使い魔はなかなか戻って来なかった。
いったいあのバカはどこまで探しに行ったのだろうか。自販機なんて、駅のどこにだってあるはず。
あるいは何を買うか悩んでいるのかも。さっき、あたしは適当に「お茶」としか言わなかった。
あいつのことだから、カフェオレにするかほうじ茶にするか、心底しょうもない選択肢で迷っていそうだ。……というか、百パーセント確実に思考のドツボに嵌まっている。真っ暗なホームで佇んで、自販機のぼうっとしたライトを浴びながら。
あいつのことなら、あたしは何でも手に取るように分かる。だって、長いトゥインクルシリーズを三年間ずっと一緒に戦ってきた唯一のトレーナーで、使い魔なんだから。
「ほんっと……」
足元のアスファルトを蹴った。くぐもった反響が暗がりに吸い込まれる。それでも収まらず、また持ち上げて連打する。ほとんど地団駄のようになってもまだ続ける。
丁寧に整備されたホームは多少のキックじゃびくともしない。校舎の廊下のような、突き抜ける快音も響かない。ただあたしの脚だけが、一方的に疲弊する。
それでも闇雲に脚を動かしていたら、座ったままという姿勢が祟って、前のめりに転びそうになった。おでこをぶつける寸前で、ぎりぎりベンチに踏みとどまる。
間近に見えた黒一色の地面。電灯の淡い光が、数滴分の水玉を照らした。
慌てて起き上がって、袖でごしごし顔を拭った。するとなぜだか余計に惨めな気持ちが膨らんだ。目頭がカッと熱くなる。
「このっ!」
こんなんじゃダメだ。自分で言ったじゃないか、来年からはあたしも高等部だと。
帰って来たら謝ろう。振り返ってみれば、さっきの言動は自分でも大人げなかった。こんな遅い時間帯に、使い魔はあたしのためだけに駆け付けてくれた。その事にも感謝すべきだ。
心にそう決めた瞬間、ぱたぱたと走り寄ってくる足音が聞こえた。
使い魔にしては良いタイミングだ。たとえ苦いほうじ茶を買っていたとしても、満面の笑みで出迎えてあげよう。
音のした方を向いて「早かったじゃな――」
「ねぇ君!」
走って来ていたのは、見覚えのある赤セーターだった。
「今さぁ! 見なかった!?」
赤セーター……ラーメン屋であたしに話しかけてきた、あの意味不明で生意気な青年だ。
それが今、あたしの前で息を切らして立っている。それだけならまだいいが、なぜあたしにまたもや話しかけてきているんだ?
「あぁ? なによあんた。いきなり現れて」
訳が分からな過ぎて、こっちの対応も自然と乱暴になる。しかし彼はそんな事も気にならないようで、「あーだからそのさぁ! げほげほ!」と激しく咳き込みながら続けた。
「この人! 見なかった!?」
彼はスマホをあたしに差し出してきた。……しかし、そこには何も表示されていない。当然だ、スリープモードのままなんだから。
指摘するのも面倒だから「は?」と威圧気味に訊き返す。そこでようやく彼は失敗に気付き、焦った様子で手元に戻した。
「ごっごめん! 慌ててて!」
「見りゃ分かるわよ」
あたしの目の前に立ったまま、彼はタップ操作を始めた。しかし目当ての情報になかなか辿り着かない。待たされているこっちのストレスは増す一方だ。
「いやその前に説明が先でしょ。なんなのよあんた。まさか変態?」
「違う違う! 前も言ったけどほんと怪しい者じゃないんだ!」
「なら目的はなによ。盗撮でもしたいわけ?」
「違うって! 通報は止めて!」
あたしが自分のスマホを抜き放ったのを見て、彼はいよいよ顔面蒼白になった。手元の操作をいったん止めると、両手を合わせてぺこぺこしだす。
その挙動は不審を通り越して、いっそ哀れに見えたので、仕方なく110番は許してやることにした。何よりそろそろ使い魔が帰ってくるはずだ。妙な騒ぎは起こしたくない。
「はぁ。ちょっとは落ち着きなさい。まともに話もできないじゃない。……で? あんたの名前は?」
「え、僕?」
「他に誰がいるのよ。知らない人と話して、何かあったら困るでしょ」
「それもそうだな。僕はね……サンタ」
「舐めてんの? 蹴とばすわよ」
久々に本気でキレそうになった。こんなにムカついたのはデビュー戦以来かもしれない。
「待って! だからほんとにサンタなんだって! 信じてくれ」
あたしの殺気を悟ったか、その声にも必死さが宿る。彼はスマホをもう一度立ち上げると、「ほらこれ!」と電話帳を開いて見せてきた。そこには携帯番号と、男性名のようなものが表示されている。苗字の部分はやたら難しくて読めないが、下の名前は発音ともに非常に分かりやすかった。
「三……太?」
「そうだよ、三太! 数字の三に太い! だからサンタなんだって」
「いやバカにしてる? この時期に誤解を生むって分かったうえの確信犯よね?」
「あはは、そうなんだよ。もう鉄板ネタでさ。だから君くらいの子にはめちゃウケ痛ったぁ!」
堪え切れず、スネの辺りを軽ーく爪先で小突いた。それでも威力は十分だったらしく、彼は大げさなくらい飛び上がる。
「二度とあたしの前でそんな下らない洒落を口にしないで。あんたなんか……そう、トナカイで十分よ。ちょうどセーター赤いし」
トナカイ、トナカイと口ずさんでみれば、なんだか非常にしっくりきた。背丈はやたら高い癖に、顔つきはヒョロヒョロなところなんてそっくりである。決めた、この男のことは以降、会話でも脳内でもトナカイと呼称しよう。絶対に本名でなんて呼んでやるものか。
「せめて人間の呼び名にしてくれよ!? あとそいつが赤いのは鼻だろ!」
「いちいち細かいわね。ていうか、あんたの事はどうでもいいのよ。なんであたしに話しかけてくるわけ? そこが一番大事なんだけど」
「君が真っ先に訊いたんじゃないか……。はぁ……君が満足ならもうそれでいいや。話が先に進まない」
「全く困ったものね」
「いや君のことだからな!?」
肩で息をしているトナカイ。毎晩、ソリを引く練習で大変なのだろう。実にご苦労なことだ。
たっぷり十秒以上、呼吸を整えるのに費やした後、トナカイは「それでだ」と改まって言った。
「僕は今、この街でとある人を探していてね。さっきのラーメン屋にいたのも、その調査がてら。でも今日は無理かなって諦めて、電車で宿に帰るとこだったんだ。だから、ここで君と再開したのは本当に偶然なんだよ」
偶然という点をわざわざ強調したのは、変態呼ばわりがよほど心外だったようだ。……まぁ実際、あたしも言い過ぎだったかもしれない。なにより、こいつにウマ娘を襲えるような度胸と腕力は無さそうだ。
ただし人探しという部分は気になった。
確実に警戒されると分かっていて、トナカイはあたしに話を振った。つまり、それなりの根拠があるということ。尋ね人とやらが、あたしの知り合いである確率は十分に高い。
あたしの競走バとしての直感が言う。――その人物を確かめるべきだと。
「あんたさっき、スマホで画像を見せようとしてたわよね。その人の写真かなにか?」
「そうなんだけど……おかしいな。聞き込みでいつも使ってる画像のフォルダが、なんだかうまく出てこないんだよ。故障かな」
「は? そこだけピンポイントで故障するわけないでしょ。ちょっと見せて」
断られるかとも思ったが、意外にもトナカイは素直だった。ひょいとスマホを前に突き出して、あたしにも画面が見えるようにしてくれる。
「どれどれ? ……なぁんだ、非表示設定になってるだけじゃない」
一部のスマホでは、画像フォルダ名に特定の文字列を入力しておくと、それが一覧に表示されなくなる機能がある。トナカイはどうやら意図せずに、目当ての画像にそれを適用してしまっていたようだ。
何とも間の抜けたトナカイだ。これでは見つからなくて当然である。
しかしそんなあたしの指摘に対し、彼は「変だな」と首を捻った。
「そんな操作をした憶えは一切無いんだけど……。ていうか初めて知ったよその機能。どうしてこうなったんだろ」
「あたしに聞かないでよ。どうせ寝ぼけて誤タップしちゃったとかでしょ。バカやってないで、その人の写真を早く見せてくれない?」
「やけに食い付くなぁ君。最初は全然乗り気じゃ無かったのに」
「うっさい! で、見せるの? 見せないの?」
内心、ドキドキを悟られないか冷や汗ものだった。さっきから何の理由かは全く分からないけど、鼓動が速まって止まらない。自分でもあまりに不可解なそれを、一刻も早く解消したい。そんな一心でトナカイに迫る。
気付けばあたしは、彼の赤セーターにほとんど密着する寸前になっていた。
「わ、分かったって。……にしても非表示フォルダばっかりだな。えっと……確かこれだっけ」
彼が不器用な手つきでフォルダの一つを解除する。一瞬のロードを置いて、スマホが画像を全面に出した。
ーーーーーー
映っていたのは、がりがりに痩せこけた一人の少女だった。
撮った場所は病院だろうか。傍にあるのはパックの付いた点滴台。そこから伸びた青いチューブが横たわるベッドの内に繋がる。
毛布を被せられた彼女は胸から上だけを出している。長袖の入院服を纏っているが、首元と腕先……。露わになっている部分だけでも、その身体の異常はすぐさま見て取れた。
骨が浮き出るといった生易しい度合いではない。枯れ木の枝よりまだ細い彼女の腕は、今にもそれに突き破られんとしている。ちょっとでも衝撃を加えたなら、薄布を裂くような容易さで、脆い肉は崩れ去るに違いない。
完全に水気を失い、萎れ切った不揃いの髪。栄養失調で黒ずんだ爪。皮膚のあちこちに浮かび上がった青痣、手首には幾重にも連なる直線状の切り傷。
少女の身体の至る箇所が無音の呻きを発している。たとえ主が口にせずとも、どれほどの痛苦をそれがもたらしているか。万人に伝わる言語で如実に示す。
そしてなにより――目が厭だ。
骨と皮だけが織りなす出来損ないの細工を登った先にある、一対の眼窩。落ちくぼんだ穴ぼことしか表現できない瞳は、はや視力を失って久しいとさえ思える。どこまで覗き込んでも、そこに意志ある輝きは見つからない。あたかも逆にそこから光を吸い込んでいるかのように、鋳込まれた闇が映るだけ。
その黒点が離れない。視界から頭から――あたしの目から離れない、間違いなくこっちを、少女はあたしの方を、だってあたしは。
ーーーーーー
「げほっ!」
「だ、大丈夫!? ……ごめん! これ違った!」
「ごほっ……あっ」
「ごめんよ……! これは違うんだ。最初の頃のだから。次の……次の次を見せるつもりだったんだ。大丈夫かい!?」
耳元で聞こえる、トナカイの声。遅れて背中をさすられていると分かった。信じられないくらい気持ちが悪い。ようやく元の世界に視界のピントが合い、ホームのアスファルトが濡れていないことに少し安心した。
「本当にごめん……。僕がもっと注意してれば」
トナカイは何度も謝った。ガンガンと頭蓋に直接反響するようで、それが耳障りで仕方ない。
だからひたすら無視していたら、トナカイはやがて訊いてきた。
「なぁ……でも一つだけ、頼むから教えてくれないか? 君はこの女の子のことを――」
「知らない!」
大声で叫んだ。焼けたように喉が痛む。
「知るわけないでしょうが! 誰!? こんな人知らない!」
隣にしゃがみ込んでいたトナカイを力任せに突き飛ばした。手加減も何もしなかったせいで、軽く数メートルを転がる。線路に転落しなかったには不幸中の幸いだろう。
しかし彼はすぐさま起き上がった。真っ直ぐこちらを見据えたまま、それでもあたしに近寄ろうとする。転んだ拍子に痛めたか、その足取りはまるで覚束ない。それはまるで映画に出てくるゾンビのようで――。
「来ないでっ!」
反射的に拒絶した。
「帰って! あたし見たことないもん!」
数歩離れたところで、トナカイはぴたりと動きを止めた。驚き、焦り、それとも諦め? 彼の表情は一点に留まらない。何を考えているのか、あたしにはさっぱり。
ただ一つ理解できるとすれば、悪意あっての行動では無かった。だってもしそうなら、あんなに辛そうにするわけがない。
「……ごめん」
そして短く、呟くような小声で謝った。
これまでが嘘のように機敏な動作で身をひるがえし、彼は反対方向へ走り去って行く。あたしがまだ動けないでいる間に、ホームの階段に彼は消えた。
いつの間にか、辺りは何事も無かったように静まり返っていた。まるで初めから何も起きなかったように。
ぼうっとへたり込んでいたあたしは、這いずってベンチにどうにか戻った。背もたれに身体を預けると、多少は気が安らいだ。
するとなんだか眠たくなってきて、少しだけ目を閉じた。うたた寝のつもりだったけど、疲れていたせいもあって意識はすぐに薄れた。
目を覚ましたのは「スイープ、買ってきたよ!」という使い魔の声が聞こえてから。
ほうじ茶とカフェラテとブラックコーヒーと紅茶に加えてエトセトラ。おそらく全種のあったか~い飲み物を抱えてやってきた。
「遅い~っ! 待ちくたびれたわっ!」
怒ったふりをした。でも堪え切れなくなって、すぐに吹き出した。つられてすぐに使い魔も笑った。