その日。
過去は決して切り離せないものだということを、美佐枝は否応無しに思い知らされた。
出産のために入院していた美佐枝は、迎えにきた諒一と共に病院を出る。
「駐在所は大丈夫なの?」
「ノリさんが見てくれるっていってました」
「……農家のお爺さんがいるだけでいいのかしら?」
「気にしないで、ちゃんと嫁さんと子ども迎えに行ってこいって」
そういって笑う諒一の言葉に、美佐枝は苦笑してしまう。
地域の住民に好かれているためか、こういうときに力を貸してくれる。
そして、甘えられるのであれば、素直に甘えるのが諒一のいいところだ。
「いい人たちね」
「はい」
(そんな人たちに好かれるのが、あなたの凄いところなんだけど♪)
と、褒め言葉は口に出さない美佐枝である。
あまりベタベタするのは好きではないからだ。
それでも、内心では誰よりも信頼してしまっているし、そんな状態にあることに幸せを感じてもいる。
そんな想いを、腕の中で眠る赤子に伝える。
「諒兵、今日からあなたもいい人たちの仲間入りよ♪」
「そうだよ、諒兵」
と、諒一も自分の息子として生まれてきてくれた赤子に、優しい笑顔を向ける。
その笑顔が美佐枝は好きだった。
出会いがどんなかたちであれ、自分たちは夫婦となり、そして今、息子を得て家族となった。
とても小さな、だが、間違いなくしっかりとした一つの世界が出来上がった。
この世界を壊したくないと美佐枝は思う。
(園長先生も言ってたし、頑張らないと……)
美佐枝が妊娠していることがわかったとき、諒一は孤児院『百花の園』に美佐枝を連れて行った。
以前、お世話になった人として、その孤児院の園長を紹介してくれたのだ。
正直、園長の裏の名『黒百合』の名を知っている身としては緊張するどころの話ではなかったが、拍子抜けするほど穏やかなお茶会となった。
そのとき。
「貴女が幸せになるためには普通の人より頑張らないといけません。出来ますか、美佐枝さん?」
園長はそう問いかけてきた。
自分のことに気づいている。
気づいていて、なお、諒一と家族として幸せを築いていく覚悟があるのかを問いかけてきたのだ。
そのとき、美佐枝は答えた。
傍にいてくれる人と自分の中に宿った命のために、精一杯やっていきます、と。
(でも、頑張っただけのものが得られるもの)
そう想い、腕の中ですやすやと眠る赤子と、傍で微笑む諒一のを顔を見る。
「はい?」
「ううん。なんでもないわ」
そういって、笑いながら言葉を濁す。
これから先も、日野美佐枝として、諒一の家族という世界に生きられるのなら、頑張った以上の報酬を得られる。
そこに苦労なんて感じないと美佐枝は思っていた。
帰宅後。
夕方になり、ようやく一息つけた。
何しろ、近所のお年寄りがやけに入れ替わり立ち代わり赤子を見にくるからだ。
自分たち以上に楽しみにしているものもいたらしい。
おかげで赤ちゃんグッズが、購入しなくても十分なほどに揃ってしまった。
「助かりますけど、申し訳ないですね」
「この際、甘えちゃいましょ。それに、その……式も挙げないと収まりつかないみたいだし。お金が必要だもの」
そう答えつつ、美佐枝は赤子に母乳を飲ませていた。
そこにいやらしさを感じさせないのは、『母子』という完成された姿だからだろう。
仕事をしつつ、ときどき様子を見にくる諒一のことも気にはしない。
当たり前で、でも、貴い。
それが家族なのだと美佐枝は理解していた。
先に子どもが出来てしまったことと、金銭的な理由から美佐枝と諒一はいまだに式は挙げていない。
入籍は済ませているので、戸籍上は夫婦になっており法律の上では『一応は』問題ないが、如何せん地域の人たちに好かれている諒一である。
当然、結婚式を行うことを期待されていた。
「立食パーティみたいな感じでもいいと思うし」
「それだと、どっちかというと結婚式というより、諒兵のお披露目会になりそうですね」
と、諒一が苦笑するが、実際にその通りになりそうだと美佐枝も思う。
地域住民が集まれる機会などそうはないので、便乗して楽しむだけのものもいるかもしれないが、それもいいかなと美佐枝は考えていた。
いずれにしても、みんなが集まって祝福してくれるのだろうから、と。
そんなことを考えていると、ぷあっと赤子が満足したように口を離す。
美佐枝はすぐに赤子の体を持ち上げると、その小さい背中をぽんぽんと叩く。けぷっと可愛らしいげっぷをしたのを確認してから、ふうと息をついて服を下ろした。
「淡白ねえ」
「そうなんですか?」
「お腹いっぱいになるとすぐに離れるのよ、この子。お父さんはしつこく触ってくるのにねえ♪」
「誤解を招く言い方はやめて」
「あら、ホントじゃない♪」
夜の営みの話はさすがに照れくさいのか、顔を赤くする諒一を見てクスクスと笑う。
そのままぶつぶつと何事か呟きながら書類仕事に戻る諒一の背中を見て、些細なことで一緒に悩んだり、ケンカしたりするような小さな幸せがいつまでも続けばいいと美佐枝は思っていた。
話を聞いていると「なるほど」と弾が何か納得したかのように呟いた。
「何かわかったの~?」
「ああ」と、本音の言葉にやけに重々しい口調で答える。
「まだ、特に変わったところはないけど?」と、簪は首を傾げた。
だが、本当になにやら気づいたらしく、弾は諒兵に視線を向ける。
「あ?」
「お前、生まれたときから筋金入りのちっぱいスキーだったんだな」
「よし、よく言った。表に出やがれコノヤロウ」
ずっこける全員を尻目に、いきなり廊下でどつき合いを始める二人。緊張感のないことこの上ない。
ようやく立ち直った者たちのうち、鈴音がちらりとラウラの胸を見る。ラウラもちらりと鈴音の胸を見る。
視線を交わし、グッと小さくガッツポーズを決める二人の少女。
そんな姿を見て、抜群にスタイルのいいブリュンヒルデこと千冬は呆れた様子でこめかみを押さえていた。
そして。
「話ぃ続けんぞ」
頭にたんこぶをこさえた諒兵と弾が渋々席についたのを見ると、丈太郎は一つ咳払いをして再び話しだした。
夜更けに降り始めた雨は、不思議と静けさを齎していた。
赤子をゆりかごに乗せ、美佐枝はあやすようにゆっくりと揺らす。
そろそろ自分たちも寝る時間だ。
もっとも生まれたばかりの赤ん坊にすぐに起こされるのだろうが、それも苦ではない。
今はお風呂に入っている諒一もそろそろ出てくるだろう。
そのときだけは赤子を任せるつもりたった。
すると、コンコンと駐在所の入り口が叩かれた。
「誰かしら?」
そう呟きつつ、応対するだけなら自分でも大丈夫だろうと美佐枝はゆりかごから手を離し、駐在所の中に入って、そのまま固まってしまった。
美佐枝の目の前に現れた女性は、冷たい眼差しを向けたまま、扉を開ける。
「……ティーガーやアスクレピオスだけなら、まだ疑うことはなかったわ」
「えっ……?」
「でも、貴女までこうなると話は変わってくる」
「なに……?」
状況が掴めない。
美佐枝にとって、この女性は初めて目にする人間だ。
ただ、かつての自分の残滓が辛うじて情報を与えてくる。
『ファム』と同じ世界の住人だ、と。
「トップクラスの構成員を軒並み引き抜いてみせた。日野諒一。敵対者としてブラックリストのトップに記録すべき名前だったわ」
「違う。諒一さんはそんな人じゃ……」
美佐枝がそう反論すると、女性は一瞬目を見張り、そしてため息をつく。
「貴女をそこまで変えてしまうなんてね。残念だわ『ファム』……」
「す、こー、る……」と、美佐枝はかつての自分の名を呼ばれて、ようやく対峙する相手の名を発することができた。
かつて『ファム』とは悪友といえる関係にあった女性。
しかし、美佐枝とは違う。
「実働部隊や研究員ならともかく、諜報員の裏切りへの制裁は死。忘れてしまったかもしれないけれど」
何故か、スコールは悲しげな表情を見せてくる。
だが、そんなことはどうでもいい。
かつての自分の残滓がスコールの言葉が間違いではないことを伝えてくる。
諜報員は、その任務上、様々な情報を得ることになる。
国家機密レベルものも、そこには含まれる。
スコールが所属する組織は、そういった情報も取り扱っている。
そして、その情報を手に入れてきた諜報員の頭脳には組織が危険となる情報もごまんとある。
ゆえに、裏切った諜報員は極めて速やかに『処分』する必要があるのだ。
「安心しなさい。あの男も同じところに送るわ。せめてもの慈悲よ」
そういってスコールは懐から小さな銃を取りだす。
見覚えがあった。
ただの銃ではなく、以前開発された特別なものだという情報が頭の中に残っていた。
「い、いや……」
しかし、それを見た美佐枝にできたのは小さな声を漏らす程度だった。
やっとの思いで手に入れた小さな幸せ。
それを奪われたくない。
そう思うも、身体が思うように動いてくれない。
かつての自分なら、この状況でも何かできただろうが、美佐枝は動けない。
今の自分は、平和でのんびりした田舎町のお巡りさんの妻でしかないのだ。
すると。
ふぁぁという声がして、すぐに赤子がぐずるような声が聞こえてきた。
美佐枝は思わず反応してしまう。
「りょうへいっ!」
「貴女……、まさか子どもを産んだのっ?!」
スコールは異常ともいえるほど驚いた様子で問い詰めてくるが、今の美佐枝にとってそんなことは小さなことでしかない。
子どもが泣いていれば、すぐに反応するのは親として当たり前だからだ。
あっさりとスコールに背を向けて、自分の子どものもとへと向かう。
しかし、そんな状況を見逃すことなど、スコールがするはずがなかった。
「くッ!」
わずかに悔しげな声を漏らしつつも、美佐枝の背中、心臓の位置に向けて引き金を引く。
その光る銃弾から、この子だけは守らなければとゆりかごごと抱き上げる美佐枝は、何故か強引に伏せさせられた。
「ぐあぁああぁッ!」
男性の声が響く。
今までその場に男性はいなかったはずなのに。
「いやァアァァアアァアァッ、諒一さんッ!」
ドッとその場に膝をついた姿を見て、美佐枝は絶叫した。
心臓の位置に穴が開いてしまっている。
その意味が、美佐枝にも理解できた。
「諒一さんッ、りょういちッ!」
「りょうへいを、たのむ……」
苦しげに穴の開いた胸を押さえつつ、諒一はそう呟くように告げる。
「いやっ、いやあぁッ!」
まるで狂ってしまったかのように首を振る美佐枝に、諒一は声を荒げた。
「はやくにげろッ、みさえッ!」
「あ、あ、う……」
「逃がすわけにはいかないわッ!」
再び放たれる銃弾。
諒一は最後の力を振り絞ったのか、ゆりかごを抱えたままの美佐枝を勝手口のほうへと突き飛ばした。
「があぁっ!」
そのまま自分の身体で銃弾を受け止める。
男として、父として自分たちを守ろうとしてくれている。
ならば今の自分にできるのはこれしかない。
心が悲しみで絶叫していても。
「うぁああぁああぁぁあぁあぁぁぁっ!」
泣き声を上げながら、赤子の入ったゆりかごを抱え、美佐枝は冷たい夜の雨の中へと走り出したのだった。
スコールは息絶えた諒一の姿を一瞥すると駐在所を出る。
そして、止まっていた自動車に乗り込んだ。
「ファムを逃がしたわ。追いなさい」
「了解」と、運転席に座っていた男はそう答えるなり、すぐにエンジンをかけた。
その音を聞きながら、ウィンドウを叩く雨を見つめる。
(あのファムが子どもを産んでたなんて……)
同僚だったころの友人を思い出す。
彼女は子どもを産むなど有り得ないと断言していた。
任務に差し障りが出るからだ。
まして、たいていの男は篭絡できる。そんな連中の子など産みたいとは思わないとまで言っていたのだ。
しかし。
(あの男はファムをそこまで変えてしまった。ある意味ではとてつもない危険人物だったということなのかしらね……)
もう自分の友人だった人間はこの世にはいない。
感傷に浸ってしまう自分をらしくないと思いながらも、スコールは言い様のない孤独を感じていた。
それから五分後。
駐在所を別の人間が訪れていた。
諒一の遺体を調べ、脈がないことを確認すると、深いため息をつく。
「間に合わなかったか。すまぬ」
そういって切れ長の目の男性、更識楯無はわずかばかり頭を垂れる。
「日野、お前はやはりこちらに関わるべきではなかった……」
楯無としては、諒一のような人間は裏世界に関わらず、平穏に生きていればいいと思っていた。
呆れるほどのお人好しが生きていけるほど、裏世界は甘くない。
ゆえに、かつて織田深雪と斑目陽平が脱走するのを手助けした後は完全に諒一とのつながりを断ち切っていた。
だが、その結果、諒一は逆に一人で狙われる羽目になってしまった。
それは自身の不明のせいだと楯無は悔いる。
「いや、裏組織などというものは、存在すべきではないのかもしれぬな……」
楯無もまた、裏に身を置く人間だ。
それゆえに厳しさも理解している。
そして、理解しているからこそ、それが如何に異常かも考えることができる。
「刀奈……」
何者かの名を呟いた楯無が胸中に何を抱いたのかは、誰にもわからなかった。
さすがに空気が重くなった。
最初から死をほのめかされていたとはいえ、それでも人の死は重い。
まして、話を聞く限り、諒兵の父親は並外れたお人好しだ。
何故、そんな人が命を落とさなければならなかったのかと思う。
普通に考えれば、亡国機業のスコールという女性が諒兵の父親を殺したといえるだろう。
その理由は裏切り者となった諒兵の母親を始末するためであり、いわばとばっちりだ。
そうなると、諒兵の父が死んだ原因は母の過去にあるといえる。
でも、だからといって。
「……私、諒兵のお母さん嫌いじゃないわ」
そういったのは鈴音だった。
性格的に近いものがあるのかもしれないが、それ以上に、本当に小さな幸せを望んでいただけの女性を嫌いになることなど鈴音には出来なかった。
話を聞いていただけでも、むしろ仲良くなれそうな気すらしてくるのだ。
(……歯車が食い違った。諒兵のお父さん、お母さんも、そんな感じなのかも)
そうシャルロットは考える。
自分の父と母の出会いも別れも、義理の母であるカサンドラに原因がある。
あるべき家族の形が壊れてしまったのは、カサンドラが不妊症だったからだ。
だが、今のシャルロットはカサンドラを嫌えない。
待ちに待っていた子どもが別の女から産まれたなど、死より辛い苦しみだろう。
そう思うと嫌いになれないのだ。
ゆえに、亡国機業の諜報員だった諒兵の母親が、普通の人と小さな幸せを掴みたいと願ったことは仕方がないと思う。
そして、かつての友人の手で始末される羽目になったことも、大きな組織が絡んでいるとなれば、どうしようもないことだと理解できてしまっていた。
(私のお父様も、思えば諒兵さんのお父様に似てますわね……)
女尊男卑の思想から、強い母に対して情けない父だと見えていたセシリアだが、見方を変えればしっかり者の母に対し、優しく穏やかな父であったともいえる。
だからこそ、一番危険なときは必ず家族を守る。
そんな諒兵の父親の死に様が自分の父に重なってしまう。
そして母を尊敬しているだけに、自分の妻と子どもを守って果てたような男性が愛した女性を嫌うことなどできそうにない。
「だんなさまがここにこうしているということは、母君は守り通したということだ。それは決して間違いじゃない」
諒兵の母親は我が子を捨てたのではない。
守り通し、そして信頼できる相手に委ねたのだ。
母の愛。その証として諒兵は生きているということができるのだ。
それは今のラウラなら十分以上に理解できる人としての『強さ』だった。
「兄貴」と、ただ一言、諒兵は呟く。
その言葉に丈太郎は素直に答えてきた。
「話ぁもう少しで終わる。最後まで聞いてくれ」
そういって語り出す丈太郎の言葉に、全員が真剣に耳を向けていた。