――母親の再婚は『山藤礼奈』にとっての家庭を変えた。
離婚の時より徹底的に、容赦なく。少女がそれまで安穏と過ごしてきた生活を、根本からひっくり返した。
母親が連れてきた男――大学時代の友人を名乗る彼に、母親は異常なまでに執着していた。二人で出かける際は腕をがっちり絡ませてしなだれかかり、人目も気にせず路肩で口づけをする。
学生同士のカップルでも今時やらないような熱々ぶり。家の外でもこうなのだから、中の状態はもはや言及するまでもない。……ただ一点、具体的な例を挙げるなら、寝具のシーツの干される頻度が、再婚以前と比べて段違いに増した。
近所の主婦達は口々に噂し、いずことも知れない情報網を辿って、とある認識で合致した。
『あの奥さん、離婚前から男とできてたんですって』。『だから結局、親はどっちもずっと不倫してたってこと』。
もちろん根拠は無い。そのような証拠がもしあったなら、一家の離婚調停はもっと違う結末を迎えていただろう。
だが、そうでもなければ納得できないほど、母親の偏愛は酷かった。高級ブランドのコートを身に着け、ピンヒールをかつかつ鳴らす。頬を化粧で真っ白にした齢三十といくらの女は、とても高校生の娘を持つ者には見えなかった。
しかしその一方で、男側の熱が冷めるのは早かった。
初めのうちは母親の愛に沿うよう、肩を差し出し指輪を通し、公衆の往来で甘い言葉を囁いた。
だが、それもほんの数か月の間。熱心に話しかける母親だった女に、素っ気ない返事をする姿を、町内中の主婦が目撃している。反対に、強い口調で女を叱責することは多々あって、再婚した夫婦の関係が、悪化の一途を辿っているのは傍目にも明らかだった。
夫婦仲の変遷とは裏腹に、男の金遣いは荒くなるばかりだった。スーツを買い、時計を揃え、新車を置くために家をリフォーム。
いったいどこからそんなに金が湧きだすのか。疑問の答えは至極簡単だった。元夫から支払われた損害賠償金……。娘の養育費まで含めれば、その額は欲望を満たすにさぞ十分だったことだろう。
口さがない主婦の一人は言った。
『再婚したのは初めからそれが目的だったんじゃ?』 『真っ当に稼ぐより、よっぽど実入りが良いし楽でしょ』
その予想は大半が当たっていた。残念ながら外れていた部分にしても、正常な倫理観を持ち合わせていれば、まず間違いなく分からない。
どうしようもない再婚後の夫婦の話題ばかりが持ち上がったが、ここでようやく少女にも焦点が向く。
高校生になったばかりの、若々しくハツラツとした少女。化粧頼りの女に成り下がった母親とは比べるべくもなく、可憐で美しい容姿をしていた。
とりわけ不運なことに――男にとっては幸運なことに、彼女は生まれつき発育も良かった。中学生から急に背が伸びて、同級生の男子にも負けない背丈に。スリーサイズは常にトップクラス、時には『実はウマ娘なのでは?』と疑われるほど恵まれた体格だった。
だから時間の問題だった。
血の繋がらない艶やかな少女が、一つ屋根の下で暮らす。
あぶく銭も底を尽きてきた男にとって――皺の寄った女に飽きてきた彼にとって、それはいったいどう映ったか。
その後は――。
「もう止めよう」
トナカイは話の途中で立ち上がった。
「帰った方がいい。僕がバカだった」
「……いや」
「ダメだ、帰ってくれ。続きは無い。……友達が待ってるんだろ? トレーニングだってあるはずだ。君はこんな世界とは関わり合いになるべきじゃない」
「やだ。話しなさい」
「そんなになってまで、どうして……? 礼奈は僕の昔馴染み、それだけだ。君は彼女のことなんて、何にも知らないんだろう?」
それは全くその通りだ。あたしは山藤礼奈という少女のことはまるで全然、知りもしない。そしておそらく今後もずっと、耳にすることは無いだろう。
だからここで聞かなかきゃいけない。
「強情だなぁ、君は」
「うっさい。喋るなら早くして」
「……何度も言うけど、これまでも、そしてここからも全部僕の推測だ。実際のところどうだったかは、礼奈にしか分からない」
そう前置きした上で、トナカイは続けた。
「けど一つの事実として、礼奈は精神を病んで重篤な摂食障害をわずらい、長期間の入院を余儀なくされた。果たしてその原因は、家庭内での居場所の喪失だけだったのか。……僕にはそう思えなかった」
ある日を境に、少女は高校に登校しなくなった。
念願だった志望校、あれだけ励んでいた受験勉強も投げ捨てて、ぱたんと教室に現れなくなった。
しかし教師はその事について特に言及しなかった。まるで初めから、そんな生徒は在学していなかったように。
心配していたクラスメイトも、忙しい日常の中で一人また一人と少女を忘れていった。クラス替えから日の経っていなかった事も災いした。
一か月もする頃には、礼奈の顔と名前を憶えているのは、幼馴染だった一人の少年だけになった。
少年は時間を見つけては少女の家を訪ねた。だが、呼び鈴を鳴らせどもノックしようとも、扉が開かれることは無かった。
見上げた二階には、割れたままのガラスと黒ずんだカーテン。かつて花々の生い茂った庭は、ビールの空き缶とゴミ袋で埋め尽くされている。立派な車庫はいつ見ても空っぽだった。
それでも通っているうちに、嫌でも近所の声が耳に入った。
『父親はパチンコ狂いになって……』 『前に奥さんがコンビニで働いてたわよ……』 『娘さん、見なくなったわね……学校も退学したって』 『でも昼間に変な声が……』
少年は意を決して、学校をサボり少女の家に向かった。まだ明るい内から堂々と庭先に侵入し、割れ窓に小石をぴしぴしぶつけた。
数発投げても反応は無く、諦めかけたその時、玄関扉が僅かに開いた。顔を覗かせたのは、幽鬼のような顔色の少女だった。
『帰って』 何度もせがまれた。切実な懇願だった。
扉の隙間から、玄関から続く廊下が見えた。コンビニのレジ袋の山と脱ぎ散らかされた衣類。黄ばんだタオルはいったい何を拭いたのだろうか。
饐えた異臭が漂っていた。家の奥から……あるいは少女の身体から。
「僕は帰った。何もできなかった、その時は彼女に何もしちゃいけないと思ったんだ……」
トナカイは力なく言った。今日の彼はよっぽど地面が好きらしい。空を視界に入れたら死ぬみたいな姿勢を延々と保っている。
「バカだろ? ……だよな。自分でもくたばれって感じだ」
挙句あたしが何も答えてないのに、勝手にそう結論付けた。
「言い訳するならさ、最低限の勇気は僕にだってあったんだ。周りの大人にはもちろん言った。先生にも言ったし、校長にも言った、市役所にだって押しかけたんだ……。でも全部無駄足だった。今じゃ考えられないかもしれないけど、当時はガキ一人の要望じゃ自宅訪問すら行われなかったんだ」
「……ママは? ママは……本当の家族だったんでしょ?」
絞り出した声は、自分とは思えないほど掠れた惨めなものだった。色んな感情がくちゃぐちゃになって、息をするのもままならない。
「僕のちゃちな要望でも、さすがに職員は家に電話くらいしたはずだ。でも状況は何ら変化しなかった。黙殺だよ。つまりあの女にとって、礼奈はもう愛する我が子ではなくて、恋人を奪い――」
トナカイはそこでハッとして口をつぐんだ。わざとらしく咳払いして、今の発言を無かったことにしようとする。だけどあたしにはそれで十分だった。
手をぎゅうっと力いっぱい握りしめる。食い込んだ爪の痛みが、今は錨となってあたしを立たせた。
「高校に来なくなって半年くらいかな、その頃になってやっと僕は彼女の入院先を知った。初めて病室を訪れた時に撮ったのが、前に見せたあの画像だ。お医者さんいわく、あれでも容態は大分良くなった方だったそうだ」
「……よくもそんな真似ができたわね」
とっさにそんな疑問が口から飛び出た。――あれで良くなった? いったいなんの冗談だろう。
しかしトナカイはあたしの発言を別の意味に捉えたようだった。
「無理に写真を取ることに罪悪感はもちろんあった。でも、どうしても記録を残しておかなきゃいけないと思ったんだ。あの時、現実として彼女はああなっていたんだ。それを決して忘れないように……無かった事にしたくなかった」
「そう」
あたしは誤解をあえて正さなかった。その代わりに尋ねた。
「じゃあ……元気な時の礼奈さんの写真はある? そっちも見てみたいの」
「もちろんあるよ。というか、駅のホームじゃそっちを見せるつもりだったんだ」
トナカイの表情が少しだけ明るくなる。スマホを取り出して画面をタップしだす彼に、あたしはもう一つ注文を付け足した。
「あ、でも学生時代のがいい。あんた達、中学も一緒だったんでしょ?」
「一応あるけど……。さすがにそれじゃ探す参考にならないんじゃ?」
不思議そうにしているトナカイ。彼の疑問はもっともだけど、あたしはこの広い街で人探しなんてする気はさらさら無いので大丈夫だ。……もちろん口には出さない。
「いいからとっとと見せなさいよ。スマホぶんどるわよ」
「わ、分かったから乱暴にしないで。そいつにしかデータ入ってないんだ」
仕方ないので大人しく待っていると、彼はやっとのことで一枚の写真を開いてくれた。
「これが中学三年の時の礼奈。卒業間近だから……ふふ、ちょうど君と同じくらいかな」
「なによキモイ笑い方して。……まぁトナカイにしては良く撮れてるじゃない」
大きな桜の木の下で、小さく手を振る少女が写っている。古めかしい様式の制服に、素朴なお下げ。もちろん髪は真っ黒で、ダッサい色と形の髪留めをおでこにしていた。もう片方の手に提げた鞄は、どこで買ったのかと突っ込みたくなるような堅苦しいデザイン。
こんな恰好で今の大通りを歩いていたら、きっと映画の撮影か何かと勘違いされるだろう。あたしも流行に詳しい方ではないけど、そのくらいセンスが全体的に田舎臭い。
しかし、なにより間が抜けてるのは少女の履いている靴だ。せめてシンプルなローファーにしておけばまだ締まりの良いものを、なぜか刺々しいスポーツシューズを選んでる。今から徒競走でも始めます、みたいな気合の入りようだ。
その発見に、とうとう堪え切れなくなってあたしは吹き出した。トナカイも察したようで、「変な子だろ?」と笑う。
「昔っから走るのがやたら好きでさぁ……。止めとけって言うのに、卒業式までそのシューズで来るんだよ。この性格も相まって、ウマ娘扱いされてた節もあるな」
「ふぅん。なら将来はスポーツ選手でも目指してたわけ?」
「ああ、部活はもちろん陸上部だった。三年の時は県大会にも出てたんだよ? 僕がマネージャーをやってたから、お弁当作って持ってったんだ」
「あんたが? いや普通逆でしょ」
「それは言わないでくれよ。中学時代もそれでさんざん弄られたんだ。さしずめ僕は礼奈のトレーナーだなぁってクラスメイトみんなが」
「バカじゃない!? お弁当作るくらいで、専属トレーナーになれるわけないでしょ。あいつら全員アホみたいに難しい勉強してんだから」
「あはは、だろうね。トップアスリートの君にはキツイ冗談だったか」
苦笑いして、頭の後ろに手をやる。こいつが鈍感トナカイで本当に良かった……。この様子じゃ、あたしの動揺は気取られてないようだ。
「ねぇこの写真、あたしのスマホにも送ってくれない?」
「うん、いいよ。でもこれ十年前のだから――」
「探すのに使うわけじゃないわ。でもそのえっと……バックアップ! あんたひょっこりデータ消しちゃいそうだから、あたしがリスク分散しといてあげる。感謝しなさい」
トナカイは納得したような、そうでもないような微妙な顔だったけど、すぐに送信してくれる。しかしこのやり取りの代償として、あたしの通信番号がトナカイのスマホに登録された。
この不審トナカイに情報を渡すのは痛恨の極みだ。……しかし希少な彼女の昔の写真には代えられない。この機会を逃せば、二度と入手できないだろう。
「ふふっ。にしても可愛いわね。あ……山藤礼奈さんにも! こんな時代があったんだ」
「そりゃそうだよ。あの写真からは想像できないかもしれないけど――」
トナカイが言いかけたところで、彼のスマホが爆音を鳴らした。それと同時にバイブレーション、通話アプリでなく、わざわざ本体に電話をかけてきたようだ。
「のわっ!」
驚いた拍子に、トナカイの手からスマホが離れる。掴もうとするも指が滑って、まるでジャグリングみたい。最終的にあたしの顔面に飛んできやがったので、キャッチするついでに通話ボタンを押した。続けて素早くスピーカーモードに切り替える。
「はいもしもし、トナカイですが」
「ああ? 三太じゃねぇのか?」
「トナカイだって言ってるでしょ。耳悪いの?」
「ちょ勝手に出ないで――」 「下がってなさい、騒がしい」
「で? なんの用事かしら。てかあんた誰?」
「その声は……まさかスイープの嬢ちゃんか? 近くに三太はいるのか?」
こっちも声で思い出せた。相手は旨々亭の店主だ。
「トナカイなら確かにいるわよ。そこで草噛んでる」
「いやだから三――ああもういいわ。そのトナカイ野郎に代わってくんねぇか。伝えたい事があるんだ」
「草噛んでるから今ちょっと外せそうにないわね。また掛け直すからそれでいい?」
「良くない!」
「……こちらの都合がつき次第、改めて折り返しお電話差し上げてもよろしいでしょうか」
「丁寧に言ってもダメ!」
「ダメだそうだが」
「しょうがないわね……」
いたずらはここまでにしてやろう。彼にスマホを放って返すと、慌てた様子で耳に押し当てた。モードが切り替わっているため、会話が筒抜けであることにも気づいていない。
「はいトナカイです! 親方ですよね!? さっきはどうもすいやせんでした!」
「お前は三太じゃねぇのかよ、トナカイしかいねぇのかよそこには」
「あたしはトナカイじゃないんだけど」
「そりゃ知ってるよ! とにかく三――トナカイ! とっとと店に戻ってこい!」
「ダメよ戻っちゃ。皮をひん剥かれてダシ取られるわよ」
「しねぇよ麺がまずくなるわ! てかスイープちゃん、ちょっと引っ込んでてもらえる?」
「この大魔女を引かせたいなら、百の呪文を用意――」 「このボタンか」
とうとう異常に気付いたトナカイが、モードを元に戻してしまった。さらに手を口元に当てて、厳戒態勢を取る。さすがにもう通話には介入できない。
二人はそれからごにょごにょ内緒話に入った。やることがないあたしは、さっきもらった画像を楽しむことにする。
木の陰に佇む黒髪の少女は、あたしの目から見ても今と変わらず端麗な容姿だった。服装についても酷評したけど、素材は良いのだから、きちんとアドバイスを受ければ雑誌モデルにだってなれそうだ。
……まぁ年がら年中、基本ジャージで過ごしているような奴には何を言っても無駄かもしれないけど。
「えっ本当ですか!?」
「なによ、うるさいわねこの変態」
「ありがとうございます! すぐ戻ります!」
スマホ相手に何度もお辞儀をする変なトナカイ。通話を終えて立ち上がると、彼は勢いよくあたしに振り返った。
「ごめん、今日はこれでお別れだ」
「ホントに店に戻るの? 電話で店長すっごい怒ってたじゃない」
「いや、さっきのは君のいたずらのせいだからね!? ……あれから姫殿下の御言葉を賜って、考えを改めたとか何とか。良く分かんないけど、ともかく許してくれるらしい」
ファインがラーメン狂信者達の説得に成功したということだろう。ほんの少しだけ、トナカイの働き口をあたしが奪ったのではと後悔してたけど、これで一安心だ。
「なら早いとこ戻りなさい。ここでずっとサボってたら、それこそまた怒鳴られるわ」
「サボりじゃ無くてそれも君のせ痛ったぁ!」
セーターの毛糸越しに腕を摘まむと、トナカイは高らかな悲鳴を上げた。そろそろ動物愛護団体に訴えられそうなので、適当なところで勘弁してやる。
解放されたトナカイは、ヒトにしてはそれなりの速度で駆けて行った。手を振って見送るあたしだったが、途中で大事な事を思い出した。慌てて背中へ向けて叫ぶ。
「交換条件!」
「えぇ!?」
「忘れたの? 話しを聞かせてもらう代わりに、あたしのトレーナーについて教えるって――」
「あーそうだった!」
そこはやっぱりトナカイらしく、彼も完全に忘れていたらしい。すぐに走って戻ってこようとするも、店長からの催促の電話が再び鳴りだす。
自分のスマホとあたしの顔……二つの間を、迷えるトナカイの視線が高速で行き交う。
「さっさと行きなさい!」
見るに見かねてあたしは言った。
「ちょうど番号も分かったし、今度はあたしが直々にあんたを呼び出してあげる。ただし必ず三コール以内に出ること。いいわね!?」
トナカイは感謝と抗議の入り混じった複雑な反応を示したものの、最終的には折れた。