湖の乙女と夢魔の祝福   作:タキヤコ

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最終話 湖の乙女

 

 気がつくと、ヴィヴィアンは不思議な場所に立っていた。見渡す限り白い景色。雪を被っているのとはまるで違う。木も土も不自然なまでに白い。けれど、どこか安心する場所だった。家の周りの森に似ているからだろうか。そう思いながら歩いていると、これまた白い、けれど見慣れた湖があった。ウィングス家の始まり。夢魔の伝承が残る湖。そのほとりに誰かが立っている。(もや)がかかっていて、よく見えない。

 

「だれ?」

 

 ヴィヴィアンは尋ねた。すると、何かが聞こえてきた。

 

『──私はヴィヴィアン……湖の乙女、ヴィヴィアン』

 

 聞こえた声は耳を介さず、頭の中を揺らし、胸の奥に直接響いているようだった。

 

「ヴィヴィアン……? 私と同じ……」

 

 そう呟くと、ふいに風が吹き、目の前の(もや)が晴れた。

 

 湖のほとりに女が立っている。こちらを見ている。彼女には黒い翼が生えている。コウモリのような翼。艶めいた黒は、周りの景色を鏡のように映し出し、白く見える。

 

 彼女の長い髪が風で揺れる。ヴィヴィアンと同じ銀色のようだった。けれど、揺らめくと虹色に光っているようにも見えた。白い空間に内包された見えない七色を反射している。

 

 どんな姿にもなれる夢魔の本来の姿。獲物の好みを鏡のように映すのだ。

 

 彼女は再び声を伝える。

 

『名前を持たない()()への、最初の贈り物。湖で出会った()()に、ふさわしい名前を、と……愛しい人の声が、この名を紡ぎました。ヴィヴィアン……あなたの名前。大切にしてくれて、ありがとう』

 

 ヴィヴィアンという名前は、一族の数少ない女性に代々受け継がれてきた。その始まりが彼女だ。ウィングス家の始祖。魔法使いに恋をした夢魔。その出会いが夢魔を乙女にした。

 

 丸く潤んだ瞳がこちらを見つめている。まるで瞳の中に小さな湖を持っているかのようだった。彼女の水面には、この真っ白な空間に本来広がっているであろう、晴れやかな空の青色が映っていた。

 

 ここは夢の中なのだろう。夢の中で不思議な体験をするのは慣れっこだ。けれど、彼女に会うのは初めてだった。ご先祖さま本人なのか、それとも、自分の頭の中が作り出したイメージなのかは、判断がつかなかった。

 

 ──だって、人を愛した夢魔が、こんなにも美しい姿をしているなんて、知らなかったから。

 

 人の夢見る綺麗なものを全て集めたかのような、女神と呼ぶべきそのヒトに、しばし見惚れていた。そんなヴィヴィアンを窘めるように、彼女が厳粛な声を響かせた。

 

 

『……これから言うことを、よく聞きなさい。ヴィヴィアン……あなたが他人を思いやり、敬うことのできる、正しき心を持っている限り、“私”は祝福となりましょう……ただし──』

 

 

 そこまで言うと、彼女は突然、鋭い視線でこちらを睨みつけ、父にもダンブルドアにも真似出来ないくらいの、威厳と恐ろしさを纏わせた。

 

 

『──あなたが利己のために他人を傷つけ、蔑ろにする、悪しき心に堕ちたとき……“私”は呪いとなり、飽くなき獣の性が、あなたを苛み続けることでしょう』

 

 

 心臓を握りつぶそうとするような、彼女の告げる声の迫力に、ヴィヴィアンは夢の中なのに気を失ってしまうかと思った。そうなる直前で、彼女は纏う空気を和らげ、また女神のような慈愛に満ちた表情を浮かべた。

 

『ヴィヴィアン……私のかわいい子孫……あなたとあなたの愛する者たちが、幸福であることを願っています』

 

 彼女が目を閉じる。この邂逅の終わりを告げるように、再び辺りに(もや)が出てくる。彼女の姿が見えなくなる前に、ヴィヴィアンは声を上げた。

 

「ねぇ、あなたはずっと、私の夢の中にいたの?」

 

 本物のご先祖さまなのだとしたら、この夢の中に囚われているんじゃないか。愛する人の元に帰れないんじゃないか。そう不安に思って問いかけると、彼女は初めてクスッと笑い声を漏らし、親しみを抱かせる砕けた口調で答えた。

 

『私は夢魔。夢の中には自由に出入りできるのよ』

 

 そう言って彼女が、いたずらっぽい少女のような笑みを見せたとき、どこからか反響して別の声が聞こえた。

 

 ──ヴィヴィアン。

 

『あぁ、ほら、呼ばれてる。あなたも早く帰りなさい。()が待っているわ……』

 

 彼女は最後に再び笑いかけると、こちらに背を向けて、(もや)の向こうへと遠ざかっていった。

 

 向こうには何があるんだろう。気になったけれど、レギュラスが待っているのだから、今はまだ向こうへ行くべきときじゃない。

 

 ヴィヴィアンもまた、もと来た道を振り返り、濃くなっていく(もや)の中で、眠るように目を閉じた。

 

 

 

 

「ん……」

 

 朝日の眩しさに、ゆっくりと目を覚ます。重たい瞼に抗いながら、だらりと寝返りを打つ。簡素なベッドの上に寝転がったまま、辺りを見回した。海の匂いのする小屋の中。窓際にレギュラスが立っている。潮風を気持ちよさそうに浴びながら、外の景色を眺めている。ヴィヴィアンはシーツにくるまりながら、上体を起こした。布ズレの音でレギュラスが振り向く。

 

「起きたんだね。おはよう」

「おはよう……あなたさっき、私の名前を呼んだ?」

「え? い、いや……」

 

 目を逸らして言い淀む。ヴィヴィアンはシーツにくるまったままベッドの端に座り、レギュラスのほうを向いた。

 

「なあに? 怒っているわけじゃないのだけれど」

 

 レギュラスはバツが悪そうに、わざとらしく咳払いをする。

 

「ほら……昔、君が言ったじゃないか。名前で呼ぶのは、馴れ馴れしいから嫌だって」

 

 いちばん最初に友だちになったときの事だ。まだ覚えていたのか。言われてみれば、彼から面と向かって名前を呼ばれたことはなかった。呼ぶタイミングを逃したのか、律儀に言われたことを守っていたのか。その両方だろう。けれど、それはホグワーツを出る前までの話だ。

 

「今更何を言っているの……昨日、散々呼んでいたでしょう? 好きなように呼べばいいわ」

「マイハニー?」

「それはやめて」

 

 冗談めかして言うレギュラスに、間髪入れず言い返し、二人でクスクスと笑い合う。彼の顔を見ても、光の(もや)は見えない。自分の目が元に戻った証だ。

 

「レギュラス、身体は大丈夫なの?」

「ああ、本調子とはいかないが、心配はいらない。君こそ、どこか痛んだりはしないか?」

「ええ、何ともないわ。昨日は翼が生えていたなんて、信じられないくらい」

 

 背中を触ってみても、翼の痕跡などは残っていない。ヴィヴィアンが夢魔の姿になっていたことを、(から)になったペンダントだけが、夢ではないと表していた。翼や尻尾が生えたせいで破けたはずの服は、綺麗になって壁に掛けられている。

 

「服を直してくれたのね。ありがとう」

「お安い御用さ」

 

 得意げに微笑み、レギュラスはベッドの隣に腰かける。窓のほうを見遣りながら、そういえば、と声を漏らした。

 

「さっき、君が眠っている間に、ふくろうが来たんだ」

「ふくろう? こんなところに?」

 

「あぁ、安心して。目立たないよう配慮したのか、小さな豆ふくろうだった。送り主の名前はなく、見覚えのある字で『返事をして』とだけ書かれていた。『二人とも無事だ』と書いて送り返したんだが、良かったかな?」

 

 彼も確信しているのだろう。送り主は間違いなくアリアドネだ。

 

「ええ、ありがとう。もう返事が届いている頃かしら」

 

「きっとそうだろう。賢くて逞しいふくろうでね。僕たちの居場所を探し当てただけじゃなく、僕が急いで返事を書いて足に括りつけたら、文句も言わずまたすぐに飛び立っていったよ」

 

「良いふくろうを選んだのね。あの子らしいわ」

 

 レギュラスに釣られて窓の外を見た。空は青く、綺麗な快晴だ。

 

「さぁ、君も支度をして。動けるのなら、早くここを離れたほうがいい」

「そうね。だったら行き先は、私が決めてもいいかしら?」

 

「もちろん。君に考えがあるのなら、従うよ。僕は……どこへも帰れないものだと、覚悟をしていたからね……」

 

 レギュラスは俯きながら独り言のように呟いたあと、ちらりと控えめにヴィヴィアンの表情を窺い見た。きっと彼の想像通り、不満気な顔をしていることだろう。

 

「そんな覚悟、二度としないで」

「あぁ……わかっているよ」

 

 宥めるように言われ、ヴィヴィアンはくるまったシーツごと抱きしめられる。そうすれば絆されるとでも思っているのだろうか。……間違ってはいないけれど。

 

 思いどおりになるのは悔しいものの、彼の腕に包まれると心地が良かった。すぐ近くで聞こえる鼓動の音が、子守唄のように安心させてくれる。

 

 彼に触れられても、今はもう夢魔の血が騒ぐことはなかった。翼や角が消えるとともに、恐ろしい欲求も消え去った。けれど、ヴィヴィアンの中から夢魔の血が消えることはない。それが今は、少しだけ嬉しい。

 

 あのヒトもまた、私と同じように、愛しい人のところへ帰ったのかしら。

 

 そんなことを考えながら、胸いっぱいに息を吸うと、微かに甘いビスケットのような匂いがするのだった。

 

 

 

 身支度を整えるのとは反対に、小屋の中は元の状態を再現して少し荒らしておくことにした。痕跡を残さないためだ。勝手に使っておいて申し訳なく思うが、仕方がない。

 

「このくらいでいいだろう。準備はいいかい?」

「ええ。大丈夫よ」

 

 二人で小屋を見回してから外へ出る。

 

「さぁ、行き先はどこにするんだい?」

 

 明るい声で尋ねるレギュラスは、不安な気持ちを紛らわそうとしているように見えた。ヴィヴィアンは包み隠さず考えを明かした。

 

「ホグワーツよ。ダンブルドアに会うの。あなたが何をしようとしたのか、そこできちんと聞かせてちょうだい」

 

 レギュラスがここへ来た目的。夢の中で見たあのペンダントロケットの正体を、まだ聞けていない。

 

 間違いなく、楽しい話ではないだろう。誰にも明かすつもりがなかったことは、嫌という程わかっている。それでも、彼を真摯に見つめると、目を逸らさずに頷いてくれた。

 

「わかったよ……仰せのままに」

 

 レギュラスは貴族がするみたいな綺麗なお辞儀をした。強がっておどけているのだとしても、二人で笑うと不安が和らいだ。

 

「お手をどうぞ、ヴィヴィアン」

「ふふ。ありがとう、レギュラス」

 

 そのまま自然な動作で、エスコートするように手を差し出される。ヴィヴィアンは躊躇いなくその手を取り、レギュラスと一緒に『姿くらまし』をした。

 

 

 

 

 爽やかな山の風がさらりと頬を撫でていく。くすぐったさに目を細めつつ、見上げた先の景色に、思わず感嘆のため息が漏れた。

 

「綺麗だ……」

 

 ヴィヴィアンの心を代弁するように、隣でレギュラスがぽつりと声をこぼした。

 

 崖の上にそびえ立つ壮大な城。ホグワーツ城。何本もの尖塔が青い空に向かって、競い合うように伸びている。紡がれてきた歴史と、過ごしてきた思い出に彩られ、鮮やかに目に映った。夜に見たときよりも、どっしりと堅牢に感じられ、そしてなにより、とてつもない安心感を与えてくれた。

 

「ここからは、ゆっくり帰りましょうか」

「あぁ、思い出話でもしながら──」

 

 手を取り合ったまま、一歩一歩踏みしめるように、城までの道を歩く。レギュラスは話してくれた。出会った頃からの彼の本音を全て。城の入口に辿り着くまでの間、二人は魔法界の喧騒からしばし離れ、共に過ごした青春の日々を語り合った。

 

 日が暮れてもいいと思いながら歩いていたけれど、卒業までの時間がそうであったように、あっという間のひとときだった。ヴィヴィアンは、背筋を伸ばして気を引きしめる。これからだって大事な時間だ。

 

 足を踏み入れた玄関ホールは、何だかいつもより広く見えた。足取りが重いからだろうか。それとも、見納めになることを覚悟しているからだろうか。まるで入学したばかりの頃のように、城の中をじっくりと眺めながら、約束通り校長室のほうへ行こうとすると、ふいにレギュラスが引き止めた。

 

「校長室へ行く前に、ふくろう小屋へ寄ってもいいかな? クリーチャーに手紙を出しておきたいんだ。家に帰っているはずだから」

 

「家にいるのね、それなら手紙は必要ないわ」

「どういうことだい?」

 

「ふふ、私に任せて。あなたは怒るかもしれないけれど」

「?」

 

 校長室には、レギュラスの家へ連絡を取るための、秘密の手段があるのだ。かつてダンブルドアが予想していたように、やはりレギュラスは気づいていなかったらしい。不思議そうにする彼を連れて、校長室まで辿り着いた。

 

 さて、ここからが問題だ。どう言って入れてもらおう。そもそもダンブルドアがいるのかわからない。

 

 そう考えたのも束の間、校長室の門番であるガーゴイルの石像が、ひとりでに動き出した。入っていいということだろうか。奥に螺旋階段が現れる。それが止まり切るまで、二人とも足を踏み出さなかった。ここまで来ればさすがに、レギュラスの表情は強ばっていた。

 

「緊張しているの?」

「そりゃあ……するさ。入った途端、魔法省に売り飛ばされるかもしれないんだから」

 

「そのときは一緒に逃げるわ」

「頼もしいよ」

 

 レギュラスが、ふっと笑う。ヴィヴィアンは杖を取りだし、彼のシャツの一番上のボタンが解けかけているのを直した。反対にレギュラスは、ヴィヴィアンのローブの前をぴっちりと閉めた。二人で顔を見合せ、深呼吸をして、彼を先頭に階段へと足を踏み出す。

 

 ぐるぐると階段を上がりきれば、扉の前までやってくる。その間にレギュラスは腹をくくっていたのか、躊躇う様子を見せず堂々と扉をノックした。

 

「失礼します。レギュラス・ブラックとヴィヴィアン・ウィングスです」

 

 凛とした声を張ってレギュラスが言う。

 

「──入りなさい」

 

 ダンブルドアからの返答はすぐに聞こえた。突然の訪問に驚いた様子もない、厳かな声だった。二人は目配せをし、扉を開けて校長室へ入る。

 

「お話があって参りました。お時間よろしいでしょうか」

「そう緊張せずともよい。事情も聞かず、大事な生徒を売り飛ばしたりはせんよ」

 

 ダンブルドアは半月形のメガネの奥から、こちらを見定めるような視線を寄越した。冷や汗が出る。外での会話を聞かれていたのだろうか。しかし、動揺を表には出さずレギュラスは言う。

 

「ですが、僕はもうホグワーツの生徒では……」

「はて、そうじゃったかの? 君たちは卒業の式典に出席しておらんかったはずじゃ」

 

 わざとらしく首を傾げてダンブルドアはとぼけてみせた。二人がホグワーツを出たのは卒業式の前夜だ。

 

「ここへ戻ってきたということは、退学の意志もないと見た。であれば、校長による卒業の許可を得るまで、君たちはホグワーツの生徒じゃ」

 

 そのつもりで話を聞いてくれるということだろう。最悪の想定は避けられた。ほっと小さく息を吐く。安心して隣のレギュラスに顔を向けると、彼もまたこちらにちらりと視線を向け、微かに目元を緩めた。

 

 それを見届け、ヴィヴィアンは初めて発言をする。

 

「あの……本題へ入る前にひとつ、フィニアスに頼み事をしてもいいですか?」

「あぁ、かまわん。フィニアス! 寝たフリはもう良いそうじゃ」

 

「フィニアス……?」

 

 レギュラスが不思議そうに呟く。壁に並んだ歴代校長の肖像画の中で、フィニアス・ナイジェラス・ブラックだけがぱちりと目を開け、こちらを見下ろした。

 

「レギュラス……その顔は、憑き物が落ちたようだな。まったく……ブラック家の次期当主ともあろうものが、自ら進んで下僕に成り下がろうとは。それもあんな邪悪な男の! 私の曾々孫たちはどうしてこうも両極端なのか……」

 

 フィニアスがため息混じりの説教を始めてしまう前に、レギュラスがハッとして声を上げた。

 

「そうか……! 肖像画! こんなところに監視の目があったとは、盲点だった……」

 

 彼は少し悔しげながらも、謎が解けてすっきりしたように感嘆した。フィニアスの肖像画の存在に気づかされただけで、ヴィヴィアンの意図に思い至ったのだろう。

 

 肖像画に描かれた人物は、同じ人物を描いた肖像画同士を自由に行き来できる。ブラック家にもフィニアスの肖像画があることは、レギュラスに説明するまでもない。

 

「あなたが学校へ来なくなったとき、心配で様子を見てもらっていたの」

「すまない、心配をかけて。それにしても、よく気づいたね」

「ふふ、あなたのお兄さんからの悪知恵よ。校長室に忍び込んだの!」

 

 ヴィヴィアンがいたずらっぽく笑うと、レギュラスはみるみるうちに苦々しい顔になっていった。兄の悪行に対するこの顔を見るのも久しぶりだ。それに釣られてヴィヴィアンがまたクスッと笑い声をこぼすと、彼は気を取り直すように、こほんと咳払いをした。上を向いて、ご先祖さまの肖像画に話しかける。

 

「ご心配をおかけした身で申し訳ありませんが、あなたに頼みたいことがあります。グリモールド・プレイスにいるクリーチャーに、『壊したロケットを持って来てくれ』と伝えて頂きたい。そうすれば、僕からだとわかるはずです。どうか、お願いできませんか?」

 

「……いいだろう。任された」

 

 曾々孫の真剣な様子に、フィニアスは厳粛に頷くと、絵の外へと消えていった。レギュラスはダンブルドアに向き直る。

 

「ロケットというのは、これからお話しする本題にも関わるものです。僕はそのロケットを、ある洞窟から盗んできました。強力な、闇の魔術で守られた洞窟です」

 

 そこまで話したとき、フィニアスが戻ってくるより前に、バシッと大きな音がして、クリーチャーが『姿現し』で校長室の真ん中に現れた。彼は慣れない様子できょときょとと校長室を見回し、レギュラスの姿を見つけると悲鳴にも似た声を上げた。

 

「あぁ……! レギュラス坊っちゃま……! よくぞご無事で!」

 

 クリーチャーは歓喜に身体を震わせ、大きな瞳を涙で満たしていた。彼がレギュラスの足元に抱きつく前に、レギュラスがしゃがみこんでクリーチャーを抱きしめた。

 

「すまない……クリーチャー……怖い思いをさせたね」

 

「いいえ、いいえ! 謝るべきはクリーチャーめのほうでございます。ロケットを破壊せよというご命令を、未だ果たせておりません」

 

 クリーチャーは自分にお仕置きをしてしまった後なのか、痛々しく腫れ上がった手で、首から下げたロケットを外し、レギュラスに渡した。

 

「いいんだ、クリーチャー。よくやってくれたよ」

 

 束の間の抱擁を終え、レギュラスはクリーチャーを後ろにさがらせる。気を引き締めるように背筋を伸ばして立ち、再びダンブルドアと対峙した。受け取ったロケットのチェーンを手に持ち、目線の高さまで掲げてみせる。

 

「単刀直入に言います。これは──分霊箱です。『例のあの人』の」

 

「なんと……」

 

 ダンブルドアは目を見開いた。そして、ぶら下がったロケットにゆっくりと手を伸ばす。シワの刻まれたダンブルドアの指が微かに触れた瞬間、ロケットがまるで拒絶の意志を持って震えているかのように感じられた。

 

「あやつの生への執念が、これほどまでだったとは……」

 

 こんなにも驚き、険しい表情をするダンブルドアを見た事がない。レギュラスは一体、何を盗んだのか。ヴィヴィアンは彼の顔を見た。目が合うと、不安を見抜かれたのか、落ち着いた声で説明してくれた。

 

「分霊箱とは、人が己の魂を分けて隠しておくために用いられる物だ。分霊箱があれば、たとえ本人が命を落としても、魂の一部がこの世に残る。つまり、死ぬことはない。不死身だ。しかし、本来一体である魂を引き裂くなんて、自然に逆らう暴力的行為であり、恐ろしい代償が必要だという。それゆえに、禁術とされている」

 

「じゃあ、そのロケットに、『あの人』の魂が……?」

 

 見た目は何の変哲もない綺麗なペンダントロケットだ。蛇のように曲がりくねった「S」の文字が描かれている。スリザリンに関連する品なのかもしれない。

 

 ダンブルドアは色々な角度に首を傾け、ロケットを穴があくほど凝視していた。

 

「間違いないじゃろう……このロケットから、強力な闇の魔術と、何かが脈打っておるような気配を感じる。この時代にこんなものを作れるのは、やつしかおるまい」

 

「信じていただけるのですね」

 

 少し声音を高くして問いかけたレギュラスに、ダンブルドアは目を合わせて頷いた。

 

「あぁ……これはわしが預かろう。とても危険なものじゃ。持っているだけで、悪い影響を及ぼしかねん。しかも並の手段では壊せん代物じゃ」

 

 ダンブルドアはロケットの真下に手を差し出した。しかしレギュラスは、チェーンを握る手を離すことを躊躇った。ダンブルドアがレギュラスの目をじっと見つめる。

 

「──わしが信じられんか?」

 

 問い詰めるのではない、優しさを感じさせる声だった。それが余計にレギュラスを悩ませるのだろうということは、彼の表情でわかった。

 

 レギュラスは困ったように眉を下げ、思案するように目を伏せる。悩む彼の気持ちも理解できる。一度、信じるべき人を間違えて、今も苦難の只中に立たされているのだ。ダンブルドアは、信じられる人なのか。

 

 最も頼れる魔法使いに助けを求めようと、ここへ来ることを提案した。けれど、ヴィヴィアンにもレギュラスを納得させるほどの手立てはない。

 

 しばしの間、校長室が静かになってから、再びダンブルドアが口を開いた。

 

「……では、取引をしようかの。君が死喰い人であったことは、消すことのできない過ちじゃ。しかし、その身の潔白を、わしが保証することはできる。その代わり、協力してほしいのじゃ。かの──ヴォルデモート卿を、倒すためにな」

 

「……っ」

 

 ヴィヴィアンは息を呑んだ。レギュラスもまた身体を強ばらせ、動揺を隠せずロケットのチェーンが激しく揺れた。

 

 名前を聞いただけでこうなるのに、倒す事などできるのだろうか。たとえ分霊箱を壊したとしても、本人に立ち向かわなければならないのだ。途方もないように感じる。

 

 二人の様子を見て、ダンブルドアが目線を合わせるように少し腰をかがめながら、厳かな声で続ける。

 

「よいか、恐れは……物事を遠ざける。人の目を逸らさせ、本質を見えぬようにしてしまうのじゃ。恐れに立ち向かうには、勇気を持たねばならん。恐れを取り除くには、その正体を知らねばならん。やつを倒すためには、やつを出し抜いた君の知恵、そして、勇気が必要なのじゃ」

 

 ダンブルドアの言葉は、レギュラスを称えるものだった。元死喰い人であり、優秀な魔法使いであるレギュラスを、ダンブルドアが味方に引き入れないはずがない。以前アリアドネと推測していたことは、やはり正しかったようだ。

 

「──わかりました。あなたを信じます」

 

 レギュラスはチェーンを掴む手を離し、ダンブルドアの手のひらの上にロケットを託した。

 

「ありがとう……今後のことは、追って話をしよう。危険な旅をしてきたのじゃろう。今日はゆっくり休むといい。君たちの寮の部屋はまだそのままにしてある」

 

「お心遣い感謝します」

 

 そう言って礼をする。話が終わったと察し、ずっと気配を消していたクリーチャーが発言した。

 

「ではクリーチャーめは、レギュラス坊っちゃまのお部屋の準備を……」

「待って、それはきっとこの城の子たちが──」

 

 寮の掃除や洗濯は、この城に雇われている屋敷しもべ妖精たちの仕事だ。そうヴィヴィアンが止める前に、クリーチャーは『姿くらまし』をして消えてしまった。レギュラスは肩をすくめる。まぁ、呼び戻すほどのことでもない。今は思う存分、世話を焼かせてあげるのが一番だろう。

 

 ヴィヴィアンたちも校長室を出ようとすると、ダンブルドアに呼び止められた。

 

「あぁ、忘れるところじゃった。二人とも、よく聞きなさい……」

 

 そう前置きをして、仰々しく咳払いをする。二人は再び彼に向き直って、背筋を伸ばした。

 

 

「レギュラス・アークタルス・ブラック、および、ヴィヴィアン・ウィングス。両名がホグワーツ魔法魔術学校を卒業したことを、校長 アルバス・ダンブルドアが、ここに認めよう……卒業おめでとう」

 

 

 ダンブルドアは微笑んだ。二人は揃って「ありがとうございます」と礼をした。顔を見合せて、小さく笑った。

 

「そうじゃ、もうひとつ。わしの雇っておる従業員たちが、君たちに会いたがっておったぞ。──君たちの、友人とともにな」

 

 その言葉に見送られ、二人で校長室を出た。ようやく緊張が解け、うんと伸びをする。慣れ親しんだ学び舎の空気を胸いっぱいに吸い込んで、味わうようにゆっくりと息を吐き出した。

 

「卒業したのね……私、実感が湧かないわ」

 

 卒業すれば否応なく大人になってしまうものだと思っていた。色んな経験をして、強くも賢くもなった。けれど、まだホグワーツにいるからだろうか。子どもの自分と今の自分は地続きで、何も変わっていないように思う。

 

「きっと僕らは……人はみんな、少しずつ大人になっていくんだ。色んなことを知っていって、大人になっていくんだ」

 

 ダンブルドアも言っていた。恐れを取り除くには知らなければならない、と。色んなことを知っていき、見える世界を広げていけば、自分は立派な大人だと、胸を張って言えるようになるのだろうか。

 

「これからは私たち、もっと広い世界を知らなくちゃ。立派な魔法使いになって、愛するものを守るために……」

 

 ヴィヴィアンの言葉にレギュラスは頷く。そして、どちらからともなく手を握った。部屋で身体を休める前に、行きたいところがある。話し合わなくても、二人の足は同じほうを向いた。

 

 校長室から廊下を歩き、二人はひとつの絵の前に立った。何の変哲もない壁に飾られた果物の絵。躊躇いなくそれに手を伸ばし、緑色をした大きな梨をくすぐる。すると、あら不思議。扉の取っ手が現れる。

 

 レギュラスに促され、ヴィヴィアンが扉を開くと──目に飛び込んできたのは、泣きながら笑い怒っている、笑顔が取り柄の親友。足元に飛びついてきたのは、頼れる自慢の家族。そして、たくさんの小さな友人たちが、出迎えてくれるのだった。

 

 

 

 

 

 






『湖の乙女と夢魔の祝福』完結となります。お読みくださりありがとうございました。

30万字の長編小説を書ききれて、ほっとしております。頭の中にヴィヴィアンやアリアドネが生まれ、レギュラスを生存させる話を書こうと決めたときから、「自分にしか書けないんだから、絶対に書ききってやる。絶対に生存させてやる」という意地を張るような気持ちで執筆しておりました。

そんな自己満足な作品ですが、読んでくださった方の心に温かいものを残し、「読んで良かった」と感じていただけていることを願うばかりです。

感想・評価をいただけると喜びます。すでにしてくださった方はありがとうございました。執筆の際の励みになりました。

最後に、素晴らしい魔法の世界を作り出された原作者様に感謝申し上げます。

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