日菜子の学校に迷い込んだ愛央の物語
初夏の雨に濡れる、私立星ノ宮女子高等学校は静かだった。
耳を澄ませば、遠くで鳴る踏切の音や、体育館でボールが跳ねる音、演劇部の声出し練習、吹奏楽部の演奏などが耳の届いてくる。けれど、しんしんと雨の音がそれを優しく遮っていた。
温くも、どこか甘さを感じさせる雨。雨は熱を持った地面に落ちると、いくつかは跳ね返り、またいくつかは水煙となってあたりを漂う。
星崎愛央はひとり、そんな雨に濡れてたたずんでいる。
「あれ、私、なんで、ここに……」
つぶやく。その呟きすらも雨や水煙にほどけていく。
「まずは雨を避けなきゃ」
そう言って彼女は歩き出そうとするが足が動かないことに戸惑う。
「おかしいな……それに、いつから、どこから……、私……」
愛央は記憶を遡ろうとしたが、頭の奥がぱちぱちっとはじけてしまい、ここに来た経緯を思い出せなくなっている。
「……あれ」
自分が星崎愛央であるとか、好きなラノベとか、補習に行く途中で終わらない夏が続く学校に閉じ込められてしまったこととか、そういうことは覚えているのに、直近の記憶だけが消えてしまっている。
「なんでだろう……」
困った顔をする愛央。けれど足も動かないし、ここに来た経緯も思い出せない。まわりに動く物はなく、ただ雨だけが静かに愛央の体を濡らし続けている。
「ん……?」
やがて愛央は学校のあちらこちらから漂ってくる少女の匂いに気づいた。それは教室や体育館から、更衣室や廊下から、はては下駄箱やトイレから。それこそ、この女子校を包み込むように。
「なんか、匂いだけで生理になりそう……」
愛央は両手でそっと下腹部を押さえる。おなかはすっかり濡れていた。いやそれどころではない、全身びしょ濡れだ。ワイシャツは肌に張り付き、制服は水を吸って重くなってしまっている。けれどここから愛央は動けない。どうすればいいんだろう。愛央が困っていると、
「ここはまるでサンクチュアリ(聖域)ね。女生徒たちを守る匂いを彼女たち自身が放っている」
「誰?」
いつからいたのだろう。気がつくと愛央と同じくらい年の少女が隣に立っていた。誰何の言葉に愛央の方を向いて一礼する。
「あなたと同じ、来訪者。来るべき所じゃないところに来てしまった、まあ、お仲間よ」
「そうなんだ……」
「ここは白井日菜子さんが通っていた学校ね。私立星ノ宮女子高等学校」
「日菜子……」
その名前に聞き覚えがあった。真夏の学校で出会った、かけがえのない仲間の一人。
ぱちっ。
頭の中でなにかが解放される。そうだ日菜子さん。いや、リフレクターの日菜子。覚えている。知っている。一緒にココロトープを探検した。そして何人かの大事な記憶を取り戻すことに成功した。そして――。
「あれ、私……」
足の縛めが解けている。記憶をわずかに取り戻したからだろうか。それはきっと少女の言葉によってだ。愛央は少女に感謝の言葉を言おうとしたが、その姿はもう隣にはなかった。
「うん、雨を避けよう」
愛央は歩き出し、渡り廊下の下に入る。そこで一息。雨で濡れた顔を手で拭う。次いで髪。髪にまとわりついた雨はポタポタとしずくとなって落ちる。
「はぁ。服脱ぎたい」
わずかに寒気を感じ、愛央は身を震わせる。彼女の熱で暖められた雨がもやとなって愛央の体からも立ち上っている。
「サンクチュアリ、か」
湯気をすくい取るように愛央の手は動く。もちろん指ですくえるはずもなく、湯気は逃げるように愛央の手からこぼれ落ちる。そのまま愛央の手は空へ。その手の先には学校の校舎があった。
「入って、みようかな」
そうして愛央は聖域に踏み込んでみた。
(別に何も変わったことはないよね)
ぬれた靴を手に持ち、靴下姿で人気のない廊下を歩きながら、愛央は思った。空いた教室の窓から時計を見て、時間を確認する。五時四十五分。最終下校時間が近い。
雨は止むことなく落ち、ポタポタとたまり水が落ちる音もして、それでいて静かで。女子たちの匂いだけがただ漂っている。
(なんか変……)
(時間が止まった、ような)
愛央はもう一度時間を確認する。やっぱり五時四十五分だ。しばらく眺めてみる。秒針は回っているのに、長針と短針は動くのを拒否している。まるで永遠の五時四十五分。それを繰り返しているように。
「ふつうじゃない、よね……」
声に出す。ラノベで読んだループものだろうか、それともこの夏、自分の身に起きた事が関係しているのだろうか。わからない。
(そういえば、部活、やってたような)
愛央は雨の中遠く吹奏楽部や演劇部の音が聞こえてたことを思いだした。
「上……、かな」
そうつぶやいて愛央は階段を上り始める。
演劇部だと思われる部室のそばまで来ると、稽古の音が聞こえてきた。
(ここには人がいるみたい)
部室の前まで来て耳を澄ます。誰かと誰かが台詞を言い合っている。
「これは……日菜子……?」
その片方の語調に聞き覚えがあった。芝居がかっていたけど、この声は間違いなく日菜子。でも。
「時が止まった校舎で、ここだけが動いてる……って間違いなく何かあるって事だよね……」
いやな予感を抱きながら、でも結局こうするしかないと思い愛央は演劇部のドアを開ける。光があふれた。
まばゆい空間だった。白い背景に日菜子が一人、芝居をしている。相手はない。日菜子だけが、演技をしている。声だけが周りから響いてくる。進む。止まる。巻き戻る。早回し。止まる。進む。コマ送り。そして。
日菜子の形が崩れた
。
「ここまでか」
少女の声。まばゆい世界で高みから見下ろすのはさっきの少女だ。
「あなた、日菜子に何をしたの!?」
愛央の叫びに少女はゆっくり振り返る。
「何も。ただ見ていただけだ」
「じゃあなぜ壊したの!」
「壊す……? ああ、さっきのビジョンか。見るべきものは見た、それだけだ。だから消した」
「消した? あなたは何者!」
少女はすっと愛央の前に降りてきて微笑み、言った。
「わたしはダアト。が撥ね返される前に残したそのかけら、私を倒した白井日菜子のことを知りたいと思い、こうして彼女の記憶を探っている」
「どうしてこんなことを? 復讐するため?」
「そうではない、ただ知りたいと思ったからだ」
「知りたい?」
「私をリフレクトした少女の意思をどうしても、知りたい」
「負けた理由を知りたいってこと?」
「そうかもしれない。だが、白井日菜子に害意を与えるつもりはない、……ないつもりだった」
「ないつもり……だった?」
少女は愛央を指さし言った。
「私の介入で揺らぎが生まれ、お前が生まれてしまった。お前と日菜子の魂が近くなりすぎた。これはそのために起こったこと」
「魂が近く……」
「交流したのだろう? 深く。彼女と」
「うう……」
ジンジンと少し頭が痛くなった。私と日菜子は一体何をしたんだろう。
「これはその結果。いや必然。心が重なり、夢が重なり、お前が生まれた」
「生まれた……? なぜ私だけが? 日菜子は!?」
「わからないか? お前の特別さが」
「?」
「わからないか、……ならそれでいい」
「私よりも、日菜子は今どうしてるの?」
「あの夏を閉じ込めたような学校で眠っているだろう。それはお前も同じだ」
「私も?」
「そうだ。本物の愛央は何も知らず眠っている」
「これは全部、夢、って事か」
「そうだ」
「二人の目が覚めれば私は消える……?」
「そうなるな。おまえは二人が見た夢。朝になれば消える。本物の星崎愛央や白井日菜子に何も影響を与えることはなく」
「……」
でも私には意思があって、考えることができて。消えたくないという思いがあって。
体が震える。心はもっとだ。しゃんとしなきゃ。しゃんとしなきゃ。こんな時、星崎愛央なら、白井日菜子なら、なんて答える? 愛央は顔を上げ、少女の目を見て言った。
「私は、あなたをリフレクトする」
「……なぜ?」
「私だって私の一部だ!」
変身。彼女は虚無より出した斬罪の鎌を手に取る。
「そして日菜子の一部だ!」
そしてその少女めがけて鎌を振り下ろす。パリン! 何かが破れる音がして。彼女の意識は空へと吸い込まれていった。
……。
……。
夏の音がうるさい。そう気づいて彼女は顔を上げた。蝉の声。太陽から降り注ぐ熱。自慢から反射される熱。クラクラとするような蒸した大気。遠くで踏切の音が鳴っている。
「……」
これは未来?
愛央がたどり着けなかった未来。あの日あのとき、運命のループに巻き込まれた星崎愛央が、とうとうたどり着けなかったこの世界の一秒先。
ようやく、ようやくたどりついた。日菜子の力を借りて。あの夏に出会ったたくさんの人たちの力を借りて。
「……」
彼女は後ろを振り返る。そこにはなにもない。いたはずの自分の姿はない。けれど確かにここは自分にとって新しい世界なのだ。息を吸って息を吐く。
ありがとう、ママたち。新しく生まれ落ちた星崎愛央はそうそっと言うと、前に向かって勢いよく歩き出した。
……そして行く先に待っているものが夏休みの補修地獄だったことに気づいて早くもこの世界に絶望しかけることになるのはまた別のお話である。