口の中が気色悪い。
動かしても止めても、ねちゃねちゃモチモチとした違和感が離れない。味覚は遠い空の彼方へと消え、そもそも辛いとか甘いとかが何だったのかすら思い出せない。
それでもあたしは噛み続ける。その果てにあるはずの宝石を求め、勝利に焦がれては箸を握りしめる。
「替え玉~!」 「あいよっ!」
ファインの攻勢は衰えない。いっそ恐怖を覚えるまでに機械的な麺とスープの消費速度。
果たして彼女が何玉目で、あたしはどれだけ食べたのだったか?
一番大事なはずであるその情報すら、痺れつつある思考回路では覚束なかった。あの日の夕焼けと、使い魔のどうでも良さそうな言葉が壊れたおもちゃみたいにリピートしてる。
「替え……玉」 「あ、ああ」
落とし込まれる黄色い塊。これって元々はどういう料理だったっけ? なんであたしはこいつを噛みちぎって胃に送らなければいけないんだろう。二十玉目くらいまでは憶えていたような……ううん、三十までは確かに脳の片隅にあったんだ。
「スイープトウショウ、まだ粘る、粘り続ける! 現在、先頭を行くファインモーション様から二玉差を付けられたが、それでも諦めずに食べている! どうですか、タキオンさん。ここからの展開をどう読みます?」
「正直に言わせてもらうなら、かなり厳しいね。邪道食いを繰り出してなお、ファインに届くことは無かった。思うに、あれだけがスイープ君の渾身の秘策だったんだ。それが正面切って破られた今、逆転の目は無いに等しいと言える」
「ははあ。つまりファインモーション様の勝利は揺るぎないということですね! 殿下万歳!」 「殿下万歳!」 「こっちに目線下さい! ああスープに塗れた唇もお美しい」
右から入っては左に抜けていく信者達の歓声。もう誰が何を言っているのかも理解できない。近づいては遠ざかる茫洋とした音、視界もいつからか薄っすらぼやけてそのまま復帰の兆しは無い。確かなのはあたしが噛むべき黄色い塊と、コップに注がれた口をゆすぐための液体だけ。
しかし最後に残ったその感覚すら、今や失われんとしていた。
「ああっついにスイープトウショウの箸が止まりました。一向に動く気配が無い。もはやここまでか!?」
「残り時間は十分と少し。ふむ……どんな形であれ、彼女は立派に戦ったと思うよ。今はそれを称えようじゃないか」
「しかしファインモーション様のスピードは変わりません! いっそ無慈悲なまでに、次々と麺を平らげていく!」
頑張ったけど不可能、やっぱり初めから無理があった。ネガティブな感情だけが彩る思考の中で、しかし一筋の光が灯った。
そうよ……タキオンには一つ言い返さないと。あたしの秘策は決してこれだけじゃなかった。グランマの魔法さえ使えていれば……邪道食いに手を出す必要もなく、しかも絶対勝ててたのに。
しかし無い物ねだりをしてもしょうがない。あたしは藁に縋るような思いで、コップの水を飲みほした。
瞬間、虫か何かでも噛み潰したような苦味が口内に染みわたった。壮絶なえぐみが喉を伝って胃に落ちて、そこを中心に全身へと得も言われぬ感覚がスパークリング。思わず悲鳴を上げそうになり、寸前でどうにか持ち堪えた。
手にしていたコップをもう一度良く見る。一気に飲み干してしまったものの、底の方には僅かに液体が残っていた。その色は……濃い緑色。明らかに試合開始から注がれている飲料水じゃない。
じゃあいったいあたしが飲んだこれは何だったのか。……決まってる、グランマ直伝の薬草茶だ。いったいどんな原理かさっぱりだけど、淡水はひとりでに薬草茶へと形質変化したらしい。
しかしこれはまさしく天の助け。全身に染みわたった苦み成分が、あたしの動きを鈍らせていた疲労を一息に吹き飛ばす。澱のように積み重なっていた茹で麺の不毛な味わいも、激烈な苦味で綺麗さっぱり無くなった。
そして腹の底から湧いてくる、かつてと同じ勢いの食欲。もう一本だってすすれそうになかった麺が、ラーメンの具材として再度認識された。
「替え玉ぁ! スープも追加で!」 「あいよっ!」
オーダー通りにどんぶりへ注がれる麺と、たっぷりのスープ。混然一体に合わさって、それは香ばしいハーモニーを奏でる。ああ、ファインの言った通りだった。こんなに美味しそうなスープを、味わおうとしなかったあたしはとんだ愚か者だった。
「スイープトウショウ! ここに来て正攻法に切り替えた! 果たして勝算があるのでしょうか!?」
「ほう……! これはまだ分からなくなってきたね。実のところ、さしものファイン君もこの長期戦で若干、ペースが落ちてはいる。もしもスイープ君が爆発的な加速を見せたなら、あるいは一発逆転もあるかもしれない。なにせ彼女のレースにおける得意戦術は――」
追込。
ダンスの時は無理だったけど、このルールならそれができる。
見てなさい、ファイン。追い詰められたあたしの底力を。
―――――
「いったいどんな魔法を使ったのかな、スイープちゃん」
ファインは珍しく苦々しい顔で呟いた。
「まさかあの状況から分速一玉半まで辿り着き、それを最後まで維持し切るなんて」
「ふん……。魔法の秘奥は簡単には明かされないもの……よ」
十二時ジャスト、わんこラーメンは決着した。最終結果はファインが81玉、あたしが82玉。たった一玉の僅差だけど……間違いなくあたしの勝利だ。
「おお神よ……! なぜに私どもに苦難を与えたもうか。殿下が敗れることなどあってはならない災厄です」
「君達、ファンから狂信者に呼び名変えてもらった方がいいぞ」
店内後方で崩れ落ちる観客達。旨々亭の店長も同様の嘆き悲しみぶりで、頭を抱えてうずくまっている。
「ファイン。あんた、こいつらにいったい何したのよ。度を越してない?」
「え~? この店でラーメンをたくさんご馳走になっただけだよ? みんなラーメンが本当に好きだから、リアクションがオーバーになっちゃうんじゃ?」
そう答えるファインの斜め後ろで、また一人の青年がひざまずく。
「ファインモーション様の御代が終わりを告げた。俺は明日からどうやって生きてけばいいんだ……」
「うわぁ」
思わずドン引きしていると、解説席でふんぞり返っていたタキオンが走り寄って来た。
「なにはともあれ、お疲れ様。さぁ店主よ、ルビーの宝石を彼女に授与してくれたまえ」
「なんであんたが仕切ってんのよ」
「こっちから急かさないと、彼は立ち直りそうにないからね」
はたしてその通りだったようで、店長は棚を手掛かりにしながらのっそりと立った。カタツムリみたいな速度で戸棚を引き、やっとのことで紅玉の入ったケースを出す。振り向いた彼は男だてらにボロボロ泣いていた。
「うああ……ファインモーション様」
「きったな! 飲食店経営者としてどーなのよその顔!」
「一応言っておくけど、今のスイープ君も大概だからね。あとで鏡を見ることをおすすめするよ」
指摘されて初めて気付いた。散ったスープで、ほっぺも口元もぐしゃぐしゃになっている。ファインは全然そんなこと無いのに……これも経験の差? この場に使い魔がいなくて本当に良かった。いたら最悪、失神させる必要が出てくるとこだった。
「ええい、とにかくあたしの勝ちは勝ち! さっさと宝石を寄越しなさい!」
「分かったよ、持ってけドロボぅ」
非常に人聞きの悪い言い方をしながらも、店主はあたしにケースを差し出した。
「ありがと。これで魔法に一歩近づいたわ」
それを頂戴しようと手を伸ばした、その時。
「あん? 三太、てめぇ今日シフトじゃなくねぇか?」
「げっ!」
厨房内から、男の奇声が聞こえた。
「てか、その手に持ってるのなんだ? んな可愛いデザインのもん使ってたっけ?」
「い、いいやあのこれは違って……。先輩、お先に失礼しまっす!」
そんな会話があったかと思うと、出し抜けに一人の青年が飛び出してくる。……すっごく見覚えのあるその青年は、腕に何かを抱えているようだった。
「おい待てこら」
当然、挙動が怪し過ぎるそいつを店長が見逃すはずも無い。太い腕がにゅっと伸びて、彼の首根っこを掴んで止めた。「みぎゃっ!」と情けない悲鳴がして、彼は持っていた物を取り落としてしまう。
全面に張られているプリファイのキャラシール。見間違うはずも無い。それはさっき取り上げられたはずの、あたしの水筒だった。
「え……どゆこと?」
「あーこれ、スイープ君の水筒だね。ふむ……」
タキオンがいち早くそれを拾い上げた。流れるように蓋を開け、その中身を確認する。
「どうやら特別な薬草を調合して淹れた、いわゆる漢方茶が仕込まれているようだ。見ただけでは効用は不明だが、この勝負にわざわざ持ち込んだ以上、消化吸収を助ける物と見て間違いないだろう。しかし気になるのは、中身が半分ほどしか入ってないことだ」
思いもかけない展開に、誰も反応が追いつかない。タキオンはテーブルに向かうと、あたしがさっきの勝負で使っていたコップを手に取った。
「解説しながら実は気になってたんだが……。スイープ君が逆転する直前に呑んだコップ。少々緑がかってなかったかい? ちょうどこの漢方茶とそっくりな色にね」
ぎろり、とその場にいる全員の視線があたしに向く。
とりあえず両手を上げてホールドアップした。