ある日、石を手に取った男は全てを知った。

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知った男

私は世界を見た。

 

そう言ってもお前たちは信じないだろう。

 

きっかけは「石」だった。

 

ある日、奇妙な石を私は道端で見つけた。

 

電柱のそばにあるその石はわずかに削れていて、その削れた断面図からは白くわずかに虹色に光る水晶が見えた。

 

私は石からわずかな音を感じていた。そしてその石を手に取り耳をすませてみた。

 

そしてゆっくりと目を瞑った時、私は見えてしまったのだよ。世界を。世界中のありとあらゆる「絶望」を。

 

 

私はある宇宙飛行士の絶望を見た。

 

宇宙開発競争の時代。ロケットの帰還に失敗し、大気圏で燃え尽きる男の最期を見た。

 

それは怒りだ。この世界の全てを燃やし尽くす事ができる怒りだった。

 

肌の全てが熱を持って、全身が100万の針に刺されるような鋭い痛みをもってして、視界を包む紅蓮の炎の中で目を見開きソビエト連邦を恨んだ男の絶望を見た。

 

お前は知らないだろう。大気圏で自分のからだが燃えるという事が。体を包む灼熱と音の無い暗闇のブラックアウトの中で自分の体が燃えていく絶望をこの地球にいる誰も理解していない。

 

白リンで民間人を焼き払う兵士の絶望を見た。

 

それはただの鎮圧作戦だった。その場所には"敵"しか存在しないはずだった。

 

白リン弾の入った迫撃砲の絨毯爆撃による鎮圧が終わった後で、5歳の少女とそれをかばう母親の皮膚のただれた死体を見た時の彼の絶望を私は見た。

 

私は見たんだ。全てのありとあらゆる時間軸に存在する世界の絶望を見た。

 

私は石の見せた世界に神の存在を見た。そして、神は私をこの絶望の世界からいつか連れて行ってくれると確信した。

 

世間はこう言うだろう。

 

貴方は栄光の未来へと羽ばたいて行き希望の扉はすぐそこにあり神様は乗り越えられる試練しか我々に与えず努力は報われどんな苦しい困難も仲間と共に乗り越えてゆけばいつかは希望の未来が切り開かれていくはずで文明社会に生きる我々は社会という共同体においてこの地球という空間でお互いを認め合い愛し合いいつかは我々は科学の発展と博愛の精神によって大いなる何かを成し遂げいつかその思いは報われ人間は苦しみを乗り越え前に進んでいけるはずだと。

 

ひとは絶望を知らない。

 

大気圏で自分の肌の全てが黒く焼け焦がれる中で生きることも死ぬことも国家も全てを恨み尽くした彼の絶望を知らない。

 

祖国のためと参加した軍事作戦で5歳の少女の皮膚を溶かした男が感じた「どれだけの生涯の善行を尽くしても償いきれない罪」を知った男の絶望を知らない。

 

人の生に意味など無い。

 

私はそれを知った。だからもう、十分だ。

 

もう十分なんだ!

 

Es ist genug,Herr, wenn es dir gefällt,so spanne mich doch aus!

(神よ、もう十分です。よろしければ、この世界から私をお連れ下さい!)

 

神よ。私を連れて行ってくれ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日も面会室で貴方はそう言った。

 

いつもそうやって上を見上げて演説をするかのようにそう口にする。

 

そう言い終わると叫びながら暴れて、白衣を着た職員に取り押さえられて拘束されていく。

 

そうして面会室には椅子に座る私1人だけになった。

 

この病院でずっとそこに貴方はいる。

 

こころのまとまりが失われてしまう病気。統合失調症。それが彼の病名だった。

 

私。山岸美里は幼馴染の彼の事が好きだった。

 

いつも図書館で本を読んでいて、私にはわからないような難しい本を読む貴方の横顔が好きだった。

 

けれど家族が離婚してから、段々と貴方はおかしくなっていった。

 

成績が落ちた。当たり前の事がどんどんできなくなっていった。あれだけたくさんの事ができていたのが何もできないほど落ちぶれていった。

 

もっと早く対処していれば良かった。そうすれば"間に合って"いたかもしれないから。

 

荒れていく貴方をもっと心配するべきだった。どこかで「でも、彼は真面目で強いから」と思っていた。

 

統合失調症がどんな強い人間ですら"そうなってしまう"病だと気付かされたのは、事件の後だった。

 

冬のある日。貴方は川の土手でポリタンクに入ったガソリンを被って自分に火を付けた。

 

なんとか生き残ったけれど、全身には火傷の跡が残ったままで。

 

それからずっとこの病院で"その言葉"を口にし続けている。

 

先生によれば色んな薬も試したらしい。けれど、彼の症状はあまりにも重くなりすぎた。

 

私の言葉は届かない。私の思いは全て"その言葉"で上書きされてしまう。

 

貴方は現実に負けた。そして妄想に逃げた。そしてその妄想さえも地獄だった。その地獄を終わらせるために自分を燃やして、生き残ったけれど何も残されていない自分を受け止められなくて、また妄想に逃げてしまう。

 

けどね。違うんだよ。

 

生きることは美しい事なんだよ。

 

私達はいつか時間という概念によって消えてしまう。どれだけの怒りも、どれだけの憎しみも喜びも、時間がいつか消し去ってしまう。肉体も精神も文明も感情も、全てが有限でありいつか終わってしまうの。それは美しい事なのよ。

 

火傷の跡で皮膚がただれて髪の毛が抜け落ちた貴方の姿でさえ美しいの。

 

現実との折り合いが付かなくなって妄想に逃げて、その妄想さえも敗北で。ただ同じ時間を繰り返すしかないとしても、それさえ美しい事なんだよ。

 

妄想の世界に生きる貴方も、この世界に生きる私のことも、時間は同じように消し去っていく。

 

雨の中の涙のように私達の体とこころはいつか世界から消えてしまう。

 

それを知りながら生きていくことは、美しいでしょう?

 

 

 

 

なんで私がこんなにも全てを悟ったような気持ちなのかわかる?

 

私ね。がんなんだ。

 

色々頑張ったけどもうダメらしいの。医者が言うにはもう3ヶ月は生きられないって。

 

死ぬことがはっきりした時は1日中ずっと泣いてた。でも、そんな時に貴方の事を思ったの。

 

からだがこわれていく私と、こころがこわれた貴方の事を重ねて、この病院に足を運ぶようになった。

 

そしてある日思ったの。「それでも生きる事は美しい」って。

 

私はそれを答えにした。"私に起きた事"は良いことなんだって。

 

だから貴方がそうなってしまった事も良いことだと、心の底から思う。

 

もう体もあまり動かなくなってきたの。会うのはこれで最後になるね。

 

 

 

 

さよなら。ヨシタカくん。大好きだよ。

 

 

 

 

私は病院を出る。

 

自動ドアを境界線とするように、肌に突き刺さるような冷房の空気が生ぬるい風に変わっていく。

 

白い病院の壁を夕焼けの光が橙色に染めていた。

 

入口の自動ドア。アスファルトの地面の隙間に生えた小さな雑草。アイスと飲み物の自動販売機。全てがオレンジの色を乗せていく。

 

病院の前にはフェンスに囲まれた空き地があった。

 

野放しにされた空き地から生えた大量の雑草は縦に伸びていて、横からの風に流されてサラサラとした音を奏でていく。

 

草がこすれ合う音とヒグラシの鳴き声が空にわずかにこだましながら、その音は風の音とゆっくり絡み合っていく。

 

入道雲の下に眩しく光る夕焼けの円が、ゆっくりと住宅街の形をした黒い影に沈んで行くのが見えた。

 

この病院を出た時に広がる世界は、いつ見ても美しかった。


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