とにかく目的地まで辿り着かなければ。
そう思い、スノーは必死に走り続ける。
失敗したことは仕方がない。
アスクレピオスは以前、失敗したときは、次は失敗しないように頑張ればいいといってくれたことがある。
失望させてしまったかもしれないが、取り返す時間は十分にあるはずだ。
そう考えて必死に走る。
しかし、スノーはやはり内心では焦っていて、いつもならやらないようなミスを再び犯した。
「あうッ!」と、悲鳴を上げて転んでしまったのだ。
そこに。
「大丈夫かい?」
知らない男が声をかけてきた。
赤い髪の大人だった。
「へーき」と、それだけを答えて走り出そうとするスノーだが、男は「ちょっと待って」と制止してくる。
「擦り剥いちゃったみたいだね。じっとしてて」
そういうなり、ポケットをごそごそと探し出す。
スノーはまったく気づかないでいたのだが、膝を少しだけ擦り剥いており、血が滲んでいた。
だが、こんなところで時間を浪費するわけにはいかない。
そう思うスノーは焦る。
だが、意外にも赤い髪の男は油断なく視線を走らせていて、自分を逃がそうとしない。
直感的に、スノーはこの男は危険だと感じ取り、予備の針に手をかける。
すると。
「はい、これで大丈夫」
スノーは危険を感じた自分が間抜けに思えてしまった。
男はスノーの膝に絆創膏を張り、ただにこっと笑いかけてきたのだ。
要するに手当てをしただけだ。
だが、ならばこれでもう用はない。
そう考えたスノーに対し、赤い髪の男は笑いかけたまま手を伸ばす。
油断させて捕まえる気か、と、スノーが思わず身を強張らせると、頭に軽い衝撃が走った。
というか。
「大丈夫、お兄さんは味方だよ」
そういって笑いかけたまま、赤い髪の男は優しく頭を撫でてきたのだ。
不思議と、安心させてくれるような温かさを感じる。
これに似た感覚を、いつもアスクレピオスが与えてくれていたことをスノーは思いだす。
「みかた?」
「うん、お嬢ちゃんはお話は聞いてないんだね」
「なに?」
「お母さんがお嬢ちゃんと一緒に、お引越ししたいって伝えてきたんだ」
「かあしゃまが?」
そんな話は聞いてない。いったい何のことだろうとスノーは首を傾げた。
「新しい場所で一緒にいたいんだって」
「いつも?」
「そうだね。きっといつも一緒にいられるようにしたいんだろうね」
それは、スノーにとってとても嬉しいことだった。
いつも暮らしている場所では、アスクレピオスと一緒にいられる時間はわずかだ。
その時間が一番大好きだから、訓練も頑張っていた。
でも、いつも一緒にいてくれるというのなら、そのほうがきっと楽しい。
それなら、『お引越し』は悪いことではないとスノーは考え直す。
そして、そんな話をしてくれるこの赤い髪の男は、きっと悪い人ではないのだろう。
「お兄さんは日野諒一っていうんだ。お嬢ちゃんのお名前は?」
「すのー」
少しだけ安心したスノーは、自分のコードネームを日野諒一と名乗った赤い髪の男に素直に伝えていた。
物陰からその光景を見て、アスクレピオスは赤い髪の男こそがメールの相手だと確信した。
スノーは本来、亡国の少年兵になる。
簡単に人を信頼するような人間ではない。
なのに、わずかに警戒しただけで、すぐに懐いてしまっている。
メールの相手もその文面から優しさが伝わってきた。
だからこそ、脱出計画を実行に移すことを決意した。
(あの人なら、きっと千冬を立派に育ててくれる……)
なら、後はティーガーを振り切れるように自分も、おそらくは赤い髪の男が依頼しただろう青年に協力すればいい。
そう思ってゆっくりとその場を後にしようとするアスクレピオス。
しかし、彼女はあくまで研究員。対してスノーは兵士だ。
人の気配を察するくらいわけはない。
それが、大好きな母親ならばなおのことである。
「かあしゃまっ♪」
と、大喜びで駆け寄ってくるスノーに慌てるアスクレピオスだったが、かわいい娘を振り切れるほど冷徹にはなれなかった。
「千冬……」
「あのね、このおじさんがね、かあしゃまとわたしがおひっこしするっていってるよ?」
駆け寄って尋ねかけてくるスノーにどう答えたものかと悩んだが、否定すると疑われる可能性がある。
実際、亡国機業から脱走しようというのだから、住む場所は変わるわけで、引越しというのもそれほど間違いではない。
とっさにこういったセリフが出るということは、子どもの扱いに慣れているということなのだろう。
ならば、ここは合わせたほうがいい。
「そうよ。千冬にもっとたくさんのことを知ってほしいの」
「たくさん?」
「ええ。今の場所じゃわからないことがたくさんあるのよ。だからお引越しするの」
「じゃあ、このひと、おひっこしやさん?」
メールが届いた場所を考えると警察のはずなので、さすがにお引越し屋さんはないだろうと思わず苦笑いしてしまう。
「そうだよ。スノーちゃんとお母さんを新しいお家に案内するために来たんだ」
「そーなんだ♪」
あっさりスノーの言葉に話を合わせるあたり、茶目っ気もあるらしい。
こういった扱いの巧みさを見ると、スノーにあっさりと懐かれたのも当然と思える。
十分に信頼できる相手だとアスクレピオスは判断した。
「初めまして、日野諒一といいます」
「私が『織田深雪』です。この子の本当の名前は『千冬』になります」
そう伝えておけば、スノーというのがコードネームだとわかってもらえるだろうと思い、アスクレピオスは打ち明けた。
もっとも、自分もアスクレピオスというのはコードネームなのだか、もう何年もその名で呼ばれ続け、本名を名乗るのは本当に久しぶりだった。
少しだけでも戻ってこれたという喜びが、アスクレピオス改め深雪の胸を満たす。
後は、スノー、否、千冬を無事に逃げさせるだけだ。
「あの……」
「まずはこの番地まで向かってください。ご期待に添えるかどうかはわかりませんが、一時的に保護してくださるそうです」
そう言われて渡されたメモには『百花の園』と書かれた孤児院の名称と、その住所が書かれていた。
なるほど、孤児院ならば、最悪の場合でも千冬だけは保護してもらえるだろうと深雪は考える。
「正直、私の身内は期待できません。今後も苦労することになる可能性もありますが……」
正直者なのだろう。
彼の身内、つまりはこの国の警察はアテにならないということだ。
しかし、逆にそういってもらえれば、今後どうすればいいかの道筋は見えてくる。
それ以上に、犯罪組織の研究者として苦悩しながら暮らしていくよりは、千冬のために苦労するほうが遥かにマシだと思う。
「この子のための苦労なら苦ではありませんから」
ゆえに、そう答えると諒一は安心したような顔を見せた。
相手の期待に応えられないことが不安だったのだろう。
これは相当なお人好しだと深雪は多少なりと好感を持った。
しかし、そこに。
「伏せてッ!」
「えっ?」
深雪は千冬と共に強引にかがませられる。
視線を向けると、自分たちを庇うように立つ諒一の前には、驚くことに血塗れのティーガーがいた。
見れば、身体中に裂傷がある。
亡国機業でも最強クラスの兵士であるティーガーをここまで傷つけるとはと深雪は驚く。
すると、おそらくはその原因である青年がすぐに駆けつけてきた。
「すまん」
「楯無さんッ?!」
「ここまで頑丈だとは思わなかった。亡国、侮れぬ」
珍しい名前だと深雪が感じていると、ティーガーは少しばかり感心したような表情を見せる。
「更識の楯無か。道理で強い。まさかこんな隠し球があったとはな」
「すみませんが、織田さんと娘さんは連れ戻させません」
「俺としても矜持に関わる。手は抜かぬ」
そう告げる諒一と楯無を、ティーガーは黙ったまま睨みつけ、そして吠えた。
「貴様らはッ、信用できんッ!」
襲いかかる拳を諒一は必死に避ける。さすがに刑事である自分とは攻撃の質が違う。
人を殺すために鍛え上げたのだろう。マトモに喰らえば危険すぎる。
「クッ、日野を狙うのか」
なぜ、先ほどまで戦っていた楯無ではなく、現れたばかりの諒一を狙うのかはわからない。
しかし、このままでは依頼主が死ぬことになる。
さすがにそれは矜持にかかわるため、楯無はすぐにサポートに回った。
それを確認した諒一はすぐに叫ぶ。
「織田さんッ、先に行っていてくださいッ!」
ここで自分と楯無がティーガーを止めていれば、孤児院まで逃げる時間は稼げるはずだ。
そこまで逃げれば、さすがに追わないだろう。
そう思うも、意外な言葉がティーガーから発せられた。
「待つんだッ、罠かもしれんのだぞッ!」
しかし、深雪にしてみれば、今はティーガーよりも諒一の言葉のほうが信用できる。
ならば、やるべきことは決まっている。
「かあしゃまっ?!」
「助けを呼びに行きましょうッ、私たちが割って入れるレベルじゃないわッ!」
千冬にはそう伝え、深雪はメモに書かれた住所に向かうのだった。
息をついた丈太郎に、シャルロットが突っ込みを入れてくる。
「あの、ティーガーさんが織斑先生と一夏のお父さんなんですよね?」
「あぁ。おめぇさんの言うとおりだ」
「この展開だと、一夏のお母さん、諒兵のお父さんとフラグ立ってるっぽくないですか?」
「そんな昼ドラ展開、勘弁してくれ。てかフラグ言うな」
と、諒兵が疲れた顔でシャルロットに意見する。
しかし、確かにこの展開では、諒兵の父親のほうが、一夏の母親の好感度を稼いでいるように見えてしまう。
「そのあたりゃぁ、この後の話でわからぁな。それに今んとこ諒兵のおふくろさんが全然出てねぇし」
「てか、いつ出てくんだよ?」
「この話が終わってからじゃないと出てこないんだよ。もう少し待ってて、りょうくん」と、束が口を挟む。
「この話ゃぁ、諒兵の親父さんとおふくろさんが出会うきっかけの原因っていえらぁな。だが、ここから話さねぇとわけわかんねぇんだ」
確かに、一介の平刑事が亡国機業の諜報員と関わることになるためには、それなりの原因が必要だろう。
そういわれれば、確かにこの事件は重要で、聞いていないと話がわからない。
「何事にも原因があるということですわね」
「そういうこった。まだ話ぁ続くかんな。ちぃと我慢してくれ」
そうはいっても、今回の話は一夏と千冬の出生に関わっているため、興味がないというわけでもないので、全員が肯く。
それを見た丈太郎はすぐに続きを再開した。
件の住所はすぐに見つかった。
もともと移動範囲を限定するために、近い場所で襲撃計画を立てていたらしい。
それなりに力もあるだろう議員よりも、孤児院のほうに逃げ込むことになるとは思わなかったが。
そこに辿り着くと、少し反りのある変わった杖を携えた品のよさそうな年配の女性が出迎えてくれる。
「あの……」
「織田深雪さんでよろしい?」
「はいっ!」
そう返事をした深雪を、一瞬、恐ろしく鋭い目で見つめると年配の女性は肯く。
「間違いないようですね。そちらの子は?」
「私の娘です。千冬といいます」
「そう……、利発そうなお子さんね」
そういって気軽に頭を撫でてくる。驚くことに千冬は避けもせず、抵抗もせずになすがままにされていた。
これだけで、相当な女性であることが理解できる。
「私がここの園長をしています。お入りなさいな。お茶をお出ししましょう。気を張り詰めたままでは疲れてしまいますからね」
「あ、ありがとうございます……」
ホッと息をついた深雪は素直に中に入ろうとする。
だが、そこに待ったがかかる。
「そこをどけ。老体に手荒いマネはしたくない」
「あらあら、まあまあ」
「ティーガーッ!」
先ほどよりも傷を増やしながら、それでも追いかけてきたティーガーに深雪は戦慄してしまう。
というか、疑問にも感じた。
なぜ、ここまで自分たちに拘るのだろうか、と。
普通ならば、一旦引いて自分たちの居場所を探り出し、手数を増やして追ってくるだろうからだ。
ここまでぼろぼろになって、しかも、おそらく上に報告をしていないだろう状態で、単身自分たちを追いかけてくるティーガーの心理が深雪にはわからない。
それはどうやら、相対していた二人も同じようだ。
「どうしてそこまで織田さんを追うんですッ?!」
「異常だな」
諒一が声を荒げて追いかけてくる。
楯無もまた、ティーガーの行動に首を捻っていた。
「貴様らには関係ない。信用できん連中に言うことなどない」
どうにもティーガーにとって、自分たちは敵であるらしいと諒一は感じ取る。
だが、なぜそこまで『敵』だと思うのか。
それほどに亡国機業に忠誠を誓っているというのか。
なぜか、そうは思えない諒一だった。
「はじめて会う人を信用するのは難しいものですからね。仕方ありません」
「どけ、ご老体」
「ここは私の孤児院。お客様ならば大切に迎えますが、無理やり入ろうという方には容赦できませんよ」
「……恨んでくれるなよ」
そう呟いたティーガーの身体が傾いたかと思うと、次の瞬間、どさっと倒れ伏した。
「あ?」
「相変わらずだな、師範」
「もう年寄りですよ。無理は利きません」
マヌケな顔を晒してしまう諒一に対し、呆れたような楯無。品よく微笑む園長。
同様に呆然とする深雪の袖を、千冬がくいくいと引っ張る。
「千冬、どうしたの?」
「ちょっとしかみえなかったけど、あのぼうふってた。そしたらてぃーがーがたおれちゃった」
「おや、見えたのですか?」
「うん」
「これは将来が楽しみですね。落ち着いたら剣を学んでみるのもいいと思いますよ」
どうやら園長は居合い抜きの要領で杖を横薙ぎに振るったらしい。
万全の状態ならいざ知らず、満身創痍のティーガーでは避けられなかったのだろう。
とはいえ、大男と老婆。体格差がないとしても常識で考えれば勝てる相手ではない。
それを一撃で倒すとはとんでもない人だとその光景を見ていた諒一は呆れていた。
「それで、日野さん」
「あっ、はい」
「この方はどう致しますか?」
園長がそういって指したのは件のティーガーだ。
本来ならば、このままどこかに運ぶべきだろうと諒一は考える。
楯無ならばうまく『処理』してくれる可能性もある。
だが、彼の言葉の端々には引っかかるものがあった。
あれは、犯罪組織の人間として、脱走者を捕まえようという感じではない。
一人の人間として深雪と千冬を心配しているような印象があった。
そこまで考えて、諒一は一つの決断を下す。
「楯無さん。もうしばらく力を貸してください」
「構わぬ」
「園長先生。どこか休める場所はありますか。この人はちょっと放っておきたくありません」
「えっ?」と、思わず声を上げたのは深雪だった。
「すみません、織田さん。俺には、この人が悪い人間には見えないんです。少なくともちゃんと心を開いてもらって、それから答えを出したい」
「構いませんよ。応接間がありますからそこに運んでくださいな。お二方」
「あ?」
「観念しておけ。師範には逆らえぬ」
自分たちからすると、けっこう重そうな大男のティーガーを運ぶ羽目になった諒一と楯無。
品よく微笑みながら案内する園長。
そして呆然とする深雪と千冬。
この場が、彼らにとって運命の分岐点になるということを、まだ誰も知らなかった。