ましろとジンベエザメのお話です。

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第1話

 

 ジンベエザメが飛んでいる

 私の頭上を飛んでいる

 7つのヒレをときめかせ

 その身に星を住まわせて

 ゆるゆるたぷたぷ飛んでいる

 

 それでもひとたび潜ってゆけば

 海の底まで行くという

 そのまん丸の瞳の黒は

 きっとそこから取ってきた

 光の届かぬ世界から

 

 大きな体躯がぐわんと(かし)いだ

 風にあおられ振り子のように

 こっちに来ればお腹の白が

 向こうへ行けば背中の銀が

 かわりばんこで光を浴びる

 

 扇風機がそっぽを向いて

 嵐はやがて収まった

 荒波にもまれる船のように揺れていたジンベエザメも、

 平穏になった海をまた泳ぎ始める。

 本物には程遠い、小さな小さなその体で。

 

 でも、こんなにも小さく見えているのは、まだ誰も知らない遥か遠くの海を泳いでいるからだと思った。無限の距離が彼を小さく見せていた。たぶん、本当はもっと大きいはずだ。

 水族館になんて入りきらないくらい……視界に収まりきらないくらい……世界をひと飲みできるくらい……。

 

 

 幸福な白昼夢は、しかし、首の後ろをざくりとつんざいた鮮烈な痛みに寸断された。視界がブレる。——いや、揺らいだのは世界のほうだ。拍動と共に押し寄せる痛みが、寝起きのアラームみたいにどすんどすんと意識を蹴って、白昼夢を打ち壊そうとしている。青空には蜘蛛の巣状の罅が入り、天頂に穿たれたその亀裂が我先にと走り出して、世界を切り裂いてゆく。世界の悲鳴が聞こえる。全天にはひとつながりの出鱈目な星座ができている。

 

 とどめとばかりに、強烈な痛みが首から這い上がってきた。思わず顔を顰める。天球が砕け散る。ぱっと目を開けば、世界は虹色で溢れかえっていた。それは、砕けた幻想の欠片たちがはらはらと剥がれ落ちてゆく光景だった。

 そしてその奥から現実世界がぬっと現れ出る。私の目がぬいぐるみショップのファンシーな内装を捕らえた。耳が流行りのJPOPを聞き取りはじめた。鼻にはわざとらしい消臭剤の香り、うなじにはエアコンの冷たい風。

 

 そうして現実をひとつひとつ拾い直して、ようやく感覚を取り戻したころには、痛みはすっかり失せていた。慎重に頭を回してみる。——もう大丈夫そうだ。一呼吸してから、視線を正面へと向ける。そこには、先ほどまで見ていたタイプとまったく同じジンベエザメのぬいぐるみがあった。

 

 棚に近寄ってつぶさに観察してみる。店の中央にあるその棚は、アフタヌーンティ―スタンドみたいな複数の円盤が重ねられた独特の形状をしていた。その上には、お菓子の代わりにジンベエザメが載っている。灰色だけじゃなく、青色や桃色のバージョンもあり、それらのカラフルなジンベエザメが互い違いで並べられてあるから、それこそマカロンタワ―みたいに見えた。

 目玉商品なのか陳列もきれいだ。ジンベエザメの顔がお客さんに見えるよう、外側を向くように規則正しく置かれている。ただ、ぽかんと開いた口が360度ぐるりと居並んでいるさまは、おっちょこちょいな動物のハプニング映像のような不思議なおかしさがあった。透子ちゃんがこの場にいたら、きっと写真を撮っただろう。

 

 灰色の子を手に取り、台紙についた値段を確認して、息をのんだ。

 ――うっ、4070円。もうちょっと安いと思ってた。でも、このサイズなら少なくとも3000円はするよね。そうだよね。

 財布の中には5千円札が一枚。買えないことはない。でも今月は透子ちゃんにあちらこちらへと連れまわされて、虹色のスムージーとか、真っ黒なパスタとか、ぷるぷるの猫プリンとか、今話題の珍グルメをこれでもかと食べてしまったから、私の懐事情はなかなかに厳しい。

 

 どうしよう……。しばらくの間その場で考え込んだ後、狭い店内で立ち止まるのも他のお客さんに迷惑だなと気がついて、作戦会議のために一旦お店から出ることにした。

 

 店外へと一歩踏み出せば、6月の生ぬるい空気が目敏い店員さんのようにいつの間にか傍に立っていて、そのままずいっと気温20度と湿度60パーセントとを押し売りしてくる。ショッピングモールの中だから直射日光こそないけれど、代わりにかなりじめっぽくて不快な暑さだ。断り切れずにしぶしぶ受け取ると、待ってましたとばかりに汗がぶわっと噴きだした。

 汗のしずくが背中をつーっと滑り降りてゆく。くすぐったいなと思っていたら、湿気に負けた前髪がぺたんと(くずお)れてきてしまった。家族と来ているだけだしいいかな、とヘアピンを外し、苛烈な日差しで萎れてしまったその前髪を横に流してから、もう一度パチンと留め直した。ふだんおでこを出さないからかもしれないが、これだけでも結構涼しく感じられる。

 

 日曜日のショッピングモールはさすがに家族連れで賑わっていて、こうしている間にも、父親の手をぐいぐい引いて先導している男の子とか、ベビーカーから半分乗り出して母親に(たしな)められている女の子とか、様々なタイプの家族が目の前を通り過ぎていった。郊外のショッピングモールだからということもあるのだろうが、カップルや学生のグループはあまりいない。向かいのお店との間にある大きなベンチにも、暇そうな子供を横に座らせたままスマホと睨めっこしているお母さんや、一人で眠りこけているお父さんが所狭しと肩を並べている。

 

 ここから見る限り、座れるところはなさそうだった。

 諦めて、おとなしく店の横の白いモルタルの壁に背を預ける。肩甲骨のあたりをくっつけた直角三角形の斜辺みたいな体勢――。壁に手を当てると、意外とひんやりしていて驚いた。日光が当たらないからだろうか。そのまま手のひらでざらざらとした壁を撫でまわしながら、どうしたものかと思考をかき混ぜてみる。

 

 やっぱり4000円は高い。今月分のお小遣いがもうなくなっちゃう。でも、もし尽きたとしても、お母さんに言えば少し前借りできるかもしれない。お年玉にまだ手を付けてないから、そっちが先かな。貯金箱にはいくら入っていたっけ。2千円くらいは入ってる……と思う。なら、買っても問題ない。

 

 ぽわりと浮かんだ結論を、ちょっと待って、とすんでのところで打ち払った。どうして買う前提で話が進んでるんだろう。買ったらどうなるかじゃなくて、まず本当に買うべきモノなのかを考えるべきじゃない!?

 

 そうだ。そもそも買わないという選択肢だってある。ジンベエザメのぬいぐるみはいつか欲しいなとは思ってたけど、もっと他に、小さくてお手頃なやつがあるはずだ。確かにこのぬいぐるみはかわいいけど……そうだけど……。こんなのは所詮ひとめぼれだから、一晩経てばすっかり熱が冷めているかもしれない。

 それに、このぬいぐるみが欲しかったとしても、別に今日買わなくたっていいはずだ。すぐに売り切れということもないだろうし、期間限定の商品でもないし。シーズンが変われば品揃えも変わってしまうだろうけど、まだ猶予はある。通販だってあるかもしれない。家に帰って、お風呂に入って、夕ご飯を食べて、部屋でゆっくりお小遣いと相談すればいい。

 

 ――分かってる。買わない方が絶対に賢い。

 

 でも、心の中では、もうすでに欲望に負けている私がいた。悪い笑みを浮かべて、にやにや笑って、いくら悩んだってどうせ最後には買うんだし、と合いの手みたいに言い訳を差し込んでくる。本当なら、こんな悪魔の言うことを聞かずに理性を信じなきゃダメなんだけど、おもちゃが欲しくて駄々をこねる子供にすぐ降参する親みたいに、私はすぐに諦めてしまう。

 

 心がずるずると私の手を引いて、もう一度、ジンベエザメを満載した棚の前まで来てしまった。ほら、はやく選んでと急かされ、棚をくるくる回りながらお迎えする子を探し始める。怒ったような顔の子、つぶらな瞳をしている子、額の毛がハネている子、こちらをじっと見つめている子……。

 数多の候補の中からようやく二人まで絞って、泣く泣く片方とお別れをして、お気に入りの子をレジへと持っていく。

 

 会計待ちの列に並んでいる間、私の胸中にあったのは、ほの暗い罪悪感だった。大きなため息が口をついて出る。なんでこんな気持ちで買わなきゃいけないんだろう。せっかくお金を出すなら良い気分で買いたいのに、私の弱さのせいで、買おうとも買わないともきっぱり決められなくて、決断から逃げた結果みたいになってる。

 順番がきて、ぬいぐるみを店員さんに渡す。私の顔をちらと見た店員さんはものすごく怪訝な表情をしていた。今の私はきっと、ヤンキーにパシリにされた哀れな学生のようになっているのかもしれない。買いたくないのに買わなくちゃいけない、みたいな。でもぬいぐるみが欲しいヤンキーはちょっとかわいいかも、と思った。強面の人が実はガーリーな趣味をもっていたというのは漫画でもよく見かける設定だ。

 

 何はともあれ、私はぬいぐるみを買った。気は進まぬながら、後ろに並んでいる女の子の眩しい笑顔に目を眇めながら、あなたのことが嫌いなわけじゃないからねとジンベエザメに謝りながら、それでも買ったのだった。

 

 紙袋を提げて両親と合流する。「あら、ましろちゃん。大きなぬいぐるみを買ったのね」なんて言われて、どきりとする。お小遣いは大丈夫なのかしら、と言外に聞かれている気がする。うん、と頷いたあと、言い訳を付け加えようとして、恥ずかしくなってやめた。もう高校生なのだから、お金の使い道はある程度自由なはずだ。買ったものについていちいち親の許可を取ろうとするのはなんだか子供っぽい感じがした。

 

 その後、雑貨や服をみたり、スニーカーを買ったり、おしゃれな帽子をかぶったライオンがロゴになっている喫茶店でアッサムタピオカミルクティーを飲んだりして、道路が混まないうちにとはやばや帰路についた。

 

 この時間だと流石に高速道路も空いていて、窓の外の景色は早回しの映像みたいに何倍速かで左から右へと飛び去ってゆく。乗り物酔いしやすい私は、車に乗るときはいつもこうして外の景色を見るようにしていた。後部座席に座って、背もたれに抱きしめられながら右斜め45度くらいのほうを向いて、流れる景色を追いもせずぼうっと眺める。

 

 それにしても、軽い疲労感を覚えつつ車内から見るこの青々とした空は新鮮だった。どこかへ外出した際の帰りは、家族にしろ友達にしろ夕方か夜の時間帯になることが多いから、帰り道の景色といえば大体、紺色の服にゆったりと着替え始めた茜色の空とか、対向車線をびゅんびゅん駆けてゆく流星群とかであって、まるで旅行に出発するときみたいなこんな爽やかな空を自宅へと向かう道で見たことはなかった。行事やテストのために午前で学校が終わって、まだ明るいうちから通学路を逆走するあの感覚に近いかもしれない。

 

 道路の繋ぎ目を乗り越えた車がガタンと揺れる。お父さんが「ちょっと揺れるよ~」と声をかけてくる。助手席のお母さんが返事の代わりにかくんと首を落とす。

 

 何とはなしに、膝上に置いた紙袋を優しくなでた。そのつるつるとした感触はぬいぐるみの柔らかな触り心地とはかけ離れていた。ただ、手のひらを押し返すその弾力が、何者かの存在を確かに主張している。

 車がしゃっくりをするみたいにもう一度跳ねた。私は、ところどころ蔦に覆われた、古ぼけた防音壁のほうへ視線を戻した。

 

 

 就寝前、パジャマに着替え、ベッドの上にぽふんと座って紙袋からぬいぐるみを取り出す。ビニール袋に包まれた灰色のジンベエザメを見て、ぞっとした。しわくちゃの透明な檻に囚われたジンベエザメは息苦しそうだった。両親の前でぬいぐるみを開封するのが恥ずかしかったので入れたままにしておいたのだが、もしかしたら、ずっと息ができなかったかもしれない。急いで解放しようとして、ビニールの片端が布のリボンで簡単に留められているだけだと気がついた。ほっと肩をなでおろす。これだったら窒息の危険はないはずだった。

 

 コバンザメみたいに尾びれにくっついている台紙をはさみで切り、全身を一度眺めやってから、思いっきりぎゅうと抱きしめる。頬に当たるジンベエザメのふわふわのおでこが気持ちいい。そのまま頬ずりしていると、ふいに冷たくて硬い部分に触れた。夏の暑い日に日陰のベンチに座ったときのあのひんやりとした感触が思い出された。頬にあたったのはプラスチックの目だった。正面から向かい合って、その黒い眼をじっと見つめてみる。そこには私の姿がうっすらと映っている。同じようにして、彼も私のことを見ていた。おそらくは、私の瞳に映った彼自身の姿を。

 

 ジンベエザメをベッドに寝かせた。その横には、最近特にお気に入りのマシュラビも座っている。今晩に限っては、普段、部屋のあちらこちらに配されているぬいぐるみたちも、皆このベッドの上にいた。ココも、もこちゃんも、ポンポンも、ウールも、入りきらない子は窓枠にまで広がりながら、この新しい同居人のために集まっていた。

 

 いつからなのかは忘れてしまったが、新しいぬいぐるみを買うたび、こうして歓迎会をやっている。儀式、と言い換えてもいいかもしれない。売り物のぬいぐるみを私のぬいぐるみに転化させるために不可欠な儀式。

 透子ちゃんが見たらなんて言うだろう。「ぬいぐるみと話すとか、まじシロってカンジ」って笑うだろうか。それをつくしちゃんが嗜めて、ごめんごめん、バカにしてるわけじゃなくてさ~、と手のひらを合わせるだろうか。

 

 確かに私は、ぬいぐるみを抱きながら寝てるし、昔よりは減ったけど話しかける日もあるし、衣替えもするし、ぬいぐるみのためにクーラーもつけるし、こうして歓迎会も開くけど、それでもぬいぐるみに心があるとは思ってない。一ミリくらいはまだ信じているとかじゃなくて、一切信じてない。映画みたいに、私が部屋から去ったあと、ぬいぐるみたちの秘密の会議が行われているなんて妄想はしてない。

 

 それでも、こうしてぬいぐるみを命あるものかのように扱っているのは、ある種、ごっこ遊びみたいなものだった。物自体に命はない。ぬいぐるみ自体には生命は宿らない。

 でも、緑色の空を見るのに、わざわざ空を塗り替える必要はない。暗記用の緑シートがあれば十分だ。物自体が変わらないのなら、私の見方を変えてしまえばいい。自分の認識を変えてしまえばいい。世界に幻想のフィルターをかけてしまえばいい。私が“そう”見るならば、私がルールを守ってさえいれば、私の認識の内では、ぬいぐるみは命を持つものだと見做されるのである。

 

 どうすればこの感覚が他人に伝わるだろう。透子ちゃんに説明できる気はしない。つくしちゃんや、ななみちゃんや、るいさんにだって伝わらないだろう。

 幻想と現実――相反するその二つを矛盾を含ませたまま共存させる魔法。この魔法の届く限り、世界は成型可能なプラスチックなものに過ぎなかった。そしてそれこそが、私の住む幻想の世界で、そのドアは私にしか通ることができない――。

 

 ぬいぐるみを端に寄せて、ベッドに横たわる。枕元にあるリモコンでライトを消す。ジンベエザメを抱いて目を閉じれば、意識は、暗い澱みの底へ沈んでいった。

 

 気が付くと、私は真夜中のショッピングモールにいた。辺りはしんと静まり返っていて、見渡す限り人影はない。各店舗の照明は消されているものの、警備のためなのか、廊下の蛍光灯は白々と輝いていて、その明るさがかえって闇を際立たせていた。本当にこんなところに閉じ込められたのだとすれば恐怖のあまりその場で失神していただろうが、これは夢であるので不思議と怖くはなかった。

 ただその場に立っているようにも、歩いているようにも感じられる。あるいは、宙に浮いているのかもしれない。周りの景色は一瞬一瞬のうちに変わっているようでもあったし、そのままの姿を保っているようでもあった。

 

 ふと、手のひらがざらざらとした何かに触れた。はっとして振り向くと、それはモルタルの壁だった。あのぬいぐるみショップの――。扉は開いている。中に入る。天井を見上げる。茫洋と広がる夜の海の中には――いた。ジンベエザメだ。あれこそ、本当に私が欲しかったジンベエザメだった。

 必死に泳ぐジンベエザメは、しかし、一向に前進することはない。釣り針にかかってもがくブラックバスみたいに、いくら身をよじっても、背中に突き刺さった太い糸が邪魔してその場を動くことができない。仲間は次々と旅立っているのに、彼ひとりだけ、ずっとそこに居続けなくてはならない。

 

 なぜだろう――。なぜ彼だけが取り残されたのだろう。それは、いま私が抱いているジンベエザメのぬいぐるみとどこが違うのだろう。夢と白昼夢の違いはどこにあるのだろう。幻想と空想の違いはどこにあるのだろう。

 窓から神々しい光が差す。すべての夢がぱちくりと目をしばたたかせ、あくびをする。夜が明ける――。

 

 数か月後、秋になった頃に、同じショッピングモールに出かける機会があった。同じ道をたどり、同じぬいぐるみショップに入る。同じように天井を見上げる。灰色のジンベエザメは、もういない。

 

 


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