夢にまで見た図書館にて

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本の虫

 

 

―――

 

そこは白一色の世界だ。

どこまでも続くように見える広大な空間。

男がひとり、その空間で頭上を見上げ、佇んでいる。

名を昭雄という。

 

彼の見上げる先――頭上には大小さまざまな文字が浮かんでいる。

”文字”が、浮かんでいた。

空間に、まるで印字でもされているかのように文字が浮かんでいるのだ。

 

そんな法則を無視した状況に、昭雄の口からは嘆息とともに言葉が漏れる。

 

「なんだよ、ここ」

 

唖然としつつ遥か彼方まで浮かんでいる文字列を眺める。

次第に、その顔には表情が宿っていくだろう。

 

彼は本の虫であった。

彼の生活の中には常に活字が存在していて、印刷された文字を読むことが彼の喜びであった。

未知の物語を読むことが彼の人生の意義であった。

 

文字通り、まるで自分が小さな本の虫になってしまったような錯覚に陥る。

 

「まるで夢のような世界だ」少し興奮した様子で口に出して、自分の言葉に苦笑いをする。

そうだ。これは夢に違いない。こんなこと普通はありえない。

 

興奮した様子で息を飲むと、昭雄は血走る目で遥か頭上――段落の頭――に目を向けて読み始める。

少し読んで、すぐにあることに気づく。

 

「――これは」

 

心当たりのある文字列だ。

それは昭雄の好きな本の一節だった。

そのことに気づいて、更に読み進めて昭雄は確信する。

ここに浮かんでいるのは自分の好きな小説の文章であると。

 

それから、彼はまるで散歩でもするように、夢うつつにその世界を読み歩いた。

浮かぶ様々な文字……それは頁であった。それは小説であった。

大好きな小説を読み歩きながら、彼はこれは夢だと確信を持つ。

どうせ夢ならば、と歩を進める。

彼の大好きな本たちと一言一句違わない。彼は文字を読み進める。

 

どれだけ歩こうと、疲れも空腹も感じない。

読んで、読んで、そして次の本へと移る。

幾冊もの本を読んでいる中で、「まるで本当に本の虫だな」とつぶやき苦笑する。

 

彼はまさしく本の虫であった。

彼は文字を読んだ。幼少のころから常に文字を読んでいた。

いつしか、彼は必然のように文字を書いていた。

そのことを疑問に思うこともなかった。

故に、彼が作家になったのは当然至極の結果だった。

 

幸福を感じつつ、幾つもの本を読み進める。

 

泣きながら読んだ文芸書。

最後の最後で主人公こそが殺人犯だと知ったミステリー。

暗唱できるほどに読み込んだ詩、恋愛小説、古典、神話。

 

ここにはその全てがあった。

まるで自身の読書歴が織りなされた図書館のようだ。

いや、そうに違いない。

 

そのどれもが一言一句違いなく、浮かんでいる。

幸福な時間に、思わず顔がほころぶ。

 

そして……

 

「これは……」

 

やがてこれまでとは少し違った意味で、懐かしくも感慨深い文字列になる。

自分の書いてきた物語がそこに浮かんでいたのだ。

 

懐かしさと恥ずかしさと、こうすればもっと面白くなったんじゃないか、などと考えながらそれでも読み進める。

 

代表作、デビュー作、デビュー前の稚拙な作品、学生時代に書いた今読むと恥ずかしい文章、そして記憶の奥底に追いやられていた処女作。

 

――そうだ。こんな話を書いた。

 

忘却の奥深くに沈んでいた、そんな物語を読むたびに顔が赤くなり、誰にとも知れず言い訳が頭に浮かび上がる。

 

中には途中で執筆が止まってしまっているものもある。

今ならもっと綺麗に、面白い形でこの話を終わりまで書き記すことができる。

そうだ。目が覚めたら続きを書こう。

きっとこれはそのために見ている夢なのだ。

 

満たされた心持ちで、更に歩を進める。

そこに浮かんでいたのは思い出すのも困難な文章だった。

 

「夜が来る度に君を想う。月を見ては恋しくなる。星を数えても貴女への想いが大きくなるだけだ」

 

読み進めるまでもない。これはラブレターだ。

それは誰に宛てて書いたものだったか。

それが成就しなかった悲しい感情だけは覚えている。

 

「いや、違う。そうじゃない」

 

徐々に記憶がよみがえってくる。

 

このラブレターを送った相手とは付き合ったのだ。

けれど、この言葉は……初恋の人に贈った(ことば)は理解されなかった。

孤独を知った。

そして彼女への興味が無くなってしまったのだった。

 

なおも様々な恥ずかしい言葉が羅列されている。

 

それは誰に宛てた言葉だったろう。

どれだけの愛を言葉にできただろうか。

最後に恋をしたのはいつだったか。

 

琴音。

その名前を思い出す。

彼女は自分の作品を理解してくれた。自分の言葉を受け入れてくれた。

自分のことをわかってくれた。

 

彼女は自分にとって唯一無二の、素晴らしい女性だった。

 

けれど、

だというのに、

いつしか彼女は離れていってしまった。

 

その時はわからなかったけれど、今にして思えば必然だった。

自分は、理解されたいと望んでいたのに、彼女のことを理解しようとしなかった。

誰だって理解されたい。

彼女は今まで自分がそうしてきたように、自分への興味を失ったのだ。

 

 

理解。理解とはなんだろう。

未だわからないことだらけだ。

けれど今なら、少しはこの後悔も役に立つのかもしれない。

琴音に、近づけるのかもしれない。

 

目が覚めたら連絡をしてみよう。

無駄でもいい。この気持ちのままに、綴ってみよう。

 

雨季が終わって夏が来たような、長い間の霧が晴れたような、

晴れやかな気持ちでいると、

 

「……なんだ」

 

琴音に宛てたラブレターの文字の最後に、今まで見慣れなかったものが見えた。

 

白黒に明滅する大きな棒。

それを見た瞬間、ゾクリと昭雄の全身が総毛だつ。

嫌な予感がする。確信と言ってもいい。

 

夢の中の嫌な予感というものは得てして当たる。

 

 

「あ……」

 

 

文末から読点が消えた。

 

棒はというと、その句読点の位置に上がっている。

昭雄が息を飲む。

まさか、と思う。頭を振る。そんなこと、あってはならない。

 

続いて語尾が消えた。

活用語尾が、動詞が、助詞が、形容詞が、助詞が、名詞が……

一文字ずつ明滅する棒が消していく。

 

一生懸命に綴った琴音への愛が消えていく。

それはまるで文字を喰っているかのようだ。

「ダメだ。それは俺の文字だ」

力なく昭雄がつぶやく。

止めなければ。あの、棒を。

けれど、どうしていいのかわからずに佇む昭雄の頭上で、無情にも棒が文字を喰らっていくスピードが上がっていく。

愛を綴った文章がいくつも喰われてしまった。

 

それはラブレターだけでは食い足りないらしく、最新作も、代表作も、デビュー作も構わずに喰らっていく。

恐ろしいことにそれは喰えば喰うほど加速度的に、文字を喰らう速度が上昇していく。

 

「やめろ、やめてくれ」

 

叫び、嘆願しようと、文字は消えていく。

今では流れ星のように速く、速く。

 

昭雄は気づく。

文字の消え方に知っている何かを思い出す。

有り得ないと思いつつも、これはそんな有り得ない世界だと言うことを思い出して絶望する。

誰かが、この世界のバックスペースキーを押し続けている。

 

「お願いだ、やめてくれ!!」

 

昭雄の叫びが、祈りが届いたのか、文字の削除が止まる。

文字を打つときに見慣れている棒が、無感情に明滅している。

 

昭雄はほっと一息つく。

失われた文字が読めなくなってしまったことは悲しいが、それよりもまだ膨大に残っている文字を守ることが先決だ。

なんとかしてこれ以上削除されないようにしないと……。

 

とてもじゃないが手が届く位置に棒はない。

キーボードを押す誰かと話し合いは可能だろうか。

 

そんなことをブツブツと口に出して考えていると、景色が変わった。

 

この場の空間に残る文字全てが青いペンキをぶちまけたかのように。青く染まる。文字は黒から白へと変化する。

それはまるで文字をドラッグしたかのようだ。

 

全選択(CTRキー+A)

 

「おいおい、嘘だろ」

 

昭雄はすぐに理解する。

全選択からのdeleteキー。

それはその場の文字全てを選択するコマンドだ。

あいつは!! 自分の記憶にある文字全てを削除する気だ!!

 

「お願いだ、やめてくれ……」

 

耐えられない。

 

 

大好きな物語が、

書いてきた小説が、

恋人へのラブレターが、

 

彼の人生が、彼の生き様が、彼の文字が、琴音への想いが、

 

それら全てが消えてしまうなんて耐えられない。

 

 

昭雄の恐怖と絶望を知ってか知らずか、無情にもdeleteキーが押される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

男がひとり、立っている。

頭を抱えて、消えてしまった文字列を思い出そうと必死に記憶をたぐる。

 

けれど、

 

何もない……。

あれだけ好きだったものが、何一つとして思い出せない。

 

それだけじゃない。

 

「俺は……誰だ……? なぜここにいる?」

 

何もない白い世界。

自我をも削除(delete)された男が佇んでいる。

 

 

大きな矢印が飛んできて彼に重なると、どこかでカチっと小さな音が聞こえた。

次の瞬間、男が消える。

 

 

何もない、広大な世界だけが残った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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