「このままずっと、今まで通りの生活を送ることが出来たら、どれだけ幸せなんでしょうか」
「なにも、特別なことは何もいらないんです。ただ、組の皆がいて、毎日の暮らしがあって、それでよかったんです」
「私の暮らしていた世界は、それでよかったはずなんです」
半年前から交際を始めた彼女から、今日は話があると言われていたから、放課後に喫茶店で話を聞くことにしたまでは問題なかった。
そこからだった。彼女は飲み物を注文するや否や、堪え切れずにこんなことを宣った。
僕は悲しくなった。彼女はこんなに頭の悪い女だっただろうか、と。
「貴方は、貴方もそう思いますよね…貴方だって、私にしか話せないから、あんなことを、あの日私に話してくれたんですよね?」
彼女…鷲峰雪緒が、顔を寄せてそう言った。控えめに首から上だけで身を乗り出して。そんなことを言ったわけだ。
僕は泣きたくなった。僕たちはお互いにそれこそ、理解した上で交際に至ったと考えていたものだったから。
まさか、ここまで理解の足りない人だったとは…。
僕は何と答えたものかと考えて、当時のことを話すことにした。それで自分の発言について考える時間を彼女に持ってほしかった。
「えっと…君にしか話せなかったのは確かにそうだが、僕が言いたかったのは、同じ穴の狢同士で仲良くしよう位の話でね」
「は、はぁ…その話が、どうして今の話と関係が…」
突然昔話を始めた僕に彼女は呆けた表情を浮かべた。僕も同じ表情を浮かべたかった。
「…なんだ、改めて聞いて欲しくて」
「かまい、ませんが…」
「じゃあ、最初から」
話の内容はそれほど凝ったものではなかった。
実家の不動産業と関連した地上げか、女性関係の揉め事にヤクザが介入してきたので、結果的に代議士である父と彼らの間に関係性が生まれてしまったと言うだけの話だ。
ただそれだけの話だが、この話には続きがある。ヤクザの厄介なことは、恩の押し売りでお互いの関係性を無理やり進めるところなのだが、父は選挙の際に票取りの手伝いをしてもらったことにされたのである。
秘密選挙の原則って知ってる?と聞きたいくらいだが、彼らには関係のない話である。結果だけが残った。父は当選し、件のヤクザの関係者は全員が父に投票したと言っている。
これは正確には、有権者をシャブ漬けにして無理矢理投票させた分も含まれる、と彼らは父に仄めかしたらしい。
らしいと言うのは、父から直接そのことを聞かされたからだ。どういうわけか、僕と鷲峰組のご息女が同じ学校に通っているという偶然を、父は知っているようだった。誰から聞かされたのか、それは問題ではないだろう。
とはいえ、父は僕に何も求めず、僕もその話を聞いたところで何かをする気は起きなかった。父はそれでもいいと考え、僕も同じだった。
二代前から地方の土地持ちで、野心を沸かしてわざわざ田舎から都会に出てきた父の代で早速これである。早晩、どっちに転んでも寝覚めはよくない。
酷く客観的なことを言えば、僕も、そして彼女も。二人共に加害者でも被害者でもない。そうとしか言えないハズである。
父は正業で飯を食い、必死に稼いだ金を税金でぼったくられる有権者に対する加害者であり、ヤクザ連中からハメられた被害者である。対して、ヤクザ連中は有権者や政治家の怠慢によって生み出された社会構造から疎外された被害者の一形態と考えることも出来なくはないが、九割九分九厘で圧倒的に社会不適合者の加害者集団である。
さて、ではそれぞれの「家」に生まれた僕と君はどうなるのか。この結論は永遠に出ないようにも思えたが、飯を食わせて育てて貰っている以上は受益者であることだけは否定できなかった。
突き詰めて考えれば、僕も君も、家が無くなった時点で見做し感染者ならぬ、見做し加害者或いは見做し被害者である。実態がどんなものであれ、また僕と君の自覚自認が如何なるものであれ、結局はそうあることが誰にとって都合がいいのか、はたまた悪いのか次第である。
家を失った後で僕と君がどんな扱いを受けるのか、それは僕達にはどうしようもないことだと言える。ある意味で、この際に最も障害となるのは「普通」だった場合だろう。
普通に育てられてしまったが最後、僕と君にハッピーエンドはあり得ない。
父や、一部の極道者は、自分で選んだ道だったり、それしか選べなかった選択の結果だったり、或いは望まぬ形で隠し続けてきた秘密を清算する機会に恵まれて、多少の無念は残しつつも、清々しさえするだろう。どんな形であれ裁かれると言うことは、社会一般常識に置き換えれば禊になる。当人にとっても、他人にとっても。例えそれが仮初であっても、「俺は変わった」とか、「もう昔の俺じゃない」って他人に言い張る事が出来るのだから。
対して、檻の中にも入れられず、かと言って拾い上げられるわけもない僕と君は何処に行くのか。
加害者として、或いは被害者として。いずれの立場に立って戦うことすら許されない僕たちは、社会の目にどう映ると言うのか。
例えば、ここで僕が父と父の行為を批判すれば、君が自分の組と組の行為を批判すれば。最期、僕達には帰りたいと思っていた場所すら失うことになるだろう。それが建物であれ、人であれ。
社会の歓心を買わなければ生きていけない。でも、社会の歓心を買っても最期、生きていけない。
僕は反出生論者ではない。
けれども、予め悲惨な人生を歩むことが知れていれば、きっと父と母の元に生まれようとは思わなかっただろう。
………。
「あぁ、なんだ、そういうことだったのか」
僕は最初に感じた苛立ちと同じものを、自分自身に対しても感じていたことに気が付いた。
「どうしたんですか?」
雪緒が首を傾げていた。特にどっちからと言うでもなく、本当に一緒にいると言うだけだったな。よくこれで交際なんて言ってたもんだ。
「あの、顔に何かついてます?」
変わり映えのない、可もなく不可もない時間を浪費してきたが、真正面から彼女の顔を見たのは初めてだった。
「ああ、いや…ごめん、話してる内に気付いたことがあって、それで」
「どんなことに気付かれたんですか?」
「僕も君と同じだったなって」
「同じ、ですか?」
「そう。同じ」
畢竟、僕も、君も、なぁんにも考えちゃいなかったんだな。
きっと今の僕たちは、周囲に望まれたが最期、彼らに望まれたように転げ落ちていくことだろう。
そこに思考は無い。意見もない。希望もない。究極的に、僕達には段階的なキャリアも、階層的な進歩も、そんな将来を前提とした人生が存在しない。
なぜならば、身近な誰かの一挙手一投足で、それまで積み上げてきた全てが崩壊し得るリスクを常に抱えているのだから。
この地雷原を歩めるほど勇敢ではなかったんだ。
そう考えれば納得だ。道理で。
蜃気楼みたいに印象が薄いのも、掴みどころがないのも全部そう言うことならば、君がそうなら、多分僕も似たようなものだろう。
それらはすべて僕と君の将来に寄与し得ないのだから。血統による世襲でも、コネクションによるものでも、投げやりに放り込まれて終わるんだ。
自分が吐いたわけでも無いのに連帯責任として扱われるのが決まってる、そんな噓がバレるのを常にびくびく怯えながら生きるだなんて、そんなの馬鹿馬鹿しいじゃないか。
何時壊れるとも知れない、例え壊れても仕方がないと理解してしまっている、そんな普通のどこに安息があると言うのか。
ここにある。
だから困っているんだ。
そんな代物に安息を見出してしまった時点で、もう僕も君にもどこにも行く当てなどない。
三つ子の魂百までとはよく言うものだ。刷り込まれた愛着が僕と君を殺す。
だが…終わりが見え透いているのなら、最初から期待を用意しておかなければ、その結果に失望することもない。
無力だ。そうあろうとした。そうあろうとしている。きっと、それが一番楽だから。
終わりは来る。必ず来る。来なければならない。
だが…終わりを迎えるその時、自分がどう在るか。せめてそれだけは自分の望むままでありたい。
無力な自分は、その中でも最高の選択肢だった。
失望を最小限にするために、苦痛を最小限にするために。それが自分なりのせめてもの抵抗だと解釈すれば、案外、すんなりと喉のつかえがとれた。
人のことを言えないなと思った。いや、最初っから薄々知っちゃあいたんだけど、それとこれとは別問題なんだよな。
先がないことを知ってるだけで、そのことについて考えようとすらしてこなかった…いいや、考えないようにしてきたんだな。
…でも、考えても答えが出ない、っていう答えがとっくの昔に出てしまっているのに、それを僕にどうしろって言うんだろうか。
今のままじゃあ、裁かれたくても裁いてもらえない。僕も君も、善良なまま日の目を見ることはまず出来ないだろう。
となれば、自ずと選べる道は限られてくる。そして、この道に先は無い。
かなり飛び飛びの構成で続きます。文脈が尖ってて読み難いかもです。