【書籍化】 ま! よ! け! の! 塩! (120年分) 作:哀森賢人/哀しみを背負ったゴリラ
狭い空間だった。
大きさは、電話ボックスを二回りほど大きくした程度だろうか。
光が差し込む隙間は無く、四方の壁も天井も床も、時折生き物の様に蠢き、腐臭のする粘液で覆われている。
例えるのであれば、まるで、何かの胃袋の中であるかのような、そんな空間であった。
「……」
そして、そんな呼吸すらも苦しい空間の中で、少女は──東雲四乃は、まだ生きていた。
黒い荒縄で手足を縛られ、長い黒髪を粘液で汚され床に転がされている。
しかし彼女は、未だその意識を【ツリクイ】に囚われる事無く、保っていた。
──三日前。
成り代わりの集団による急襲を受けたその日。四乃は五辻レイに、二郷だけは守って欲しいと、そう言い残し、自ら矢面に立つ事で【ツリクイ】に自身だけを攫わせた。
四乃にとっても理解不能な状況であったが、圧倒的な数の不利を前にして、二郷を欠いた自分達では対抗できないと、そう判断したが故の行動であった。
二郷と四乃の両方が攫われてしまうよりは、遥かにマシであるから。
だからこそ、四乃は自分一人を犠牲にする事でその場を収めたのである。
実際のところ、二郷を攫わせて後から助けに行くという選択肢も存在する中。四乃の選択は決して最善ではなかったのだが……けれど、仕方がない。
四乃には、二郷を見捨てるという選択肢が思いつきすらしなかったのだから。
それに……襲撃を受けた際、二郷の側には、五辻レイが居たという事もある。
東雲四乃は──五辻レイという少女の事が、好きではない。
二郷の側にいて、二郷から遠慮がない距離で、言葉を投げかけて貰っているから。
二郷と同じ場所に、背中合わせで立っている様であるから。
四乃には彼女の様に、不条理に立ち向かう事の出来る、不思議な力が存在しないから。
だからこそ東雲四乃は、間宮二郷の力になる事が出来る、五辻レイの事が好きではなく……故に誰よりも、五辻レイであれば間宮二郷を守り抜いてくれる筈だと、信用する事が出来た。
そうして、二郷の為に自身を犠牲にする事を選択した彼女は。
しかして、二郷が無事に生きている事を信じている彼女は。
二郷に救われた命を、無抵抗に捨てる気などは毛頭なく。可能な限りあがくつもりで。必死で。
今も、化物と戦っている。
「う、む……中々、あたま、壊れないねぇ……」
粘液塗れの空間の床に倒れ、転がされている四乃。
その眼前には、人影がいた。この部屋に閉じ込められた時から、ずっと。初めからずっと──正座した人間の輪郭を、無数の蛞蝓で塗り潰したような。全身に蝸牛の殻が幾つも食い込み、頭部では触角が髪のように蠢いている、そんな異様な人影がいた。
四乃の顔を覗き込むようにしながら、明確な『言葉』を発したその化物は、手近に居た赤子の腕程の大きさがある異形の蛞蝓を掴むと、四乃の頭へと近付けていく。
その蛞蝓は、二郷に寄生していたモノと同じもの。
寄生し、やがて存在を置き換えるもの。
蠢く気味の悪いその蛞蝓を、化物はまるで、鳥が雛に餌を与えるように、真っすぐに四乃の口元へと向けて運んでいき……
「あ……また、消えた。だめ、だねぇ」
しかし、四乃が懐に入れているお守り。
間宮二郷の『魔除けの塩』が入った其れが、拒絶するように強く光ると、異形の蛞蝓は、化物の手首から先と一緒に、黒い灰になって消滅してしまった。
「ああ。嫌だねぇ。そのお守り、外してくれないかい? それか、寝てくれたら嬉しいよぅ」
「……しない。寝ない。眠れば深く付け込まれるのは、二郷くんが証明してくれた」
「大丈夫、大丈夫だよー……右眼、欲しいだけだから、貰ったらちゃんと一緒にするから」
「……あげない。一緒にするって、何」
「一緒。一緒さぁ。家族、みんなで、楽しく暮らすのさぁ。家の中で、皆一緒。外の事は、お母さんが、全部してあげるから」
声を出すだけで喉が強く痛む。不眠不休の活動に、脳が痛みを訴える。それでも四乃は、乾き張り付いた様にすら感じられる舌を無理矢理に動かし、投げかけられる化物の言葉に対して、返事を返していく。
「……お母さんって、何? 私は、あなたの娘じゃない」
「いやだよう、三津子。何を言ってるのさ。あんたはあの子と違って、ちゃんと娘さー」
「……あの子って誰」
「あの子……? あの子は、あの子さ。あの子……ああ、忌々しい。忌々しい子だよぉ!! 三那! あの人を誑かしたあの女の!! あああああああ!!!!」
会話の途中で、突如として狂ったように叫び出す化物。だが四乃は、表情一つ変えずに、その狂乱する姿をもじっと観察し続ける。その冷静さは、四乃が恐怖を感じていないから──ではない。
(……右眼が欲しい。一緒になる。家族。その内容までは過去と共通……最新の情報は、此れの自認が、二人の先生の母親であるという事。そして、一人を愛して、一人を嫌っている)
冷静に見えるのは、既に、恐怖の感情が上限に達し、擦り切れているからだ。
そして、この三日間。攫われ閉じ込められてからずっと、四乃と化物との間で、同じような言葉の遣り取りが、何度も繰り返し行われてきたからでもある。
「ああ……ああ……そうだ。右眼。その右眼で、家族が取り戻せるの。だから頂戴ね?」
「……っ」
そして、一通り喚き散らした後、暫くの沈黙を経て。化物は、魔除けの塩で失われた蛞蝓の手を、周囲の蛞蝓をかき集める事で再生すると……再び、それを四乃に近付けた。
そしてまた、化物の手は黒い灰となり床に落ちる。
繰り返し。馬鹿の一つ覚えのような繰り返しであった。
会話もする。問いにも答える。しかし、手段が何一つ変わらない。
まるで、壊れたレコードが同じ小節だけを演奏し続けているようだ。
当事者の四乃ですら、遣り取りが何度繰り返されたのか数えるのをやめてしまっている程に、この化物の感覚は完全に狂ってしまっている。
そして……だからこそ、現在の四乃はただひたすらに、化物への情報収集に努めていた。
自身の右眼を──かつて【モリガミサマ】が巣食っていた右眼を奪おうとしている化物。
身動きの取れない今は、その目的と原因を洗い出す事しか出来ないから。そして──其れであれば、出来るから。
「三津子、お母さんと、お家で暮らそう? お外は危ないからねぇ。子守歌、歌ってあげようねぇ」
「……外は危ないって、何」
「危ない? 何を言っているのさ。お母さんが居れば大丈夫だからね……ほら、車に気を付けようね。いつもありがとうねぇ」
不明瞭な言葉と狂気を、少しずつ。ほんの少しずつ、解体し、紡ぎ、繋げ、形を整えていく。
(……母親。姉妹。家に帰る。外は危ない。家族で暮らす。三那。笹島先生。三津子。三塚先生。誑かした。車──……っ)
脳の奥が痛い。三日もの間、一睡も、水と食料の摂取すらも許されず、衰弱した体は、常に苦痛に悲鳴をあげている。
けれど、それでも……記憶に繋ぎとめ続けた、化物が発した意味不明な言葉の羅列は、数多積み重なる事で、牛歩のごとく、しかし着実に、四乃をその正体へと誘い──。
「……貴女は、私の右眼を使って、家族を取り戻そうとしている?」
霞んだ思考で、半ば意図せず四乃の思考から零れ出たその言葉。
それを受けた化物の動きが、不意に止まった。
いや、化物だけではない。ずっと気味悪く蠢いていた、床も、壁も。
その全てが動きを止め────そしてその直後。
「ん……あ、あ? とり、とり、とりもどす……あ……そうだ、とりもど、あああ!! 返せええええ!!!! おみずみさまに渡すものか!! この子達は私のなんだよぉ!! ああああああ!!!!」
「……っ!?」
初めてだった。
今まで不明瞭な会話と同じ行動を繰り返すだけだった化物。その反応に、初めて変化が現れたのである。
爆発するような怒声とともに、蛞蝓に覆われていた化物の頭部が、左右に裂ける。そして────その中から、人間の顔が現れた。
笹島三那でも、クラスメイト達でもない。
現れたのは、見知らぬ人間の。どこにでも居そうな中年女性の、怒りに歪んだ顔だった。
無数の蛞蝓に首から下を覆われたまま、その女は、先程までの思考の曖昧さが嘘のように、異形の蛞蝓で構成されたその両腕を、明確な敵意を以て四乃の首へと伸ばす。
「返して返せ!! 渡すものか渡さない渡さない!! 私のだぞ!! 返せ返せ!! 返せええええ!!!!」
当然の事ながら、伸ばした腕は四乃を守る塩の力で黒い灰になり消え去ってしまう。だが。
「なんで、どうしてこんな目に遭わないといけないのぅ!! 返せ返せ! 暮らすんだよぉ!! だって勝ったんだから! 私が!! みんなでぇ!! 私たちはぁ!!!!」
消されても、消されても、周囲の壁が異形の蛞蝓を生み出し、消えた分の肉を補っていく。じりじりと……けれども確実に。四乃を守っていた魔除けの塩が、化物を削った分だけ、その量を減らしていく。
「……っ」
明瞭に加速した危機。
しかし、四乃は、その狂気を前にしても視線を逸らす事はしなかった。
本来であれば、黙るべきなのかもしれない。黙って、耐えて、少しでも長く生き延びる事を考えるのが正解なのかもしれない。
けれど……それでは、同じだから。かつて【モリガミサマ】に憑かれ、苦痛に耐え、ただ死を与えられるまでの時間を待つしかなかった頃と、同じでありたくないから。
だから四乃は、今の自分の戦いの場から、下りる事を選ばなかった。
「……貴女は『何か』から家族を守ろうとして、失敗した。そして……失敗した後に『何か』に勝ってしまって、そうなった」
どちらにしても、待っているだけではいずれ、魔除けの塩の守りは消え去ってしまう。
ならば、多少の時間を失おうと、更に踏み込む。化物が化物たる核を暴き出すために。
今度こそは、助けられるだけではなく、助けとなる為に。
「違あう!! いない、いないよおおお!!! なんでええええ!!! 三那ああああ!!! 三津子おおおお!!!!」
そして次の瞬間。化物の叫びに呼応するように、周囲の壁が大量の蛞蝓と蝸牛を吐き出し始めた。
その狂乱こそが、四乃が核心に触れた証明であり、そして……化物を消す度に弱くなっていくお守りの光は、四乃の命の猶予が僅かである事の証明であった。
「……あなたは────」
それでも。また。あと一つだけでも。
四乃は、その無表情の下に滲む恐怖を抑え込みながら、更に言葉を投げかけようとする。
危機である事を知りながらも、けれど、化物との言葉での対峙を続ける事を選ぶ。
それは、傍から見れば単なる暴挙であり、けれど、四乃にとっては必然の選択であった。何故ならば────
「────団地系の話で化物が隠し事すンならあああ!! 此処しかねぇよなああああ!!!?」
轟音と共に、金属の棒──その先端が、四乃が囚われている空間の壁を突き破った。
更に、金属棒が力任せに捻られる事により、粘液塗れの壁の孔は、無理矢理に押し広げられ、引き裂かれていく。
暗闇の中に注ぐ僅かな星の光。流れ込む、生臭い匂いがない夜の空気。
そして、広がった空間。壊された『貯水槽』の外側に見えたのは────。
「いよう、東雲四乃ちゃん!! ワリィなぁ、寝坊しちまってぇ!! 随分と待たせちまったかぁ!!!?」
恐怖に口元を引き攣らせながらも、四乃を安心させる為に無理矢理に浮かべた笑み。
右手に貯水槽の壁を壊したバールを持ったままの、チンピラじみた──世界の何よりも四乃を安心させるその姿。
このような危険な場所に来て欲しくは無かった。
化物の前に立って欲しくなど、無かった。
来ると知っていた訳でもなかった。
けれども、その上で────来てくれる事を信じていた、少年の姿。
四乃にとっての
「……うん、待ってた」
だからこそ四乃は……未だ化物の前であるにも関わらず、思わず小さな笑みを浮かべてしまったのであった。