「ごめんなさい」
またそう頭の中でつぶやく。
もちろんそれは誰にも聴こえない。頭の中だけの言葉。
生きる事に意味なんか無い。
2年2組。今年で17歳になる柊千里(ひいらぎ ちさと)は今日も机に座りながら俯いている。
私は消えたかった。
でも、消えることは許されない。
許されないのは私なのに。でも、消えることは許されない。
自殺をすることはいけないことらしい。
でも私にはどうしてもそうは思えなかった。
私が生きているのはおこがましい。どれだけ考えても、私なんかが生きているのはおこがましい。
三つ編みの髪。そばかす。メガネ。そして下を俯いている自分の顔を、毎朝洗面台で見る。
その時になるたびに、ガラスを殴りつけたくなる。
ガラスは割れない。私には力が無いから。
私は私を見たくない。目をそらすように手を洗う。
リストカットもやった。
1度リストカットをすると、他人のリストカットの画像を見る時に、自分の右手首がカッと熱くなる。
体がそれを求めるように、右手首に血が集まる。
けれどそんな事誰も理解してくれない。だからこの手首に巻いた包帯は外せない。
私はもう、生きてなどいない。
学校のチャイムが鳴り、外からゴム製の上履き特有のキュッという音と、ガラガラと扉が動いていく音。人間の出す甲高い声が学校全体に鳴り響いていく。
私は左から差す夕日に眩しさを感じながら、誰とも目を合わせずクラスを出ようとする。
「ちょっと待てよ」
知らない声に振り向くと、そこには2人組の女子がいた。
ガラの悪い風貌。私は「ターゲット」にされた事を即座に理解した。
「アンタ、ムカツクんだけど」「他人見下してるっしょ?ウチらにはわかるから」
不穏分子は排除される。ここはそういう場所だ。
そして私は不穏分子とジャッジされた。
誰もいないトイレ。廃部になった吹奏楽部が使っていた音楽室が近くにある、使われなくなった女子トイレ。そこで私は2人に囲まれた。
「ウチはアンタの事嫌いだけど。なんでかわかる?」
「・・・」
答えない。それを答える権利が自分にはあると思えない。
言葉を紡ぐべきじゃない。その権利が、私には無い。
「答えて欲しいんだけど」
「・・・ごめんなさい」
「理由を言えっつってんだよ!」
短髪のリーダーとおぼしき人からビンタを喰らう。
衝撃で私はトイレの壁に頭を打ち付ける。
鈍い音が頭から伝わってくる。
メガネが四角いタイルの上に落ちる。
頬の中に鈍痛が広がる。頬骨と後頭部に痛みが残る。
あの子もこうだったの?
あの子はこの痛みを最期に消えたの?
どうして死ななきゃいけなかったの?
消えるべきなのは私なのに。
3年前。柊司(ひいらぎ つかさ)は亡くなった。
8歳だった。
その日は司の誕生日で、大人たちは酒を飲んで談笑していた。
大人たちは談笑していく中で、子供たちを気にしなくなっていった。
風呂の掃除当番は私だった。
毎朝、いつも起きると風呂の水を抜いていた。
けれどその日だけ、私は水を抜くのを忘れていた。
どうして水を抜き忘れていたかなんて思い出せない。疲れていたのか、テストが近かったのか、理由なんかわからない。でも私はよりにもよってその日だけ、水を抜き忘れていた。
大人たちが酒を飲んで声が大きくなってくると、司はおもちゃの飛行機遊びに夢中になってどこかに行ってしまった。
きっとトイレかどこかの部屋で遊んでいるのだろうと、みんなが思っていた。
親戚のゲラゲラとした高笑いが小さく聴こえる風呂場で、司は風呂のフチの上に立って、おもちゃの飛行機を持って飛び跳ねた。
そして滑って後頭部を打って水の中に沈んだ。
死因は窒息血だった。
私が水を抜いていれば、窒息はしなかった。
気絶だけで済んでいた。
あの日から、私は生きるべき存在では無くなった。
「貴方は悪くないわ」
「しょうがないのよ」
「世の中には、どうしてもこういう事があるんだから」
そう語る母の声は震えていた。
母の目は私を許してはいなかった。
司を最初に見つけたのは母だった。
あの時の「司!」という母親のねじ切れるような叫びが、今でも耳から離れない。
聴いただけでリビングにいた全員がその叫びの持つ意味を理解した。そういう叫び。
「お前が風呂の水を抜いていたら」
「貴方がもっと司の事を見守っていれば」
そういう声を、みんなの目から感じていた。
大人はみんな私の事を許した。
それが大人としての責務だったんだろう。
でもその時から、私は生きているのがおこがましくなった。
「さっさと死ねよ!」
「なんであんたみたいなのが生きてるんだよ!」
トイレの壁に頭を押し付けられて、私は殴られ続けた。
その時、私はずっと司の事を思い出していた。
誰も私を許さないと言ってくれなかった。
周りはみんな優しかった。
でも、私は許して欲しくなかった。
許さないと言われ、傷つけられたかった。
司が死んでから3年間。誰も私を"許さないではくれなかった"。
私は殴られながら泣いていた。
今まで、心の奥底にあった哀しみが、目と初めて直結した。
私を許さないで欲しかった。
許さないと言って、怒鳴って欲しかった。
アンタなんかって言いながら、殴られたかった。
目の前にいる2人は、私の事を初めて許さないでくれた。
彼女たちは私の罪を知らない。
でもその暴力は、私の罪を処刑人が断罪してくれるようだった。
全ての罪が、その時に許されたような気がした。
2人は気が済むと「飽きた。ゲーセンいこ」と言ってその場を立ち去っていく。
残されたのは野ざらしの私の鞄。床の隅に落ちた眼鏡。
私は眼鏡を拾い、立ち上がって鏡を見る。
アザがある。口の中が痛い。鉄の味。口内炎のようなヒリヒリとした痛みが口の中全体に広がっている。
鏡の中の私は笑っていた。
泣きながら笑っていた。
私を許してくれない人に出会えた。
私を傷つけてくれる人に会えた。
彼女らにとって、それはただの悪意の発露だった。
でも私にとっては、断罪の執行のような恍惚とした時間だった。
学校を出る。
玄関を出た所で、私は手首に巻いていた包帯をゆっくりと外していく。
これでいい
わたしは、これでいい。
私が生きるのは、傷つくためだから。
この傷は隠さない。
傷つくことが、私のうまれた意味だから。
スマホを手に取る。
LINEを開いて、母親へのメッセージを送る。
ねえ、あの時の話がしたいの
私が司を殺した、あの時の事
あの時のきもち、私に全部聴かせて
ほんとうのことを言って
どれだけ怒鳴りつけてもいいから、私を殴ってもいいから
全部、本当の気持ちを聴きたいの
おかあさん、わたしを許さないで
わたしは全部受け止めるから
既読が付かない内に、スマホを閉じる。
紫と赤に染まる空が、透き通るような鮮やかな色に感じた。
冷たい外の風がいつもより刺さる感触がした。
2月17日は、私にとってそういう1日だった。