帝都初恋剣戟譚   作:新免ムニムニ斎

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弱いから強い

 峰子(みねこ)は愛用の木刀を片手にジャージ姿のまま玄関ドアを出ると、ひやりとした冷たい外気が首筋を撫でた。やはりまだ寒さがある。こんな中で座り込みなんかしていたら高確率で風邪を引いていただろう。やはり光一郎は馬鹿だ。

 

 勝負の場には、家に程近い小さな公園を選んだ。

 

 すでに日は沈みかけていて、子供達の姿も無い。

 

 公園の中の、遊具の無い開けた場所で、峰子と光一郎は向かい合った。茜色に染まった地面に二本の人影が差す。

 

 二人は己の木刀を、己の身体が熟知する構えで握った。

 

 峰子は「(いん)の構え」。

 右足を引いて耳元で剣を構えるのは至剣流の「(いん)の構え」と同じだが、鹿島新当流(かしましんとうりゅう)のは足幅が大きく、構えた剣も垂直ではなく後方へ少し倒れている。

 

 光一郎は、右足を引いて木刀を真後ろへ隠した「裏剣の構え」。

 ……あそこから発せられる技は『波濤(はとう)』か、あるいは『旋風(つむじ)』か。『法輪剣(ほうりんけん)』という線もある。

 

 そして相変わらず、構えから伝わってくる「重み」が強い。まるで光一郎の足元へ周囲の重みが吸い取られているような錯覚を覚える。

 

 早くも、弱気の虫が湧きそうになる。

 

 しかし、今だけは、その虫を踏み潰し、覚悟を決めた。

 

 峰子は少しずつ距離を詰めていき、己の剣の間合いに光一郎を捉えるやいなや、大きく素早く踏み込んで上段から斬りかかった。まずは小手調べだ。

 

 光一郎は左足を大きく後退させて身を後方へ逃し、峰子の一太刀から逃れた。同時に「正眼の構え」となった。……これも予想の範疇だ。「裏剣の構え」と「正眼の構え」は、足の進退に合わせて切り替えやすい。

 そして「正眼の構え」から、最も小さな動きで、かつ最速で発することの出来る技は限られている——突き技だ。

 

 案の定やってきた突きを、峰子は木刀で横へ受け流す。が、光一郎は素早く木刀を引き戻して「陰の構え」へ移る。『石火(せっか)』を打つ気だ。

 

 させない——峰子は鋭い運足で、光一郎の至近距離へ素早く詰めた。鍔迫り合いの状態に持ち込む。いくら強力な光一郎の『石火』でも、これほど密着してしまえば踏み込んで打つことはできなくなる。

 

 鍔迫り合いのまま、右へ左へ移動。

 

 そのやり取りが十秒以上続いてから、峰子は突如木刀から右手を離した。空いた手の目標は光一郎の片腕。その狙いは腕を絡みとっての制圧。師から鹿島新当流とともに教わった『帝国制定(ていこくせいてい)柔術(じゅうじゅつ)』の一手だ。

 

 しかし、峰子の右手は、空気を掴んだ。

 

 掴みかかるよりも速く、光一郎が後退して身を逃したからだ。「陰の構え」を取りながら。

 

 木刀を持った左手を前に出し、その峰に右手を添えた(なか)()りの構えへ素早く移行——瞬間、両手で構えられた木刀に、光一郎の『石火』が打ち込まれた。

 

「くっ……!」

 

 重く鋭い衝撃が、木刀から体の芯を貫いて地中へ流れる。

 

「女だからって組討が使えないと思うな——氷山(ひやま)部長に投げられた経験が生きたよ」

 

「しゃらくさい!」

 

 峰子は吐き捨てると、木刀を右斜め下へ傾け、接していた光一郎の剣を滑り落とす。その最中に両手で柄を握り、間髪入れずに縦に斬りかかった。

 

 光一郎もまた、己の剣を滑り落とされる流れとなった途端、縦回転の太刀筋を刻む『法輪剣』の型へ転じていた。後退しながら反時計回りに木刀を振り、一周回ってくる形で峰子の一太刀と衝突。かぁん! という快音が公園に響いた。

 

 峰子は立ち位置を横へ移動させ、同時に袈裟懸けに打ちかかる。

 光一郎はそれを円弧の太刀筋で柔らかく受け流し、そこからすかさず反撃の突きを放ったが、その突きは空を切った。……防御に使われた円弧の太刀筋の時点で『綿中針(めんちゅうしん)』を警戒していた峰子は、素早く腰を落として刺突から身を逃したのだ。小柄な背丈も手伝って回避に成功すると同時に真下を取った峰子は、手元の木刀で垂直に突き上げ、光一郎の顎を狙う。鹿島新当流『遠山(えんざん)』の応用だ。

 

「うわっと……!」

 

 しかし、紙一重で顎を引っ込められて避けられた。

 

 舌打ちしつつ、峰子は兎のように跳び退き、身を転がして距離を取った。あのまま足に抱きついてひっくり返す手もあったが、それは一瞬でも時間が長引けば打たれる隙を作ってしまう危険な賭けだ。構えを見た限りでは、光一郎の腰は見た目の華奢さに比べて重い(・・)

 

 即座に立ち上がり、「(しゃ)の構え」を取る。真半身(まはんみ)となって突き出した肘の後ろに刀の姿を隠す構え。

 

 遠間に立つ光一郎を見据えながら、峰子は生唾を吞み込んだ。

 

 ……やっぱり、強い。

 

 どれだけ迅速に攻め、反撃を試みようと、その場その場で最良の手を打ってくる。まるで入った容器に合わせてその形を抵抗無く変える水のように。

 

 それに——光一郎のあの目(・・・)

 

 峰子の事を、外見だけではなく、その奥底にあるモノまで見通そうとしてくるような、あの目。

 

 おぞましく、気持ちが悪い。

 

 あのまま見せ続けておくのは非常にマズイと、剣士としての直感が告げている。

 

 であれば、どうする?

 

 決まっている。今のうちに電光石火で連撃して、勝ちを得る。

 

 そしてそれは、鹿島新当流の得意技でもある。

 

 方針を決めた峰子は、一気に近づき、迅速に剣を発した。

 

 二人の斬り合いは、なおも続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——僕、秋津光一郎には、「影響の連鎖」を見抜く観察眼がある。

 

 

 

 模写を行うコツは、被写体の構造を把握することだ。

 よりリアルな模写をしたいのなら、より細かい点までその被写体の形を観察する必要がある。

 リアルな模写は、最初の線を描いた所からすでに始まっている。

 その最初の線は、最初に描くパーツの数分の一を意味し、同パーツの他部を描くための大きさの基準となる。

 そうして最初に描きあげたパーツは、被写体のその他のパーツを描く上での大きさの基準となる。

 被写体が人間で、かつ服を着ていた場合、その服に浮かんだシワや影の濃淡によって、服が内包している体の動き、細かいスタイルなどが分かる。……螢さんの稽古着の下にある、凹凸が控えめながらしなやかなスタイルと、そのスリーサイズも。

 

 一箇所は全箇所に(・・・・・・・・)影響を与えている(・・・・・・・・)

 

 僕はそれを「影響の連鎖」と呼んでいる。

 

 かつて模写にハマっていた僕は、その「影響の連鎖」を把握するのが得意だった。そういう「観察眼」があった。

 

 その「観察眼」は、剣術でも応用することができた。

 

 相手の動きを細かく観察することで、その人が持つ何気ない、ほんの微かな「体癖」を見つけ出し、その「体癖」の次に導き出される「次の動き」を逆算し、予知する。それによって、僕は必然的に相手よりもワンテンポ速い対応をすることが出来るようになる。

 

 「影響の連鎖」を把握する眼力。

 

 僕を幾度も助けてきた能力。

 

 昔取った杵柄(きねづか)がもたらした、僕だけの権能。

 

 しかし、この能力には欠点がある。

 

 それは——その人から読み取った「影響の連鎖」は、一日経ったら上書き(・・・・・・・・・)されてしまう(・・・・・・)ところだ。

 

 なので、一度見た人の動きは未来永劫手に取るように判る、という都合の良いことにはならない。一日経てば、また観察し直さなくてはいけない。

 

 これはおそらく、人間が生き物であるからだろう。

 生き物は、動きの細部まで計算され設計された機械とは違う。

 その身体活動は、自分の意思だけではなく、外側からの刺激によっても左右される。これからペーパーテストが始まる時に体が緊張してお腹が痛くなったり、そのテストが終わった途端に足取りが軽やかになったりなど。

 同じように、その人の身体に存在する「影響の連鎖」も、毎日更新され、変化するのではないだろうか。

 

 そう。人間は変わるのだ。

 一日経てば、もうその人は昨日とは違う、新しいその人だ。

 つまり、今戦っているのは、新しい卜部さん(・・・・・・・)

 

 以前の地稽古でやり合った時よりも、動きがやや硬い。

 ここ四日間近く、全く剣を振っていなかったからだろう。

 だけど、勢いはある。動きに躊躇(ちゅうちょ)が無い。

 いや違う。判断が早い(・・・・・)のだ。

 僕の構え方から次の狙いを数手予測し、その数手をかいくぐる最善の立ち位置や太刀筋をいち早く発揮し、必死で僕に喰らいついてくる。

 それは多分、一度僕の技を見ているから出来ることなのだろう。

 このままいけば彼女の剣は確実に僕に届いてしまう。

 剣術には四日近くのブランクがあるが、それを経験と判断の迅速さ、そして彼女の剣術が元々持っている「速さ」で埋め合わせ、かつそれ以上に高めている。

 

 人の強さは、一定ではない。

 強くもなれば、弱くもなる。

 明日の自分は、今日より強いかもしれない。逆もまたしかり。

 

 確かに、卜部さんは恐怖のあまり、腰を抜かしてしまったかもしれない。

 

 だけど、いつまでもそのままではないはずだ。

 

 新しい卜部さんに、なれるはずだ。

 

 そんな新しい卜部さんを、僕はよく()て、よく()て、よく()た。

 

 鋭く踏み込んで上段から斬りかかってくる所も、

 僕がそれを防いだら瞬時に位置をズラして返す刀を発してくる所も、

 それも下へ受け流しつつ後退すると、片手で振り上げた彼女の太刀筋が伸長してくる所も、

 彼女の剣を防いだ途端、その剣に吸い寄せられるようにして瞬時に身を進めて、体当たりをしかけてくる所も、

 吹っ飛んで転がってからしゃがんだ姿勢で止まった僕に、追い討ちの一太刀を浴びせようとしてくる所も——全部観た。

 

 かぁん! 卜部さんの剣を、しゃがんだまま防いだ。

 

 それから、僕は口にした。

 

「————掴んだ(・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「————掴んだ」

 

 しゃがみ込んだまま峰子の太刀を防いだ光一郎の、そんな呟き。

 

 聞いた事のある……いや、見た(・・)ことのある呟き。

 

 初めて剣で立ち合った時、光一郎は峰子から二本目を取る直前に、口を動かしたのだ。

 

 ——掴んだ、と。

 

「っ!!」

 

 峰子の胸騒ぎが頂点に達した。ほとんど本能的に体が動く。

 

 足を進めながら(・・・・・・・)木刀を引っ込める(・・・・・・・・)。剣の間合いは縮むが、引っ込めたと同時にその切っ尖は光一郎の眉間を向いていた。すなわち刺突。今の距離感で取れる最速の一手だ。

 

 ほぼ本能的に導き出されたその動きに、光一郎は反応してみせた。

 

 小首をかしげるだけで、峰子の突きを避けたのだ。

 

 その反応速度に驚きながらも、峰子は可能な限り迅速に後方へ飛び退く。間合いを稼ぐためだ。

 

 光一郎を見る。「正眼の構え」のまま、その場から動いていない。

 

 その剣尖の向こう側にある光一郎の瞳には——峰子の顔が不気味なほど鮮明に映っていた。

 

「——っ」

 

 また「あの眼」だ。

 

 自分という、卜部峰子という人間の姿だけでなく、存在そのものさえも丸裸にしたような、照魔鏡のごとき眼。

 

 その眼に映っているという事実だけで、全身が震えた。

 

 が、峰子の胸には恐怖と同時に、好奇心(・・・)も芽生えた。

 

 初めて剣を交えた時は、「あの眼」を見た途端に勝負がついてしまった。

 

 だけど今は、その先(・・・)を見れる。

 

 見てみたい。

 

 その思いが強くなった途端、峰子の心身から、余計な力と感情が消えた。

 

 今、この時において、剣を振るため以外の感情や力は不要。

 

 この手にある剣を、この身に刻み込まれたやり方で振るえばいい。

 

「っ!!」

 

 一息で五体の気を充足させ、峰子は動いた。

 

 まだ間合いに達していない遠間(とおま)の位置から、右下段より素早く逆袈裟に斬り込んだ。——間合いが足りないのは、両手で剣を振った場合(・・・・・・・・・・)だ。峰子は剣を振る直前、右手を離して左手一本(・・・・)で木刀を放った。片腕で振れば刃筋は安定しないが、その分リーチは伸びる。鹿島新当流『(おもて)ノ太刀(のたち)』にたびたび含まれる動きだ。

 

 急にリーチを伸ばした、峰子の奇襲の一太刀。

 

 しかし光一郎は、「正眼の構え」を少し右へズラしただけで、その一太刀を防いでみせた。

 

 最小限、最短、それゆえに最速の対応。

 峰子は早速舌を巻くが、すぐにその驚愕を消し、次の動きに移った。

 

 片手持ちのまま太刀の軌道を急変させて足を狙う——空振り。光一郎は足を上げていた。

 さらに木刀を両手持ちに移行しながら右足を前へ進め、踏み出すと同時に切っ尖を鋭く斜め上へ振り上げた——空振り。光一郎は峰子の右隣へ立ち位置を移動させていた。

 光一郎の木刀の延長線上から身を逃しつつ、袈裟懸けに太刀を発する——防がれた。体の向きを変えるのに付随して動いた光一郎の剣によって。 

 

 幾度も幾度も攻める。

 幾度も幾度も防がれる。

 

 どれだけ奇襲をかけようと、どれだけ剣速を上げようと、光一郎には通用しなかった。

 全て、最小限かつ最短かつ最速の太刀筋と動きによって阻まれる。

 その間、光一郎が峰子に太刀を浴びせることができた瞬間がいくつもあった。

 

 もはや疑う予知は無い。

 認めるより他無い。

 そう——今の光一郎には、峰子の次の動きが全て読めている。

 

 読めているから、どう動けば必要最小限なのかが分かる。

 必要最小限とは、最短。 

 最短は、最速。

 最速だから、間に合う。

 間に合うから、峰子の攻撃は絶対に当たらない。

 当たらないから、倒せない。

 

 

 

 倒せないから————勝てない(・・・・)

 

 

 

「……………………」

 

 峰子の心は、いたって冷静だった。

 

 冷静だったからこそ、己の必敗を悟ってしまった。

 

 両膝と両手が、自然と地に付いた。

 

 光一郎はもう、動こうとしなかった。

 

 峰子が自分の必敗を悟っているように、こいつもまた自分の必勝を悟っている。それゆえだ。

 

 戦意を失ったフリをして不意打ちしてくる可能性すら捨てているほど、光一郎は峰子のことを理解している。

 

「…………卜部さん、戻ってきてよ。僕らには、君が必要なんだ。天覧比剣を目指すために」

 

 光一郎の穏やかな声に、峰子は地に這いつくばった姿勢のままかぶりを振った。

 

「……無理よ。弱い私なんかがいたって、意味ないわよ。去年だって……葦野女学院(ヨシ女)の剣士に負けてるのよ、私。あなたが頑張ればいいじゃない…………あなたの方が、ずっと強いんだから」

 

「僕だって……別に強くなんかないよ。まだまだ弱いよ」

 

「嘘!」

 

 峰子は勢いよく顔を上げ、言葉少なに反駁(はんばく)した。

 

 だが、峰子が涙目で睨んだ先にある光一郎の顔は……照れた微笑だった。

 

「その……ね、前にも言ったと思うんだけど、僕さ、その…………好きな人がいるんだよね」

 

 いきなり何言ってんだこいつ。

 

「その人の名前…………望月螢(もちづきほたる)さんっていうんだ。聞いた事ない?」

 

 峰子は目を見開く。知っている名だ。

 

「……望月螢って、十一歳で至剣流を皆伝したっていう、天才少女のこと?」

 

「う、うん。僕ね……その螢さんのこと、好きなんだよね」

 

 望月螢の事が好き——その短い言葉が内包する濃密な意味を、峰子はすぐに察した。

 

 望月螢の強さは、全く接点の無い峰子でもよく知っている。

 峰子が実際に螢の剣を目にしたのは、過去の天覧比剣少年部の録画映像だ。

 彼女の所属していた『葦野(よしの)女学院(じょがくいん)清葦隊(せいいたい)』は、天覧比剣決勝戦で北海道代表『玄堀(くろほり)中学校撃剣部』に負けてしまった。

 しかし、望月螢個人の戦績は常勝無敗。その圧倒的な剣技は他の追随を一切許さなかった。峰子もそれを見て衝撃を受けた。女は、否、人はここまで強くなれるのか、と。

 そして、大層な美人である彼女は、よく男性から求愛求婚を受けるそう。しかし彼女は「自分を打ち負かした男としか結婚せず」という公言のもと、数多くの求婚者を剣での立ち合いで倒してきた。その中には有名な剣士も少なくない。

 

 光一郎は、そんな望月螢に惚れている。

 

「振り向いてもらうには、螢さんに勝たなきゃ駄目なんだ。でも、まだまだ全然敵わなくて…………だから、僕はまだ強くなんかないんだ」

 

 こいつは——望月螢に剣で勝とうとしているのだ。

 

 それがどれだけ茨の道であるのかは、考えずとも峰子には分かった。

 

(————そうか。だから、だ)

 

 ようやく理解できた。

 

 この人が、なぜこんなに強いのか。

 

 ——そう、彼は強くなんか(・・・・・・・)ないのだ(・・・・)

 

 彼にとって「強い」とは、望月螢に勝てるくらいになるということ。

 

 見据える頂が、果てしなく遠い。

 

 だから彼は、どれだけ強くても、驕ったり強がったりしないし、できないのだ。

 

 峰子はそれを「卑屈」と唾棄していたが、違った。

 

 それこそが、彼の強さの秘密なのだ。

 

 弱いからこそ(・・・・・・)強いのだ(・・・・)

 

 弱いから強くない、のではないのだ。

 

 弱さと強さは、両立する。

 

 ——同じだ。

 

 剣豪・塚原卜伝と血を同じくしていることを誇り、そして同じような強い剣士を目指さんとしていた、自分と。

 

 弱かったから、その境地を目指し、そして今の剣の腕を得た。

 

 自分は確かに光一郎には勝てなかった。日本刀で武装した通り魔相手に、恐怖のあまり腰を抜かしてしまった。

 

 けれど、それで積み重ねてきたモノが失われたわけではない。

 

 卜伝を誇り、目指したことで得た剣技は、今なお体に消えずに残っている。

 

 これは、卜伝を目指さなければ得られなかった財産だ。

 

 たとえ何度負けたとしても、峰子は確かに昔よりも強くなれている。

 

 それは、彼我(ひが)の比較ではない。今昔(こんじゃく)の自分の比較だ。

 

 弱いからこそ(・・・・・・)強くなれた(・・・・・)

 

 であれば、今の情けない状態からでも、また前へ進めるはずだ。

 

 あとは、峰子がどうしたいか(・・・・・・)、だけだ。

 

「卜部さんは弱くない。僕が保証する。だから……戻ってきて欲しい。僕と、部長と、他の部員と一緒に、天覧比剣を目指して——ううん、天覧比剣で優勝を目指そうよ(・・・・・・・・)

 

 光一郎のその言葉に、峰子は思わずポカンと口を開けた。

 

 優勝? 

 

 多くの人が「参加することに意義がある」と言うにとどめる、天覧比剣で。

 

 「優勝を目指す」と。

 

 峰子は「ふっ」と吹き出し、

 

「あっははははははははっ!!」

 

 次の瞬間には大笑していた。

 

 今度は光一郎がポカンとしているが、それに構わず笑い続ける。

 

「ふふっ、ふふふふふふっ………! ははははははっ……!!」

 

 笑いが止まらない。止められない。

 

 ——認めよう。自分は今、彼に完全に負けた(・・・・・・)

 

 あれだけ天覧比剣にこだわっていた自分ですら「天覧比剣に出場する」としか口にしたことがなかった。心のどこかで「出場するまでが限界だ」と線を引いていた。

 

 だが、この人は「優勝を目指す」とハッキリ口にした。

 

 たとえそれが身の丈に合わない大言壮語だったとしても、自分に言えなかったことを、言ったのだ。

 

 天覧比剣への本気度ですら、自分は負けたのだ。

 

 これはもう、笑うしかない。

 

 しかし、いつまでも笑ってばかりもいられない。

 

 彼がそこまで本気だというのなら、自分ももっと本気にならなければ。

 

 でなければ、自分は彼に負けっぱなしだ。

 

 ひとしきり笑い続けた後、峰子は挑戦的に微笑し、告げた。

 

「——そうね。私達(・・)は優勝を目指すのだもの。あなたは確かに強いけど、あなただけじゃ県予選までが関の山かもしれないわ。だから……仕方ないから、一緒に闘ってあげる」

 

 光一郎は目を数度しばたたかせてから、満面の笑みを浮かべて感謝を告げてきた。

 

「うん! ありがとう、卜部さんっ!」

 

 不思議だ。

 

 ちょっと前まで、彼のこういう能天気な顔が、ムカついて仕方がなかったのに。

 

 今は、腹が立たない。

 

 彼のああいう姿勢が、彼の強さを支えているのだと、気がついたからだろう。

 

 その気づきはきっと、彼と剣を交えなければ、分からなかっただろう。

 

 自分達には、長い友達というわけでも、恋人同士でもない。

 

 二人の間には、「剣の繋がり」しか無い。

 

 だから光一郎は、剣の勝負など持ちかけてきたのだ。

 

「——あ、そうだ!」

 

 光一郎は、何か思い出したようにそう発した。

 

 かと思えば、運動用ズボンの右ポケットを探り、小さな紙袋を取り出した。

 

「これ、卜部さんにあげるよ」

 

 光一郎はしゃがみ込んで、掌におさまるほどのその紙袋を峰子に差し出してきた。

 

「え、えっと……」

 

 困惑しながらも、峰子はソレを受け取った。

 

「……開けてもいいの?」

 

「うん。だって「あげる」だもん」

 

 了解を得た峰子は、紙袋の口に封をしているテープを取り、中身を取り出した。

 

「これって……!!」

 

 峰子は目を大きく見張る。

 

 出てきたのは——前に斬り割られてしまったのと同じ、髪飾りだったのだ。

 

 いや、よく見ると少し違う。大きなビーズの内側できらめくラメの色が微妙に異なる。

 

 それでも、彼があの髪飾りになるべく似たモノをわざわざ用意したのだということは理解できた。

 

「えっと……卜部さんが凹んでた理由は、あの髪飾りが割れちゃったからでもあるのかなって思って。なんか、すごく大事なモノっぽかったからさ。だからそっくりさんを探して買ったわけなんだけど…………」

 

 顔が熱くなってくる。動悸がしてくる。

 

「…………えっと、卜部さん? もしかして要らない? べ、別に無理して貰わなくたっていいんだよ? 嫌なら他の人にあげちゃうから——」

 

「…………いい」

 

「え?」

 

「いいって言ってるのよ! ……もらって、あげるわよ。あ…………ありがとう」

 

 峰子は、尻すぼんだ声でそう言った。

 

 胸が苦しい。

 顔が熱い。

 しかし不快ではない。心地良く、甘い苦しみ。

 

「つけてみてよ、卜部さん。いつもみたいに」

 

「う、うん……」

 

 言われるがままに、峰子はその髪留めで後ろ髪を一束にし、いつものポニーテールを作った。

 

 それを見て、光一郎は嬉しそうに微笑んだ。

 

「——ん。よく似合ってる。いつもの卜部さんが戻ってきた」

 

 心音が跳ねた。

 

 全身に宿る甘い熱が、一気に上昇するのを実感する。

 

 羞恥心も一気に上昇する。

 

 自分の顔は今、どうしようもないくらい真っ赤なはずだ。夕焼けのおかげでその紅潮ぶりがうまく判別できないのが幸いした。

 

 それでも峰子は猛烈に恥ずかしくなり、光一郎から体ごと顔を背けた。

 

「ど、どうしたの卜部さん?」

 

「しばらく顔見ないで。見たら舌噛んで死ぬから」

 

「ええっ、いきなり何ぃ? ……じゃあとりあえず、まだ残ってるお菓子食べる?」

 

「……もらう。全部頂戴」

 

「う、うん」

 

 光一郎が後ろから差し出してきたお菓子の紙袋をひったくり、おいしん棒ジンギスカン味を一袋破った。

 

 なおもおさまらない甘ったるい動悸を誤魔化すように、峰子はひたすら棒状スナックをサクサク食べ続けたのだった。

 

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