1.
巨大隕石が地球に衝突します。
今やフィクションですら聞かなくなったそんな事実は、朝のニュース番組で淡々と告げられた。文字通り世紀のニュースだというのに、表情を変えずに決められた内容を読み上げていくアナウンサーが印象に残っている。
当時の僕が何を考えていたのかは忘れてしまった。けれど、焼きすぎたトーストに齧り付くのも忘れて、静かに液晶テレビの薄い画面を眺めていたことは覚えている。
曰く、その隕石の衝突は免れないらしい。
曰く、その質量は膨大で、衝突した後の地球がどうなるかは、想像に難くないらしい。
曰く、その隕石は、遅くとも一年以内には衝突するらしいーーー。
ぼんやりそんな事を回想していた僕は、部屋に掛けられたカレンダーに目を向けた。
七月二十日。
あのニュースが報じられてから、今日でちょうど一年になる。
2.
伽藍としたリビングでコーヒーを飲む。
窓から空を見上げると、月よりもずっと大きくなった隕石が刻一刻と地球へと迫って来ているのが見える。そんな非日常があるというのに、変わらず鳴き続ける蝉の声が歪に聴こえて、たまらず窓を閉めた。
隕石は、発見者である日本人によってアメリカでのハリケーンの例にあやかり『沙耶』と名付けられた。史上類を見ない大発見を日本人がしたことに喜ぶべきか、それともお門違いにそんなものを見つけてしまった事を責めるべきか。当時から、世の日本人は困惑していたように思う。
隕石の存在が確認できてから、文字通り世界は一変した。
世界が明日に滅ぶなら、なんていうステレオタイプな問いかけがある。
いつもと変わらずに過ごす。家族と一緒に過ごす。そんな答えをよく耳にしていたから、案外世界は変わらずに、ただ終わりを待つだけだと思っていた。
けれどその期間が一年になった場合、それらのもしもは何の意味も持たないらしい。
どれだけ重篤な罪を犯そうとも、懲役の期間が定められている。死刑の宣告をされようとも、どうせ一年以内には死んでしまうのだ。捨てるものの無くなった人間というのは怖い。最初の一月は、もっとも多くの人間が死んだ一ヶ月になった。
あいつが憎かった。そんな理由なんて可愛いものだ。人体の構造を生身で見てみたかった。一度人を殺してみたいと思った。そんな興味が、隕石の存在によって正当化された。強姦などの報道もこの頃が一番多かったように思う。
どうせ一年以内にはみんな死ぬのだから、今どうなろうが誤差じゃないか。生放送で中継された裁判の映像で、被告人が吐き捨てるようにそう言ったのを覚えている。歴史に刻まれた大量殺人の倍以上を一人で殺した男の台詞だ。元は平凡なサラリーマンだったらしいその男は、細身で、眼鏡をかけていて、虫も殺せないような風貌だった。
日がな一日中放送される似たようなニュースを観ると、自分の中の常識も次第に麻痺してしく。恐ろしいものだ。人の死に慣れることなんて、あってはならない筈なのに。今日は何人死んだ。今日は何人死んだ。繰り返されるそれらの文字は、つまらないドラマを観ているみたいに僕の目に映った。
それでも、狂気は長くは持たないものらしい。
一月を超えた辺りで、そんなニュースはパタリと止んだ。一転して増えたのが、世界のあちこちで踊り狂う民衆の姿だ。
ええじゃないか、ええじゃないかと叫びながら無秩序に手を挙げる様は違った狂気に満ちていて、僕はそのニュースからは意図的に目を背けていた。古い記憶にあるかつての運動を模倣しているのだろうが、果たして昔もこんなだったのだろうか。
また、どちらが先か、新たな信仰宗教が生まれたのもこの時期だった。
史上、さまざまな宗教で世界の終わりについて、若しくは死後の世界についての予想がされてきた。けれど此度の騒動で、そのどれもが間違っていたと答えを出されてしまったのだ。終焉を告げる笛の音は聴こえない。転生しても、生まれ落ちる場所がない。世界中の熱心な教徒たちは、皆縋るものを失っていた。
そんな中で、これが世界の定めだと声高高に告げる者が現れた。それも何処かの国で始まったわけではない。同時期に、同じ考えとそれに見合ったカリスマを持つものが複数現れたのだ。
アジアの宗教。アメリカの宗教。アフリカの宗教。他様々な勢力が徐々に拡大していった矢先、衝突した、のではなく境界が混ざり合ってしまった。同じ意思を持つなら、我らは同志だと肩を組んで。今日、世界で最も信者の多い宗教は間違いなくその宗教だろう。一説によれば、地球人口の約九割が入信しているらしい。
時に戦争の火種とさえなった宗教が、世界の終わりを前にして皮肉にも一つになったのだ。教祖の名前を尋ねられれば、彼らは口を揃えてこう言うーーー我らの教祖は、沙耶様だ、と。
彼らの行動はわかりやすい。ただ集まって、踊るだけ。祈りを捧げる時間も無ければ、修行を行うこともない。食う間も惜しんで踊り、寝ることもせずに踊る。数日間続けてその催しが行われた際には、幾多の死者が出たらしい。当然だろう、人間は飲まず食わずでは生きられない生き物なのだから。
けれど、そんな宗教について、僕は未だに懐疑的な思考を持っていた。かつて何かの宗教に入信していたわけではない。ただ、単に答えが出てから発足するなんてずるいだろうという子供みたいな理由。それでも、ものを嫌うのに道理を問われる謂れはないはずだ。だから僕は胸を張って主張しよう。こんなもの、ただのペテンに他ならないと。
窓から覗いた嘘みたいな快晴がやけに気になって、靴箱に立て掛けられていた袋を手にとり、僕は二年ぶりに家の外へと飛び出した。
玄関の鍵は掛けなかった。
3.
隕石が近づくにつれ、地球の気温は僅かにだがしっかりと上昇していった。先月あたりから、史上観測された最高気温は日毎に更新されていった。北国であるはずのこの街も、間違いなく40度を超えているだろう。帽子をかぶってきて正解だった。
文字通り地球最後の日だというのに、街は驚くほどに閑散としていた。それはこの猛暑の所為ーーーなどではなく、単にあの宗教の大規模な集まりが世界各国で開かれているだけだ。今日ばかりは、すっかり狂った交通の便も限定的に復活を果たし、全ての公共交通機関が首都へと激しいダイヤで動いている。この暑さで密集だなんて想像もしたくない。きっとまた多くの死者が出るのだろうーーーそう考えて、僕は自分の考えが愚かだと悟った。そもそも、日を跨ぐことなく人類は皆死ぬのだった。あの犯罪者ではないが、これこそ遅いか早いかの誤差でしかない。
隕石はその姿を先刻よりもさらに大きくしていて、いよいよ衝突するのだなと僕に確信させた。隕石の発見から、多くの研究者が様々な対抗策を考えていた筈だ。他の惑星への移住計画だとか、地球を公転から外す方法だとか。巨大なロケットをぶつけて隕石の軌道をずらす方法なんて、昔見たロボットアニメの結末じみていて大笑いしたものだ。それ以降のニュースは見ていないが、頭上に変わらず存在するその姿を見る限りどれもが上手くいかなかったのだろう。
研究者の他にも、僅かながら確かにそれまでと変わらず仕事に邁進する人間が存在していたのを覚えてる。言うなれば、地球最後の日の問いに対する模範回答をなぞった人間だ。彼らこそ現状を受け入れている強かな人間で、僕もそう在りたかったなと柄にもなく思いもした。けれど、中には現状なんて到底受け入れられなくて、ただ仕事に没頭することで無理矢理頭から隕石の事を追い出していただけの人もいたと知った際には前述の過程もあって一層落ち込みもした。結局それでは、あの奇妙な宗教に入り、日がな踊り狂う民衆となにも変わらないではないか。最も、以前から引き篭っていた僕には関係の無い話なのだけれど。
適当に住宅街を歩き回ると、視界の端にコンビニエンスストアを捉えた。見覚えがないから、きっと僕が引き篭った後に出来たのだろう。中に入ってみると従業員は一人もおらず、店内は荒れに荒れていた。食品コーナーからは全ての商品がその姿を消していて、飲料も同様だった。生活用品や雑誌などはかろうじて在庫があったが、それでも殆どが姿を消していることは変わらない。冷房が変わらずに効いているのがかえって気味が悪かった。僕はそんな店内を少しだけ散策したのちに、僅かに残ったライターと蝋燭、さらには唯一枯れずに残っていた小さな花束を手に取った。急がないといけない。経路がわからないから適当に歩いてはいたが、僕にだって目的地は存在するのだ。財布から引っ張り出した千円札を二枚レジに置いて、僕は店を後にした。
4.
記憶を頼りに見覚えのない道をただ歩く。引き篭っていた期間なんて、そうでなかった期間の半分にだって満たないはずなのに、遠い昔の出来事のように思える。つい数年前まで、僕は手を引かれてこの辺りを歩き回っていたはずなのに。
それから、茹だるような暑さの中、目的地までの距離の遠さに僅かではない後悔をした。こんなことなら大人しく自転車を引っ張り出してくれば良かった。見上げると、太陽と隕石の他は真っ青に塗りつぶされていて、考えなくてもわかるようなそんな結論にも至らなかった自分に苛立ちを覚えた。けれど、引き返すには僕はすでに歩きすぎてしまった。
額の汗を拭うこともせずに、ただ歩く。
隕石は刻一刻と地上へと迫っていて、自分がやろうとしていることがしっかりと達成できるのか、少し不安になった。大凡恥ずべき点しかない人生を送りはしたが、後悔は無かったはずだ。それなのに、わざわざ最期の最期になって心残りが出来るなんて無様すぎる。ひぐらしの声に急かされるように、僕は歩く速度を上げた。
信号も無視、歩道を歩くことさえ億劫で車道の真ん中を歩いてはいるが、それにしても車通りの少ないことに驚きを覚える。殆どの人間があの宗教へ入信しているだなんて大袈裟な話だと信じていなかったが、この現状を見る限り本当のようだ。そこまでして、苦痛から逃れたいものなのだろうか。ただそんなことを疑問に思う。
拝借したビニール袋をガサガサと揺らして、舗装された山の斜面を登ると、いよいよ目的地へと辿り着いた。
そこは山間なのもあってか、僅かに気温が低いようにも感じる。そういった眉唾を信じるのが、僕も、それから彼女も好きだった。肝試しだなんて罰当たりなことだってここにきてしたことがある。
僕の目的地は、山道から入る小さな寺ーーー正確には、その裏手に広がる墓地だった。
5.
小さくない音を立てて手押しポンプを動かして、備え付けられた手桶に水を溜めた。ここの水源は時代に似つかわしくない井戸だ。かつて、物珍しさから意味もなく水を汲み続け住職にこっぴどく叱られた記憶がある。
柄杓を無造作に突っ込んで本堂の横を抜けた。ぱちゃぱちゃと跳ねる水がシャツの端を濡らすが、かえって涼しいくらいで気にならなかった。
かつて彼女と訪れたあの日で、時が止まっているようだった。まるで知らない景色になった街を通ってきたからか、その印象は一層強いものになっているのかもしれない。
似たような墓石の間を静かに歩く。あの日、一度だけ尋ねた記憶を辿り、だいたいの場所に当たりをつけて動いたつもりだった。それでも正確な位置を把握しているわけではないから、目的の場所の近辺では一つ一つの墓石に彫られた名前を確認しながら、ゆっくりと歩みを進めた。
彫られた名前を読み始めてから、丁度五つ目だった。目的のものは、あっけなく僕の眼前に現れた。
「……久しぶり。」
“上野家ノ墓”
そう刻銘された墓石は、コピーペーストしたような群の中で、一際異彩を放っていた。
6.
『ねぇ、何を読んでるの?』
これはもう十年前にもなる、初夏の記憶の1ページ。
彼女はその艶のある黒髪を煌めかせて、人気のない裏庭で本を読む僕の傍に立っていた。
初めはおかしな女だと思った。
僕の家の事情なんてこんな田舎街では知らない人などいないだろうに、それでもなお色眼鏡無くーーー少なくとも、当時の僕はそう思ったーーー話しかけて来た姿にかえって気味の悪ささえ覚えた。
『……罰ゲームか何か? 生憎、そういうのは間に合ってるんだけど。』
僕は自分の見た目が整っていることを子供ながらに自覚していたから、とりわけ女子については全てを疑ってかかっていた。かといって男子の中にも仲の良い友達がいたなんて事はなく、有り体にいえば僕は爪弾きもののいじめられっ子だったわけだ。
詳しくは知らなかったけれど、自分の家がどういう状態かはなんとなく理解していたし、それもまた僕の捻くれた性格に拍車をかけていた。近づこうとする人間は全て打算で、そうでなければ僕が気に食わないやつ。そんな簡単な図式が頭の中に根を張っていた。
『そ、そういうんじゃないよ! ただ、私の周り、あんまり本を読む子っていないから……。私も本、好きなんだ。』
しかし、だからだろう。子供の思い込みなんて、綻びさえ突いてやればすぐに瓦解するものだ。結果的に、僕は彼女に絆されたわけなのだから。
この言葉を馬鹿正直に信じた訳ではない。けれど、今更僕の前で取り繕う必要を感じなかったから、僕は素直にブックカバーを外して見せた。
この選択が異なれば、きっと僕の現在は違ったものになっていたのだろう。
『……オスカー・ワイルドかぁ。私も好きだよ。』
私たち、気が合うかも。
これが僕と彼女ーーー幼馴染との出会いの一幕だった。
7.
「……暑い。」
口からそんな文句が漏れる。体感気温が多少下がったところで、遮られることなく照りつける太陽の光と、それから隕石の熱は僕に不快感を抱かせるには十分だった。
僕はまず、幼馴染の墓周りの草毟りから行うことにした。
彼女の墓が異彩を放っていたというのは比喩でもなんでもなく、ただ周りに比べ手入れがあまりにされていないためだ。敷き詰められた石を掻き分けて雑草が生い茂り、表から見えるだけでも両手の指では下らない数の蜘蛛の巣が張られている。一目見て、この墓には数年単位で人が訪れていないことがわかった。
この行動は僕の自己満足だ。僕は別に死者がこの墓に本当にいるなんて一度も考えたことは無い。けれど、いっそ芸術品と見間違うくらいに綺麗だった彼女を唯一象徴するものが荒れ果てた状態でこの世から消えることが許せなくて、柄にもなく僕はこんなことをしている。
だから決して罪滅ぼしなどではない。自分にそう言い聞かせて、再び作業に戻る。胸の奥の方に走った、小さくしかし鋭い棘のような痛みには気が付かないふりをした。
生えきった雑草はその数の多さから目を背ければ、かえって抜きやすくありがたかった。根本から引っこ抜いたそれらを手桶と同様に拝借したちりとりに積んで、ある程度の量になったら奥の茂みに放る。この単純な作業を既に五往復していた。
作業は黙って行った。先にも述べたように、墓石に語りかけるなんて狂人じみた真似は行わない。かといって彼女との思い出を回想するわけでもなくただ頭を空っぽにして、目先の行動だけに没頭していた。
それが一番楽だった。
それから更に一時間が経った。あらかた目につく範囲の草をむしり終えて、ついでだからと掘り起こされた土を戻そうと四苦八苦していた、その時。
「あら。」
なんて、後ろから声をかけられた。
人気の無さから、てっきり此処には自分しかいないものだと思っていた僕は予想外の出来事にただ飛び退くことしか出来なかった。寧ろ、声を上げなかっただけよくできた方だと思う。墓石に強かに打ちつけた腰の痛みが遅れてやってくる。
視線の先には、見覚えのない妙齢の女性が立っていた。申し訳なさそうな顔をしているところを見るに、ばっちりと僕の奇行は見られたのだろう。
「あぁ、ごめんなさいね。驚かせるつもりはなかったのだけど。」
腰も痛むでしょう。そう言って彼女は頭を深く下げた。
「あぁ、いえ。すみません、こちらこそ。腰は、まぁ。」
しどろもどろになりながらなんとかそう返すと、ようやく女性は曲げた腰を元に戻して此方に視線を戻した。
帽子から覗く髪は白く、顔にはいくつもの皺が刻まれていた。目は細められていてよく見えないが、これは笑っているのだろう。
「いえいえ、そんな。ただ、若いのに殊勝な心掛けだと思って、つい年寄り振って声を掛けてしまって。」
「心掛けなんて……。自分のは、そんな。」
そこまで言って、口を噤んだ。見ず知らずの人間に自分の動機を話したところで訳がわからないだろう。他でもない自分すらわからないのだから。
「えっと……。お婆さんも、お墓参り……ですよね。」
なんとか話題を変えたくて、頭を回して出た台詞は、自分が尋ねられれば当たり前だろうと思うような陳腐なものだった。
そんな僕の心情などつゆ知らず、眼前の女性は柔らかい声で答える。
「えぇ。最期の時くらいは、夫と一緒に迎えようかと思って。」
「ご主人、ですか。それはまた。」
「私くらいの歳になるともういつ死んでもおかしくないのだけど。自分で“その時”を決められるなんて、私は幸せものかも知れないわ。」
そう言ったあと、すこし逡巡した女性は「不謹慎かしら」と自問した。
臆面もなくそう言ってのける姿は、日差しの所為なのか、僕にはとても眩しいものに見えた。
「貴方は……おいくつ?」
「今年で18になります。」
「そう……。それはまた、残念な話ね。」
女性は悲しそうに目を伏せる。若い芽がこんな形で摘まれることに対して本気で憐んでいるようで、なんだか僕はくすぐったさを覚えた。
僕がいつ死のうと残念なことなんてないだろう。事実、この二年間は引き篭もりなんて死人とほぼ同義の生活をしていたわけで、だからといって世界がどうこうなったわけでもなくて。
ーーーいや、世界はどうこうなったのか。
けれどそれは別に僕が引き篭もらなくても変わらない話だ。くだらない思考を、かぶりを振って追い出した。
「そのお墓は、家族のもの?」
不意にそう尋ねられた。これは不謹慎に当たらないのか。そんなことを思ったが女性の目には僅かに謝罪の色が滲んでいる気がした。一応思っているらしい。
家族の墓なんて気にしたこともないという事実は、流石に口にはしなかった。
「……いえ、これは友達の……幼馴染のものです。」
別段隠すようなことでも無い。僕は正直に打ち明けた。
「幼馴染の……。」
女性はこちらをじっと見つめて、しかし頭では何かを考えているようだった。その内容はわからない。
生まれた沈黙は、居心地の悪いものでは無かった。
やがて、彼女は再び目を細めて口を開く。
「……彼女は幸せ者ね。」
「……え、は?」
「……今は世界中でお祭り騒ぎ。誰も彼もが自分の悦楽の為に動いている中で、こんなにも一途に思ってくれている貴方がいて。私は人の死に方にどうと言える立場でも無いけれど、貴方のそれが眩しい在り方で、彼女が幸せなことはわかるわ。」
同じ女として、妬けちゃうくらいにはね。そう言う女性は、先程よりも幾らか若く見えた。
「……どう、して。そも、幼馴染が女だって僕は一度も。」
「そんなの、簡単なこと。」
貴方の顔に書いてあるものーーー。
そう言って、女性は上機嫌に奥の方へと歩いて行った。その足取りは老人とは思えない程に軽かった。
僕はただ、その背中を黙って眺めていた。
僕が彼女に抱いている気持ちは、そんな綺麗なものじゃない。そんなことはこれまで幾度となく考えて、そしてその度に否定してきたものだ。
それでは、僕は一体どんな顔をしていたのだというのか。
答えの出ない問いに頭のほとんどをもっていかれながらの作業は、自分でも驚くほどに効率が良かった。
8.
僕の家は、それなりに裕福な家庭だった。
野心家の父が一代で築いた財産が端金ではないことは、幼い僕にもわかるほどだった。
だから父の周りには沢山の人が集まっていた。どうにか父に取り入ろうとするものは、決まって僕に近づいた。将を射んとすればなんとやらという諺があるが、周りの人間にとってあの時の僕は間違いなく父にとっての“馬”であった。思えば、あの経験が更に僕の人間不信を助長させていたのだろう。欲に目が眩む人間というのはわかりやすい。甘言ばかりを吐いて、それから最後には決まって父の名前を挙げるからだ。子供同士、なんて言って自分の息子や娘と僕を仲良くさせようとする人もいた。ほとんど僕と変わらない年齢で親の“馬”であることに疑問を抱かない彼らは、ただただ不快感だけを僕に与えた。
しかし仮に僕が心を開いたとて、父がそれに応えたかはわからない。そもそも父は、僕のことをあまり好いてはいなかったからだ。自分に似た顔の僕を、なにか薄気味悪いものだと思っていたのかもしれない。父に遊んでもらった記憶なんて存在していないのがなによりの証拠だろう。
さて、僕が初めに裕福だったと過去形で表現したのは、別に回想の話だからではない。ただ父の天下が長くは続かなかったからだ。
僕が小学生に上がってしばらくが経ったある日。父の賄賂が内部からの告発によって明るみに出た。
それが新しい事業を始めようとしていた時期だったのが、狙ったものなのか偶然だったのかは分からない。けれど、その告発によって芋づる式に父の隠していた数々の不祥事が暴かれていった。
全てが終わる頃には、父の手元に残ったものは多額の借金と、世間からの好奇の目だけになっていた。
世間の目から逃れるように、当時の僕ら家族はこの田舎に引っ越した。
そしてそれが、僕と幼馴染が出会った時期に重なる。
9.
『今日は山に探検に行かない?』
幼馴染は、その浮世離れした見た目とは裏腹に随分と行動的な性格をしていた。
虫に触ることにも躊躇いがなく、靴が泥で汚れようがお構いなし。いつもその宝石のような瞳をキラキラと輝かせて、あちこちに僕の手を引いた。
堕落し酒に溺れた父親の暴言と暴力に辟易していた当時の僕は、随分とその笑顔に救われていたと思う。
けれど、せっかく掴んだその手を離したくは無くて、家族の話はしていなかった。
『探検って……、当てはあるの?』
『当てが無いから探検なんじゃない! ほら、行こう?』
どうして僕を誘うのか。彼女の性格なら、もっと沢山の友達が出来るだろうに。そうは思っても、学校には勿論友達が居なかったし、そもそも自分の立ち位置に優越感さえ覚えていた僕は深く考えることをしなかった。
幾つもの絆創膏が貼られた彼女の腕を、しょうがないなと眺めながらその後ろを歩いた。
『こんなところに、お寺なんてあったんだ……。』
思えば、唐突に始まった僕らの“冒険”は、彼女なりの案内だったのかもしれない。
越して来て右も左も分からず、それでも周囲の人間からの決して良いとは言えない注目を集める身として、街中はあまりに息苦しかった。彼女は当てがないなんて言っていたが、その歩みに迷いはなく、何処か目指す場所があるということはなんとなくわかった。それを指摘するなんて無粋な真似は勿論しなかったけれど。
『あのお墓、私のお母さんが居るんだ。』
『この川、昔から河童がよく悪さをするんだって。』
『ここの畑、今は誰も使ってないらしいから、いつか私たちで何か育てよう!』
ときには獣道さえ行くその跳ねるような足取りは追いかけるのも一苦労で、けれどそれ以上に楽しさが勝っていた僕は夢中で彼女の白い帽子を追いかけた。その口から鈴の音のような声で聞こえる案内は殆どが眉唾のようなものだったけど、浪漫があるな、だなんてつまらない感想を抱いた。
僕ら以外に人影は無く、ぼくは初めてただの“僕”になれたような気がした。懇意にしたい社長の息子でも、世間を騒がせた犯罪者の息子でもない僕。思えば彼女は初めから、それだけを認めてくれていた。だから僕の警戒心も初めから機能せず、容易に取り入られたのだと思う。
二時間ほど山道を歩き、太陽が南から少し西へと傾き出したとき。僕らは、やがて開けた空間へと躍り出た。
『これは……線路?』
『うん。此処が本当に私が見せたかった場所。』
騙してごめんね、なんて彼女は悪びれる様子もなく舌を出して言った。
『此処は昔、この山で働いていた人たちが使っていた線路なんだって。』
『てことは、今は使われてないの?』
『うん。見ての通り、もう整備もされてないから、誰も此処には来ないよ。』
確かに彼女の言う通りその線路はボロボロで、とてもでは無いが使用できるようには思えなかった。線路を敷く際に辺りの木々は切り倒されているようで、青い空が良く見えた。
黙りこくる僕を一瞥して、彼女は続けた。
『……此処はね。私に悩み事があるときによく来るの。』
『……驚いた。■■に悩み事があるの?』
『失礼だなぁ。私だって、あるよ、悩み事くらい。……色々とね。』
少し翳りのある表情で、彼女は言った。それが何かを聞くには、僕には彼女との関係も勇気もなかった。
『……そんな場所を、どうして僕に?』
『此処をね。二人だけの、秘密の場所にしない?』
『そ、れは。』
秘密の場所を教えられるほど、彼女と仲良くなった覚えはなかった。確かに暇さえあれば彼女といて、話をしていた自覚はあるけれど、それは僕視点の話であって彼女からすれば僕は数多いる友達の一人に過ぎないと思っていたからだ。彼女は学年が一つ上だから、学校での彼女を覗き見たことが無かった。
固まる僕を見つめるその瞳は暖かい。僕にそんな目を向けないでくれ。叫びたいほどだった。今まで僕に向けられた瞳はそのどれもが欲や悪意に満ちていたから、そんなふうに見られたらどうすればいいのかが分からない。どうしたら、彼女は僕に失望しないでくれるだろうか。
考えれば考えるほど答えが遠くなっていく。僕の目からは涙が溢れていた。どうして。自分で自分がわからない。
『……いいんだよ。よく頑張ったね。』
不意に、彼女に抱きしめられる。気温は高くないとはいえ、山登りをしたのだから汗をかいていておかしくないはずだ。なのに彼女からは花のような香りがして、それからその体温の冷たさに心地が良くなった。
弱みを見せまいと生きてきたから、人前で涙を流すのは物心がついてからこれが初めてだった。顔から火が出るほど恥ずかしいのに、そこから動くことが出来なかった。
『……父親がさ。あんなこと、してさ。』
『うん。』
やめろ、そんなことを彼女に言って何になる。掃いて捨てるほどの見栄と、彼女に見放されることへの恐怖心が警鐘を鳴らす。
『僕、も、わからない、のに。だけど、みんな、犯罪者の子供だ、って、言ってさ。』
『うん。』
けれど、口から溢れる言葉は止まらない。支離滅裂で、自分でも何を言っているか分からないくらいなのに、彼女は優しく、ただ僕の話に耳を傾けていた。
『そしたら、さ、父親まで、言い出して、どころか、なんで殴られるのか、わからないのに、僕、だって、痛いのに。』
『うん。』
そこからは言葉にならなかった。ただ赤子みたいに、わんわんと彼女の腕の中で泣き続けた。彼女の腕の中は、それくらいに安心出来る場所だった。
説明もしていないから、その殆どが彼女にとって意味のわからないことだったと思う。けれど彼女は一度も聞き返すことなく、ただ僕の話を聞いていた。
一通り泣いて、僕が落ち着いた頃には太陽はもう西に傾いていた。真っ赤に染まった空が不気味に思えて、僕は彼女の手を強く握った。
彼女は柔らかく微笑んだあと、いくつか僕に呟いた。そのほとんどが大丈夫、とか、私は味方だよ、なんて僕を安心させようとする言葉だった。
だからこそ、最後に彼女が呟いた言葉は妙に耳に残っている。僕の知る彼女が言いそうにもない、聞き間違いを疑うほどのひどい台詞。
『こんな世界、ブッ壊れちゃえばいいのにね。』
そうしてその五年後、彼女は学校の屋上から飛び降りてその命を自ら絶った。
10.
かつての記憶を辿って山道を登ると、確かにそこには廃線が存在した。道中何度も道を間違えたから、かつての倍以上の時間が掛かった。空は既に赤く染まっている。だからだろうか、彼女と初めて此処へきた時を思い出すのは。
彼女の最後の言葉。あれの意味を理解したのは、彼女が僕に宛てた遺書を読んだときだった。
曰く、彼女は自分の実父に性暴力を受けていたらしい。
どうして彼女は僕に相談してくれなかったのだろうか。それを思った時は後の祭りだった。きっと僕では彼女を安心させるには至らなかったのだろう。そう考えれば考えるほど、子供という身分があまりに無力である事を思い知る。彼女が死ぬ間際には背だって抜いたのに、彼女の中での僕は、いつまで経っても手のかかる子供に過ぎなかった。
それが僕が彼女に抱く罪悪感。死してなお、僕はこれを大事に抱え続ける。
タイムリミットはあと少し。
世界では、ある特定の地域に人が集まって今現在でも踊り狂っているらしい。
そしてその地域は、なにも適当に定められているわけではない。
幾人もの科学者が、頭上の隕石が落下すると予想した場所に彼らは集まっているのだ。
それは日本の首都であったり、アメリカの西部であったり。だから彼らの“聖地”は無数に存在する。
そしてその報道が為されたとき、僕はそのどれもが外れだと半ば確信めいた予感を覚えた。
僕には天文学の知識なんて欠けらもないけれど、あの隕石に“その名前”が付いた時、落下地点は此処しかないと考えた。
そしてその予想は、やはり当たっていたみたいだった。
残り数秒。頭上に迫る隕石の熱に焼かれながら、僕は手を伸ばして呟いた。
「“沙耶”。そこに居たんだね。」
ホワイトアウトする視界の端で、彼女が笑ったような気がした。