帝都初恋剣戟譚 作:新免ムニムニ斎
稽古場とは、俗世間からは隔絶された、神聖な修行の空間である。
戦国時代まで、剣の鍛錬は屋外で行うのが普通であった。
しかし江戸時代という泰平の世に入るとともに、鍛錬の場は屋内へと移った。
これは、雨天や雪の日であっても休まず鍛錬ができるという合理性を追求したためであるが、それだけが理由ではない。
江戸時代では、流派ごとにしっかりとした教伝体系が出来上がり、高度な技法や哲理を備える流派が増えた。それによって、剣術は単なる殺人術の枠組みを超えた、精神修養のための学問のような性質を帯びるようになっていった。
それに伴い、各剣術流派は教伝内容を門外不出の神聖なる秘伝として扱い、誰にも見られぬよう屋内で学ぶものであるという風潮が出来上がっていった。どこの稽古場でも窓が高い位置にあるのはそのためだ。
神聖なる秘伝の剣を教える場である稽古場もまた、神聖な場所だ。
望月家の敷地内にある、小さな稽古場もまた例外ではない。
十人しか満足に動き回れない程度の、町道場よりもさらに小さなウサギ小屋じみたこの稽古場も、稽古時はいつも厳粛な緊張感に包まれる。数百年の時を超えてなお、剣士にとって稽古場が神聖であることの証だ。
しかし今日——四月十四日日曜日、望月家の稽古場に満ちた緊張感は、ソレとは全く別種のものだった。
光源は、高い位置の窓より差し込む、晴れやかな朝日のみ。
他の戸も全て閉じ切っているので、稽古場はやや薄暗かった。
「…………すっごい、身長差ね」
稽古場の隅。僕の隣に立つエカっぺが、稽古場の中心で向かい合っている
僕も頷いて同意した。
手も足も届かないほどの遠間を作って向かい合う男女。
女の方は、目を奪われるくらいに美しい少女だった。
一流の職人が編んだ絹帯を思わせる、艶やかで長い黒髪。
人間離れした整い方をしていつつも、少女らしい愛らしさを残した、人形じみた美貌。
澄んだ深い泉を思わせる、真っ黒な瞳。
春物の桜色セーターとジーンズを身に纏ったその体つきは、男児にしては小柄な僕よりもさらに小柄で、かつ全体的に華奢。しかしか弱さは感じない。床から頭頂部をまっすぐ垂直に貫く強い軸を感じさせる。硬軟の鉄を併せ持った一振りの日本刀を思わせる佇まい。
——あぁ、いつ見ても綺麗だ。そして可愛い。
心音が少し早まるのを実感する。
彼女こそ、僕が恋して愛して慕ってやまないただ一人の女性。
出会ったのは昨年の八月。会ったその場で一目惚れし、勢いで告白したが、木刀の一撃とともに見事に振られてしまった。
というのも、彼女は「自分を武で打ち負かした者としか、交際も結婚もしない」というスタンスなのだ。
つまり、振られたというより、
彼女はなんと十一歳にして、望月派至剣流の奥伝目録を手にし、免許皆伝を果たした天才少女だ。
その剣腕はもはや義父であり師である望月源悟郎先生すらも凌ぐほどで、どんな剣術達者にも引けを取らない。
僕のように彼女の美貌に心を撃ち抜かれ、惚れ込んだ男を剣で叩きのめして振った回数はもはや両手足の指の合計に収まらず。
そして挑んで敗れた男は彼女の剣腕に対して己の非才を強烈に思い知り、二度と挑むことはなくなる。
しかし僕は諦めなかった。単純一途であることが僕の唯一の取り柄だ。だから彼女と同じ望月派至剣流に入門し、今日まで稽古を続けている。
まだまだ螢さんには及ばないものの、僕の剣の腕は着実に上がっている。これは自己認識ではなく、望月先生からの評価だ。
……とはいえ、僕が絶賛稽古中であったとしても、螢さんに言い寄る男がめっきり絶えるということはない。
螢さんのモテモテ無敵伝説は、今なお継続中だ。
そう——
僕は螢さんと向かい合う、もう一人の男へと目を向けた。
螢さんが幼子に思えるくらいの巨漢であった。
もみあげと顎髭が連結してライオンみたいになった髪に囲まれた、岩のようなかんばせ。本人は二十五歳と自称していたが、幾多の修羅場と苦労を重ねてきたように厳めしい顔つきのせいで、その実年齢より老けて見える。
首は小さな丸太並みに太くしっかりとしており、その下にある骨太な巨体と連結して乗っかっていた。巨体が纏うのは、国防色と呼ばれる深い緑色の稽古着。
その男と、螢さんの左手には、それぞれ竹刀が握られていた。
「——望月螢どの。本日は当方の勝手な用事に付き合っていただいただけでなく、このような良き試合の場まで提供していただいたこと、大変に頭が下がる」
男の太い声に、螢さんはかぶりを振り、鈴の音みたいに可憐な声で答えた。
「構いません。慣れています。
「やめてもらいたい。今の俺は、陸軍の尉官ではない。貴殿のその美貌、その剣技に一眼で心を奪われた、ただの恋する馬鹿者でしかないのだから」
——そう。つまりそういうことだ。
螢さんが買い物から帰ってきた時、玄関近くでこの首藤氏が待っていたのだ。己の竹刀を持参して。
用件は「一目惚れしたから立ち合ってくれ。もしも勝ったら伴侶として貴殿を迎えたい」である。
なんでも、以前に演武をした螢さんの姿に、一目惚れをしてしまったのだという。
無論、首藤氏も螢さんの噂は知っていた。だからこそ、まず立ち合いを求めてきたのだ。
螢さんはこの勝負に応じ、この望月家の稽古場を舞台にと案内した。
試合は竹刀にて行われる。これを決めてきたのは首藤氏だった。なんでも「我が剣は剛剣。伴侶になるかもしれない
立会人として選ばれたのは、
その香坂さんは、両者から少し離れて中間くらいの場所に立っていた。
重々しい沈黙が、稽古場を埋める。
しばらくして、香坂さんが口火を切った。
「——始めっ!!」
途端、両者はそれぞれの構えを取った。
螢さんは正眼に構え、
首藤氏は右肩に竹刀をもたれ掛けさせるような構え方をした。
しかし、そこから両者とも、前へ勢いよく飛び出すようなことはなかった。
螢さんは動かない。
首藤氏が動くが、その足捌きは、ひどくゆっくりだ。
それでも、着実に両者の間合いは近づいていた。
僕は、首藤氏の歩み方を見た。
まるで、仏像か山が歩いているようだった。
彼の巨体のせいでもあるが。
それ以上に、あの地面に吸い付くような足捌き。
全くブレを生じさせない四肢。移動中の頭の高さも幽霊のごとく一定。
「ンンンンンゥゥゥゥゥ…………!!」
かと思えば、重厚な、絞り出すような唸り声がその口から漏れ出した。
稽古場の床がビリビリと震え、それを踏む僕の足に波及してくる。
遠雷を思わせる発声と気合。
「あのねちっこい足運び…………なるほどな。
すでに僕の隣まで退いていた香坂さんが、そう確信めいた口調で言った。
僕はそれに反応する。
「直心影流って、あの……?」
「ああ。
香坂さんは、緊張の面持ちだった。
その表情が、僕を不安にさせる。
「……負けませんよね。螢さん」
「分からねえ。だがこれだけは言える。……お嬢にとってあの大男は、鼻歌歌いながら戦っていい相手じゃねぇって話だ。前に一度会ったことがある、直心影流の皆伝者と
さらに不安を覚える。
もし、螢さんが負けてしまったら?
もし、あの首藤氏が勝ってしまったら?
螢さんは首藤氏と——
その先は考えたくなかったので、逃避するようにかぶりを振った。
僕の内面の不安をよそに、両剣士の間合いはどんどん近づいていく。
首藤氏は山が滑るような動きで徐々に詰める。
螢さんはなおも正眼の構えから動かない。
やがて、両者の間合いが、重な——
「——ィイエエエエィィ!!」
——る直前に、首藤氏が勢いよく足を前へ出す。己の間合いに螢さんを急激に納めながら、竹刀を袈裟懸けに振り下ろした。
だが、その振り下ろした一太刀は、
「ぬっ…………!?」
首藤氏の唸り声。しかしそれは先ほどの気合ではなく、驚愕の唸り。
螢さんの切っ尖は、首藤氏の喉元で寸止めされていた。
竹刀は木刀よりも威力が低いが、それでもその突きには確かな殺傷力がある。螢さんが
すなわち、この勝負——螢さんの勝ちだ。
「んだと……?」
「今……何が起こったの……?」
しかし、香坂さんとエカっぺにとって、その勝利よりも、螢さんが
——なるほど、二人には視えなかったのか。
僕の得意分野は「
二人があの状態になる直前、僕は確かにこの目で見たのだ。
——袈裟懸けに振り下ろされた首藤氏の竹刀に、螢さんの竹刀の剣尖が衝突していたのを。
それが視えた次の瞬間には、首藤氏の竹刀は空を切り、螢さんの剣尖は相手の喉元を向いていた。
これの意味するところは一つしかない。
「……あれは『
至剣流の型の一つ。
相手が構えた、またはこちらへ放ってきた刀めがけて、己の切っ尖を向かわせる。
接触した際、己の刀の
一回の刺突に、防御と攻撃が備わった、高度な攻防一体の剣技。
至剣流の数ある型の中でも、最も実用が難しいとされている型。
螢さんが使ったのは、間違いなくその『浮船』だった。
首藤氏の一振りへ己の刺突をぶつけ、攻撃を逸らしながら喉元へ突きを送ったのだ。
自分より一回り以上も大きな巨漢、それも明らかな剣の手練に対し、そのような綱渡り的な勝ち方を、螢さんはしてみせたのだ。
問題は——
「……嘘だろおい。『浮船』って、
香坂さんが引き攣った笑みでそう述べた。
何度も言うが、『浮船』とは刀の反りを利用して相手の太刀を受け流し、流れそのままに刺突する技だ。
それは刀に反りがあるからこそ成り立つ技法。
しかし、
先端こそ円みを帯びてはいるものの、竹刀はまっすぐな形状だ。どう考えても、『浮船』を使うには向いていない形だ。
螢さんは『浮船』という高難度の技を、よりにもよって『浮船』に最も向いていない竹刀で用い、緊張感の強い真剣勝負で勝ってみせたのだ。
——なんという、神業。
首藤氏の武骨な手から、竹刀が滑り落ちる。
がちゃんっ、という竹刀の落下音は、無音の稽古場に、まるで落雷のように強く響いて聞こえた。