ありふれた願いで世界最強   作:崇大

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Paltry malice

「南雲君……! 南雲君、嘘だよね!? 答えてよ!」

 

 香織の手は、真紅の血で染まるハジメの顔に触れ、必死の表情を浮かべていた。彼女は周囲も自分の限界も省みず、持てるすべての魔力を注ぎ込んで治癒の魔法を放ち始める。しかし、その輝きがハジメの体に届いた瞬間、魔法の光は強烈な熱気に飲み込まれるように、消え去った。

 

 ハジメの肉体が現在、尋常ならざる生存本能によって極度の活性状態となり、その異様なまでの執念が外部からの干渉さえ拒絶していたのだ。

 

 彼の閉じられた瞼からは、なおも血が流れ続ける。香織は震える声で彼の名を呼びながら、横たわるハジメに語りかけていた。彼女の声は、混濁する意識の中で、遥か彼方から聞こえる懐かしい音色のように響く。

 

 香織の膝に横たわるハジメの閉じたまぶたの隙間から、絶え間なく血が溢れ出していた。

 意識が朦朧とする中で、ハジメは香織の震える声がかすかに耳に届いていた。それはまるで遠い過去の記憶を呼び起こす、懐かしい音色のように感じられた。

 

「……行かないで…… 」

 

 掠れたその声は、香織の心からの願いなのか、それともハジメ自身が内側から発した魂の残響なのか判然としなかった。

 香織の白い服は、ハジメの流す濃い赤の液体によって無惨に染まり、二人の輪郭は次第に曖昧になりつつあった。

 

 香織の心には、昨晩の情景が絶え間なく浮かび上がっていた。

 

 月光が差し込む静かな部屋。その中で、ハジメが淹れた紅茶というには程遠い飲み物を口にしながら、二人きりで語り合った。こうしてじっくり話をするのは、初めてのことだった。

 

 不安な夢に苛まれた香織が突如訪ねてきた時、ハジメは相当驚いていた様子だった。それでも、真摯に耳を傾けてくれ、気づけば香織の不安は霧散し、互いの思い出を語り合う心安らぐひとときを過ごしていた。

 

 そして、気分も高まり自室に戻ったあと、不意に自分があまりにも大胆な格好をしていたことに気づき、羞恥で身悶えする羽目になった。さらに、それならばハジメも何らかの反応を見せてもよかったのでは、と考えると、自分には魅力が不足しているのではと落ち込む始末。一人で表情を次々変える香織を見て、同じ部屋にいた雫が呆れた顔をしていたのも、今となっては苦々しい思い出だ。

 

 その夜において最も重要だったのは、香織が交わした約束だ。

 

「傍にいる」という言葉。それは、ハジメが彼女を安心させるために提案したものだった。深い奈落へと消えてしまったハジメを見つめながら、その瞬間の記憶が繰り返し脳裏に蘇る。

 

 やがて遠くからかすかに聞こえていた悲鳴が、自分自身のものだったことに気づいた香織。瞬く間に正気が戻る中、その恐ろしい現実に唇を強く引き結んだ。

 

「……あ、あぁ……っ」

 

 香織の喉から、かすかな嗚咽が震えるように漏れ出した。

 

 雫は、震える手で剣を握りしめつつ、その場から動けずにいた。

 

 親友の香織がどれほどハジメを深く想い、大切にしていた約束を守ってきたのか、その想いは傍にいた雫には痛いほど伝わっていた。だからこそ、今この瞬間に、香織に何と声をかけるべきかわからなかった。

 

「……香織」

 

 ようやく絞り出した言葉は、自分でも驚くほどかすれた声だった。

 

 その瞬間、後方から絶望を吹き飛ばすかのごとく、メルド団長の怒声が響き渡った。

 

「立て! 嘆いている暇はない。全力で迷宮を脱出するぞ! ……坊主のことは任せた 」

 

 その言葉に突き動かされるように、雫は香織の肩を力強く掴んだ。

 

「香織、立って……南雲君の、ハジメ君の命を救えるのは、あなただけなの!」

 

 雫の瞳には、親友を助けたいという切実な祈りと、深い敬意がにじみ出ていた。メルド団長が託した「任せた」の言葉。それは、この場にいる仲間たち全員の命を背負いながらベヒモスと死闘を繰り広げたハジメへの最大限の信頼と哀悼が込められていた。

 

 香織は鳴り響くほど震える歯を食いしばり、視界を濡らす涙を乱暴に拭き取った。

 

 彼女は力なく震える足をどうにか動かし、ゆっくりと立ち上がる。その白い法衣は、ハジメの流した血で赤黒く染められたままだった。しかし、香織の目には、絶望に、飲み込まれそうな自分に打ち克とうとする確固たる決意の輝きが灯りつつある。

 

「行こう、雫ちゃん……私たちは負けない。絶対に生き延びて、必ず南雲君を治してみせる!」

 

 それがどれほど無謀で過酷な願いかは、彼女自身よくわかっている。それでも香織は心に誓った。彼が命懸けで護ってくれたこの命、決して無駄にはしないと。

 

 その様子を眺めていた光輝は深く頷いた。

 

「そうだ、急いでここを出よう」

 

 クラスメイトたちの心には深刻なダメージが残っていた。誰もが呆然とした表情で崩落した石橋あたりを茫然と見つめるだけ。中には「もう無理!」と叫びながら座り込む子もいた。

 

 光輝は懸命に声を張り上げ、クラスメイトたちに呼びかけた。

 

「皆! 今は生き残ることだけを考えよう! すぐに撤退するんだ!」

 

 その言葉を受けて、全員がしぶしぶ動き始める。とはいえ、目の前には依然としてトラウムソルジャーが次々と魔法陣から現れ続けており、この状況で戦うのは危険極まりないし、戦う必要もなかった。

 

 光輝はさらに声を張り上げてクラスメイトたちを急かし、脱出を促した。メルド団長や騎士団も、必死で生徒たちを励まし、ついに全員で階段へ向かうことができた。

 

 上階への階段は果てしなく長く、暗闇の中をただひたすら登るしかなかった。感覚的にはすでに30階以上は上ったように感じるが、足元がますます重くなるのを皆が感じていた。いくら魔法で身体強化しているとはいえ、疲労は確実に蓄積し、先ほどの戦闘で受けたダメージも重なり精神的にも、肉体的にも厳しい状況だった。薄暗い階段は、不安と倦怠感を一層かき立てる。

 

 ようやく小休止を取るべきだと考え始めたころ、上方には大きな壁が現れ、その中央には魔法陣が描かれていた。その瞬間、クラスメイトたちの顔に少しずつ生気が戻り始める。

 

 メルド団長は壁へ駆け寄り、それをじっくり調べた。フェアスコープによる確認を忘れず行った結果、この壁には罠の類は仕掛けられていないことが判明した。そして、魔法陣に刻まれた式が扉を開くためのものだと読み解く。

 

 団長が呪文を詠唱して魔法陣に魔力を注ぎ込むと、大きな壁が回転し、隠された扉が現れた。奥の部屋への道が開かれ、中へ進むとそこはあの20階層、過去に訪れた部屋だった。

 

「戻った……本当に戻れたんだ!」

 

「私たちの場所だ……」

 

「助かった……帰ってこれた……」

 

 生徒たちはホッとした息を漏らし、その場にしゃがみ込む者や涙を流す者まで現れた。光輝や仲間たちも壁にもたれかかり、その場で休みたいという衝動に駆られていた。

 

 しかし、彼らはまだ迷宮の中にいる。低レベルのエリアとはいえ、この場で気を抜けばどこから魔物が襲いかかるかわからない。この場で完全に緊張感を失ってしまえば、脱出は困難だった。そのことに気づいていたメルド団長は、生徒たちに休んでほしいという思いを押し殺し、厳しい言葉で全員を立ち上がらせる。

 

「皆、一歩でも気を抜けば帰れなくなるぞ! 魔物との戦いは可能な限り避け、最短ルートで地上へ向かうんだ!もう少しだ! 踏ん張れ!」

 

 少しの間だけでも休ませてほしい、と無言の表情で訴える生徒たち。しかし、その願いを鋭い目つきで簡単に封じ込められる。

 

 しぶしぶ立ち上がりながらも、体力が尽きかけた様子でふらつく生徒たち。その中で、疲労を隠して先頭を切る光輝の姿が目立つ。道中に現れる敵は、騎士団員たちが中心となり、必要最低限の戦闘だけで片付けつつ、一行は地上を目指して一気に進んだ。

 

 そしてついに、一階の正面門と懐かしい雰囲気すら感じる受付の光景が視界に入った。迷宮に入ってからまだ一日も経っていないはずなのに、通過した時点がまるで遠い昔であったかのような感覚を抱いた者は少なくないだろう。

 

 今度こそ、安心しきった表情で外へ出る生徒たち。広場に出ると、その場に、大の字になって倒れ込む者もいた。それぞれが、自分たちが生き延びたことを喜び合っている様子だった。

 

 しかし、その中で複雑な面持ちをしている者たちもいた。未だに意識を取り戻さないハジメを背負う光輝、そんな彼の周囲を心配そうに見守る龍太郎、香織、雫、恵里、鈴、そしてハジメに助けられた女子生徒たち。その一団だけは、明るい雰囲気に馴染めず重い空気をまとっていた。

 

 そんな彼らの様子を横目で見つつ、メルド団長は受付へと足を向けた。二十階層で発見した新しい罠について報告するためだ。そのトラップは余りにも危険で、石橋が崩れた今でもまだ罠として機能しているかは不明だったが、重大な情報であることには変わりない。そして何より、ハジメがベヒモスを仕留めた件についても報告する必要があった。

 

 気が重くなる内容ばかりだと分かりながらも、表情にはそれを出さずに振る舞おうと努力するメルド団長。しかし心に湧き上がる憂鬱を完全には抑えきれず、ときおり深いため息が漏れてしまうのだった。

 

 迷宮の正門をくぐり抜け、午後の日差しが眩しく降り注ぐ瞬間、何人もの生徒たちがその場に膝を崩した。土の香り、風の音、そして彼らが確かに「生きて」帰還したという現実。それらが一度に押し寄せてきて、張り詰めていた緊張の糸を断ち切ったのだ。

 

 しかし、その広場に広がる安堵感の輪からほんの少し離れた一角だけは、不自然なほどの静寂に支配されていた。その場には、ほとんど黙祷の空気すら漂っているようだった。

 

 光輝は、自分の背中に伝わる重みを、まるで彼ら自身の無力さそのものの表れのように感じていた。背負われたハジメは血で覆われた顔がまだ乾かず、その血の下から露わになった肌は異様に青白い。かすかに眉間を寄せるしぐさ以外、生きているとわかる証拠はただ背中越しに伝わるごく微弱な心音だけだった。

 

「……光輝、俺が代わろうか」

 

 沈痛な顔で龍太郎が申し出るも、光輝は首を横に振った。

 

「いや、大丈夫だ。これは……俺がやるべきことだ」

 

 その言葉には、リーダーとして、そして親友としてハジメを守りきれなかった後悔が色濃く滲んでいた。横を歩く香織は、一刻でも早くハジメを適切な治療施設へ運ばねばという一心で、その足を止めることなく進み続ける。彼女の衣服にこびりついた血痕は乾いて黒ずんでいたが、彼女は一度たりともそれを気にする素振りを見せなかった。

 

 一方、先頭を歩きギルド受付へと急ぐメルド団長の背中は、彼らから見ると今までになく小さく見えた。

 

「ああ、メルド団長……これは一体どういう状況ですか?」

 

 訪ねたギルドの受付嬢は、一行の疲弊した様子に目を見開きながら尋ねた。ボロボロになった装備を見ると、彼女の表情に戦慄が走る。メルドは重い口調で語り始めた。

 

「二十層目に未知の転移罠が仕掛けられ、ベヒモスとの交戦、さらには魔法陣を用いた魔物の増援まで……。極めて異常な事態だった」

 

 事務的に状況を報告する中でも、メルドの脳裏には鮮明に焼き付いた光景が消えない。それは、橋の上でただ一人魔物の群れと向き合った銀色の鎧を纏う少年だった。

 

「加えて、一人の生徒が単独でベヒモスを仕留めた。それがなければ、我々全員の命はここにはなかっただろう」

 

 受付嬢の手元でペンが止まる。ベヒモスといえば、熟練騎士団が総力を挙げても容易に倒せない災害級の魔物。その伝説的な怪物を訓練中の生徒一人が討ち取ったという話は、この瞬間からギルド内のみならず王国全土へと震撼をもたらすだろう。

 

 だが、その「英雄」はいま、生死の狭間を彷徨っている。

 広場では、ハジメに命を救われた女子生徒たちが声もなく涙を流していた。彼女たちにとってハジメは単なる仲間やクラスメイトではなく、絶望の淵から救い出してくれたかけがえのない救世主だった。

 

 雫は、はるか遠くに見えるオルクスの迷宮の入口をじっと見据えていた。

 静寂を保ちながらも、その暗く大きな口は、まるで新たな獲物を待つようにぽっかりと開いている。

 

(ハジメ君……そこで、何を見てきたの?)

 

 彼女の心に、問いかけるその声に応える者はいない。

 迷宮から生還した者たちの胸には、生き延びた安堵よりも深い、消えることのない傷が刻まれていた。

 ハジメという少年が示した揺るぎなき「ハガネ」の意志。それは、これから先、彼らの運命だけでなく、この世界そのものの在り方にまで大きな影響を与えることになる。

 だが、この時点で誰もそのことを知る術はなかった。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 ホルアドの町に戻った一行は、疲れ切っていて何をする気力もなく、そのまま宿屋の部屋へと入っていった。生徒の中には仲間同士で話し合っている者もいたが、大半はベッドに飛び込むように倒れ込み、瞬く間に、深い眠りに落ちていった。

 

 ホルアドの宿屋を覆う静寂は、瀕死の戦場から生還した者たちが吐く重い息遣いで満たされていた。

 

 石造りの廊下には、泥にまみれた靴やひび割れた防具が乱雑に放置され、夕闇に染まるわずかな光が、部屋の片隅にこびりついた絶望感を静かに浮かび上がらせる。

 

 眠りに沈む生徒たちの夢を追い立てるのは慰めではなく、崩れ落ちる石橋の轟音、闇を切り裂いた銀色の閃き、そして耐え難い戦いに身を投じた「無能」と蔑まれていた少年の背中の記憶だ。

 

 そんな中、一部の部屋ではかすかな灯火がまだ揺らめいていた。

 

 女子部屋の片隅では、ハジメに救われた生徒たちが肩を寄せ合いながら震えていた。

 

 「……どうして。どうして南雲君が、あんな……」

「助けてもらったのに、私たち、お礼も言えなかった」

 

 後悔の念が堰を切ったように溢れ出し、あまりにも鮮烈で忘れ難い救世主の姿が脳裏によぎる。彼女たちの中では、もはや「無能」という言葉は完全に消え去り、その代わりに深く刻まれた罪悪感が心を覆っていた。

 

 その一方で、香織は一人ベッドの端に腰を下ろしていた。宿屋の主人が用意した着替えには手を付けず、乾き始めた血痕が残る法衣をまとったまま、窓の外に広がる星空をじっと見つめている。

 

(冷たい。ハジメ君の手って、あんなにも冷たかったんだ――。 )

 

 彼女の指は、ハジメが最後に触れた腕の位置をなぞり続けていた。その仕草には、まだ彼の存在を確かめようとする気配が滲んでいる。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 メルド団長は宿屋の一階で、一人静かに強い酒を飲み干していた。

 

 「……ハガネ、か」

 

 彼は理解していた。あの瞬間、ハジメがベヒモスを討ち取った一撃は、単なる力の発露ではなかった。それは、自身の命を全く顧みることなく、仲間を救うことだけを唯一の目的とし、揺るぎない決意で生み出されたまさに『ハガネ』そのものの意志だった。

 

 深夜の静寂を打ち破るかのように宿屋の時計が重々しい音を響かせた。

 明日になれば、彼らは王都へと帰還しなければならない。

 

 メルドは空のグラスをそっとテーブルに戻し、宿の窓越しにオルクス大迷宮の影をじっと見据えていた。

 

 無意識のうちに、自分の拳を固く握りしめていた。

 あの日、ハジメの師範である八重樫虎一が語った「守りし者の覚悟」という言葉が、今になって胸にずっしりと響いてくる。ハジメが土壇場で見せたあの力、そしてあの鎧は、単なるスキルの発現などではない。それは、代々受け継がれてきた「意志」が、少年の絶望と深く共鳴し、形となったものだったのだ。

 

 メルドの目には、その迷宮がまるで巨大な墓標のように映っていた。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 宿屋の一室を医務室として使っている場所で、ハジメは目を覚ました。

 

 窓から差し込む月の光は、鋭く目に染み渡ってくる。

 

 視界はぼんやりと霞み、思考は泥沼の中に沈んだように鈍重だ。ハジメが最初に感じたのは、全身を焼き尽くすような耐え難い激痛と、喉の奥まで突き刺さるような乾きだった。

 

 「……ここは……」

 

 掠れた声でつぶやき、身体を動かそうとした瞬間、彼の口から言葉は途切れた。

 指先ひとつ動かすことすら困難で、全身の神経が悲鳴を上げている。視界の片隅に映った自分の姿は、包帯に無残なほど覆われていた。

 

 ふと横を見やると、椅子に座り込んだまま、力尽きたように眠っている雫の存在が目に入る。

 その手はハジメの寝台の端を強く握りしめていて、もう二度と離さないと誓っているかのようだった。昨夜の混乱と絶望が、その姿から漂っている。

 

 ぼんやりしている頭に熱がこもる中、ハジメは少しずつ記憶を掘り返していく。

 あの深い奈落。まるで世界が崩れ落ちるような絶望感。その深淵に潜む魔物たち――自分たちを喰い尽くそうとする群れ。

 そして最後に思い浮かぶ疑問が心を抉る。

 

 (僕は、生きているのか……?)

 

 ハジメは、力なく垂れ下がる自分の右手を震える意識の中で必死に動かし、雫の肩へとそっと伸ばした。指先がかすかに彼女の肩に触れ、そのわずかな接触に肩が微かに揺れる。しかし、雫は小さな吐息を漏らすだけで、深い眠りの中から目を覚ます気配はなかった。

 

 どれほどの負担を彼女に背負わせてしまったのだろう――そんな思いが胸をよぎり、ハジメの唇は苦笑いのようにわずかだけ持ち上がった。しかし、それすら頬に刻まれた傷が引きつり、鋭い痛みを伴った。彼女がクラスの支え役であり、そして香織の親友として、どれほどの重圧を耐え抜きながら自分を助け出し、ここまで運んできたのか。動けない体のまま、ハジメは彼女の献身に対し胸が締め付けられるような感覚を覚えていた。

 

 ふと視線を窓の外に向けると、満月が照らす静かな夜の街並みが広がっている。その穏やかな景色は一瞬だけ、昼間この地を飲み込んだ地獄絵図が嘘だったかのような錯覚を生じさせる。しかし現実は無情だ。あれは確かに夢ではなく、この光景すらその現実に冷たく反響している。

 

 深い溜め息を吐きながら、ハジメは再び瞼を重く下ろした。今は無理に雫を起こす必要もない。ただお互いがまだ生きている、そのことをこの静寂の中で感じるだけで十分なように思えた。

 

 深い闇の底から掴み取った、生々しくも儚く、そして抗えないほど重たい命。それを噛み締めるように、ハジメは雫が握ったまま離さないシーツにそっと手を重ね、優しくその手で守るように握り返していた。

 

 シーツ越しに伝わる雫の手の温もりは、ハジメが先ほどまで身を置いていた暗く冷たい奈落とは正反対で、ひどく現実的だった。

 

 そのぬくもりに触れているうちに、張り詰めていた心の緊張が少しずつほどけていく。ハジメは彼女の規則的な寝息と脈動を感じながら、自分が今ここにいることを、辛うじて実感していた。

 

 ハジメは、隣で寝息を立てる雫の安らかな横顔に視線を向けた。

 

 窓外から吹き込む夜風がカーテンを揺らし、部屋にひやりとした冷気を運んできた。

 

「……少し風に当たりたいな」

 

 そうつぶやきながら、ハジメは雫を起こさないように気をつけてベッドから抜け出し、部屋を後にした。

 

 廊下に出ると、辺りはまるで人の気配が消え去ったかのように静寂に包まれていた。

 

 一歩足を踏み出すたびに、包帯の下に隠された傷口が燃え上がるような熱を帯び、筋肉が、引き裂かれるような激痛が走る。それでも、ハジメはその痛みを「生きている証」として受け入れるべく、歯を食いしばりながら前へ進んだ。

 

 宿屋の裏手にある、小さなテラスに出た瞬間、夜の冷たく澄んだ空気が全身を鋭く刺した。あの迷宮での戦闘時に味わった熱気とは異なる、どこか心を落ち着かせる心地よい冷たさだった。ハジメは手すりにもたれかかりながら、深く息を吐き出す。

 

(僕は……変われたのだろうか?)

 

 月明かりに照らされる自分の左手に視線を向ける。さっきまで感じていた雫の手の温もりが、何とも言えない安らぎを胸に運びながら、心臓の奥で静かながらも強く鼓動する感覚を覚える。

 

 顔を上げると、見上げた夜空には、昨日香織との約束の日に見た月が今も優しくこちらを見下ろしているようだった。

 

 あの夜、香織と交わした「傍にいる」という約束。その言葉が胸に刻まれたのは、ほんの昨日のことだったはずなのに、今のハジメにとっては、それがまるで遠い昔の出来事のように思える。

 

 月は変わることなく、静寂の中で地上を優しく照らし続けている。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――だからこそ気づけなかった。火球がハジメに向かって迫っていることを。ハジメ自身も同様に。

 

 その瞬間、視界の片隅で爆発的な閃光が炸裂した。

 

 月光すら飲み込む凄まじい熱波が、テラスの静けさを無慈悲にかき消していく。

 反射的に気づいた次の瞬間には、紅蓮の炎がハジメの目前にまで迫っていた。宿屋の裏手――誰もいるはずのない闇から放たれた、明らかに敵意を孕んだ奇襲だった。

 

 「――っ!」

 

 声にならない悲鳴がハジメの喉奥で凍りついた。疑問、困惑、驚愕が一瞬にして頭の中を駆け巡り、愕然とする彼の思考を一時的に凍結させた。

 

 咄嗟に足を踏ん張り、何とか動きを止めようと試みたその瞬間、ハジメの目の前に火球が突き刺さる。着弾と同時に発生した衝撃波がもろに体を襲い、彼を元来た道へと吹き飛ばした。幸い直撃は避けたものの、内臓には影響はなくとも三半規管がやられたためか、平衡感覚は完全に狂ってしまった。

 

 ふらつく身体を支えながら、それでも前へ進もうと無理やり立ち上がろうとするが……。

 

 視界がぐにゃりと歪む。

 上も、下もわからなくなる世界の中、ハジメの体は力なくテラスの床へ崩れ落ちた。耳の奥ではキーンという不快な高音が響き渡り、地面はまるで荒れ狂う波のように激しく揺れている。

 

 「……なん、だ……っ」

 

 ハジメは燃えるような熱気と、狂ったように錯乱する三半規管に起因する激しい吐き気をこらえながら、震える手で床に体重を預けた。

 

 直撃は辛うじて回避したものの、包帯の隙間から覗く右腕の皮膚は、熱波の影響で赤黒く焼け焦げ、ズキズキと痛みが襲う。

 

 (誰……? 一体どこから……!?)

 

 ぼやける視界を無理やり凝らしながら、彼は火球の爆発でできた痕跡が浮かぶ闇の奥を睨みつけた。

 

 しかし、その鋭い視線も空しく、2発目の火球が放たれた。

 

 1発目とは比べものにならないほど凄まじい轟音が、夜の闇を完全に切り裂いた。

 

 「――っ、しまっ……!」

 

 ハジメの喉がひと際ひきつる。その瞬間、闇の奥深くから放たれた二筋目の紅蓮の光。その輝きは前の一撃をはるかに凌ぎ、音すら追い越してしまうかのような異次元の速度で迫ってきた。

 

 耳鳴りとめまいに襲われ、三半規管が狂う中、ハジメにはただ、その迫りくる死の閃光を見上げることしかできなかった。視界を灼き尽くすような苛烈な熱波が、今や彼の目の前まで迫り、そのたびに死神の足音が鮮明に響くかのようだ。

 

 火球がハジメに直撃し、激しく砕け散った。瞬く間に周囲は炎に呑まれ、猛烈な爆風が容赦なくその体を襲う。

 

 「くっ……あ、つうぅッ……!」

 

 熱波と衝撃に全身を打たれ、ハジメは思わず叫びを漏らしたが、爆炎の轟音にかき消されてしまう。視界が鮮烈な赤に染まり、肉が焼け焦げる感覚と、弾けるような衝撃が五感を蹂躙する。その余りの熱量に息を吸うことすら叶わず、三半規管は完全に崩壊。爆風の勢いに操られた肉体は、木の葉のごとく宙を舞い上がり、夜空へと打ち上げられる。

 

 「ガ、はっ……あ、ぐ……っ!」

 

 どれほど宙を舞っていただろう。漆黒の煙の向こう側、薄れゆく意識の中で目に映るのはかつての宿屋ではなく、不気味な崖の鋭いシルエットだった。

 

 全身を貫く衝撃と共に背中から地面へ叩きつけられる。肺から空気が強引に奪われ、骨が悲鳴を上げる。一度目の爆風、続いて二度目の直撃。その途方もない推進力によってハジメの身体は宿屋の裏手を越え、近くの崖の頂へ文字通り吹き飛ばされたのだ。

 

 焦げ付いた衣服の端が吹き荒れる夜風に乱れ舞う。ハジメは激しく血を吐きながら、それでも動く唯一の左腕で泥を掴み、ふらつく頭を何とか持ち上げる。

 

 ゴオオオオオという重低音が耳元で響く。視線を落とした足元には――崖下で月光を浴びて黒くうねる激流が渦巻いている。その川は牙を剥き、もし落ちればいかに屈強な肉体であろうと助かる余地はない。冷酷な濁流が底知れぬ脅威となって眼前に迫っている。

 

 「は、はは……っ」

 

 そう呟くと同時に、ハジメは震える声で乾いた笑みを浮かべた。全身を激痛が貫き、包帯はほぼ焼き落ちたに等しい。ハガネを召喚しようと試みても、剣はすでにテラスから吹き飛ばされ、地面に突き刺さったままだ。さらに、錬成でこの状況を打開しようとしても、負傷した身体では思うように力を発揮することができない。

 

 (本当に……笑えない冗談だ)

 

 手元に武器はなく、防壁を練成する術も届かない。奈落の底からようやく掴み取った命の灯火が、いままさに指の隙間をすり抜けて消え去ろうとしている。

 

 その瞬間、崖の上を切り裂くような闇の中から、ゆっくりと迫る足音が響き渡った。

 

 ザッ、ザッという音は、周囲のすべてを圧倒する冷酷さと揺るぎない力を感じさせるものだった。霞む視界を必死に持ち上げるハジメの目に映ったのは、燃え盛る炎の後ろに立ち上る赤黒い煙を背負いながら、不気味に人影が崖の縁へと歩み寄る姿だった。

 

 夜の闇と逆光に包まれたその顔ははっきりと見えない。だが、その手元で不気味に弾ける紅蓮の魔力光が、この人物こそがハジメをここまで吹き飛ばした張本人であることを確信させるに十分だった。

 

「ヒ、ヒヒヒ……お、お前が悪いんだ。雑魚のくせに……調子に乗るからこうなるんだ……これが天罰ってもんだ……俺は間違ってない……白崎のためにやったんだ……お前みたいな雑魚には、もう関わらなくて済む……俺は、間違ってない……ヒ、ヒヒ……」

 

 その歪んだ声が耳に届いた瞬間、ハジメの頭の中で散らばっていたパズルのピースがカチリと音を立ててはまり込んだ。

 

 (――檜山……君)

 

 揺れる視界の奥、逆光に、浮かび上がる狂気に包まれた輪郭が映り込む。間違いない。あれはクラスメイトであり、かつて迷宮の死線を共に越えたはずの男、檜山大介の姿がそこにあった。

 

 「白崎さんのために……だと?」

 

 掠れた血混じりの声がハジメの喉から漏れ出す。

 自身の嫉妬と醜い独占欲を「天罰」などという言葉で正当化し、挙げ句には香織の名前を借りてまで自分を殺そうとする男。その姿こそ、目の前の檜山その人だった。

 

 「ヒヒッ……俺はただ――白崎のために、クラスのために害悪を取り除いただけだ!だから俺は正しい!間違ってなんかないんだああッ!」

 

 完全に我を失った檜山が狂気に満ちた声で叫ぶや否や、その手に集められていた巨大な火球は、轟音を伴い放たれた。

 

 迫り来る灼熱の業火。

 今のハジメにそれを防ぐ力はない。体を自由に動かして回避する余地もない。

 

 ドガァァァァンッ!

 

 凄まじい爆発音とともに崖の頂が爆炎に飲まれ、その衝撃波がハジメの身体を崖の向こうへと吹き飛ばした。

 宙へ投げ出されたハジメの体は、やがて重力に引かれ、真下で牙を剥く冷たい急流へと真っ直ぐ落ちていく。

 

 荒々しい風の音が耳元を突き抜ける中、崖上では勝利を確信した檜山が狂おしいほど歓喜しながら踊り狂っている。その姿は徐々に小さくなり、遠ざかっていった。

 

(……白崎さん、雫ちゃん――ごめん)

 

 大迷宮の底なし奈落に続いて、今度はこの地上でも闇へ沈むのか。

 だが今のハジメの胸を支配しているのは、あの時味わった無力感ではない。香織との約束を守れず、そして雫の思いすら踏みにじってしまったことへの深い悔恨だった。

 

 ドブンッ!

 

 暗い夜の静寂を割るように、水面が、激しく揺れる音が響きわたり、ハジメの身体は黒々とうねる激流へとのみ込まれた。

 底知れぬ水底に向かって沈みゆく中、身体だけでなく心までも、この黒い闇に飲みこまれていくような錯覚が広がっていく。

 

 駄目だ――。

 

 記憶が風化され、闇に侵食されていく。塗り潰されて消える思い出たちを振り払い、何とか自分を保とうとハジメは目をかっと開いた。

 

 やっとここまで来たんだ……!

 まだ――まだやらなきゃならないことがあるんだ!

 

 クラスメイトたちの顔、家族の顔――ユウの姿が、闇に飲まれて消えていく。

 

 南雲君!

 

 ハジメ!

 

 ハジ――

 

 ――ハジメ、ごめんね――

 

 最後に響いたユウの声すらも、闇によって塗り潰されていった。そしてついに、全てを飲んでしまったその黒は純白となり、今度は一枚の白いキャンバスが目の前に広がった。

 

 その真っ白な空間には徐々に色が加えられ、新たな光景が描かれていく。

 けれど映し出された景色は、不思議なことに全てが満たされているようで、同時にどこか大事な部分が欠けている。矛盾と喪失感を孕んだ世界だった。

 

 全てを白紙に戻され――そしてそこから再び彩られる中で、一体どんな風景が取り戻されるのか。

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 「……これで、終わりだ。南雲、お前が悪いんだからな」

 

 煙の立ち込める崖の縁から冷たい激流を見下ろし、檜山大介は何度も自分に言い聞かせるように呟いた。自らの手を赤黒く染めた魔力の残滓を振り払うように拳を握りしめるが、全身の小刻みな震えは止まらない。

 

 その時、パチ、パチ、パチと夜の静寂を小気味よく叩く音が響いた。

 

「へえ~、やっぱり君だったんだ。異世界での最初の殺人がクラスメイトとはね……なかなか派手にやるじゃない?」

 

「ッ!? だ、誰だ!」

 

 心臓が跳ね上がるような衝撃に、檜山は弾かれたように振り返った。

 燃え盛る炎の逆光を浴びて、悠然と歩み寄ってくる人影。その輪郭が月光の下に晒された瞬間、檜山の喉が引きつったように鳴る。そこにいたのは、昼間の地獄のような戦場を共に生き延びたはずの、見慣れたクラスメイトの一人だった。

 

「お、お前……なんでここに……」

 

「そんなことはどうでもいいよ。それよりさ、人殺しさん? 今どんな気分? 恋敵をどさくさに紛れて消しちゃったその心境、とても興味深いんだけど?」

 

 その人物は、まるで劇場の特等席で極上の喜劇でも観終えたかのように、口元に愉快げな孤を描いていた。あまりにも不気味で、そして残酷なほどの余裕。ハジメが消え、凄惨な事件が起きた直後だというのに、目の前の存在からは動揺の欠片すら感じられない。

 

「……お前、それが本性なのか?」

 

 呆然と漏らす檜山の額から、冷たい汗が一筋流れ落ちる。問いかけられた相手は、くすくすと鼻で笑うように彼を見下ろした。

 

「本性? そんな大げさなもんじゃないよ。誰だって多少なりと猫を被って生きてるもんでしょ。それよりさ、このことをみんなに話したらどうなると思う? 特に……あの子が知ったらさ」

 

「ッ!? そ、そんなこと信じるわけが……証拠もないし……!」

 

「証拠? そんなもの必要ないよ。今の君じゃ、何を言ったところで誰も信用しないんじゃないかな? だって、あの状況を招いたのは君自身だからね」

 

 楽しげに、しかし確実に退路を断つように紡がれる言葉。その舌鋒は、まるで弱り切った獲物の肉を効率よく抉っていく猛禽類の嘴のようだった。完璧に立ち回ったはずの犯罪を、最初からすべて見透かされていたという事実が、檜山の精神をじわじわと恐怖で圧殺していく。

 

「ど、どうしろっていうんだ!」

 

 耐えかねて怒声を張り上げる檜山。だが、相手はその感情の爆発すらも、玩具の新しい反応を楽しむかのように、肩をすくめて受け流した。

 

「心外だなぁ。別に僕が脅しているわけじゃないよ? ふふ、今すぐ何かをしろというわけでもない。とりあえず――僕の手足になって動いてくれればいいかな?」

 

「そ、そんなこと……」

 

 それは、事実上の奴隷契約の宣告だった。従えば一生その秘密を握られ、操り人形にされる。だが、拒絶すれば待っているのは「人殺し」としての破滅と、クラスメイトたちからの完全な追放だ。

 

(いっそ、こいつもこの場で殺してしまえば――)

 

 檜山の瞳にドス黒い殺意が宿った瞬間、相手の笑みが一層深く、邪悪に歪んだ。まるで、その浅薄な思考のすべてが最初から台本に書かれていたとでも言うかのように。

 

「白崎香織、欲しくない?」

 

「ッ!? ……な、何を……!」

 

 心臓を直接掴まれたかのように、檜山の呼吸が止まった。一番触れられたくない、そして一番狂おしいほどに焦がれている果実の名前。驚愕と恐怖に目を剥く檜山を冷徹に見下ろしながら、その人物は甘い毒を耳元に注ぎ込むように言葉を重ねる。

 

「君が僕に従えば、いずれ彼女は君のものになるよ。本当ならこういう話は南雲に持ちかける予定だったんだけどね。だけど君が彼を殺しちゃったからね。まあ、結果的には君の方が適任だったみたいだし、悪くないと思う」

 

「目的は何だ! お前は一体何を企んでいるんだ!」

 

 訳のわからない巨大な陰謀の渦に巻き込まれていく恐怖から、檜山は声を荒らげた。しかし、その必死の問いかけも、相手にとっては些事(さじ)でしかなかったらしい。

 

「フフ、君には関係のないことだよ。ただ欲しいものがあるってだけさ。それで? 答えは?」

 

 有無を言わせぬ絶対的な拒絶と誘惑。苛立ちと屈辱が脳裏を駆け巡るが、檜山の心はすでに恐怖と欲望に完全に支配されていた。どのみち、自分に拒否権など残されていないのだ。

 

 檜山は固く拳を握りしめ、血が滲むほどに唇を噛んだあと、諦めたようにゆっくりと首を縦に振った。

 

「……従う」

 

「アハハハ、いい返事だね! クラスメイトを告発するなんて気が進まないからさ! それじゃあ仲良くやろうじゃないか、人殺しくん? アハハハハハ!」

 

 夜の静寂を切り裂くような爽快な笑い声を残し、その人物は迷いなく宿屋の方へと歩き去っていく。その細い後ろ姿を、檜山はただ憎悪と悔しさに塗れた瞳で見つめ返すことしかできなかった。

 

「ちくしょう……ちくしょうッ……!」

 

 地面を強く蹴りつけ、檜山は再び一人、崖の縁に取り残された。

 脳裏に去来するのは、大迷宮の橋の上でベヒモスを相手に孤軍奮闘していたハジメの姿。そして、それを見つめていた香織の、張り裂けんばかりの絶望に満ちた表情だ。

 

 今は疲労困憊で泥のように眠りこけているクラスメイトたちも、夜が明ければ南雲ハジメの「死」という現実に、向き合うことになる。そして香織がどれほど深くハジメを想っていたか、その本当の気持ちにも否応なく気づくだろう。

 

 憔悴し、心を閉ざしていくであろう香織。その原因を作ったのが自分であると知られれば、すべてが終わる。だからこそ、これからの立ち回りが重要だ。一線を越えてしまった以上、もう引き返す道などどこにもない。だが、あの不気味なクラスメイトに従いさえすれば、失ったはずの望み――香織さえもが手に入るかもしれないのだ。

 

「ヒヒ、大丈夫だ……うまくいく……俺は間違ってなかった……あいつが悪いんだからな……」

 

 膝を抱え、闇の中でブツブツと自己暗示を繰り返す檜山。その歪んだ声は、吹き付ける夜風にかき消され、誰の耳に届くこともなく虚空へと消えていった。

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 さて、物語は急転する――。

 

 少し前に檜山を自らの手中に収めたその人物は、首から下げたペンダントへと視線を落としていた。そのペンダントには新月を模した模様が刻まれており、中では青い炎がゆらゆらと揺れている。その姿は、まるでハジメがかつて持っていたペンダントの鏡映しのように酷似していた。

 

 ゆっくりと指先で冷たい金属の輪郭をなぞるたび、嵌め込まれた新月の模様がそれに呼応するように、さらに妖艶な輝きを放ち始める。

 

「あの南雲君がここまで劇的な役割を担うなんてね……でも、退場のタイミングとしては完璧だった。これ以上、文句のつけようもないよ」

 

 ぽつりと漏れた声は、闇に向けたひとりごとのようだった。周囲に誰の姿も確認できない中、不敵な笑みを浮かべながら自分だけの愉悦に浸っていく。その胸元で揺れる青い炎には、かつてハジメが奈落の中で魂を削りながら灯し続けた「ハガネ」と呼ばれる光とは決定的に異なる何かが宿っていた。同じように力強いにもかかわらず、その内側には冷酷で歪んだ意志が脈打っている。

 

 そもそもこの人物が望んでいたのは、ハジメとの接触によって彼の特異な力を利用すること。それだけだった。しかし、檜山という男の小さく浅ましい嫉妬心が、計画の歯車を歪ませ、より陰湿で興味深い結末へと導いてくれた。

 

「罪悪感に打ちひしがれ、人殺しという重圧に押し潰され、あの子を手に入れるために狂気じみていく傀儡……。あいつが苦悩と欲望の底に沈めば沈むほど、クラスの『絆』なんてものは内側から音を立てて崩れていく」

 

 笑いを抑えることもせず、くすくすと響く声が静まり返った夜道に広がった。まるで静かだった闇を割るように、不吉で底知れない余韻がその道を支配していくかのようだった。

 

「白崎さんの絶望、八重樫さんの苦悩、そして天之河君の無力感。それぞれの英雄たちの卵が、一人の「無能」の死を巡って心を奪われている。なんと素晴らしい光景だろう。まるで舞台がゆっくりと幕を開ける準備を整えているかのようだ」

 

 その人物は、新月を象ったペンダントを愛おしげに胸元へと仕舞い込んだ。そして、何事もなかったかのように宿屋へ向かい歩みを再開する。その足取りはどこまでも軽やかで、これから始まる至高の喜劇を楽しみにしている観客のような様子だった。




はい!ということで、ハジメ君にはご退場いただきました。(後悔は一切ありません!)。さて、ここから展開する物語についてですが、王都へ帰るクラスメイトたちの絶望を描く方向が良いか、それとも激流の底からハジメがどうやって這い上がるのかを描く方向が良いか、皆さんにアンケートを取りたいと思います。ぜひ、ご意見をお聞かせください(土下座ポーズ)。

どっちから見たい?

  • ハジメ
  • クラスメイト
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