欠けた月の光が夜雨のように降り注ぐ日、僕は丘陵の上から町を一望していた。薄暗く照らされた景観は物足りぬ様子で自ら発光している。頼りなさそうな小さな光たちがよりそう様相はそれはそれで満足そうにも思えた。
羨ましい、と思った。僕には何が足りなくて何が必要なのかわからないのに。
夜風が頬をなぞる。冷たい風が僕に正気を取り戻させた。
今は何時だったろう? 時計の代わりになるものを忘れてしまった。そろそろ帰らないと家族に心配されそうだ。
夜風が今度は丘の上を滑っていく。さらさらと雪の流れるような音に癒されて、僕は目を閉じてその場で立ちすくんだ。
何かが……耳を突いた。遥か遠くで空気の壁を力強く叩きつけるような轟音が、小さく小さく、しかし確実に僕の方へと向かってくる。
目を開けようとしたのだが突風が顔を吹き抜け思わず閉じなおした。僕に覆いかぶさるように春嵐が押さえつけてくる。
疾風のいたずらに苛立ちを押さえつつ目を開ける。――声が聞こえる? 眼前に浮かぶ陰影が視界に映った瞬間心臓が内側から胸を叩いた。
「こんばんは、人の子よ」
白い仮面より覗かせる爬虫類のような冷たい眼差し。月の光を吸ったかのような円い瞳はじっと僕を見据えている。法王のような神々しい祭服に身を包み、風になびく外套が月光にあてられ白銀に瞬いている。
それが何モノなのかを理解するのは不可能だった。しかし目に映る情報から人間ではないという事を答えを導くのは容易い事であった。
僕は緊張のあまり声を発することはおろか、開いた口を閉じることもできなかった。巨人は宙に浮いたままなおも僕へと語りかけくる。
「エリュシオンの水面のように穏やかな日だ。こんな日には夜風も悦び奔る。私もつい心ほだされ姿を現わしてしまった」
巨人は町の方へは目もくれず延々と続く遥か彼方を見つめていた。仮面の端から見せる青黒い宵闇の皮膚は干ばつで干上がった大地の様に罅割れている。
僕はカラカラになった口の中に湧き出た雀の涙ほどの唾液を飲み込む。風化した大地を潤すまでは行かずとも言葉を発するには十分だった。
「あなたは、何者ですか」
巨人はカメのような口を小さく動かして答える。
「私は何者でもないさ。強いて言うならば――風たちの王か」
風の王……夜風の、王。宇宙人ではないのか。
「君はあの町の子だね。君もこの夜に風に身をゆだねに来たのかね」
僕は静かに首を振る。夜風の王は真顔でフッと笑った。
「何か思い悩んでいるのだね。自分の往くべき路を見失い右往左往に惑うつむじ風のように」
「僕の心がわかるんですか?」
「風が教えてくれるのだ。風は私の下僕だからな」
夜風の王は丘を撫でる風と共に静かに地上へと降りてくる。しかし足は地へ着いていなかった。
巨人は小人の僕を見下ろしながら話しかける。
「風も人も同じだ。常に迷い、目的地などなく、己の思い向くままに流れされていく。望む物が無いなら――目標が無いのであれば無理に探す必要もないのではないかね」
「そう、でしょうか」
「風に身をゆだねるのもよいものだ。風の主である私が言うのだからな」
不思議な
しかし決して気が休まるときがない。あの目で見つめられると自分が如何に矮小な存在なのかを思い知らされるようだ。
「あなたは人間……ですか?」
夜風の王は何も答えない。答えを聞かなくとも分かり切ったことであるが。
「僕は自分が何をすれば良いのかわからないんです。この先大人になってどんな仕事をして誰と結婚して、どんな未来を生きるのかがわからないのがとてつもなく不安なんです」
僕は静かに腰を下ろし膝を抱えて顔をうずめた。顔を見ずに話すのは失礼――ましてや相手が王様であればなお――とは思ったが、もはやそんな事をいちいち気にしていられるほど心に余裕はなかった。
幸い夜風の王は気にする様子はなさそうだった。
「周りの人はみんな夢を持ってる。好きな事が明確で好きな人がいて、自分が何をしたいのかを理解して生きている。あなたは人間と風は同じと言いましたが僕はそうは思えません。人間は風とは違う。何か目的をもって生きなきゃ生きてく意味はないんです」
そう言い切ってから自分の失言に気が付き相手の顔へ向き直った。しかし目の前に王の姿はなく、彼は僕のすぐ真横に音もなく浮いていた。
恐る恐る王の顔を見つめてみる。彼は先ほどから一切変わらぬ表情で静かに町を見つめていた。
「確かに、風と人間には数え切れないほど違いはある。風も生きているが人間の様に命は持たない。風は人間の様にあれこれ考えはしない。考える必要などない。風は人間よりも遥かに自由なのだから。
しかし本質は何一つとして変わらない。何故あれこれと考えなければならない? 何故流されるままに生きてはならない? 生きることとは自由であることだ。何かに縛られて生きようとするのは無風の大地の上に立つことと同じだ。何も起きない。何も変わらない。風が吹かない大地はハデスの地だけだ」
夜風の王が僕へと顔を向ける。まるで子供が大人に叱られた時の様に僕は思わず身体をすくめた。
彼は優しく諭すように話を続ける。
「人の子よ。迷う事を恐れる必要はない。風は常に迷っている。迷う事を楽しんでいる。人間だけではない、風も、空も、海も、大地すらも行きつく際は皆同じだ。流されたどり着いた先で自分の為すべき事を為せば良い」
「長く居すぎた。そろそろ往くとしよう」夜風の王はゆっくりと僕の前へと立った。僕もまた彼を見送ろうと立ち上がる。
「あのっ! ……ありがとうございました。僕なんかの話を聞いてくださって」
「私も話をしたのは久しぶりだった。楽しかったぞ人の子よ。再び悩んだ時は風に耳を傾けるがよい。往くべき路の導となろう」
「またお会いすることはできますか?」
「私はいつでも風と共にある。風が吹く限り私はそこに居る。月の美しい風のある日にはいつかまた姿を現すだろう」
大気の爆弾がはじけたかと思うと夜風の王は姿を消していた。後に残されたのは頬を撫でるそよ風と揺らぐ草木の擦れあう音だけだった。
漠然とした不安はすでに風化し鬱屈とした気持ちと共に涼風が攫って行ってしまったようだ。晴れ晴れとした心に吹くそれは春の夜には少し寒さを覚える。帰らなければ。家族が心配するだろう。
僕には何が足りなくて、僕には何が必要なのだろう。それを考えると新しい風に出会えることが今から楽しみで仕方がなかった。