お互いの視線がぶつかったのは、ほんの一瞬のことだった。
トナカイはあたしの顔を見るなり逃げ出した。ほんとはウサギじゃないのかという勢いで、人混みの中に紛れようとする。
「あっこら! 待ちなさい!」
即座に追いかけてあたしも跳んだ。離れかけた距離をワンステップで詰めて、横っ飛びに人と人との間を潜る。
トナカイの服は今日もトレードマークの赤いセーター。黒一色の群衆の中ではこれ以上無い目印だった。
それよりなにより、まさか本気で思っていたんだろうか。ウマ娘から――あたしから、脚で逃げ切ろうだなんて。
「どわっ!」
トナカイの逃避行は、時間にして僅か二秒程度で鎮圧に至る。その無駄に大きな図体にあたしは背後から飛び掛かり、力任せに床に引きずり倒した。
ここまでの助走と相まって、予想以上に威力になった。叩きつけられたトナカイが「ぐへっ」と情けない悲鳴を上げる。
「それみなさい! 下手な抵抗をするからこうなるのよ。さぁ観念して……ちょっとあんた?」
トナカイは床でうつ伏せになったまま、ぴくぴくとケイレンしているだけ。一向に返事が無い。試しに腕を突っついてみるも、起き上がろうとすらしない。
「なぁ……なんだあの男」 「なんか急に倒れて……」 「女の子に追われてたけど」 「まさかチカンだったんじゃ」 「とりまケーサツいっとく?」
周囲の人々が次第にざわめきだした。伏せたままのトナカイを指さして、口々に不穏な会話をしている。
このまま放置していたら、すごくヤバいということはあたしでも分かった。そもそもトナカイを追いかけたのは、もう一度きちんと話をするためだ。断じて病院やら牢屋に送るためじゃない。
さしあたりスマホを出して、時間を確認した。午後六時十分……。参加ステージの開始は七時だから、まだかなりの余裕がある。カワカミには後で連絡するとして、まずはこの場を切り抜けよう。
眠ったままのトナカイの身体に下から腕を差し入れて、肩に担ぎ上げる。トナカイの方があたしよりかなり大きいので、相当バランスの悪い態勢だが、筋力的には問題無い。
「お、おい君。いきなり何を」 「離れなよ。危ないって」 「この場合どっちが危ないんだ?」
「うっさい! 関係無いヤツは黙ってなさい」
あたしの一喝に、話しかけてきた人達はギョッとなって引き下がった。それをしり目に、地上への階段を目指して歩き出す。もちろん肩のトナカイと一緒に。
「ねぇお母さん、あれ何してるの? 女の子が……」 「しぃっ! 見ちゃいけません!」 「やっぱ通報した方が良くね?」 「状況どう説明すんだ。それもうイタズラ以外何物でもないんよ」
みんなの口さがない言葉が、プライドというか羞恥心をいたく刺激した。一分一秒でも早くこの空間から脱出したい。早歩きは走りに、そしてすぐに全力疾走まで加速した。
「んあ痛った……えなにこれ」
階段を駆け上っている最中、肩のトナカイが目覚めた気がしたが無論、脚は止めない。
解放してまた逃げられたら面倒だし、それにまだ人目が多い。幸い、駅口にはいくつか喫茶もある。せめて地下道から出るまでは、このままの方が良さそうだ。
「え? おわ! 何してんの君!?」
「すぐ隣で怒鳴らないで! あと口閉じてないと舌噛むわよ」
しかし分からず屋のトナカイはなおも抵抗を試みる。あまりにバタバタと煩わしいから、軽く脇腹をつねったら大人しくなった。
ようやく地上へと抜ける。繁華街の照明が眩しい夜空は極寒の世界。真冬の風に吹かれて、通行人はいそいそ足早に過ぎ去っていく。ここまで来ればもう大丈夫だろう。
「よいしょーっと!」
担いでいたトナカイを地面に降ろした。すると即座に身を起こし、あたしから逃れようとする――が、予想通り過ぎてアクビが出る。セーターの腰上付近を引っ掴まえてやった。もんどりうってその場に転げるトナカイ。
その拍子に服が捲れ上がって、素朴な色のシャツが覗いた。それもヒートテックですら無い、夏場に着るような簡素な生地の。まさかこいつ、セーターとこれしか着てない?
「なんなのあんた……」
「それはこっちのセリフだろ! いったいなにさ、後ろから飛び掛かってきて!」
「しょうがないでしょ、肩を掴まれたんだから。セートーボーエーよ」
「床に打ち倒した挙句に拉致は間違いなく過剰だよ!」
四の五のうるさいトナカイだが、やっぱり寒いのか喋る間に歯をガタガタしている。見るに見かねて、あたしはセーターの毛糸から手を離す。――と同時に、
「次、逃げようとしたらカエルにするわよ」と言い含めた。すぐ追いつけるとはいえ、あんまり繰り返されると面倒だ。時間も無いわけだし。
それでやっと観念したらしく、トナカイはついにその場にしゃがみ込んだ。
「分かった、降参だ。通報なり連行なり好きにしてくれ」
「最初からそう言えばいいのよ。で? なんであたしから逃げるわけ?」
「へ?」
鳩が(トナカイが?)豆鉄砲を食ったような顔をする彼。
「いやだって……僕はその……前、君に」
もごもごとした言い訳だが、理由はすぐに分かった。
駅のホームで、あの写真をあたしに見せた事……。それが尾を引いていると思い込んでいるようだ。
「バッカじゃない!? あんなのどうってことない、あたしは全っ然平気なんだから。だいたい悪いと思ってるなら、ちゃんと事情を説明するのが先でしょ」
「う……その通りだね」
図星だったようで、トナカイは気まずそうに俯いた。
その時、不意につむじ風が吹き抜けて、彼の肩をぶるりと大きく揺らした。
「まぁいいわ。ここじゃまともに話もできないし、とりあえずどっかの店に入るわよ」
トナカイは一も二も無く頷いた。
――――――
「パフェとあんみつとパンケーキ。あとホットチョコ」
「そ、そんなに頼むの? しかも甘いものばっかり」
「いいでしょ別に。あんたは?」
「僕は別にお腹空いてないし……。それにその、持ち合わせが」
反対側のソファのトナカイが、財布を開きながら言う。別に頼んだ訳じゃ無いのに、あたしの分を払おうとしているようだ。多少、彼のことを見直した。
「ありがと。……じゃあサンドイッチとコーヒーも追加で」
「えっ今の流れで追加注文する?」
「あんたの分よ。あたしだけ食べるってのも変じゃない」
「でも――」
「あーもう、うっさいわね。足りなかったらあたしが払うわよ」
「さすがに小学生からお金をタカるのはちょっと……」
「こーとーぶ! あたしもう来年には高等部! そんなにカエルへとランクアップしたいわけ!?」
「違うそれダウン!」
「あのお客様……? ご注文は以上なの?」
喫茶のバイト店員が困り顔を浮かべている。トナカイが申し訳無さげに頷くと、店員はそそくさと厨房に戻って行った。
「ふん! そもそもの話として、良い歳した大人なら、軽食代くらいぽんと出しなさいよ。情けないの!」
「今日も一段と手厳しいなぁ。しょうがないだろ、旅先で色々と入用なんだ」
そう言うトナカイの恰好は赤いセーターもそうだが、ボトムスも前に会った時と同じジーンズ。靴もそれ一足しか持っていないのか、汚れと傷が目立っている。金銭的に余裕が無いのは事実なのだろう。
「旅先って……あんた、わざわざ人探しのためだけに、この街まで来たわけ?」
「あ、うん」
トナカイは事も無げに肯定した。さらに話を聞いてみれば、彼が住んでいるのは九州の西側にある片田舎だと言う。
そこから遥々この街へ、単身で旅してきた。貯蓄はもちろんあったが、現在は収入源がないため、それを切り崩しながらの生活。「無駄遣いは極力避けたいんだ」、と運ばれてきたサンドイッチを頬張る。さも美味しそうに、一つ一つ噛みしめながら。
「ふーん、苦労してるのね。……それとこう見えてあたし、お小遣い割と貰ってるの」
若干の罪悪感が湧いて、運ばれてきた伝票を取ろうとしたら、それより先に奪われた。
「いいんだ。君に酷い事をしたのは事実だ。こんなんじゃお詫びにもならないだろうけど……」
トナカイのくせに、ジメっとした雰囲気を醸し出している。何とも言えない座りの悪さを感じて、あたしはホットチョコを口に流し込んだ。温い甘みが喉を伝い、少しは喋りやすくなる。
「ふ、ふん! 当たり前でしょ、もっと反省しなさい。だいいち、写真はまだしもその後の態度はなによ。あれだけやっておいて説明も無しに逃げ出すなんて、まるきり不審者じゃない」
「あれは君が帰れって言ったんじゃないか」
そういえばそうだった。頬が熱くなるのを肌に感じる。
パフェを三口分、掬ってからあたしは「それで!」と強引に仕切り直した。
「あたしの前にまた現れた以上、今度こそ聞かせてもらうから。なんであんたはあの女の子を探しているの?」
この問いかけに、トナカイは虚をつかれたようだった。しばらくじっと考えこんでから、おずおずと口を開く。
「君は……どうしてそんなことを確認したいんだ?」
「は!? 当たり前じゃない! だって…………ほら、気になるでしょ!? そんな貧乏生活を送ってまで、その人を探してるんだから」
無理やり押し通すと、トナカイはそれで納得してくれた。
彼は言葉を探すように、視線をやや上に向けながら話し出した。
「なぜって聞かれたら……いなくなったから、かな」
「分かり切ったこと言わないでよ。そもそもあんたはなんなの? 兄妹?」
「いいや家族じゃないんだ。あくまで友達……よりはもっと……けど親友も違うし……。昔馴染みとでも言えばいいのかな。今に限って言うなら、僕と彼女はそんな間柄だ」
「ふぅん。それで?」
「やけに食い付くなぁ……。家がすっごく近所にあったんだよ。歳も近かったから同じ時期に一緒の小学校に通って、中学もそうだった。こうなると自然と仲良くなってね、よくお互いの家で遊んだよ」
「なら普通に親友じゃない。悩む必要あった?」
「いや……それが違うんだ。そのままの生活が続いたなら、彼女とはもっと親密な関係になれたと僕も思う。でもね」
トナカイは視線をテーブルに落とした。その先にあるのは空になったコーヒーカップとサンドイッチの皿。パンから零れたパセリの欠片が、白い地表に侘しい一点を残している。
「そうはならなかった。彼女の両親は昔からずっと喧嘩ばかりでね……。僕達が中学の卒業を控えた頃、ついに離婚が決まったんだ」
聞いてみればありふれた話だった。昼下がりのテレビでよく流れているような、ドロッとした展開のホームドラマ。
離婚に至った直接の原因は父親の不倫。飲み会が長引いたと理由を付けて、女性の部下と夜な夜なホテルを巡っていた。それを母親の雇った探偵にばっちり写真に収められて、あえなくお縄に。
長年連れ添ったはずの夫婦は、たった二時間程度の離婚調停で破局を迎え、娘は母親に引き取られることになる。有責性が大いに認められた父親はいずこへと転出、それまで家族三人で暮らしてきた家はずいぶんと広くなった……が。
一年と経たないうちに母親が再婚した。
家に我が者顔で上がり込んできたのは、母親の大学時代からの知り合いだという男。二人はずいぶんと仲睦まじく、それは幸せそうに暮らしていたそうだ。まだ高校に入学したばかりの娘を放ったらかしにして。
「娘である彼女にしてみれば酷いなんてものじゃなかったと思うよ。父も母も再婚相手も、誰も彼女を顧みなかった。そりゃ互いに好きじゃなくなったら別れるのも仕方ないけど、子供がいるならもう少し責任感を持ってほしいね、全く」
柄にもなくトナカイは刺々しい口調で毒を吐いた。まさにその様子が、娘がその後にどうなったかを雄弁に物語っていた。駅のホームで見た、致命的なあの写真が脳裏に蘇る。
あたしの持っていたスプーンが揺れて、グラスに当たりカチャンと音を立てた。
「ごめん。君には全然関係無い話だよね」
「今更でしょ。というか、なんでそんなに詳しいわけ? リコンとかサイコンって、家族以外の人にはそう簡単に伝わらないんじゃ?」
その二つの単語はいざ口にしてみても現実感がまるで無かった。トナカイの言った通り、遠い異世界の話みたいだ。あたしにとっては、魔法のトロフィーの方がずっと分かりやすい。
「彼女が打ち明けてくれたんだ。これでも学生時代は本当に仲が良かったんだ。たぶん彼女にとっては唯一の信頼できる相手だった……っていうのは言い過ぎだろうけど」
「でしょうね。本当に信頼されてたなら、今こうして街を探し歩いてないわよ、きっと」
あたしの突っ込みに、トナカイは苦々しい顔で笑った。
「返す言葉も無いよ。かつての僕にも君のような勢いと知恵があったなら、こんな旅はしなくても良かった」
「笑わせないで。トナカイごときが魔女に憧れようだなんて、百年早いわ」
「そこまで言う!? ていうかまだ僕のことトナカイって呼ぶ気!?」
心底びっくりした顔をするトナカイ。そう言えば脳内では終始使っているから気付かなかったが、彼をトナカイと呼んだのはこれが今日、初めてだった。
「似合ってるんだからいいじゃない別に。それよりあんた、さっきから彼女、彼女って……付き合ってもないなら、ちゃんと名前で呼びなさいよ。なんかムカつく」
「え、ああごめん。そういや名前、まだ伝えてなかったね」
トナカイは少し間を置いてから、写真の女の子の名前を口にした。
「……なんて漢字?」
「え?」
「鈍い! 読みだけ伝えられたって分かんないでしょうが。人探しなら、ちゃんと字まで教えなさいよ」
トナカイは慌てた様子でスマホを取り出し、メモ帳にそれを入力して見せてくれた。
「
心臓がばくばく言ってる。もう勘違いじゃ済まされない。……いいやまだだ、苗字が残ってる。
そんなあたしの祈りも空しく、トナカイが次に打ったのは
「知らない名前」
ダメ押しとして、あたしは改めて呟いた。
「やっぱり見たことも、聞いたことも無いわね。けど……」
「けど?」
「その礼奈って女の子の捜索。あたし、ちょっとだけ手伝ってあげてもいいわ」
「本当かい!?」
トナカイはぐっとテーブルから身を乗り出した。皿が擦れ合って騒々しい音を鳴らす。
「ちょっとだけ、ほんの少しだけだからね! 街中でそんな感じの女の子を見かけたら、あんたに連絡してあげないこともないわ。……気が向いたら、だけど」
「それだけでも十分だよ! 本当に何の手掛かりも無くってさ。すごく助かるよ、ありがとう!」
それどころか、ぺこぺことあたしに向かって頭を下げだす。周囲のお客達から、一斉に視線が注がれるのを感じた。さっきの店員も胡乱な目つきでこちらを睨んでいる。
「バカ……! 落ち着きなさい。あたしまで変に思われるでしょ」
「ごごごめん。テンション上がって。いやだってさ、この街に来て初めて協力してくれる子に出会えたんだ、それもウマ娘の! これ以上ないくらいの幸運だよ」
「困ってる人を助けるのは魔女の務めだし。それにあんた、ウマ娘なんてこの街にはどこだっているでしょ。オーバー過ぎるのよ」
「え? そうかい?」
彼はきょろきょろと周りを見渡す素振りをして言った。
「どこにもウマ娘なんていなかったじゃないか。僕、この街に来て出会ったウマ娘は君が初めてだよ」
「はぁ? そんなわけないでしょ。あんたトレセン学園知らないの? どんだけアホなの」
「知ってるさ、中央トレーニングセンターのことだよね。けどほんとに見た事が――」
「嘘つかないでよ!」
あまりの鈍さにイライラしてきた。こいつ、オーダーを取った店員――アイネスフウジンも見てなかったって言う気? 節穴どころの騒ぎじゃない。
頭に来たあたしは、アイネスを目の前に呼び出してやろうとして……。そこでふっと壁に掛けてあった時計の針に気付いた。
「六時五十分!? やばっ!」
ステージ開始が七時ちょうど。それまでもう十分を切っている。こんなバカと話してる余裕はもう無い。
財布から千円札を二枚抜き出しテーブルに叩きつけ、しかるのちあたしは全力で駆けだした。会場は地下道に降りてすぐ、着替えの時間を含めてもまだぎりぎり間に合うはず。
二千円はかなり痛いけど……。やっぱりこのダメトナカイに借りを作りたくなかった。大丈夫、宝石箱セットを買う分は電子マネーで足りてる。
「もう行くのかい? あっそうだ、君の名前は!?」
「スイープトウショウ!」
店のドアを開きながら、怒りに任せて叫び返した。ほんっとうに田舎者、あたしの名前くらい調べたらすぐ出てくるのに。重賞だって勝った超有名ウマ娘よ?