ゴジラVSクトゥルフ -The Call of Catastrophe- 作:江藤えそら
僅かの間に極限の恐怖と絶望、夢と現実の狭間を行き来し続けた私の精神はとっくに限界を超えていた。ほんの少しでも気を抜けば即座に大声をあげて泣き喚いてしまいそうな自分自身を必死に押さえつけ、とめどなく流れる涙を拭いながらしゃくりあげるように息を吸った。パトリックさんはそんな私に声をかける余裕もなく、ただ前に進んだ。人が積まれた倉庫から外に出ると、肌を突き刺すような強風が私達を出迎えた。立って歩くのは困難と思われるほどの強風の中、私はただ必死にパトリックさんの背を追った。
突然、パトリックさんは私の目前に手を差し出して制止した。私が驚いて足を止めた次の瞬間、私はその理由を理解した。私達の僅か10mほど先の小道を、身長20mほどもある化け物が闊歩していたのだ。暗緑色で粘液に覆われた軟体質の肉体からは一対の翼が折りたたまれた状態で背負われ、口元からは幾重もの触手がイソギンチャクのように各々蠢いていた。狭いトンネルの中で偶蹄類が唸っているかのような低くくぐもった声がその口元からは漏れ出ていた。その姿を見て、依諏間島でゴジラにまとわりついていたもう一つの化け物に違いないと私は確信した。その個体よりは小さいが、それでも私のような人間など簡単に潰せるほど巨大な生物であることに変わりはない。人知を超えた超生物の実現を目の当たりにしてなお、既に上限に近いほど損耗しきった私の精神は大したリアクションを伴わなかった。
如何に私達の進む先に危険があろうとも、人が積まれた行き止まりの倉庫に舞い戻ったところで死は約束されている。化け物が通り過ぎたのを確認した後、パトリックさんはしゃがんだまま前に進んだ。私は何も言わずその後ろを追った。
霧の中を進むと少しだけ視界が開け、ここがやや高い場所であることに気が付いた。見渡す限り不定形の石造が視界を埋め尽くし、眼下に広がっていた。石造都市は私達の視界の正面に向かって標高を徐々に下げ、数百m以上先は霧で真っ白に染め上げられていた。視界を背後に移すと吹き付ける強風にあおられた荒波が姿を現し、ここが海沿いの小丘であることを感じさせた。
「ここは……地球なの?」
咄嗟に口を突いて出た言葉はそれだった。あの化け物たちが宇宙人であるという事実と、視界に広がる人知を超えた建造物。そして意識を失う前に戸村さんが言い放った”門”という言葉。それらを総合すると、私達が全く見知らぬ異星に飛ばされたという想定も突飛ではないように思えた。或いはこの時完全に錯乱しきった私の脳がそんな思考を導き出したのかもしれない。
「(ここは地球の何処かだ。気温も気圧も空気組成も全く地球と変わらない惑星なんて他にあるか?)」
しかし、そんな私に比べるとパトリックさんは幾分か冷静さを保っているようだった。私の問いにそう答え、なおも慎重に足を進める。言われてみればその通りなのだろう。今私達は問題なく呼吸ができているし、肌寒いとはいえ気温も地球のそれとは隔絶していない。ここが地球外の天体という可能性はその分低くなる。ならば此処は一体地球の何処だというのか?
強風に吹き飛ばされて霧の一部が剥げると、徐々にこの人工都市の全貌が見えてきた。徐々に標高を落としながら広がる不定形の都市の先には、直径数km以上はありそうな巨大な湖が鎮座していた。そして私は、まるでこの都市全体がその湖を取り囲むように広がっていることに気付いた。それら都市の各所に先ほどの化け物―――由良さんが”落とし子”と呼んでいた存在や、魚人間たちがひしめいていた。その数は湖に近付くほど増えているように見え、数十mにも及ぶ”落とし子”の移動に巻き込まれ、踏み潰される魚人間も遠くに見えた。そして魚人間達の中にも、落とし子に及ぶような巨大な個体も存在していた。
「(…ここは地獄か)」
パトリックさんが呆然と呟く。あんな集団に見つかってしまったら。想像するだけで今にも絶叫と共に海に身を投げようとしてしまいそうだった。実のところ、この地獄を抜け出す最も確実かつ比較的に楽な方法が自死であることに私は気付きつつあった。想像を絶するほどのストレスを絶え間なく受け続けた私は全てを諦め、絶望のままにその頭を足元の歪んだ大理石に打ち付けようとした。
しかし、そんな私を引き留めたのはパトリックさんではなく、”人の足”を捉えた私自身の視界だった。幾人もの足が私の視界の先を動いていたのだ。私が顔を上げると、同じく驚愕の表情を浮かべたパトリックさんが目の前にいた。そしてさらにその先に、都市の中央―――湖の方向に向かって歩いていく人間の姿があった。
不意に私たちのやや後ろで光が迸った。驚いて背後を振り向くと、私達から10mほど離れた大理石の上に、まるで空間に穴が開いたようにぽっかりと黒い四角形が浮かび上がっていた。その四角形の前後は、相対論が極限の重力の存在下において予言するかのように周囲の光がぐにゃりと歪み、陽炎のように揺らめいていた。そして、その黒い四角形から行列を成した人間がぞろぞろと出てきた。彼らは人種、国籍、性別、年齢のいずれも全くランダムであらゆる層を含んでいるように思えた。少し高さのある四角形から大理石に飛び降りた彼らのうち何人かは足元おぼつかずに倒れ、何人かはそのまま起き上がらなかった。上手く飛び降りたか、落ちた後に起き上がることが叶った者達はゆっくりと大理石の間を歩き始めた。彼らが向かう先は一様に都市の中央―――湖の方角だった。
「(ダメだ。こいつらはイカれてる)」
生きて動いている人間を目にしたにも関わらず私もパトリックさんも安心を覚えなかったのは、彼らの虚ろな瞳と酔っぱらいのような覚束ない足取りに正気と生気を感じなかったためであった。彼らの瞳は戸村さんのそれとよく似ていた。戸村さんは正気に失いながらも冷静な思考と言動を保っていたようだが、彼らにはそれすらない。ただ狂信の果てに廃人と化してしまった生贄そのものであった。
「(だが、奴らが通ってきたワープドアは使えるぞ。アレを通れば奴らが元いた場所には戻れるはずだ。そこがどこだろうと、ここよりは確実にマシだろう)」
全てが狂気に満ちた世界の中で、パトリックさんだけは冷静に脱出の方法を分析していた。狂信者たる人間たちがこの異形な水上都市に現れるための媒介を果たしたあの黒い四角形。あれを通れば逆説的に彼らが元々いた場所に戻れるだろうと彼は考えたのだ。それが地球上のいかなる場所であろうと、今いるこの地獄のような島よりは遥かにマシな所だろう。
「(調査団本部に伝えなければ。もうすぐ邪神は復活する。このままじゃ世界は終わりだ)」
パトリックさんはもう一度あの四角形が視界のどこかに現れないか首を振って周囲を見回した。
「待って。逃げるなら由良さん達を連れて行かないと。―――まだあの倉庫で眠ってるはず」
私はそう言って最初に目覚めた倉庫の方に向かおうとしたが、その腕をパトリックさんが強く掴んだ。
「(バカ言うな、今更倉庫に戻って人を連れ出してる余裕はねえ! 俺達が逃げるだけで精いっぱいだ)」
「あなたこそ馬鹿言わないでよ! 大戸島のみんなを見捨てていく気!?」
「(バカ野郎、大声を出すな! しゃがめ!)」
既に錯乱していた私は、パトリックさんの言葉で容易に感情のタガが外れてしまった。思わず体を起こし、パトリックさんの胸ぐらをつかみながら怒鳴りかかった。彼は慌てて私の両肩を下に押し付け、しゃがませた。
「(深呼吸をして状況を理解しろ! ここは託児所でも学校でもねえ、戦場だ! 声を出すのは家に帰ってからにしろ!)」
パトリックさんの額にも汗の玉が浮かび、本気の焦燥が見て取れた。私は彼の話す英語を何とか理解し、やっとのことで僅かに冷静さを取り戻して小刻みに何度か頷き、上を向いて息を整えた。
そして、いつの間にか曇り空が晴れ渡っていることに私は気付いた。晴れ空であるにもかかわらず、何故かその空は青空と夜空の中間くらいの深い藍色―――まるで深海のような色―――をしており、辺りは相応にうす暗くなっていた。太陽はどこにも見当たらず、代わりに星々がはっきりと煌めいているのが見えた。照明のないこの島において、普段は見えるはずのない夜空の奥底に鎮座する星までもが宝石を散りばめたように輝いていた。こんな状況でなければその美しい星々の共演を心ゆくまで楽しめたことだろう。そして、その星々の配置は、まさに今私達が手を付いている不定形の石壁に刻まれた模様の配置と厳密に一致していた。
それら星々の中に、ひと際異彩を放つものを私は見つけた。それは私達のちょうど真上に存在する、明るい一等星だった。その星の周囲は、まるでブラックホールの周りであるかのように光が歪んでいた。その星だけが、空間を歪ませるレンズによって拡大されて見えているように思えた。一瞬、その星がまるで脈動変光星であるかのようにチカチカと点滅したような気がした。次の瞬間、島全体が小刻みな地震に覆われた。
「(オイ、ヤバいぞ……)」
パトリックさんそう言ってが私の肩を叩いた。空に釘付けになっていた私は彼の指差す方角を見た。この悪夢のような島の中央にある巨大な湖が、まるで沸騰しているかのように激しく気泡を放っていた。その湖に向かって幾千幾万もの群衆―――これらを構成するのは狂信的人間、魚人間、落とし子達であった―――が押し寄せ、ひれ伏すように湖に頭を垂れ、ある者は迷わず湖に身を投げていた。始まる。何が始まるのかは分からないが、それだけは理解できた。
「いよいよだな」
私のものでもパトリックさんのものでもない声が背後から聞こえてきたと同時に、強風の音に混じって乾いた銃声が二発響いた。私が背後を振り向き、そこに立って拳銃を構えている戸村さんを視界に収めると同時に、パトリックさんがその場に倒れた。
「パトリックさん!!」
私は彼の身体を揺さぶる。二発の銃弾に貫かれた身体からは絶え間なく血が溢れ出していた。この島において私は大切な味方を失おうとしていた。
「大人しくしていれば楽に邪神の一部となれたものを。愚かな供物どもだ。さあ、黙して神の復活を祝せよ。そして人類浄化の時を待ち侘びよ! ついに我らの神が完全なるお姿で現世に戻られるのだ! 公安に所属し密かに暗躍し続けた日々も、全てはこの瞬間のためにあったのだ」
戸村さんは私達の方に歩み寄りながら両手を大きく広げ、笑った。もしかすると、私がさっき立ち上がったせいで彼に見つかってしまったのだろうか? だとしたらこの事態は私の責任だ。私はパニックになりながらパトリックさんの胸の銃創に手を当てて止血を試みたが、そんなものでどうにかなる出血量ではなかった。
「(これを……)」
そんな私の手を振り払い、パトリックさんはポケットから自身のスマートフォンを取り出し、私の手に握らせた。戸村さんの注意が湖に向いている今しか機は無いと、彼は今わの際でさえ冷静に観察していた。
「(これをアーカム調査団に渡してくれ。俺達の戦いはこれから始まる)」
そしてパトリックさんは地面に手を付いて伏せの姿勢を取り、一挙に飛び上がって近付いてきた戸村さんの胸にナイフを突き刺した。右手の中に隠していた例の折り畳みナイフだった。
「このっ! 死にぞこないめ!」
突然のことに仰天した戸村さんはあらぬ方向に拳銃を撃ち尽くし、そのまま二人は取っ組み合いをしたまま大理石の都市の端―――海を睨める崖の方に転がっていった。
「パトリックさん!!」
「来るな!!」
駆け寄ろうとする私に対して最期にパトリックさんは日本語でそう叫び、戸村さんを掴んだまま崖下の海へ飛び降りていった。
そこからのことはまさに一瞬の出来事だった。私が悲鳴を上げるよりも早く、私の頭上を太い何かが凄まじい速さで通過していった。それは私の視界の先―――パトリックさんと戸村さんが落ちていった崖の下へと真っすぐ伸びていった。刹那の間に私がそれを認識した時、それが粘液に覆われた軟体質の触手であることが分かった。そして0.5秒ほど遅れて同時に数本の触手がさらに私の頭上を通過し、同じく崖下へと伸びていった。そこから1秒ほど経過した時、触手の先端が崖の高さを超える位置にまで戻ってきた。幾本もの触手の先端には、それぞれパトリックさんと戸村さんの体のパーツが、バラバラに引き千切られた状態で絡みつかれていた。それら触手は千切れた人体の断面から血液と体液をまき散らしつつ、再び私の頭上を通過してあっという間に視界から消えた。
あまりに人知を超えた出来事に声を出すこともできなくなった私は、その触手が戻っていった方向―――湖の方へと振り返った。そこに何がいるのかを想像しながら。
湖から、粘液質の丸い頭部が生え出でていた。湖の大きさから目算しても、その径はゆうに200mはあろうかという大きさだった。口元に密集した触手は幾千にも枝分かれし、手当たり次第に湖畔にいる人間を掴んでは食らい続けていた。ある触手は数本がかりで数十人の人間を四方八方から丸め、血液と体液が滴る肉団子にしていた。瞳孔のない瞳は、真っすぐに私の方を見つめているような気がした。
化け物たちの神は無数の手で次々に運ばれてくる人間達を喰らいながら、上半身を湖から露わにした。巨大という言葉を持ってさえも形容には足りないほどの巨大さを誇る肉体の威容たるや、まさに山そのものが鳴動していると呼んで何の違和感も無かった。軟体質でありながら筋肉を連想させる屈強な腕が露わになると、化け物たちの神は一つ一つが大型船ほどの大きさを持つかぎ爪を湖の淵に載せた。爪の直撃を受けた箇所では巨石が容易く砕け散り、そこにいた人間も深きものどもも何が起きたかを理解する前に挽き潰されて肉塊と化した。そして湖の下から、自由を謳歌するように幕のような翼が大きく大きく広げられた。その翼は、湖からかなり遠く離れたところにいる私の視界すらも埋め尽くすのではないかと思うほどの大きさだった。
やがて、邪神は下半身までも湖の畔に乗り上がり、完全にその姿を白日の下に晒した。あまりの高さに頭頂部は雲に触れ、その全容は霞に覆われたように白みがかっていた。私から見て巨大生物であった”落とし子”達ともまるで比較にならず、大人と子供どころか人間とアリほどもかけ離れていた。このような生物が存在してはならない、存在するはずがない。私は自らが知り得るありとあらゆる学問から導き出される前提的知識と、この宇宙の深層に眠る恐るべき真理との矛盾に恐怖し、絶望した。既に恐怖にも絶望にも麻痺しきっていたはずの私の心にも、まだ堕ちゆく余地が残っていたことを私は思い知らされた。そして、その余地はたった今をもって完全に消え去ったのだった。
これこそまさに、水元君が夢の中で告げていた言葉の中に刻まれた名前を持つ邪神であり、”宇宙的恐怖”の根源。2億5000万年前に地球に破滅をもたらし、そして今まさに同様の破滅をもたらそうとしている邪悪の根幹。永遠に忘れがたき深淵の王、大いなるクトゥルーに違いなかった。
クトゥルーは今、ルルイエの死の眠りから目覚めた。星辰が正された今、完全なる力を得て地球上に舞い戻った。今再び、邪神による地上支配は完遂する。それを止められるものなど、この惑星のどこにもいないのだ。
「ついに夢は現となった」
その声がしたのは、私のすぐ隣からだった。そこには、水元君がいた。今は眠ってなどいないし、夢の世界にもいない。それなのに、水元君がいたのである。
「あなたが見ていた夢は、全て我らが神クトゥルーによる精神への干渉に過ぎませんでした。ですが、クトゥルーが完全に復活を遂げた今、あなたにとって夢と現実の境界は排除された。今や僕はあなたの精神を介してあなたと同じ世界にいる。さあ、共に邪神の元へ参りましょう」
「………?」
私は目前に出現した水元君の存在にも、その言葉にも何の反応も示さなかった。まるでぷつりと糸が切れたかのように、私の精神は完全に崩壊していた。目の前に現れた水元君も、彼の声も、何も情報として認識できなかった。全ての思考が闇の中に置き去りにされ、今自分が生きているのか死んでいるのか、起きているのか眠っているのかさえ分からなくなっていた。
「困りましたね。僕は物理的にあなたに接触することができません。あなたが自分の足で邪神の元へ歩いてくないと。―――どちらにせよ、しばらく待っていれば触手が拾ってくれるでしょうが」
邪神は四方八方へ触手を伸ばし、幾千もの人間を自らの口元へ運んでいる。その巨体は徐々に、正面に向かって坂を上がっている。こちらへ向かっている。精神を失った私は今や確実となった死を待つ以外の選択肢は残されていなかった。
「好き勝手言ってんじゃねえよ、アンタ!」
その時、背後から差し込まれた声が私を現実に引き戻した。その声に邪神とは異なる何か別の力が重なっているような気がした。私は背後を振り向く。そこには、額に汗を浮かべながらこちらを睨みつける由良さんがいた。両手首には擦り傷と血痕があり、縄を千切るのに相当苦労したことが窺える。
「ああ、由良さん。お久しぶりです。あなたにも僕が見えているのであれば、少なからず精神が我らの神に近付いているということですね」
「ああ、そうだよ! こんな寒くて気味悪い島に連れて来られて、化け物の親玉のエサにされようとしてんだ、気も狂うさ! 依諏間島で死んだはずの水元君が見えるなんて、アンタが邪神の味方してるなんて、悪夢も悪夢だわ!」
そう言って由良さんはこちらに歩み寄り、私の腕を引っ掴んだ。
「僕は死んだのではないんです。神の力で精神体として生き永らえているのです。あなたも我が神の夢を何度も見たでしょう? 神に近付くほど精神は神の意のままに作り替えられてゆくのです」
「あぁ、そっか! 夢で何度も”神と一つになれ”って言ってきたの、アンタだったんだ! 初めて会った時は可愛げあると思ってたのに、堕ちたもんだね」
由良さんは私の腕を自分の肩に回し、立ち上がって持ち上げた。そして最初に目覚めた倉庫の方に向かってゆっくりと進み始めた。
「無駄なことを。そもそもこの島にいる時点であなた達は神の腕から逃れることはできない。隠れたところで、喰われるのが遅くなるというだけです」
「知らねえよ! この子は一緒に死線を潜り抜けたダチなんだ、こんなとこでエサになんてさせるかよ!」
「由良、さん……?」
ようやく周囲の状況を再確認し始めた私は、少しづつ自分の足に力を入れ始めた。
「オイ、しっかりしろ! 堂本やみんなの分まで生きろよ!! 生きて真実を持ち帰るんだろ!! アンタ思ってたより重いんだよ、頑張って歩け!」
由良さんは私の頬を軽くはたいた。私は涙を零して震えながらも、比較的正気な人間の気概に触れたことで僅かに力を取り戻した。やがて私達は倉庫の中にどさりと倒れ込むように入り込んだ。いつしか水元君の姿は消えていた。
「こっちだよ」
由良さんはなおも私の袖を引っ張って倉庫の隅の方に誘導した。そこには既に目を覚ました人々が数十人ほど集まっていた。その中から身体のあちこちに包帯を巻いた与崎さんが声を上げた。
「萩本さん…! 生きていたのですか」
「生きてたは生きてたけど、いつまで持つか。外にとんでもない化け物の親玉がいる。しかも悪いことにちょっとづつこっちに向かってる」
由良さんの言葉を聞いてみんなはざわめき立つ。せっかく生き延びた命が風前の灯火と知って泣き叫ぶ者もいた。小刻みな振動と共に時たま聞こえてくるくぐもった低い唸り声が邪神の到来が遠くないことを物語っていた。
「そ、そんな……!! 逃げ場などどこにもありませんよ…!? 私達は…」
「みんな、落ち着きなって。大丈夫―――
だが、それだけ絶望的な状況にあっても由良さんは何かを確信したようにそう言った。
「時間さえ稼げればそれでいい。必ず
由良さんの力強い口調には、自らが告げた内容について確かな自信があるようだった。
「まさか例の―――”ゴジラ”という生物のことを言っているのですか? ここは地球のどことも知れない場所なんですよ! こんなところまであの生物が来られる保証などどこにもありません! それに、来たところで連中同士が上手く争い合ってくれる保障も…」
与崎さんが錯乱しながらそう言ったが、由良さんの表情が揺らぐことはなかった。
「よく考えてみなよ。70年前に目覚めたゴジラは何故依諏間島だけを襲った? 依諏間島を滅ぼした後はどこに行った? 何故どこにも現れなかった? ―――ゴジラの狙いは最初から
そう言って由良さんは倉庫の外を指差した。その先にいるのは恐るべき巨大な邪神に相違ない。
「70年前、ゴジラは何かの理由で突然目覚めた。そして邪神の気配を感じた依諏間島に向かい、滅ぼした。何故なら70年前にも既に邪神を崇める奴らの拠点が島にあったから。
それからゴジラは70年間、邪神の痕跡を求めて太平洋を探し回った。その証拠にこの70年間で太平洋の海中で発生した”原因不明の海中爆発現象”の発生位置は、堂本が調べ上げた”ダゴン秘密教団の海底神殿があると思われる場所”と一致していた。
そして70年経って再びゴジラは依諏間島に行き着いた。70年前に滅ぼしたはずの邪神の眷属は未だこの島にいた。だからまた滅ぼした。―――ゴジラの行動原理は”全て邪神とそれに連なるものの殲滅”にあるんだ!」
由良さんは早口で一気にそう言った。手帳も参照することなくそれを言ってのけるのは、彼女の脳裏に深く刻み込まれるほどその推測が印象的であったことを物語っている。堂本先生の研究成果は、或いは知るべきでない禁断の事実であったのかもしれない。そしてそれをほぼ一日で頭脳に叩きこんだ由良さんもまた、既に戻れないほど深淵に足を突っ込んでいるのかもしれない。
しかし、彼女が告げたゴジラの行動原理に差し当っての矛盾が無いことも事実だ。その推論は、パトリックさんが前に言っていた疑問―――”70年前に一度目覚めていたのなら、何故その時に世界中を焼き尽くさなかった? 何故70年経って再び依諏間島だけを焼いた?” ―――というものの回答であったし、さらに彼が付け加えた言葉―――”奴が如何に凄まじい力を持っていようと、結局は生物だ。生物なら、その行動には原因と目的があるはずなんだ。” ―――を証明するものであもあった。
「だからゴジラは必ずここに来る! ここが地球のどこであろうと、必ず来る! 私達はここで耐えることさえできれば―――」
由良さんがそこまで告げた時だった。凄まじい音ともに入り口の方に積んである石が崩れていった。邪神と同じ姿をした小型種―――”落とし子”達が大挙して倉庫に押し寄せたのである。彼らは興奮したように鳴き声を上げながら、倉庫の中央に積み上げられた人間の死体を持ち上げては運び出していった。中にはつまみ食いだろうか、掴み上げた死体をそのまま引き裂いて捕食するものもいた。
「おいおい……それは聞いてないって」
由良さんがひきつった顔でそう言う間にも、倉庫の壁と天井を壊しながら落とし子達がこちらに迫っていた。そして遂に巨大な触手が落とし子達を振り払うように吹き飛ばしながら倉庫に侵入してきた。誰かの悲鳴が響き渡る。触手は積み上げられた人間の塊を掴み上げ、倉庫の外へと引きずり出していった。
「あぁ―――ごめんね。パパ、ママ」
由良さんのあっさりとした呟きは、彼女が連れ去られる人間達の中に父と母を見つけたことを端的に示していた。倉庫の隅に集まった生存者たちの中には、精神の限界を超えて半狂乱になりながらありもしない出口をめがけて走り出す者もいた。彼らは皆落とし子達に踏み潰されるか、巨大な触手に巻かれて帰らぬ旅へと連れ去られていった。
いよいよその腕は私達の目前に迫った。由良さんが予感した神の出現は、未だ訪れそうにない。私はこれから訪れるであろう死が少しでも楽なものになることを伏して祈ることしかできなかった。
展開的にツッコミどころなど気になるところは、本編後のあとがきにQ&Aでまとめようと思っています。しばらくはこんな感じで突っ走ります。