結果から言えば、ファムの作戦は功を奏した。
無理に押し通すのもマズいと判断し、初日は手料理を振舞って仮住まいのマンションに帰宅。
その後、お礼と称してもう一度尋ね、いただきものを傷ませないためにもたまに料理を作りに来てもいいかと言ってみたのだ。
そうすると。
「気が向いたときでいいですから」
諒一はファムの言葉は社交辞令だと考えた。
それゆえの答えだった。
しかし、言った言葉は変えられない。
言質を取れたと判断したファムは、少しずつ間隔を短くしながら足繁く諒一の住む駐在所に通い、料理を作ってはご馳走した。
ただ。
「内原さんは本当に料理上手ですねえ」
「いいええ、嗜み程度に覚えただけですよ」
(てかっ、まいどまいど食べるだけで終わってんじゃねえっ!)
何度来ても美味い美味いといいながら料理を食べるだけで終わってしまう関係に、内心苛立っていた。
驚くことに、これだけで既に半年経っているのである。
イージーモードであるにもかかわらず、とんでもなく時間がかかってしまっていた。
並外れた朴念仁だとファムは呆れると同時に、正直にいって腸が煮えくり返る思いだった。
ここまで足繁く通って、手料理を振る舞い、それなりに話もしているというのに、諒一はなかなか勘違いしなかった。
普通の男なら、「自分に気があるのか」と思うのが当然だろう。
しかし、諒一はこっちが本当に親切心だけで通っていると思っているらしい。
大変面倒くさいイージーモードだった。
(こいつゲイかインポなんじゃねえの?)
内心、大変に下品なことを想像しているファムである。
もっとも、そんなことはおくびにも出さない。
『内原美佐枝』はあくまでおとなしく、貞淑そうな人間である。
演技とはいえ、そんな彼女になりきっている以上、本音など出せるはずがなかった。
食事が終わると、一杯のお茶を飲む。
ここでいい雰囲気になれば篭絡できるはずなのに、諒一は枯れた老人のように呆けているので、ある意味では突っ込む隙がない。
こんなに面倒な相手だとは正直に言って想像していなかった。
そしてお茶が飲み終わったころ。
「それでは、そろそろお送りしますよ。本当に毎度毎度すみません」
「あっ、もうそんな時間ですか?」
と、わかりきってはいるが、今気づいたような演技をしてみせる。
というか。
(ジジイかてめえはッ!)と、内心では怒りMAXというところであった。
しかし、今日は違う。
いい加減、苛立ちも頂点に達しているので、少し強引にでも関係を作るつもりだった。
実のところ、ファムは身体を使ったことはほとんどない。
だいたいの場合、その前段階で篭絡できるからだ。
相手をその気にさせつつ、うまく誘って情報を引き出し、後腐れなく『処理』する。
いつもそれで終わってきた。
それだけの魅力がファムにはあるということなのだが、諒一相手にはなかなか通じないらしい。
ならば、身体を使うしかないと覚悟を決めてきた。
(私に身体を使わせるとはね。記念すべき三人目よ。喜んどけ。……後で地獄に落とすけど)
かなり物騒なことを考えつつ、今日のためのシナリオに手を付ける。
「あの……、はしたないとは思いますけど、今日は泊めていただけませんか?」
さすがにこれで勘違いはしないだろう。
しないと思いたいファムである。
だが。
「えっ、まさかお家が火事になったとかっ?」
ガンッと思わずテーブルに頭を打ち付けてしまうファムだった。
そのままぷるぷると打ち震えてしまう。
「それは大変だ。持ち物とかは大丈夫だったんですか?」
返す言葉が見つからないまま、ファムはひたすら次の一手を考えるが思考がまったくまとまらない。
「そういえば内原さんはマンション住まいといってましたっけ。えっ、マンション火災?大事件じゃないですかっ!」
何故か、あらぬ方向に話がすっ飛んでいくのを聞き、さすがにこのまま黙っているのはまずいとファムの頭脳はまともに思考を開始した。
演技を『無視』して。
「だあぁぁっ、どうしたらそんな答えになるんだよっ、脳みそ沸いてんのかドアホッ!」
「へっ?」
「あっ……」と、思わず地が出てしまったことに気づいたファムはすぐに取り繕う。
「ほっ、ほほほ、すみません。あまりに突飛な話になってしまったもので驚いてしまって」
「はあ」
「火事など起きてませんよ。ご心配なく。……その、えっと、とりあえず今日は帰ります。また後日」
そう答えてそそくさと駐在所を後にするファム。
その背後には、くすっと笑う諒一の姿があった。
そこまでを聞いて、口を開いたのは鈴音だった。
「ねえ蛮兄。ひょっとして諒兵のお父さん、諒兵のお母さんの裏に気づいてたの?」
「どぉだかなぁ。ま、この時点でおふくろさんの普段の様子が地じゃねぇことにゃぁ気づいてたんだろ。もう少し先に行きゃわかる」
「でも、今の話を聞く限り、天然のふりをして相手を見定めていたようにも思えますわね」
セシリアの言葉が正しいとしたら、ファムがてこずるのも当然といえるような策士であろう。
敢えて相手をイラつかせて地を剥き出しにしたというのであれば、油断ならない人間でもあったといえる。
「俺に言えるのぁ、相手をちゃんと見てたってこった。このあたりゃぁ、一夏と織斑の両親の話のときにも言えらぁな」
相手をちゃんと見ていなければ、特にティーガーの気持ちに気づくことはなかっただろう。
そうなると、一夏と諒兵が兄弟になっていた可能性もある。
「それはそれで面白そうかな」
「いや、そりゃ違うんじゃねえか?」
『きょうだいかー、私たちも似たようなものなのかな?』
『兄弟というより、種族だと思いますけど』
と、一夏、諒兵、白虎、レオがそれぞれ意見を述べる。
実際のところ、たらればの話でしかない。
それに、ファムであったはずの母親が『内原美佐枝』として諒兵を産むに至った理由は、諒一がしっかり人を見る人間であったからだ。
諒一が中途半端な人間であったならば、少しだけでもいい方向に行くことはできなかったと思える。
それに、意外だったのはそこだけではない。
「怒らないでね諒兵くん。私、百戦錬磨だと思ってたけど、意外とそうでもなかったのね、お母さん」
「お姉ちゃん、生々しい話はよそうよ……」
刀奈の言葉の意を理解した簪は顔を赤らめつつそう呟く。
刀奈がそういったのは、最初に、諜報員であり男性を篭絡してきたというところから、そっちの経験も相当豊富だろうと考えてのことだ。
しかし、諒一の時点で三人目ということは、予想に反してかなり経験数は少ないといえるだろう。
「諜報活動とは情報収集だ。単に身体を使えばいいというものではないぞ」
「そうなんですか、織斑先生?」
「むしろ重要なのは話術になるだろう。言葉巧みに相手の心の隙をつく術を心得ていたと考えるべきだ」
千冬の説明どおり、諜報活動とは情報収集ということができる。
まして対人を主とするならば、もっとも重要なのは話術、交渉術だ。
いうなれば、優秀なネゴシエーターだったのが、諒兵の母親であるファムである。
「厳しい言い方をすれば詐欺師だ」
「まあ、それが一番妥当な言い方だろうな」と諒兵も肯いた。
詐欺は犯罪だ。
しかし、頭脳を使った行為として考えると、実は相当に難しいものでもある。
「並みの頭の良さじゃあ、できないだろうね。そういう意味なら、相当に頭がいい女性だったんだと思うよ。私、詐欺は出来ないもん」
と、束が言うと皆が驚いた顔を見せた。
だが、束の言うとおり、束にとって『詐欺』は不可能な犯罪行為だといえる。
詐欺で重要なのは話術、しかも単なる話術ではなく、コミュニケーション術だ。
自分の言葉を信じさせるという点で考えると、実は束は豪快に失敗してきている。
頭が良くても出来ないことはたくさんあるということだ。
「まあ、そんな人を手玉に取ってるんだから、おじさんも相当だけどね」
と、束が苦笑すると、その場の雰囲気が和らぐ。
そんな雰囲気を受け、「んじゃぁ、話ぃ続けんぞ」と、そういって丈太郎は再び話しだした。
画面の向こうの悪友ともいえる相手は呆れたような表情を見せていた。
「あなたがそこまでてこずるとはね……」
「マジモンの天然よ。枯れたジジイのほうがまだ楽だわ」
と、スコールの言葉に答えるファムは心底うんざりしたような顔をしていた。
「そうなると情報自体持っていない可能性もあるのかしら?」
「そうね。完全に利用されただけかも。逆にあの天然男をどう利用したのか興味が湧くけど」
正直に言って、それがファムの本心である。
今はティーガーとアスクレピオスの情報を抜き出したいというよりも、あの二人とどういう状況で接したかという方向で話を聞くつもりだった。
「もう少し頑張ってみるのかしら?」
「このままじゃ女が廃るわ。あの野郎、絶対メロメロにしてやるんだから」
「ちょっと、目的と手段を入れ違えないで」
さすがに情報を引き出すことが目的なのに、男を落とすことに集中されてしまっては困るのだ、スコールとしては。
とはいえ、ファムも一流の諜報員を自負している。
単に女が廃るからという理由で諒一を落としたいわけではない。
「入れ違えてないわよ。あの男、何か掴んでる気はするのよ」
「えっ?」
「どうもね、臭うの。ひょっとしたら、脳筋と頭でっかちを黒百合と更識とつないだのはあいつかもしれない」
「さっきといってることが違ってるわよ?」
「普通に推測するなら、さっきのほうが正しいと思うわ。今のは女の勘」
本当に、ただの勘だった。
しかし、だからこそ、ここで接触をやめるのはマズいとも思う。
ファムとしては、何とかして諒一の心に入り込まないと、必要な情報が引き出せないということを漠然と感じているのだ。
「だから、もうしばらくは接触を続けるわ。完全にないとわかったらフェードアウトすればいいでしょ?」
「そうね。警官だし、情報を持ってないただの人間を下手に処理すると面倒だものね」
「そういうこと。任せておいて」
そう答えて、ファムは通信を切り、ふうと息をついた。
そしてキッと虚空を見据えて呟いた。
「あの野郎はなんとしても落としてやるわ」
どう考えても、目的と手段を入れ違えているような言葉である。
数日後の夕方。
ファムは下着にまで気合いを入れて諒一の元を訪れた。
とはいえ、残念ながらすぐに二人きりというわけにはいかないようだ。
「おや、また来たんかい、アンタ」
声をかけてきたのはこの近所に住むお年寄りだった。
数十年前は美女であったのかもしれないが、今はどこにでもいそうなお婆さんである。
「ええ、まあ……」と、言葉を濁すファム。
内心、チッと舌打ちしたのは秘密である。
「あんたが通うようになってくれてから、お巡りさんもちゃんと食ってくれるようになったんだよ。嬉しいねえ」
「……今までは食べてなかったみたいな言い方ですけど」
「困ってる人に呼ばれれば夜中でもすっ飛んでくようなお人好しさあ。だから今まではカップラーメンかコンビニの握り飯かっ込んでるところしか見たことなかったんだよ」
それが心配で野菜を分けたり、煮物を届けたりしていたのだが、それでも諒一自身が料理をほとんどしないので、あまり食事環境がよくなったとは言いがたいらしい。
「でも、アンタが来るようになって美味しい飯が食えるようになった。だいぶ血色もよくなったしねえ」
そういえば、とファムも出会った当初の諒一は決してそこまで健康そうには見えなかったことを思い出す。
不健康というほどではないが、いいものを食べているようには感じられなかったのだ。
食事に目をつけたことは間違いではなかったらしい。
「アンタ、あたしらの野菜もうまく料理してくれるし、このまま居ついてくれて構わないんだけどねえ」
「そ、そういっていただけると嬉しいです」
これではまるで、相手の親に気に入られているようで、なんだかこそばゆいファムだった。
「そんじゃ、アタシゃ帰るよ。ごゆっくりねえ」
そういって帰っていくお年寄りをファムは複雑な思いで見送る。
自分がここにいるのは諒一が持っているだろうティーガーとアスクレピオスの情報を抜き出すためだ。
あまりにも時間がかかりすぎたせいか、諒一よりも先に近所の人間に気に入られてしまった。
今まで、こんなことはなかっただけに、妙な感情が心の中に澱んでくる気がしてしまう。
(気持ちを切り替えよう。早く『仕事』を終わりにするのよ)
深呼吸をして気持ちを落ち着けると、奥から声が聞こえてくる。
「あれ、内原さん、いらっしゃい。お梅さん、ここにいたお婆さん知りませんか?」
「今、お帰りになりましたよ。それで、今日もお料理作りに来たんですけど……」
「いつもいつもすみません。台所は好きに使って構いませんから」
というより、諒一は台所のどこに何があるのかなどほとんど知らなかったりする。
料理関係には疎い諒一である。
トントントンと包丁の音を響かせながら、合わせるかのように鼻歌を歌う。
最近、この時間が好きになりつつあることに、奇妙な感慨を覚えた。
内原美佐枝。
そのキャラクターを演じるようになって既に半年以上経つ。
一人のキャラクターをこんなに長く演じることは、ファムとしては異例な事態だ。
(少し、長く演じすぎたのかもね……)
自分の中に別人がいるような気がする。
昔のファムであれば、それは実に不快なものであったはずだ。
自分の名前、コードネームは『ファム』
亡国機業の諜報員。
それが本来の自分だ。
相手から情報を抜き出す際に演じているのは、存在しない虚像でしかない。
そんなものが自分の中にいるような気がするということ事態が、非常に不愉快なはずだ。
でも……。
(あいつから情報を抜き出すまでの辛抱。早くケリをつけるのよ『ファム』)
自分にそう言い聞かせつつも、ファムは内原美佐枝として諒一に振舞う料理に集中してしまっていた。
夕食は諒一が仕事を片付けてからとなったので、少し遅い時間になった。
とはいえ、女からの「泊めてください」すら見事にスルーしてみせた諒一に油断はできない。
今はまず夕食を食べてもらうことに集中しつつ、今度こそ決してスルーできないように話を持っていくのだ。
そう考えたファムは、食後のお茶を淹れると一緒になってホッと息をつく。
諒一のジジ臭さがうつってババ臭くなったのかもしれないと少しげんなりしてしまうが、すぐに頭を振った。
攻略のためのシナリオは既に練り直してある。
この天然男には持って回った言い方はダメなのだ。
ストレートに『誤解』をさせるしかない。
「あの、『諒一』さん……」
「あっ、はい」
初めて名前で呼んだにもかかわらず、スルーしてくる天然男。
(ふっ、ふふふ、このくらい想定内よ)
ここで挫けてしまっては、また通いの日々が続く。
ケリをつけるためにも、今日、ここで一気に関係まで持っていくのだとファムは改めて気合いを入れた。
「私、あなたのことをお慕いしてます。受け入れてはいただけませんか?」
「はい?」
「あの、あなたとお付き合いできればと思っているんです。今日は覚悟して参りました」
「はあ」
煮え切らないというより、言われていることが理解できていないような表情を見せてくる。
しかも、そのままなかなか返事をしてこない。
五分。
十分。
無意味に時間だけが過ぎていく。
ゆえに、ファムの堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減気づけよこのアホンダラッ、女にここまでいわれてわかんねえのかッ!」
怒鳴ってしまって思わず「しまった」と思うファムだったが、すぐに呆気にとられてしまう。
何故なら。
「ぷっ、ぶはっ、あはははははははははっ!」
いきなり諒一のほうが吹き出してしまったからだ。
「えっ、何っ、何よっ?」
「いや、やあっと気を抜いてくれたなあって思いまして」
「えっ?」
「ここに来るたびに無理してるみたいだったから、内原さん、相当マジメな人だと思ってたんですよ」
「はあっ?」
まさかそんな答えが返ってくるとは思わず、ファムはただ唖然とするしかない。
「ちゃんとお話しましょう。もちろん、そのままのあなたでいいですから」
そういって笑う諒一の顔を、ファムは呆然と見つめてしまっていた。