どの時間帯に訪れようと、タキオンの研究室こと旧理科準備室は常にほの暗く、妖しい空気に満ちている。
閉め切られたカーテンは太陽光を一切通さない深緑色。廊下側の扉窓にも布張りがされてあり、照明はもちろん旧式の黄色電球のまま。そのたどたどしい明かりが、狭い部屋にこれでもかと詰め込まれた不可思議なインテリア達を照らし出している。
かたやビーカーや試験管を始めとした実験器具。かたや古めかしい絵画とランプ……。いっそう奇妙なことに、部屋は中央を境界として、その趣向をがらりと変えていた。
それもそのはず、ここはタキオン専用ではなく、彼女とマンハッタンカフェとの共有スペースとなっているからだ。
聞くところによれば、かつて自身の研究室を要求したタキオンに対し、生徒会はある条件のもとに認めた。それがつまり、カフェという監視役が同室に在中すること。かくして旧理科準備室は、タキオンの研究室兼カフェのグッズ置き場として利用されている。
しかしそのカフェは今日、留守のようだ。棚に置かれた空っぽのマグカップが、寂しそうにそっぽを向いている。
「さぁ遠慮なく入ってくれたまえ。今、暖房をつけるから、君は座っているといい」
タキオンは部屋の左手側、彼女の研究ブースを指して言った。そこにあるのは簡素なデザインのテーブルと、背もたれすら無い四脚椅子。反対側のカフェのブースにある、いかにも柔らかそうなソファとは大違いである。
しかもそのテーブルの上は、破り取られたルーズリーフが埋め尽くしていた。それこそコップの置き場も無いくらい。どうも何かしらの観測記録を取っていたらしく、細かい数字群がどの紙にもびっしり書き込まれている。
しかし当のタキオンは一瞥もくれず、「悪いね、散らかってて」と言うが早いが、雑に一か所に纏めて、近くのゴミ箱へ容赦なく捨てた。
「ちょっと……いいの?」
「ん? 構わないさ。もう終わったヤツだし、いちいち保存していたら貴重な空間が無駄になる。それより今は君のそれの方がよっぽど興味深い」
そう言ってせがむように、あたしの通学鞄を凝視する。その鬼気迫る様子には何だか背筋の寒くなるものを感じないでもない……。今更になって、タキオンの誘いに乗ったのは失敗だったんじゃないかと、若干の後悔が湧いた。
――――――
校舎裏で、タキオンはあたしにとある提案をしてきた。
『君の魔法研究に、どうか私も加えてはくれないか?』
『もちろん報酬は不要だ。そのトロフィーが生み出すだろう成果にあずかりたいわけでも決して無い。ただ単純に、知的好奇心がくすぐられて仕方ないんだよ』
『無理に、とは言わない。君の出す条件はいくらでも呑もう。独断専行はしないと誓うし、得られた情報は外部の者に漏らさない』
『他にも、魔法の完成に必要な物資もしくは工程があるなら、喜んで手伝おう。自慢じゃないが、いわゆるオカルト分野の文献や論文にも多少は詳しいつもりだ。……同居人のお陰でね』
『どうだい? 君にとっても悪い話じゃないはずだ。だってほら……手詰まりを感じているのだろう? それとも陽が落ちるまで、ここで上手くいくかも分からない詠唱を続けるのかい?』
そう言ってタキオンはわざとらしく両手を口元に当て、吐息で温める仕草をした。
『……お茶くらい出すんでしょうね』
気温がもう二十度高かったなら、あたしは威勢よく彼女の手を払いのけることができただろう。
――――――
「あまっ!? なにこれ、甘すぎない!? 何入れたのあんた」
「え? 普通のアセスルファムカリウムだけど」
「普通が何か分からなくなるから止めてよ……。見た目からしてダメっぽかったけど、やっぱりゲテモノだったじゃない」
テーブルの上に二つ並んだ透明の実験用ビーカー。その中には鮮やかな紅色の液体がなみなみと注がれている。ここは元理科準備室で、その液体を作ったのがアグネスタキオンともなれば、もう嫌な予感しかしてこない。
それでも本人が「これは紅茶」と主張するから信じたが、やっぱりバカを見る羽目になった。アルコールランプでお湯を沸かしたところまでは、順調そうに見えたのに。
「砂糖の数百倍の甘味があって、しかしカロリーは控え目だからレース前の子は重宝するんだよ。スカーレット君はたいそう喜んでいたが、君には合わなかったか」
「何事にも限度ってものがあるの。あんたいっつもこんなの飲んでるわけ?」
「いいや? 通常の砂糖を入れるに決まってるだろう。糖分の適切な摂取は勉学には必須だ」
臆面もなく言ってのけるタキオンに、あたしは突っ込む気力が失せてしまう。彼女の奇行をいちいち指摘していたら、それこそ日が暮れる。
紅に染まったビーカーをとりあえず脇へ除けて、持ってきた例のトロフィーをテーブル上に置いた。途端に、タキオンの両目がかっと見開かれる。
「ふむ……。改めて間近で確認すると、異質さがより伝わってくるな。それにしてもこの色は……」
か細い電球の光を反射して、トロフィーはまばらな光沢を放っている。不思議とその色合いは校舎裏とは全く違って見えた。あの時は真っ赤だったはずなのに、今は黄金色へ。それこそまるで魔法のようなグラデーション。
「構成している金属の性質によるものか? いや、さっきのはレイリー散乱による影響を考慮するべきか……。ならばこれが本来の色?」
タキオンは何事かを呟きながら、ためつすがめつを続けている。すっかり自分の思考に没頭して、あたしの事なんて一顧だにしてない。さすがにため息が出た。
協力なんて口では言いながら、やっぱり結局はこれじゃない。無性にムカムカしてきたので「はい終わり!」と言ってトロフィーを取り上げた。タキオンからもう見えないように、背中の後ろに隠してしまう。
「ああ、何をするんだい。まだ観測は終わってないんだよ」
「なによ観測って。そういうのはいいの! あたしがして欲しいのは魔法の研究! どうやったらこいつがちゃんと働くかを知りたいの!」
「しかしそれにはまず前提として、初期状態と活性状態の相違、他にも起動条件といったもろもろのパラメータを集める必要が――」
「あーもう! だからそういうのじゃなくて! どーして分かってくれないのかしら」
イライラのあまり、踵が床をたんたんと鳴らす。使い魔ならきっとすぐに分かってくれるのに――不意にそんな考えがよぎって、あたしは慌ててかぶりを振った。
ダメだ。今回ばかりは使い魔に頼っちゃいけない。それじゃせっかくのサプライズが台無しになる。あいつのびっくりする顔が見たいのに。
勝手に動いていた脚を落ち着けて、一呼吸。タキオンは悪気があって提案してきたわけじゃないって、あたしだって分かってる。だからここはあたしが主導権を取って、研究の方向性を示すべき場面だ。
あたしはコホンと咳払いして仕切り直し、今度は魔導書を鞄から引っ張り出した。テーブル上で該当のページを広げる。タキオンは何事も無かったように、興味津々な顔で覗き込んできた。
「それは……君が書いていた魔法陣か。これがトロフィーの起動に関係すると、君は考えているわけだ」
「ええ、それは間違いないわ。ここを読んでみて」
図に横付けされた短い記述を指でなぞってみせた。いかめしい筆記体で『精霊召喚の陣』と書かれている部分だ。
しかしタキオンは軽く笑って首を横に振った。
「いやいや。申し訳ないがそれを読めるのはスイープ君だけだよ。古文書の読解は私の専門外。まぁ辞書でもあれば別かもしれないが、ラテン語のそれを探すのは骨が折れそうだ。……うん?」
言葉の最後で、タキオンはくるりと真顔になると、あたしの指先に自分のそれをそっと這わせた。
「しかし……君はなぜ精霊の召喚が、そのトロフィーに適合すると考えたんだ? そういった説明書きがあるのかい?」
「もちろんあるわよ。ほら、こっち」
ページをいくつかさかのぼって、召喚術について詳細に解説してある箇所にいく。そこでは数十行にわたる長文で、術に必要な詠唱と触媒が示されている。
「ここを解読するのはすっごく大変だったけど……。要するに、精霊を呼ぶには霊験あらたかな魔法の食器が必要なの。その用意さえできれば、後は陣を描いて呪文を唱えるだけで、何でも願いを叶えてくれる精霊が現れるってわけ」
タキオンは険しい表情で「ということは」とあたしの話を継いだ。
「つまりこのトロフィーそのものを特定した術ではないと。魔法の食器ならなんでもいいんだから」
「それが? 別にいいじゃない。願いが叶うんだから」
いまいちタキオンが何を言いたいのか分からない。あたしが首を傾げていると、タキオンは引き出しからルーズリーフの束を取り出した。さらに白衣のポケットからはボールペンを抜く。
「念頭に置くべきは、現状で術は上手くいってないということ。つまりいずれかの構成要件に欠けている。呪文と魔法陣、この二つは実験の手順として誠実に果たされているとするならば、問題となるのは前提の方だろう」
彼女は早口に捲し立てながら、さらさらと紙上にもペンを走らせていく。トロフィー、精霊召喚……いくつかの文言を丸で囲み、その間を矢印で結ぶ。
「このトロフィーはそもそも魔法の食器と定義される存在なのか? その点について疑うべきだ」
「ちょっと! 聞き捨てならないわよ、このトロフィーはぜーったいに本物なんだから!」
身を乗り出したあたしのおでこを、タキオンが空いている方の指で押し留める。
「結論はまだ先だ、まぁ聞きたまえ。召喚術はあくまで、触媒としての効果しかトロフィーに求めていない。そのため、いかなる力がそれに宿っていようとも、定義に当てはまらないなら術は失敗に終わる。そして私が思うに、トロフィーは魔法の食器ではなかった。よって何度やっても無意味だ」
「無意味ですって!?」
「このまま同じことを繰り替えせば、ね」
一番上にでかでかと書かれていた精霊召喚という単語を、タキオンは大きくバッテンで書き消した。さらにルーズリーフを破り取り、新しいページへと移る。
「求める結果が得られなかったとしても、過程において用いた素材の価値がそれによって定まることはない。目下のところ判明したのは、トロフィーは召喚術には適さなかった――それだけだ。ならば今度は違う式を試せばいい」
まっさらになった紙に、今度は矢継ぎ早に単語を書き始めた。時間跳躍、時空移動、因果律操作……。知る限りの魔法っぽい事をでたらめに並べているとしか思えない、悪ふざけのような真似。
タキオンはそれをページの端から端までやると、その全てから矢印を延ばして、最終的に新しく書いた『サンタ』という見出しにつなげた。
「君の最終目標であるサンタに辿り着く道筋は無数にある。たった一つが潰れたくらいで、もう諦めるのかい?」
彼女の言わんとすることがようやく分かった。色々長ったらしく話したが、つまるところもっと別の方法を探せということだ。なら最初からそう言えばいいのに。
「けどあたしが読んだ中じゃ、この魔法が一番近かったわ。これ以外は……」
あたしがそう零すと、タキオンは「らしくないね」と皮肉めいたことを言う。
「そんな大層な魔導書なら、もう二つか三つは願いを叶える魔法が載っているんじゃないか? 天才の君なら、そのくらい探し出せるよ」
「ぐ……言ってくれるじゃない!」
タキオンの挑発に乗っかって、あたしは魔導書の目次を開いた。彼女の言うよう、サンタを呼び出す結果につながる魔法は、おそらくたくさん載っている。一つ一つ試して行けば、いつかは正解に辿り着くだろう。
それは分かっている。分かっているのだけど……。
「スイープ君? どうしたんだい?」
目次を開いたまま手が止まったあたしを見て、タキオンが怪訝な顔を浮かべる。
「見て分からない!? 今、頑張って解読してるのよ! 大変なんだから、これ読むの」
「あーそういや言ってたね、全部ちゃんと読めるわけじゃないって。いくら君でもすぐには無理か」
納得したように頷くタキオンに、悔しくなって「できるもん!」と言い返した。だが文字列をゆっくり指でなぞっていると、我ながら説得力の無さに恥ずかしくなる。だってそうでもしていないと、どの文を追っているかすら分からない。なにもかもこの面倒くさい字体のせいだ、なぜこんな意地悪をする?
当然ながら、あたしの苦戦ぶりはすぐさまタキオンに見抜かれた。彼女は何が面白いのかふっふと笑うと、壁にあったスイッチを押した。すると天井の照明が、LED特有の鮮やかな白色に替わる。
さっきまでの妖しい雰囲気はどこへやら、研究室は一転してただの理科室へと変貌した。
「暗いところでやると目に悪いからね」
「あんたね……。なんでわざわざどっちも設置してるのよ」
「まぁ雰囲気づくりの一環というやつかな? カフェ君は暗い方が好きのようだし。ただ危険な実験の際はきちんと照度が無いといけないから、こういう風にしてるわけだ。さて……長丁場になりそうだが、紅茶のお代わりはいるかい?」
「いらない!」