トレーナーウマ娘がミスターシービーを無敵にした話 作:幸い辛い
そして運命の日。
ミスターシービーの強権によって貸切られた東京レース場には、想像を上回る大勢の観客が集まっていた。
シービーが自分のトレーナーと最後のレースを行うという情報が瞬く間にトレセン学園中へと拡散し、見学を希望する関係者が押し掛けることになったのだ。人の噂に戸が立てられないとはまさにこのことを言うのだろう。
観客席の高い場所に陣取ったカツラギエースは、周囲を見回して笑い声を上げた。
「ははっ、すげぇなこりゃ。トレセン学園の生徒とトレーナー……おいおい、よく見りゃ地方の連中まで居るじゃねえか」
「あまりにも問い合わせが多かったから、カイチョーがシービーに見学者を入れてくれって頼んだんだってさ」
隣に座るトウカイテイオーがストローで吸っていたはちみーから口を離して答えた。ただの模擬レースのはずなのにドリンクを売る屋台まで出ているらしい。
「まさかシービーが許可出すとは思わなかったな。ボクはてっきり静かに2人だけでやるものだと思ってたよ」
テイオーは再びはちみーを吸い、喉を潤してから続けた。
「シービーってさ、ダスクのこと隠して独占したいって思ってるよね」
「そうだな、実際に隠してたわけだし」
あれだけ担当がトゥインクルシリーズで暴れまわったのに、世間にはトレーナーであるレディダスクの名前どころか性別すら情報が出ていない。
それはダスクが自身の存在を主張したがらない性格だというのもあったが、それ以上にシービーがトレーナーについて触れられることを極端に嫌がったというのが大きな要因だった。
エースがシービーにダスクのことを紹介して貰えたのは、エースの勝負に賭ける思いが奇跡的にシービーの琴線を揺さぶったからだ。
心をつくした言葉が届いたのだと思いたいところだが、時期に助けられたのも大きい。あのときのシービーは戦ってくれるライバルに飢えていたから、戦う意思を見せたエースのことが殊更に輝いて見えたのだろう。
もし普通に紹介してくれと頼んでも煙に巻かれていただろうなと、エースはダスクとの出会いを思い返すたびに思う。
「周りの評価なんて関係ない、アタシだけ本当の姿を知ってればいい……とかシービーは考えてるんじゃないかなってボクは思ったんだけど」
「あたしもそう思う」
テイオーの予想にエースは頷いた。自分も最初はシービーならこのレースを秘め事のまま終わらせてもおかしくはないと思っていたからだ。
だがシービーがこのレースを自分だけではなくダスクのためにもと思っていたとするなら、今日のこの場を作った目的が簡単に推し量れた。
エースは視線を遠い空に向けながらテイオーに己の考えを口にした。
「多分だけどさ、幻にしたくなかったんだよ」
「幻?」
「無敵のウマ娘であるミスターシービーを育てた最高のトレーナーにして最強のライバル……このレースはその存在を世界に刻み込む最後のチャンスだ」
「そっか……なら観客は多いほうがいいもんね」
「知ってほしいわけじゃない、でも名声を得ないままその他大勢として埋もれていく姿を見たいわけじゃない。そう思ってたところにルドルフから都合のいい話がきた。そういうことなんだろうな」
「うわー……なんていうか、その……面倒くさいね……」
「そういうウマ娘だよ、ミスターシービーってやつは」
世間からの評価はどうか知らないが、身近なエースに言わせればとびきり頑固で面倒な癖ウマ娘だ。
エースは苦笑しつつ、スマホを取り出して時間を確認する。
「……そろそろ入場だな」
「ボク、自分のレースより緊張してきたよ」
「奇遇だな、あたしもだ」
空気が重くなり2人して無言になる中、沈黙を嫌ったエースが呟いた。
「どうなんだろうな、我らがトレーナーさんの走りは」
数呼吸ほど時間を空けて、テイオーが静かに語り始める。
「バ場適正は芝、得意な距離はマイルから中距離、脚質は逃げ。単純な身体能力はこちらに分があるけど、技術はあっちが上。スタートとコーナーワークは神がかっていて、末脚はトウカイテイオーと同じかそれ以上」
「ダスクのことか?」
「うん、前にシービーが言ってた総評。エースはどう思う?」
「あいつが贔屓目のせいで走りのことを見誤るとは思わねえし、その通りなんだろうな」
テイオーが少し浮ついた様子で、決して答えの出ることのない疑問を口にした。
「……もしそんなウマ娘がいたとしたら、エースたちの世代はどうなってたんだろうね」
「そうだな……もしそんなウマ娘がいたら」
トゥインクルシリーズに“もしも”はないが、それでもエースたちは夢を語りたい気分だった。
「あいつはオークスに執着してたから、樫の冠は確実に取るだろ」
「……シニアになったらどうなるかな?」
「シービーと戦うことになってたはずだけどなあ……」
ダスクがトゥインクルシリーズに参戦したとするとトレーナーにはならなかったことになり、シービーはダスクから技術を受け継げなくなる。
だがこれはあくまで夢の話。シービーは無敵にまで上り詰めたと仮定して。
「通年してシービーとバチバチの勝負してたんじゃねえかな。長距離は流石にシービーのほうが強いだろうけど、短くなればダスクが有利だし」
「……ダスクが一緒だったらシービーはああならずに、ずっと走り続けてたのかな」
「まあ……2人とも引き際はわきまえてるから、適当なところで切り上げるだろうけど……もし走り続けたんだとしたら……」
「続けていたとしたら……?」
「2人が引退するよりトゥインクルシリーズが崩壊するほうが先だ」
シービーと同格がトゥインクルシリーズに居座るなんて、悪夢以外の何物でもない。
しかも現役を長く続けるためのトレーニングをしているせいで、その地獄は1年や2年じゃ終わらない。
「エースなら勝負になったんじゃないの?」
「あたしは長距離が微妙に適正じゃないからな……もし勝負するとしたら中距離だろうけど、逃げだとダスクと脚質が被るし厳しいと思う」
「でもエースって昔は先行もしてたんでしょ?」
「やればできるだろうけど、逃げ以外で走ってる自分がもう想像できねえよ」
「やっぱり沁みついてるね」
「ああ、芯に馴染むまで続けてきたからな」
そうこうしている間に入場が始まった。最初にターフへ足を踏み入れたのは無敵のウマ娘、ミスターシービーだ。
場内に歓声が上がると、シービーは観客席に視線を向けて穏やかに微笑んだ。さらに歓声が大きくなった。
盛り上がる場内の熱とは反対にテイオーが低く辟易とした声を上げた。
「うわぁ……最高に仕上がってるじゃん」
シービーは普段と変わらない様子だった。今から戦うとはとても思えない散歩に行くような軽い調子でターフに立っている。
緊張感がない、気が抜けている。一見するとそうだが、それが誤りであることを一部の上澄みの実力を持ったウマ娘たちだけは敏感に察知していた。
あれが臨戦態勢なのだ。自然体が最も強いからこそ、シービーは天衣無縫のウマ娘と謳われた。
「シービーのやつ、残ってた力を振り絞ったからな……アレと戦うとかダスクは大丈夫なのかよ」
競技人生が終わりを迎えようとしている中で、シービーは過去最高の状態をこの勝負に持ってきていた。ジャパンカップの時ですらここまでではなかった。
今のシービーを相手にしてダスクが勝負できるのかとエースが心配していると、テイオーが自信満々に胸を張った。
「それは絶対に大丈夫」
「……そういやテイオーはダスクに会ってきたんだっけか」
レースの準備に手が必要だということで、テイオーは先ほどまでダスクを手伝っていたらしい。
テイオーがエースに向かって不敵に笑った。
「凄かったよ」
「そんなにか?」
テイオーはそれ以上、何も言わなかった。
言葉が必要だと思わなかったのか、それとも見たほうが早いと思ったのか。
エースにはテイオーの内心がわからなかったが、答え合わせの時はすぐにやってきた。
「ほらエース、ダスクが出てくるよ」
エースはテイオーの言葉に釣られるようにして入場口を見た。そして息を呑んだ。
「なんだありゃ……」
その金髪のウマ娘が静かにターフへと脚を踏み入れると、シービーの登場の時とはうってかわって観客からは困惑の声が上がった。
あまりにも覇気がなく、とても無敵と謳われた相手に並べるとは思えない――だというのに不思議と目が離せない。
手を振ったわけでも、声を出したわけでも、なんなら表情すらないのに観客は皆そのウマ娘に釘付けになっていた。
「うーん、素材の良さもあるけど、ボクのコーディネートもバッチリだね」
「……そういや勝負服を用意したのはテイオーだったな」
ダスクは黄昏時の空のような紫色のドレスを身にまとっていた。このレースが決まってからテイオーが突貫で準備したらしい。
ジャージで走るなんてもったいない、この舞台には勝負服が相応しいと思ったからだとか。
「ダスクにデザイン聞いたら、なんでもいいとか言うからさ。ボクの趣味で作っちゃった」
「あたしはいいと思うぜ。だってシービーのやつを見てみろよ」
シービーはポーカーフェイスを保っているものの、その瞳の奥に秘める熱は一気に温度を上げていた。
テイオーが渇いた声をあげた。
「ボク、やりすぎちゃったかな……あんなシービー初めて見たよ」
「いや、折角の晴れ舞台なんだ。それくらいで丁度いいさ」
ダスクがゲートに向かい、その後ろをシービーが上機嫌に追いかけていくと、それに合わせるように金管楽器の音色がレース場に鳴り響く。
言うまでもなくファンファーレだった。ここまでくるとエースも呆れるしかない。
「あーあ、派手にやっちまって……誰が用意したんだよアレ」
「ボクは又聞きだから詳しくは知らないんだけど、誰も頼んでないのに勝手に学園の有志が集まったんだってさ。けっこう本格的だよね」
「もう一大イベントだなあ……よく見たら実況席まで……ん?」
エースはその光景を思わず二度見した。
「解説してんのルドルフじゃねえか。なにやってんだアイツ」
結構ノリノリだった。今回のレースについて上機嫌に語っている。
しかし生徒会長であるルドルフがあそこに収まっているとなると、このレースを裏で運営しているのは生徒会になるのだろうか、なんてことを考えていたのだが、すぐに違うと気がついた。
よく見るとルドルフの近くに理事長やその秘書まで紛れている。どう見ても学園側までグルだ。チーム内で模擬レースをするだけだったのに、どうしてこうなったのだろうか。
「えらいことになったな……」
エースが頬を引きつらせている間にも粛々と準備は行われ、仕上げに2人がゲートの中に入り、今から始まらんとするレースに観客のボルテージが最高潮に高まった瞬間だった。突如として場内が水を打ったように静まり返った。
無理もないことだった。なぜなら大気が震えたと錯覚するほどの強大な闘気がゲートの中から放たれているからだ。
レース場を占めていたお祭りのように浮ついた空気は完全に吹き飛んだ。これから始まるのがG1レースに匹敵する戦いなのだと誰もが理解させられた。
エースは用意していたビデオカメラを回し始めた。このレースを後世に伝えなければならないという使命感もあったが、それ以上に彼女たちの晴れ舞台を記録に残しておきたいという気持ちが大きかった。
「くるぞテイオー、見逃すなよ」
「エースこそ」
音を立ててゲートが開いた瞬間、2人はカタパルトで射出されたかのような神速のスタートを決めた。
そしてその瞬間を見ていたエースは、思わず口をぽかんと開けてしまった。
おかしなことが起きていた。シービーは間違いなく完璧なスタートをしたのに、ダスクはその1バ身先にいる。
テイオーが信じられないとばかりに声を上げた。
「トップスピードに乗るまでが異常に速い……!」
「……テイオーなら真似できるか、アレ」
「悔しいけどボクじゃまだ無理、かな」
目指すべきスタイルの完成形とも言えるスタートを見せつけられたテイオーから、興奮と同時に悔しさが滲んでいるのがわかる。
「きっと今のダスクはボクよりも体が柔らかいんだ。もしかすると筋肉や腱だけじゃなくて、骨格レベルで柔軟なのかもしれない」
最初の直線を流れるように2人が駆け抜けていく。あまりにも極まった走りだ。
エースはぐっとビデオカメラを構えなおす。
「最高速はシービーのほうが速いか?」
「うん、ジリジリ詰め寄ってる」
「で、問題はこっからだな……もうすぐコーナーだ」
エースが知っているダスクもコーナーが抜群に上手かったが、シービーいわく今はそれ以上であるらしい。
そしてその評は間違っていなかった。ダスクはあろうことか最高速を維持したままコーナーへ侵入すると、内ラチに沿う完璧なコーナリングを行った。
「ねえエース……ボクの見間違いかな、減速してなかったよね」
「……いや、減速はしてた。それがコーナーに入る一歩前だったせいで最高速のまま侵入したように見えただけだ」
エースは唸った。繰り出された技巧は見抜けても、悔しいことにその原理を理解できなかったからだ。
そしてそれはコーナーへの侵入だけではく、その先でも息をするように続いた。エースはもう感嘆する他なかった。
「完璧だな、理想的だ」
コーナーに描かれる完璧な軌跡。まさに異次元の走りだった。いっそ芸術と言っていい。
でも、とエースはダスクの後ろに目を向けた。
「シービーも負けてねえ」
「うん、ついていってる」
シービーの走りも絶技だった。力強く躍動するその走りはダスクに勝るとも劣らない。
互角の勝負を繰り広げる2人は、第2コーナーを抜けて向こう正面に入った。テイオーが何度目かわからない驚きを口にする。
「ダスクのコーナーからの立ち上がり、最高速まで一瞬だったね」
「見たところ最高速までは3歩ってとこか」
「……シービーは5歩くらい?」
「どっちにしろバケモンだ」
コーナーが終わった時点でシービーはダスクからリードを取られてしまったが、直線の速度はシービーが上だ。再びジリジリと追い上げている。
シービーはこのレースのためだけの調整を自身に施した。体を絞るだけではない。東京レース場、芝、2400メートルという条件に最適化したのだ。
今のシービーはマイルも長距離も走れないが、その代わりに究極の中距離適正を手に入れた。
技術だけはどうしてもダスクに及ばなかったが、仕上がった肉体から繰り出すシービーの走りもそれに匹敵する極みに到達している。
シービーは一瞬のために全てを燃やし尽くす花火のように、眩く美しい光を放っていた。
エースはビデオカメラに録音されないほど小さな声でボソリと呟いた。
「限界を超越したミスターシービー、か」
エースでは現役の間に今のシービーを引っ張り出すことはできなかった。あんなに必死な姿は見たことがない。
だが不思議なことに悔しさは感じなかった。それはおそらくエースにはシービーの強さの理由が理解できているからだ。
今のシービーと勝負できなかったのはエースの実力が足りなかったからではない。仮にエースがシービーを遥かに超える力を持っていたとしても不可能だっただろう。
なぜならシービーが走っている理由は、もっと単純で純粋なものだからだ。レースに挑むウマ娘ならば誰もが持っている大切なものだ。
「だって夢とレースしてるんだもんな」
そりゃそうだ。夢が目の前にいるのに、なりふりなんて構っていられるわけがない。全てをかけて追うのが当たり前だ。
この勝負がどういう結果になるのかはわからないが、その先にはシービーの望む美しいものが必ずあるのだとエースは確信していた。
東京レース場、芝、2400メートルの向こう正面で、ミスターシービーはレディダスクの後ろ1バ身の位置を疾走していた。
夢にまで見た、夢のような時間だ。現実であることが未だに信じられない夢の舞台。たった一度だけ訪れた奇跡のような瞬間。
けれど不思議なことに掛かったり緊張したりはしなかった。むしろ穏やかに凪いでいる。今だって冷静にダスクの背中を追えている。
うーん……こういうのを一周回るって言うのかな? まあ……このレースを楽しめるならなんでもいいや。
予定通り体力を温存しながら高速巡行ができている。ダスクが刻む正確無比なラップタイムのおかげで余計な消耗が抑えられたからだ。
さーて、ここまでは予定通りだけど、この理論値を突き詰めたタイムアタックみたいな走りをどうやって超えようか……やっぱり弱点は機能してないみたいだし。
ダスクには明確な弱点がある。それはトゥインクルシリーズでのレース経験がないということだ。
つまり本来なら本番には強くないのだが、ひとつだけその経験不足を補える条件があった。それが東京レース場の芝2400メートルでの逃げだ。
アタシは知ってる。ダスクがこの舞台をずっと夢に見てたことも、それが叶わなくなってからは悪夢に変わったことも。
だから彼女はこのコースの走り方を誰よりも知っている。息を入れる場所、直線の距離、坂の勾配、加速する位置、減速する位置、コーナーの始まり、コーナーの曲率、コーナーの終わり、果てはそこに至るまでの歩数まで。
もはや狂気と言っていいほどの熱を以てして、彼女は己が最速で駆け抜けるための理想の走りを実現させていた。
いやー、コレは思ってた以上だ……単純に速いのもあるけど、抜群に上手いや。坂は存在しないみたいに走るし、コーナリングなんてもう芸術だよ。
そしてそれらが氷山の一角であることをシービーは見抜いていた。ダスクの真の武器は、数多の技術を下支えしている強靭な体幹と研ぎ澄まされたバランス感覚だ。
加速するときも減速するときも、ターフの凹凸を踏んだ時でさえダスクの体はブレない。上半身だけ見るとまるで平に均された平地を滑走しているように錯覚してしまう。
ダスクは息をするようにそれを維持している。机上の空論であるはずの走りを実現している。
文字通り一歩間違えれば全てを破綻させる綱渡りだが、彼女がミスを犯すことはない。ゴールを超えるまで絶対にこの走りは崩れない。
ああ、綺麗だなあ……アタシの憧れが、憧れを超えて走ってる。
これが現実なのだから不思議だ。こんな夢みたいなこと、あり得ないのに。
ずっとこの時間が続けばいいのにって思うけど……そういうわけにはいかないか。
夢はいつか覚めるものだ。シービーたちが終着点に辿り着くのはあっという間だった。
第3コーナから第4コーナーへ、もう最終直線だ。
ああ、早いなあ……アタシたちの夢、もう終わっちゃうんだ。
けれどそれでいい。充分だなんて言えないし言うつもりもないが、いつかは前へ進まなければならない。
夢を見る時間はもう終わり。ここから先は夢を叶える時間だ。
さあ、最初で最後の決着をつけよう。
勝負だ、レディダスク。
最終コーナーを抜ける。最終直線が始まる。シービーはステップを踏み、最高速まで一息で加速した。
限界の先に存在している踏み入れてはならない禁域に突入し、さらに速度を上げる。夢のレースの舞台だからだろうか、練習の時の比ではないほどに脚が軽い。
地面が弾けるほど強くターフを蹴る。加速して、加速して、加速して。やがて視界が白く狭まりダスクしか見えなくなっていく。
錘を括りつけられたような脚の重さも、溺れるように苦しい呼吸も、握り潰されたような心臓の痛みも、全てが快感に変わって消失する。
今のアタシなら何処にでも、何処までも行ける。
だからシービーはさらにアクセルを踏む。スパートをかけた時点でブレーキなんて捨てた。
加速していくたびに研ぎ澄まされていく。どこまでも鋭く、真っすぐに。
最後に残ったのは、頬にあたる風、芝の匂い、躍動する脚、そして前を走る彼女の姿と息遣いだけだ。
ああ、そっか。これがアタシの欲しかった自由なんだ。
シービーは自分自身でも信じられないほど純粋に走っていた。全てから解放されて喜びだけを感じている。これを自由と言わずして何を自由と言うのか。
無我夢中で最終直線を駆け、ついに辿り着いたゴール直前の地点でシービーはダスクと横並びになった。つまり最後の一歩の勝負になれば、前に出る距離が短いシービーの負けだ。
ダスクの最後の一歩なら1.5バ身は伸びるだろう。だがシービーの最後の一歩は1バ身しか伸びない。そこには覆せない絶対の距離がある。
だからシービーはこの埋められない差を埋めるため咄嗟に、自分の最後の一歩では到底届かないであろう手前の地点からステップを踏んだ。
最後の、一歩!
前傾姿勢だった体が起き上がり、同時に1バ身前に出る。だがゴールまでもう1バ身足りない。
体が起き上がったことで一気に減速が始まる。このままでは届かない。
足りなかった最後の一歩、辿り着けない1バ身。けれどシービーはまだ諦めていない。むしろ勝負はここからだ。
もう、一歩!!!
一歩で足りないのであれば、もう一歩踏み出せばいい。
言葉にすれば当たり前で簡単なことだが、しかしそれは天地がひっくり返っても実現できないことだった。完全に減速した直後にトップスピードまで再加速するなんて不可能だからだ。
だがその一手をシービーは迷わず選択した。不可能だかなんだか知らないが、そんなことはもう関係ない。この世の法則が邪魔をするというなら捻じ曲げて壊せばいい。
不可能だとしても今から可能にする。ただそれだけのことだ。
やれるに決まっている。ミスターシービーは誰よりも自由で無敵だから。
ルールも、タブーも、ない!
気合いで無理やり体を前傾に戻しながら強引に足を前に踏み出す。理論も技術も何もない力任せで非常識な命令だったが、シービーの肉体は従順に応えてくれた。
ウマ娘という生物の構造的な限界を超えた挙動が始まり、体の奥で大切なものが軋む音が聞こえる。生存本能が警鐘を鳴らし、このまま続ければ無事にすまないとわかるが構わなかった。ここで全てをつぎ込まなければ一生後悔するからだ。
「――――、―――!」
シービーが言葉になりきらなかった声で吠えたと同時に、2度目の加速が始まった。
一歩目ほどではないが、それでも確かな加速となったもう一歩はシービーをさらに前へ押し出し、そしてゴール板を超えたと同時にその体を前方に吹き飛ばした。
ターフの上を何度も回転して倒れたシービーは、大の字で寝たまま喜色を満面にして小さな子供のように笑っていた。
「あは、あははははは!」
未だに息が整わないままのダスクが立っているのもやっとの状態でフラフラとやってきて、シービーの隣に身を投げ出した。
シービーがなんとかして首をそちらに向けると茜色の瞳と視線が合ったので、動かすのも億劫なほどに重くなった腕を持ち上げてピースサインを作る。
「アタシの、勝ち!」
「私の負け、だね」
ゴールの瞬間はほとんど記憶になかったが、勝敗の結果だけは理解していた。
ダスクが精魂尽き果てた様子でぼやいた。
「もうダメ、動けない」
「アタシも!」
シービーが大声で同意すると、ダスクは呆れた様子で小さく息を吐いた。
「あなた、実はまだ元気だったりする……?」
「まさか、もうくたくただよ」
流石に限界だ。シービー自身にも、どうして自分の口が回っているのか理解できていなかった。
「走ってる最中に頭の中が真っ白になってさ。そこからずっと感覚がなくて疲れた気がしないんだよね」
体はもう動かせないというのに不思議な話だ。
それがなんだか面白くて笑っていると、ダスクが優しげに目を細めた。
「……そっか、同じだね。私も真っ白になった」
「へぇ、ダスクはどんな感じだった?」
「風と、芝の匂いと、脚の動きと、あなたの息遣い。それだけ」
「ならそれもアタシの勝ちだね。だってアタシにはキミの後ろ姿も見えてたから」
「……私は逃げで、あなたは追込みでしょ?」
「それでも勝ちは勝ち!」
自分が感じたものをダスクと共有していたと思うと、体が動くなら飛び上がりたいほど嬉しかった。
「ところで……シービー、あなた最後に無茶したね」
「あはは……あの時はこうするしかないって思っちゃって、つい」
「あんなことして体は大丈夫なの?」
「体の感覚が少し戻ってきたからかな……あちこち洒落にならないくらい痛いけど、平気だと思う。ダスクが頑丈に鍛えてくれたおかげだよ、きっと」
「そう、ならいいの」
残り少なかったピークの時間がさらに減ったように思うが、黙っておこう。これが競技レベルで全力を出す最後の機会なのだから、後のことは関係ない。
シービーはこれから本格的に訪れるだろう全身の痛みに戦々恐々としつつ、絶対に聞いておかねばならない大切なことをダスクに尋ねた。
「ねえダスク」
「なに?」
「今日のレース、どうだった?」
「んー……」
ダスクは少しだけ遠い場所を見つめた。心に浮かんだ言葉を丁寧に選んでいるようだった。
何秒か経った末にシービーに視線を戻し、ゆっくりと言葉を零していく。
「生まれて初めて全力を出し切って……それで負けちゃって……悔しくて叫びたい気持ちでいっぱいだけど」
瞳から一筋の雨を降らせたダスクの表情は、見惚れるくらいに晴れやかだった。
「楽しかった! 最高の時間だった!」
「うん! アタシも最高の時間だった!」
示し合わせるようにして、天に届くような笑い声を同時に上げた。
ミスターシービーは黄昏に浮かぶ夕日を、ついに追い越した。
あってもいいし、なくてもいい話。
今度こそ終わりです。
お読みいただき、ありがとうございました。