボロボロ語り尽くすのは少し
クラヴディアは赤薔薇のようなリップを不満げに尖らせると、話を元に戻した。
「その『麦の采配』に斬られれば、私も至剣っていうのを使えるようになるのかしら?」
「お前、ガキの頃に至剣流を習った経験は?」
「無いわ。そもそもソビエトでもロシアでも、至剣流はカルト扱いされて禁じられているじゃない。貴方みたいな「例外」を除いて」
「なら諦めな。なにせ『麦の采配』で至剣を得られるのは——
そして、それを満たせる人間は、日本国内に山ほどいる。
なぜなら日本人は皆、義務教育で至剣流を学んでいるからだ。
枢剣教は基本的に来る者拒まずだが、外国人は一人もいない。しかしそれは枢剣教が排外的団体だからではない。外国人に『麦の采配』は効かないからだ。
クラヴディアは脚の位置を変えながら続きを促す。
「だから日本で枢剣教なんて作ったわけね。でも、それだと『枢剣』の正体に気づく人も出てくるんじゃないかしら? だって、『枢剣』は本当は至剣で、至剣は至剣流を高めると習得できるわけでしょう?」
「だから至剣に対する「見る目」が備わってるんじゃないか……って言いたいんだろ? 心配いらねぇよ。だって、日本に伝わってる至剣流は不要な改変がされてて、至剣を体得できる人間がごくわずかになっちまってるからな」
学校教育や宗家認可道場で教えられている至剣流剣術は、トーシャの知ってる至剣流とは明らかに内容が異なる。
そして至剣流の伝承形態は通常の日本武芸とは異なり、免状授与や改変などの権利を宗家が掌握している家元制度だ。つまりこの改変が、至剣流宗家の嘉戸一族が行ったモノであることは火を見るよりも明らかである。
この愚かな改変が「至剣流は日本中に広まっているが、至剣の体得者が極めて少ない」といういびつな状況を生み出してしまった。
ゆえに日本人の至剣に対する見識も必然的に乏しい。
……だからこそ、
「ちびっとでも斬られれば至剣を得られる……そんな『麦の采配』は夢のような至剣に思えるかもしれねぇ。だが、
そう。それこそが『枢剣』という言葉に内包された、もう一つの真実。
トーシャは最初、『麦の采配』の内容をリュドミラから聞かされた時、疑問に思った。
……幼少期に至剣流を経験していれば、誰でも簡単に『至剣』を得られる力? それはあまりに都合が良すぎるのではないだろうか?
だからトーシャは「実験」をした。
急にいなくなっても身元をたどられにくい独り身の日本人を十人ほど拉致し、『麦の采配』を施して監禁。日本刀を持たせてひたすら『
衰弱死させるつもりは無かったので食事や飲料水も用意したが、その準備は無駄になった。
——開始から一時間ほど経つと、各々に変化が生じた。
実験体十人のうち、七人が急死。三人は気絶したのち、失明したりなどの障害を負った。……その生き残った三人も後で
その実験ではっきりした。
至剣というのは、練剣の裏付けの無い
練られていない剣と肉体で至剣を使えば、肉体的負荷は計り知れない。それを何回も使おうものなら、どうなるかは推して知るべし。
『麦の采配』は、ハッキリ言って味方の強化にはあまり向かない。
だが——ペテンには大いに使える。
使い過ぎれば死ぬか廃人、という致命的な欠点をもっともらしい神秘性で隠し飾り、その力を使って人々を惹きつけて勢力を拡大させる……その目論見は、見事に成功していた。
内務省に目をつけられつつあるが、それもまた目論見の成功の証左であるといえる。
「Xデイ」までの下準備は、着実に進んでいる。
そして今——次の段階へと進もうとしていえた。
「トーシャ……さっきから自分だけがこの計画を進めているような口ぶりだけれど、私もそれを手伝ってることを忘れていないかしら?」
クラヴディアの瞳が、拗ねたように半眼となった。
トーシャはそれを見聞きして、苦笑を見せた。
「分かってるって。お前が
言いながら、トーシャは傍らの机へと手を伸ばし、その「アレ」に触れる。
——机の上に置いてある、ジュラルミン製のアタッシュケース。
「お前が
ケースの表面をそっと指で撫でる。
すると、トーシャの手を、クラヴディアの白く細い手指が上から包み込む。
ひんやりした感触とともに片手を掴まれ、すぐ隣に来ていた彼女の頬を撫でさせられる。不満げな、何かねだるような眼差し。
親指で薔薇色の唇を撫でると、あぁ、と甘い吐息を漏らす。男を昂らせる仕草が自然なものとして身についており、慣れているはずのトーシャもわずかに調子を崩しそうになる。
「次は……なにをするつもりなの?」
だからだろうか、それとも隠す必要が無いからか、そんな彼女の囁きに対してトーシャは静かに告げた。
「まず手始めに——帝国の英雄、
†
時刻は夕方の五時を過ぎていた。
すき焼きを作ろうと思っていたが、家に卵が無かったことに気がついた
一時間ほど前に家を出た時はまだ結構明るかったのに、すでに外は薄暗くなっていた。だんだんと日が短くなってきているのが分かる。
手提げ袋に入った卵が割れぬように心がけながら、螢は薄暗い道を足早に進む。周囲の建物の窓からは、すでに灯りが漏れている。
やがて見慣れた木の門が見えた。望月家の門である。
門の片方を開けて入ろうとして……足が止まった。
「……
敷地内に建つ望月家の母屋は、暗かった。
もうこんなに暗いのに、灯りの一つも点いていない——
「——っ!」
頭に予想が浮かぶよりも先に
玄関を引き戸を開けて中へ入ろうとして、またも足が止まる。
暗くてよく見えずとも、螢にはそれが誰なのか一目で判った。
「————
今回の連投はここまで。
また書き溜め次第連投いたします。
最終章が大きく動き出します。