ジンジャーという謎の声が聴こえるようになったある男の話。

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ジンジャーが聴こえたら

「ジンジャー」

 

私の耳に甲高い声が聴こえるようになったのは、つい最近の事だった。

 

仕事をしている時、リビングで食事をしている時に、ふと「ジンジャー」と幻聴がする。

 

精神科にも耳鼻科にも行った。けれどもどこにも異常は見当たらなかった。

 

ジンジャエールでも飲めば、この幻聴が解決するんだろうか。

 

「なぁ、ジンジャエール。飲んでみないか」とリビングで妻の茜に言ってみる。

 

「え、なんで」

 

「いや、なんとなく」

 

ジンジャーと幻聴が聴こえるから、なんて茜にはとても言えなかった。

 

私の嘆願する気持ちを汲み取ってなのか「いいわ」と了承してくれた。

 

それから電車を使い、徒歩で店へと足を運び、ジンジャエールを頼む。

 

なんてことは無いジンジャエール。黄色い色は綺麗だったが、普通の味だった。

 

飲み終わった後に「ジンジャー」とまた聴こえる。

 

ダメだ。やっぱり消えない。

 

「すまない。もういい。店を出よう」

 

「・・・わかったわ」

 

半ば呆れる茜。だが理由は言えない。あまりにも馬鹿げている。

 

駅まで歩いて帰る道で「ちょっと」と茜が手を掴む。

 

目線を見ると、そこには七五三が神社で開かれていた。

 

着物を着ている子どもたちが見える。

 

「・・・ん。」

 

私は黙ってその神社に足を踏み入れる。

 

子供の甲高い声。ガラガラと鳴る鈴の音。走り回る子どもたち。子供を連れていない私達は少しばかり浮いていた。

 

お賽銭に50円を入れ、手をパンと叩くと、ふと。子供の姿が目に浮かんだ。

 

丸い顔。短く切った髪。くりくりした目。その姿が幻覚のように頭に浮かぶ。

 

そうか。お前だったのか。

 

お前はここに行きたがっていたんだな。

 

 

 

私は流行り病のワクチンを大越製薬で作っていた。

 

新種の病。そのワクチンを作る事は製薬会社にとっての競争だった。

 

風邪薬を作るのにだって10年はかかる。だがそのワクチン製造はあまりにも大きすぎる、早さの求められるプロジェクトだった。

 

薬の開発にかかる年間費用は2000億円。中でも、私の携わったワクチン製造プロジェクトは破格の年400億の投資がされていた。

 

「急げ!もう時間が無いんだぞ!」

 

「どれだけの金をかけたかわかっているのか!」

 

上司にそう罵声を浴びせられながら、私は死にものぐるいで毎日大越製薬に足を運んだ。

 

息子のことなど、気にかけている余裕すら無かったのだ。

 

もちろん迷いはあった。

 

「子供とワクチン。どっちが大事なのか?」

 

けれども、あまりにも私が携わっているワクチンのプロジェクト規模は大きくなりすぎていた。

 

だから自分の子供になどかまっている時間は無かった。

 

茜も共働きで、息子のことはほとんど見てあげられなかった。

 

息子の声も顔もわからないほど、私はワクチン製造に急いでいた。

 

けれど今思い出した。

 

「神社」に行きたいと息子が言っていた事を。

 

そうか。お前だったんだな。

 

お前はあの時、5歳だった。

 

七五三の時に貰える飴の味がお前は好きだった。

 

だから「じんじゃー、じんじゃー」と私にねだっていたな。

 

お前が亡くなったという話を聴いたのは、1年前。電話口でだった。

 

保育園のバスの中に置き去りにされて、熱中症で亡くなったと。

 

「本当に申し訳ありません」と涙声で語る保育園の職員の声を聴いても、私は涙を流さなかった。

 

大きなショックではあった。けれど、そのショックは心の中心部分にまでは至らなかった。ショックの感情の中でホッとしている自分もそこにはあった。

 

「これでワクチン製造に集中できる」と。

 

私は神社の賽銭箱の前で手を握りしめて泣いていた。

 

違う。

 

寂しかったのはあの子の方じゃない。私だ。

 

自分の心に嘘をついて、ワクチンの方が多くの人を救うことができると自分で自分を騙して、それで強い人間を気取っていた。

 

財布をゆっくりと開く。

 

カードや紙幣が並ぶ財布の中に、1枚の写真があった。それを抜き取る。

 

着物を着た男の子と、私と茜が並んでいる写真。

 

「遥斗(はると)本当にすまない。すまなかった」

 

写真に映る息子を指でなぞり、頭をなでるように動かす。

 

涙がとめどなく溢れてくる。

 

茜は何も言わず、私の手を握っていてくれた。

 

多くの人を救う。そんな大義名分と”何かを成し遂げたい”という強迫観念によって、最も寄り添うべき存在に寄り添うことを忘れていた。

 

すまない遥斗。私は何かを成し遂げねばならないと思わずにはいられなかった。その気持ちがどこから産まれているかもわからず、ただひたすらに働き続けた。なぜそうしたか今ならわかる。私は自分の本当の気持ちと向き合う事から逃げていたんだ。

 

”社会に何も残せていないひと”になるのが怖くてしょうがなかったんだ。

 

もっと遥斗との時間を大事にすべきだった。家にいる遥斗の事を愛するべきだった。わかっていたはずなのに、それをするのが怖くて、こうして全てが手遅れになるまでお前に愛を向けるべきだと気付けなかった。私は何もわかっていないバカだ。

 

誰かを救いたいと願うなら、世界の人にではなく、息子にこそ愛を向けるべきだった。

 

寂しかったのは、遥斗ではなく私だった。

 

それに気づくことすらできずにいた。

 

その後悔の念がこころを支配して、私はずっと泣いていた。

 

 

 

金太郎飴を買って、その神社を去る。

 

神社の外で茜と一緒に飴を食べてみる。

 

「・・・どう?」

 

「普通の砂糖の塊だな」

 

金太郎飴は、ただの砂糖の塊の味しかしなかった。

 

そんな事がどうにもおかしくて、2人で笑う。

 

「・・・でも、ワクチンを作った貴方は立派よ」

 

私が泣いている理由を察して茜は慰めてくれた。

 

「それはそれさ。ただ、私は息子から逃げていた。それがいけなかった。遥斗から逃げていた事が申し訳なくてな」

 

明日は墓参りに行く。飴の残りはいっぱい遥斗の分に取っておこう。

 

夕焼けは眩しく、家路へと帰る2人の影を遠くに伸ばしていた。

 

もう「じんじゃー」という声は聴こえなかった。

 

 


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