日本国内、首相官邸。
行政の長がいるその場所に、一枚の紙きれを持って訪れた者たちがいた。
「IS委員会からの通達です。総理、日本国首相として正しい判断を下しなさい」
「その内容は以前却下となったはずだが?」
「状況が変わったことを理解していないようね。今の私たちの力を以てすれば、あなたの首を挿げ替えるくらい訳はないのよ」
日本国、内閣総理大臣。
一国の首相に対してここまで威圧的に振舞えるとなると、余程の後ろ盾があるということだろう。
無論のこと、行政の長としてそれが何なのかは理解していた。
そして、どうすればいいのかも。
「わかった。現状、最も早く実行できる『内容』に関しては印を押そう」
「賢明ね。あなたであれば長期政権も夢ではないでしょうね」
その者は満足そうに肯いていた。
彼が、その者たちに対して度し難いと思っているとは露とも感じていない様子だった。
鈴音が治療を始めて24時間が過ぎる。
つまり翌日。
今後の対応で頭を悩ませている千冬に声をかけてくる男性の姿があった。
けっこう年を取っている用務員風の男性である。
「織斑君」
「学園長……、その様子ですと悪い知らせでしょうか?」
彼こそIS学園の真の学園長である轡木十蔵である。
そんな彼が落胆した表情で口を開く。
「総理から連絡があった。やはり最悪しか防げなかった、とね」
その言葉に千冬は言い様のない寂しさを感じてしまう。
別に欲しくて貰ったものではないのに、今日この時点からその名を失ってしまうとなると、何故だか惜しくなってしまう。
「それでも、最悪を防げただけ良かったと思います」
「……さすがに彼奴らの息のかかった者に総入れ替えするなど受け入れられんからな」
「此処を乗っ取らせるわけにはいきません。総理は最善の対応をしてくださいました」
実はIS学園に対し、以前から教員を入れ替えるよう権利団体から進言があった。
当然のこととしてISとの戦争における最前線で助力したいなどといった理由ではなく、進化の間近にいることで自分も力を得たいという考えからだ。
千冬を含め、現在のIS学園の教員、職員たちは今の状況でそのような真似はできないと突っぱねていた。
本来、戦う相手ではなかったISとの戦争。
現場で積み重ねてきた経験しか頼れるものがないからだ。
素人に出しゃばられては困るので入れ替えは少なくとも戦争が終わるまではしないということにしていたのである。
だが。
「件の進化で権利団体は勢いづいている。ほとんど恫喝紛いだったそうだ。一国の首相を相手にしてな」
「連中を止められるのは同じAS操縦者だけですが、私は……」
「私も同じ気持ちだ織斑君。若人に薄汚い大人との争いなどさせたくはない」
今後、戦闘は避けられないだろうが、それまでに一夏や諒兵が戦いやすい舞台に整える。
醜い争いに巻き込みたくない。
ゆえに、千冬は己を犠牲にして何とか食い止めたのだ。
「しかし、これでは終わらんぞ。彼奴らはIS学園を潰しに来るだろう。我が校を軍事要塞などと言わせているのも世論を巻き込むためだと思う」
「食い止めましょう。此処を本来の学び舎に戻すために」
「いや」と、否定する轡木十蔵に対し、千冬は訝しげな顔を向ける。
「将来は人とISが共に学ぶ学び舎にしたいと私は考えているんだ。その未来のためには君が必要だ織斑君、いやブリュンヒルデ」
「ええ、そうしましょう。新たな学び舎にするために」
戦争が終わった先の未来を考えていた轡木十蔵の言葉に、千冬は思わず微笑んでしまっていた。
数刻後。
集められた情報をもとに今後の戦略を考えてた千冬のところに、いつものメンバーが血相を変えて飛び込んできた。
「どういうことですか教官ッ?」
「千冬姉ッ、いったいどうなってるんだッ?」
そう叫んだのはラウラ、そして一夏だったが、それ以外の者たちも驚愕と疑念が混じりあったような複雑な顔をしている。
来ること自体は予想していたので、千冬は努めて平静な態度で答えた。
「いったいどうしたお前たち?」
「どうしたもこうしたもあるかッ、何で……」と、一夏は言葉を詰まらせる。
「私たちが何を聞きたいのかおわかりのはずです教官ッ!」
ラウラに至っては本当に泣き出しそうな表情を見せている。
本当にあまりに衝撃が大きすぎて、感情が制御できないでいるらしい。
見かねて口を開いたのは諒兵だった。
「千冬さん、さっきテレビで称号剥奪が発表されたぜ?」
「そうか……」
「IS委員会の決定に対し、ドイツ以外の国が賛成を示したってさ」
苛立たしげな諒兵の言葉を受けて、セシリアが口を開く。
「先生はもう『ブリュンヒルデ』ではないと……」
セシリアは務めて冷静に報告するが、その声は震えてしまっている。
それほどに、生徒たちにとってはあまりに大きな衝撃であった。
千冬だけに許された『ブリュンヒルデ』の称号が剥奪されるということは。
「IS委員会の決定だ。私個人でどうこうできるものではない。素直に従うさ」
「そんなこと聞いてないッ、何で千冬姉がそんな目に遭わなきゃならないんだよッ!」
まだ幼い生徒たちを率い、最前線で戦ってきた千冬。
悩み、苦しみ、それでも生徒たちに寄り添って戦ってきた。
それは普通に考えれば、むしろ称賛されて然るべきものだっただろう。
千冬を労う声があるのが当たり前だったはずだ。
それなのにIS委員会の決定は正反対の仕打ちだった。
ラウラや一夏のみならず、誰もが信じられない出来事だった。
「委員会の言い分はおかしーぜ?」
「あれじゃまるで先生が好き勝手にやってきたみたいでしたよ。むしろ委員会のほうが身勝手な不満を述べてるだけでした」
弾が、そしてシャルロットがテレビを見た感想を述べてくる。
感想というよりも酷評ではあったが。
「まあ、好き勝手にしてきたつもりはないが、そう見える面もあったということだろう」
「何故そんなに落ち着いていられるのですか……、私にはわかりません……」
千冬を神聖視してきた時期もあるだけに、ラウラは本当に困惑した様子で涙を浮かべている。
諒兵がハンカチで拭ってやっても、止まる様子がなかった。
「私自身は織斑千冬であってブリュンヒルデではないということさ」
「えっ?」
「ブリュンヒルデの称号がなくなったからといって私が変わるわけじゃない。委員会がそうしたいならそうすればいい。私は変わらん。お前たちの先生であり、今は司令官だ」
「千冬姉……」
本当は強がっていないと言ったら嘘になる。
それでも自分が『ブリュンヒルデ』だから生徒たちに慕われているとは思っていない。
『ブリュンヒルデ』の称号を失ったことで嫌われたなら教師として真摯に向き合えばいいだけだ。
だから、自分は変わらないと、千冬は自分を信じる。
「だからだ。お前たちも称号なぞに惑わされるな。それより大事なのは自分を信じられるかどうかだ」
千冬自身がそういうのであれば、周囲が何を言ったところで意味がない。
何より、いつもと変わらない様子の千冬の表情には安心できるものもあった。
「わかったよ千冬姉。IS委員会の決定は納得できないけど千冬姉がそういうなら」
一夏の言葉に、一同は納得した様子を見せる。
そして不承不承ではあるが、その場を後にした。
生徒たちがいなくなってから数分後。
千冬はため息を吐いた。
「わかっていても、やはり衝撃は大きいな……」
『無理をするからだ』
「オーステルン……、ラウラについていたんじゃないのか?」
『他人のような気がしないからな、お前は。嘘は吐いてないが無理しているのはわかった』
誰かに吐き出さないと千冬が潰れてしまうと思い、ラウラには内緒で残ったという。
そして、少しばかり呆れたような表情でオーステルンは尋ねてくる。
『何を止めた?』
「……IS学園の乗っ取りだ」
『なるほどな。連中は此処を欲しがっているのか』
「手に入らなければ潰しに来るだろう。まだ終わっていない」
ただ、この問題に関してはIS学園の全職員が全力で抵抗している。
まだ戦いが終わっていないこんな時に乗っ取られれば、最悪人類が滅んでしまう。
『天使の卵』が明確に自分たちの『敵』であることがわかっているだけになおさらだ。
『今、乗っ取られればリョウヘイとイチカもどんな目に遭うかわからんか……』
「正直に言えば、それが一番大きい。せめて敵視をやめてくれればいいんだがな」
『無理な願いだろう』
「ああ」
一夏と諒兵の存在は、女尊男卑の社会にとってはガン細胞のようなものだ。
さらに弾や数馬も間接的にとはいえ、ISの進化にかかわっている。
そんな男性がこの先増えていくと、自分たちの権力を守りたい権利団体にとっては悪夢でしかない。
「そこで、IS委員会を動かしたんだろう」
『しかしな、こんなに早く動けるものなのか?』
「いや、乗っ取りというか教員の入れ替えで自分たちの息のかかったものを入れようとすること自体はずいぶん前からあったんだ」
勢いづいたのが最近だっただけだと千冬は続ける。
これまでは問題にする必要がないくらい権利団体の力がなくなっていたのだ。
だが、彼の者たちは予想だにしない方法で力をつけてしまったのである。
『『卵』か……』
「鈴音が言っていたんだが、極東支部の捜索と『卵』の破壊は、権利団体への対応と同時にやっていく」
『リンインが?』
「どうも個人的にティンクルと情報交換していたらしくてな。治療に入る前に話をしたんだ」
その内容から、『天使の卵』と権利団体への対応はどちらかを優先してやるものではないと千冬も判断したのである。
「そのためには捨てられるものは捨ててでも先に進まなければならん。『ブリュンヒルデ』の称号は守らければならないものではなかったんだ」
『それでも、お前こそが『ブリュンヒルデ』であることも私は変わらんと思うぞ』
オーステルンの言葉に、千冬は困ったような、それでいて嬉しそうな笑顔を見せる。
「喜んでおこう」
『ああ。チフユ、人間社会では我々はあまり力になれんが、できる限りサポートしていくから、あまり無理はするなよ』
そう言ってオーステルンはラウラの元へと戻っていった。
今日は訪問者が多いなと千冬は再びため息を吐く。
もっとも『ブリュンヒルデ』の称号剥奪はIS学園のみならず、千冬に憧れるIS操縦者たちにとっても大事だ。
このくらいで済んでいるほうが不思議なのかもしれない。
前もって話をしていた相手はさすがに今日慌てて押しかけては来ないが。
そのうちの一人との会話を思い返す。
治療に入る前の鈴音との会話には続きがあった。
歯切れの悪い鈴音の態度を見て千冬は問いただす。
「それと……、何だ鈴音?」
「千冬さん、無理してませんか?」
「何?」
「雰囲気が暗いっていうか、寂しそうな感じしますよ?」
よく見ているなと千冬は感心してしまった。
そこまで態度に表していたつもりはないというか、巧く隠せていると思っていたのだが、鈴音は気づいていたらしい。
鈴音が眠っている間の発表となることはわかっていたので、その理由を明かした。
「称号剥奪……」
「良くて、だがな。連中はIS学園に入り込むつもりか、もしくは潰す可能性もある。そして私に対する恨みもあるだろうから、名誉を奪っておきたいんだろう」
「そか、千冬さん人気あるから、下手な攻撃をすると自分たちが責められる……」
肯いた千冬は、そのために世論を味方につける布石として『ブリュンヒルデ』の称号を剥奪する気だろうと説明する。
「……お前が冷静で助かるよ」
騒がれる可能性もあると思っていたので、鈴音が大袈裟に驚かないでいてくれるのは千冬としては本当に助かっていた。
もっともそう言われた鈴音は、さすがに口をとがらせる。
「十分、ショック受けてますよ。千冬さんはIS操縦者の憧れなんですから」
「お前にそう言われるとは思わなかったな」
鈴音の気持ちを考えると自分は目の上のたんこぶなので、本当にそう思ってしまう千冬だった。
それはともかく千冬としては権利団体が要求するIS学園職員の総入れ替えを止めるために、称号剥奪は受け入れるつもりだった。
「目晦まし、ですか」
「少しでも自分たちの要求が受け入れられれば、いくらかは時間が稼げるだろうからな」
これまで抑え込まれていたことを考えても、少しの要求でも受け入れられれば、権利団体もいったんは満足するだろう。
その隙に各国に根回しをして今の権利団体がIS学園に入り込むことを阻止したいのだ。
「正直、何をしでかすかわからんからな」
「自分たちなら、あの子たちとの戦いも何とかできるとか思ってるんですかね?」
「思っているのだろう。そういう自信を身に着けてしまった」
「妄想だと思いますけど」
「まあ、な……」
鈴音の評価は辛辣ではあるが、正当な評価だと言える。
ISと人との戦争。
それは人間たちにとっては未知の存在相手に、手探りでしかできないものだ。
そんな戦争で司令官として戦ってきた千冬にしてみれば今でも自信はない。
「今でも、勝てるどころか、収められる自信だってない。負けないようにするどころか、ISたちと折り合いをつけられるかどうかもわからないんだ」
「現場で戦ってる私たちの意見を聞く気もないんでしょうね」
「あるならもっと殊勝になるさ」
少なくとも強引に入り込もうとはしないだろう。
戦闘やバックアップの手伝いもしないことは十分に考えられるので、いても邪魔なだけだ。
人手不足であったとしても邪魔をする者にいてほしいとは誰も思わないものだ。
「私から『ブリュンヒルデ』の称号を奪うくらいで満足するならくれてやるさ。そこまで気にするほどのものじゃない」
だから気にするなといって少しだけ笑ってみせると、鈴音は問題の核心をついてきた。
「……でも、千冬さんが『ブリュンヒルデ』じゃなくなるってことは、『ブリュンヒルデ』の権限もなくなるってことでしょう?」
其処を突っ込んでくるとは思わなかったので、千冬は驚きを隠せない。
単純に称号を失くすだけの話ではないことに気づいたのは、こういったことにも詳しい大人くらいで生徒である鈴音の口から聞くことになるとは思わなかったのだ。
「そうだ」と千冬は鈴音の言葉を肯定し、続ける。
「おそらく今まで通りにこちらの無理を通すことは難しくなる。称号など欲しかったわけではないが、戦い続けるために便利に使ってきたからな」
「千冬さんのことだから、私たちを庇うためにも使ってきたんでしょ?」
こういう時は本当に頼りになる生徒だと千冬は感心してしまう。
刀奈くらいだろう。
今の鈴音と同じくらいに聡いのは。
「ああ。今後、同じように庇い続けるのは難しい」
「今の段階だと、まどかが問題ですよね?」
「出自を考えると簡単には迎え入れられん。連中は確実にそこを突いてくる」
千冬個人としては、早く帰ってきて欲しいし、家族としての時間を過ごしたいと思う。
だが、亡国機業の実働部隊に所属していたまどかを安易に迎え入れれば、IS学園は犯罪者を匿っているとして現在の職員を解雇させようとすることは十分に考えられる。
「だから、今はドイツ軍に頼んでラウラの部下という形で出自の上書きをしているところだ」
「ああ、ラウラも少年兵だし、ちょうどいいんですね」
「ダメもとでクラリッサに相談したら、空軍大将まで乗り気になってくれてな」
その理由は知らないほうが良い千冬である。
いずれにしても、千冬から奪われるのは『ブリュンヒルデ』の称号だけではない。
その権限を奪われるということになる。
そして、こちらのほうが今のIS学園にとってははるかに重要なのだ。
「だから、学園長が奔走してIS学園擁護に回る組織や国を増やしているところなんだ」
「そういうことは、確かに私たちじゃ力になれませんね……」
「こういうことで力になれとは言わん。お前はまず治療に専念してくれ」
「はーい」
「言っておくが、またやったら今度は容赦しないぞ」
「はっ、はいっ!」
気の抜けた返事を聞いてちょっとムッとしてしまった千冬が少しばかり脅すと、鈴音は思わず気を付けをしてしまっていた。
そんなことを思い返した千冬は少しおかしくて、笑ってしまう。
「ああ、そうだ。こういうことは私たち大人が対処しないとな」
生徒たちの戦いに口を出させるわけにはいかない。
気持ちを新たにして千冬は改めて今後の対応策を検討し始めるのだった。