深夜、消灯後の真っ暗な部屋。
布団をすっぽり被ってライトと通話音を漏らさないように。
以前、交換した連絡先をプッシュする。数十秒ほどかかって、彼はやっと出た。
「はい、もしもし?」
「トナカイ遅い! あたしから掛けてやったんだから、3コール以内に出なさいよ」
「スイープ!? というか無茶言うなよ、何時だと思ってんの今」
「まだ23時でしょ。なに、大人のくせにもう眠いわけ?」
「そういう問題じゃなくってさぁ……」
「ふん、仕方ないでしょ。あんたに急な用事ができたんだから。それともこの大魔女の呼び出しよりも、優先したい事があるっていうの」
「それは……特にないけども。どうせ今から寝るだけだったし」
「ならいいじゃない。さっさと本題に入るわよ。あんたに確かめたいことがあるの」
「強引だなぁ。で、なに」
「あんたは……なんでこの街に来たの?」
「へ? だから礼奈を探すためで――」
「それがなんでって訊いてのよ! 今になってあいつを探して、見つけて捕まえてどうしたいの? ただ会いたいだけなら、この街に来るより前に何とかできたでしょ」
「来るより前って……」
「あいつが退院してから、今日まで少なくとも十年は空いてるはずよ。その間なぁんにもしなかったわけ? それを今更になって顔写真頼りに旅歩くなんて、バカそのものじゃない」
スマホは沈黙した。
トナカイが何も言わないので、仕方なくあたしは言葉を続ける。
「だいたいは察しつくけど。どうせ弱気なあんたのことだから、助けられなかった自分が嫌になって、どんな顔して会えばいいか分からなかったんでしょ。たっぷり十年経って、やっとその勇気が持てた。違う?」
更にしばらくの間があって、
「さすが魔女だね」
彼の小さな声が聞こえた。
「大当たりだ。……けど一つ言い訳させてもらうなら、彼女に言われたからっていうのもある。今でも一言一句思い出せる。
――『三太君にこれ以上、迷惑はかけられない。私のことなんて忘れて』
退院間際のことだ。僕の家で暮らさないかって提案に、彼女は振り返りもせず答えた」
「それを真に受けて、十年ほったらかしにしてたの? あっきれた。どう考えても忘れて欲しく無いって意味でしょ」
「分かってる!」
スマホが突然、大音量を発した。慌てて、スピーカーの口を指で塞ぐ。あんまり音を立てると同室の子を起こしてしまう。
「分かってるんだそんなことは。……ごめん、怒鳴って」
「許してあげる。今のはあたしもちょっと無神経だった」
「珍しいな、君が素直に謝るなんて」
「どういう意味よそれ。……というか早く、今になって会いにきた理由を答えなさいよ。忘れてたのを思い出したくらいなんだから、大きなワケがあるんでしょ?」
少しの間を空けてトナカイは答えた。
「来年、地元で就職することにしたんだ。たぶん……きっと安定した収入も得られるようになる。でもその代わり、二度とこんな風に全国を旅したりなんかはできない。礼奈に再会するなら今年が最後のチャンスだ。そう考えた時にはもう、口座からありったけの現金を引き出してた」
「ふぅん……就職ね」
トナカイの年齢は20代後半に見えた。世間一般から比べるとやや遅めに思えるけど、何か事情があるのだろうか。この際だから尋ねてみると、意外な返答があった。
「医者!?」
「うん。僕の場合は後期研修も受けたから、そのくらいにはどうしてもね。試験は一応ストレートだったから、同年代ではむしろ早い方だと思うけど」
なんてことのないように語るトナカイ。しかしあたしは度肝を抜かれた。
あの顔から性格まで冴えない青年が……と考えると、どうにも腑に落ちないものすら感じる。
試しに聞いてみることにした。
「アセスルファムカリウムって分かる?」
「人工甘味料の一つだろ? 化学式まではさすがに覚えてないけど、水酸化カリウムをどうこうするヤツだったかな。発がん性は無いとされていて、熱に強いから加工食品に多く用いられている」
「じゃあ……アンパーティクルフィジクスは?」
「きゅ、急に話題が飛んだな。Particle-physicsは素粒子物理学って意味だ。それにUnの接頭語がついてるんだから、さしずめ非・素粒子物理学ってとこ? 聞いたこともないけど」
「ならエーテルは!」
「特定の構造式を持つ化合物の総称。高い揮発性を持った物質を、天界に存在するという仮想元素のエーテルになぞらえて命名したことが由来だ」
期待してた答えと違ったけど、冷静に考えたらたぶんそれで正解だった。どちらかというと、この場合はタキオンの方がおかしい。
「やるじゃないあんた。なんでそれでラーメン屋のバイトなんてしてんのよ」
「研修医って身分は、費用がかかる割に給料がそんなに貰えなかったんだよ。それに礼奈を探して僕は全国を転々としてたから、なおさらお金が必要で」
いったい世の中どうなってるのと思ったけど、それはさておき。
「で? 来年から医者になるっていうあんたは、礼奈さんに会って何を言いたいの」
それが一番聞きたかった質問だった。
「あいつは元気でやってるわ。あの写真からじゃ想像もできないくらい、おっきくて柔らかくなって、いっつも笑顔で過ごしてる。あたしほどじゃないけどたくさん食べるし、それこそウマ娘みたいに走り回る。……はっきり言わせてもらうけど、あんたが来なくったってあいつは平気よ」
「そっか」
しかしトナカイはすごく嬉しそうに言った。
「そうだったんだ。……ありがとう。それが聞けただけで良かった。君に会えて本当に良かったよ」
「……なによ。会わないの?」
「いいさ別に。君が言ったじゃないか、僕がいなくても彼女は元気で平気だ」
奥歯を噛みしめた。
ダメだ、もう決めたんだ。ちゃんと言うって。
「明日……」
「え?」
「明日、クリスマスイブでしょ?」
「そうだけど」
「鈍い! 街の丘の上に展望台があるってくらいあんたでも知ってるわよね。明日の午後六時! そこに来なさい!」
「え? いやちょっと意味が――」
「ほら交換条件! あたしの使い魔に会わせてあげるって約束、忘れたの? 魔女は絶対、約束を守るの」
「使い魔? 前も聞いた気がするけど、なにそれ」
言ってから気付いた。そう言えばトナカイにはあんまり詳しく説明してなかった。
「だからその……使い魔ってのはあたしの言う事なんでも聞くトレーナーで……あーもう!」
喋っているうちにだんだん恥ずかしくなってきて、あたしはスマホに怒鳴った。
「とにかく来なさい! 一秒だって遅刻しちゃダメよ! 分かったわね!」
「あ、ああうん」
それを聞いたら切った。
待機状態のスマホが放つぼうっとした光。表示されている三分と二十六秒の通話時間。
たったこれだけで終わる話をするのに、なんであたしは何週間もかかったんだろう。
考えてもその答えはすぐに出そうには無かった。布団の中で身体を横たえて、目を閉じる。それでもちっとも眠くなんてならなかった。
―――――
結局、一睡もできなかった。
右手に握ったままだったスマホを持ち上げてみると、時刻は午前の五時半。
徹夜なんて初めての経験だ。身体は凄く休みたいはずなのに、気怠い覚醒が頭を包んでる。
それでも数時間に及ぶ格闘の成果はあって、僅かな眠気が訪れはしていた。……けど残念ながら、もうぐっすり寝ているような時間は無い。
あたしはベッドから起き上がって、朝の支度に取り掛かった。
顔を洗って歯を磨く。腕を通すのは制服じゃなくて、お出かけ用のもこもこした防寒着。
一か月前から、今日十二月二十四日だけはトレーニングを休みにするよう、使い魔に頼んでた。理由はもちろん、一日を全部使ってあいつと一緒に過ごすため。
こうでも言っておかないと『せっかくだからスイープの走りが見たい』とかで普段通りのメニューが始まりかねない。特別な日なんだから、いつもと違う事をしないとダメに決まってる。
「スイープ……もう起きたの? プレゼント来るのは明日だよ?」
同室の子が寝ぼけまなこを擦りながら身を起こした。
「そんなこと分かってる。でも今日はやらなきゃいけないことたくさんあるの」
そう答えながら、あたしは部屋のカーテンを開けた。
「わぁっ……」
真っ白な雲に覆われた空から舞い散る氷の結晶。上にかき氷機でもセットしてるみたいに、後から後から落ちてくる。
さすがに積もってはいないようだけど、こんなに雪が降るのはこの街じゃ割と珍しい。それがクリスマスイブ当日ともなればなおさら。
自然とこっちのテンションも上がってくる。徹夜の眠気も鬱々した気持ちも吹き飛んで、あたしはさっそうと寮の部屋から駆けだした。
向かうのは当然、使い魔の住むアパートだ。あっちはまだ寝てるかもしれないけど、その時はインターフォンを十連打して叩き起こしてあげよう。
だって使い魔と二人きりで過ごす、最後のクリスマスになるんだもの。少しでも長く、精いっぱい楽しまないと。