魔導書とのにらめっこは、幸か不幸かすぐさま終わりを告げることになった。
あたしが鼻をつまんでビーカーの液体を飲み干した直後。いつしか静まり返っていた部屋に、元気の良いノックの音が響いた。
「タキオン~まだいる? 遅くなってごめんなさい。私です」
続けて聞こえてくる朗らかな少女の声。それには私も聞き覚えがあった。
遠い異国の地から学園に短期留学してきた、ロイヤルオーラをむんむんと漂わせるウマ娘、ファインモーション。以前、英語の絵本を貸してくれたことがあるから良く憶えている。
……よりによって、なぜこのタイミングで? 日光を遮るカーテンのせいで時間の感覚があやふやだったが、時計を見るともう十七時を回っていた。もう辺りは暗くなっていることだろう。
「タキオン? いるんでしょ~」
「あ、ああ済まない! 扉なら開いてるから入ってくれ」
なぜか固まっていたタキオンは、再三の呼びかけでやっと我に返った。椅子から立つと、まっすぐ廊下に繋がる扉へと歩いていく――ので、あたしが寸前で止める。
「ちょっと待ちなさいよ……。どういうつもり? まさか中に入れるの?」
テーブルの上に置いてあるトロフィーに目線をやった。これ以上、あれの存在を知っている人を増やしたくない。
しかしタキオンは珍しく慌てた顔で「仕方ないだろ」と小声に弁明してくる。
「追い返すわけにいかないし。そう言えば放課後、この研究室で彼女と会う約束をしていたんだった」
「なら先に言いなさいよ……!」
「今、思い出したんだ。だいたい君があんなに面白そうな物を持っているのが悪い」
なんであたしが責められなきゃいけないのふざけないでと思ったが、もはや言い争っている場合じゃない。ファインは「じゃあ入るね~」と今にも扉をスライドさせそうな勢いだ。
あたしは電光石火の速度でテーブルに飛びつき、トロフィーと魔導書を通学鞄へと押し込んだ。かなり力を加えたため、あおりを食った教科書類が派手に折れ曲がった感触がしたが、必要な犠牲だ。しょうがない。
「こんにちは~。んっと、今はこんばんはの方がいいのかな? ともかくタキオン、約束のものを持ってきたよ……あら?」
中を見渡したファインが、あたしの姿を捉えるまでに時間はそうかからなかった。彼女はやたらにこにこしながら、鞄を抱きかかえているあたしに迫ってくる。
「スイープちゃんだ! お久しぶり~どうしてこんな辺鄙なとこに?」
「辺鄙とはずいぶんな表現だねぇファイン君。ここは由緒正しき私の研究室だが」
「だから変なところなんだよ。それよりそれより、あんまり見ない組み合わせだよね、タキオンとスイープちゃんって。二人はここで何してたのかな~気になるな~」
「何も妙なことはしていないさ。ちょっと新しい紅茶のフレーバーを試してもらっていただけで」
「えぇ、紅茶の? ダメだよタキオン。スイープちゃんはまだ小さいんだから、あんまり刺激的なものを飲ませたら。前なんかブランデーを入れてたりしてたでしょ」
「はぁ!? それホント!?」
いくらなんでも聞き逃せず、タキオンに向き直ると、彼女は「あれはほんの香りづけ程度だ」と真顔で言う。
「それに煮沸してアルコールは飛ばしていた。……それでも呑んだ大半の子が赤ら顔になったのは実に興味深い現象だったがね。プラセボ効果の一種かもしれない」
「それでもダメだったら。というかどこでお酒なんて買ってくるの? 前なんかエアグルーヴさんに詰め寄られて大変だったんだから、ほどほどにしてね?」
「げっ」
苦手の極みの人の名前が出てきて、思わずしかめっ面になるあたし。奇しくもそれがタキオンと重なって部屋に情けない声がこだまする。
あまり意識していなかったがファインはエアグルーヴと同室で、二人は割と深い間柄だった。いよいよもって、トロフィーの存在を知られるわけにはいかない。腕の鞄をいっそうきつく抱きしめる。
そんなあたしの傍らで、タキオンが「それでだ」とやや強張った口調で言った。
「いったい君は何の用だったか。会う約束は確かにしたが、物については聞いていないぞ」
「あれ、言ってなかったっけ? タキオンにあげようと思って持ってきたの」
ファインは背負っていたリュックを下ろし、手提げのついた紙袋を取り出した。印字されている高級洋菓子店のロゴマークからして、中身はケーキか何かだろうか。
それをでん、とタキオンに差し出すも、当の本人はまるで理解できていない様子である。
「ええと?」
「もう、憶えてないの? 前に見せてくれた、食べたものが何でも醤油ラーメン味になる薬をくれるって約束だったじゃない。でも貰ってばかりじゃ悪いから、お返しにと思って」
結構な間を置いて後、タキオンは合点がいったらしく、ぽんと手を打った。
「そう言えばそうだったね。君も人が悪いな、あれはほんの冗談だと思ったんだ。あのような失敗作……失礼、試作品を欲しがる者などいるわけがないと。だがまぁ、私の薬の価値を認めてくれなら、それを供するにやぶさかではない。少々待っていてくれたまえ」
言い終えるが早いが、タキオンは立ち並んだ薬品棚の奥へと姿を消した。よっぽどファインの申し出が嬉しかったのか、あるいは単にこれ以上問い詰められたくなかったからか。
いずれにせよ、あたしはファインと二人で取り残される羽目になる。別段、彼女が苦手なわけではないが、状況が状況だけに何を話したものか分からない。
仕方なくぎゅうぎゅう鞄を締め付けていると「ねぇスイープちゃん?」と彼女から先制攻撃を仕掛けてきた。
「真面目な話、こんな時間までタキオンと何してたの? 見た感じ、二人で勉強会って訳でも無さそうだし。もしかして――」
「違うから! 何もやましいことはしてないわ。ちょっとバッタを蝶々にする方法について話し合っていただけよ」
「まぁ素敵! それって魔法の薬かしら? それともおまじない? 私にも教えてくれませんか?」
「いやえっと……それは魔女だけに伝わる禁呪で……」
「なになに?」
ファインのきらきらとした視線があたしの眉間を貫く。いつもならどんな呪文でもすらすら出てくるのだが、こんな時だけ舌が回らない。
グランマに言われた『嘘ばかり吐く子は鼻が伸びる』という言葉が蘇る。焦がすような罪悪感を振り払いたくて、あたしは後ろ跳びにファインから逃れた。
「知ってたとしても教えないもん! 魔法の英知は軽々しく他人に明かしちゃダメなんだから。もう遅いんだし、あんたは薬貰ったらとっとと帰りなさいよ」
「え~私は仲間外れ?」
途端にシュンと顔色を沈ませるファイン。さすがに「とっとと帰れ」は言い過ぎだったかもしれない。しかし取り繕う言葉も思いつかなかったので、あたしはそっぽを向いて、だんまりを決め込む。
「あらら、嫌われちゃった。魔女さん、今宵はご機嫌斜めなのかしら」
俯いていたファインはそう言うと、急にいたずらっぽく微笑んだ。
「ではお詫びのしるしに、このようなものはいかがでしょう? お気に召すとよろしいのですが」
彼女は再びリュックをがさごそすると、今度は何やら小さな――手のひらに収まるサイズの箱のような物を取り出した。それを彼女は両手に包むと、うやうやしくあたしに差し出してくる。
「こちらをどうぞ? 偉大な魔女さん」
いかにも芝居がかった仕草だが、ファインがやると凄みが違う。気圧されたあたしは考えるより先に、それを受け取っていた。
「なにこれ……? オルゴール?」
「ふふ、どうかな。開けてみて」
それは木で造られた長方形の小箱だった。白一色のシンプルな見た目で、装飾は一切施されていない。蓋はちょうつがいで開くようになっていて、鍵の類も無いようだ。
指を押し当てて、ゆっくりと開いてみる。中から現れたものを目の当たりにして、あたしは思わず声を上げてしまった。
「宝石!?」
マットの上に寝そべっていたのは、なんと大粒のエメラルド。LEDの照明を受けて、鮮烈な緑の煌めきを放っている。
「えへへ、驚いた? 実は貰いものなんだけど、スイープちゃんの方が似合うかなって。それに宝石はもうたくさん持ってるし。さて、これで許してくれますか?」
「許すもなにも別にあたしは怒ってなんて……。てかこれ、いくらなんでも大きすぎじゃない!?」
近いもので例えるなら、飴玉くらいのサイズがある。ただし形状はラグビーボールのように楕円を描いていて、完全な球体ではない。
しかし何よりも特徴的なのは、つるつるして凹凸のないその表面。水滴をかたどったような滑らかさは、かつて見たことのある宝石類とは根本的に違っている。
ここまで来るともはや現実味が無いというか……とまで考えて、やっとあたしは気が付いた。
「これ、もしかして偽物?」
「あ、ばれちゃった? アクリルアイスっていうので出来てるんだって」
可愛らしく舌を出して謝るファイン。……冷静になってみると、いくらファインでも友達相手に高価な宝石なんて送るわけがない。
ただのアクリル製だとすると、この大きさにも丸っこい見た目にも納得がいく。試しに指で挟んで持ち上げてみるも、手触りは見知ったそれだった。
「なによもう! それならそうと先に言いなさいよ。驚き損じゃない」
「でも本物みたいに綺麗でしょう? どう? 気に入ってくれたかな?」
「……確かに良く出来てはいるわね」
仮に偽物であったとしても、翠玉を模したアクリルは美しかった。細工も丁寧で、傷や曲がりはもちろん無いし、均整も完璧にとれている。
それに、もしかしたら魔法の触媒としても使えるかもしれない。心底気に入ったので、小箱にいったん戻してから、ファインに向き直った。
「ふん、魔女への貢物としての格は十分よ。受け取ってあげてもいいわ」
「喜んでくれたようで何より! スイープちゃんなら絶対に欲しがると思ったんだ~。それでそれで! じゃあ約束通り、私も仲間に入れてくれるんだよね?」
「えっ」
「えっ」
お互い見つめ合うあたしとファイン。数秒間じっとそうしてから、話の流れをようやくあたしは思い出した。そうだ、あたしはファインに聞き込みじみた真似をされていたんだった。……いや、でも約束なんてした憶えは無いような。
「うう、ひどいなぁスイープちゃん。涙を呑んで宝物をあげたのに、スイープちゃんはまだ私を爪弾きにするの?」
嘘か本気か、そう言って瞳に涙を滲ませるファイン。いっそ悔しいくらいそれが様になっていて、反射的にあたしは「分かったわよもう!」と言っていた。
「仲間? に入れてあげればいいんでしょ! お安い御用よそんなの! だから泣くのはやめてほんと」
「わぁい、やった! じゃさっそく……スイープちゃん、タキオンと研究室で何してたの? やっぱりその鞄の中身と関係あるの?」
やっぱり泣き真似だったらしく、ファインは一瞬で調子を取り戻した。あたしが脇に抱えたままの鞄を、びしっと指さしてくる。
「な、なんでこの鞄?」
「見るからに怪しいんだよね~それ。ぱんっぱんに膨らんでるし、すっごく大事そうに持ってるし。それにスイープちゃん、私が部屋に入って来た瞬間、急いでそれを閉めたでしょう? 何かを隠したんじゃない?」
「う」
鋭い……。
あたしはじりじりと後ずさりしながら、研究室の奥を仰ぎ見る。薬品棚の列の中から、タキオンはまだ帰って来ない。いったい何を手間取っているのだろうか。もしかして、本当は『味覚を醤油ラーメンに限定する薬』なんて無くて、あたしの苦戦を密かに楽しんでいるのでは?
「お願いスイープちゃん、それともやっぱり私じゃダメ?」
またしても、うるうるし始めるファインの両目。その魔法を弾き返すには、あたしの魔女修行はまるきり足りていなかった。