(…やってしまった…)
井之頭五郎は項垂れた。商談が上手くいき、上機嫌で電車の中まで乗ったのは良いが、その時を境に記憶が薄れているからだ。これは完全に寝過ごしだ…。そう思いながら取り敢えず駅に出る。
聞こえるアナウンスは勿論目的地ではない。はぁと一息吐いてから、逆走する電車の方へと歩を進めた。これが初めての経験ではないが、こういう時はかなり落ち込むものだ。ウトウト寝て過ごして、時計をふと見た時の血の気の引きようは何度体験しても慣れない。
(先ずは彼処まで戻って……)
路線図を見ながら新しくルートを頭の中で組み立てていく。やってしまったものは仕方ない。こういう時は切り替えが大事である。そうしてある程度ルートを構築し終えた頃であった。
(あ、お腹が……)
ぐぅとお腹の中にいる腹ペコ虫が主へと命令を出した。自分は腹が減ったぞ、だから何かを食わせろと。
「…仕方ない。メシが先だな」
食欲。これに関しては井之頭五郎の中で最優先される物事の指標だ。仕事の時ですら一度スイッチが入ると手にものが付かなくなるのに、一応は自由時間の内に命令されれば、大人しく従うしかないのだ。こうして井之頭五郎は一旦駅の中から出て、町の中へと歩を進めて行くのだった。
М県S市の杜王町。名前だけは聞いた事があるがこうして歩くのは初めて出たる。なので何処に何があるのかが分からない。
(聞いた方が…いやでもなぁ…)
わざわざ飯屋だけの為に道行く人に声を掛けるのも忍びない。五郎は未だにアナログ型の人間である。こういう時に若者がやるようなスマホでホイホイという行動は取れぬ。故に何時も歩いて探すのが基本となっているのだ。
(肉かぁ……何か違うな)
そうしててくてく歩いていると、視界の中に飯屋の姿が映る。しかし五郎本人はお気に召さない様子。焼き肉屋の前を通り、居酒屋の前を通り、果ては安価なチェーン店にも目を向けたが、お腹の気分はどれも違うと言った。
このお腹の気分というものが厄介である。無視すると何だか満足出来ないし、かと言って気にし過ぎると振り回されるし、前は結局初めに見た丼屋に入ったものだ。あの時ばかりは時間を無駄にしたかなぁと店の席に着いてから後悔したものである。
(うーむ。やはりさっきの場所にするか…?)
時間が限られているのが悲しいところ。食べて、少し休んで、その時間も考慮しなくてはいけない。諦めて駅近くの…と五郎は少し残念に思いながら、その場で振り返ると。
「イタリア料理……!」
そう書かれている看板を見つけた。その看板を見たとき浮かんだのはピザとパスタであった。ピザとパスタ、良いじゃないか。お腹の虫もこのメニューにはご満悦なのか、早く入れと五郎に命じた。さっきまでの憂鬱な感情を吹き飛ばし、五郎は意気揚々とイタリア料理店の扉を開けるのだった。
(あれ?もしかしてやってないのな…)
扉の中に入ると目に入ったのは2つのテーブル席。しかしその何方にも客らしき人物が座っていない。寝過ごしたとはいえ、今は午後。開いていてもおかしくはない時間の筈だ。
「いらっしゃいマセ」
「あ、えーと…」
「お一人様ですカ?」
「あ、はい」
「では、コチラに…」
どうしたものかと少しその場で立ち止まる。すると店の奥から、如何にも外国人ですといった風貌の男性が出て来たのだ。見た目はシェフの姿、多分彼がこの店の店員さんなのは間違いないと思うのだが、そう思っていると、男性は少しカタコトの日本語を喋り、五郎を案内した。
(良かった〜…空いてただけかぁ…)
此処までお腹を盛り上げておいて、はいやってませんとなれば悲しいどころ乗る話ではない。五郎が席に付いた後、また奥に入っていく男性を見ながら、五郎は息を吐いた。
(…メニューは何処だ?)
鞄を近くの席に置き、テーブルの上を見回す。普通店にあるものが無い。壁とかに書いてある店なのかなと思い、五郎はキョロキョロと辺りを見回す。しかしそれらしき看板はなかった。
「お水デス」
「ああ、どうも…。あの、メニューってありますか?」
「ああ、スイマセン。家にメニューはないんデスよ」
「えっ?」
お冷を持ってきた店員さんに五郎は尋ねる。しかし帰ってきたのは予想外の言葉である。
「じゃ、じゃあ決まった料理、という事ですか…?」
「いえ、ソレも違いマス。私がお客さんを見て、お客さんに合った料理を出すのデス」
「な、成程…」
(これは……マズいか…?)
此処に来てテンションの上がっていた五郎の気持ちが少し冷めていく。変なこだわりがある店というのはあるが、それが当たりの確率はかなり低い。そんな五郎の内心を知ってか知らずか、店員は五郎に手を出すように促してきた。
「目が疲れてマスね……後は脚が痛いじゃないデスか?特にふくらはぎの部分。よく歩くんデスね」
「え、あ、はい…。よく…お分かりで」
素直に手を出すと、手相を見る占い師のようにジロジロと五郎の手のひらを見つめる店員。後から聞いたが名前はトニオというらしい。何をしてるのかなと思いながら、少し彼の手相診断を待っていると、ズバリ、今キツい箇所を当てられた。凄いなとは思ったが、これが何の関係があるのか。満足した様子で奥に戻っていくトニオというイタリア人を見ながら、この後出て来る料理に思いを馳せた。
(一体何が出るやら……)
イタリア料理と名を打っているから、それに合わせた料理が出るのは想像出来る。しかし其処止まり。頭の中には色んな料理が浮かんでは消えていく。
(うーん、せめてパスタ系は食いたい。もどかしいぞ)
メニューが決まった状態で待つのとは違う緊張感。それを紛らわす為に出された水へと手を伸ばした。贅沢を言えばドリンクも頼みたかったのになと思いながら、水を呷る。
「お?」
(美味いな、この水。何だか初めて飲む水って感じだ)
水なんて幾らでも飲んでいるのに、新鮮な印象を受けた。一口飲むつもりが一気飲みである。外食の水とは大体美味いものであるが、この水とは一線を画す。
「あれ、涙が…」
(おいおい…大丈夫か俺の体…?)
確かに美味くはあったが、感極まるほどではないだろう。何でもないことで涙をが出るとは、歳を取れば聞く話ではあるが、まさかこれなのだろうか。
「うわ…」
(かなり出たなぁ…後で洗わないとだ)
ハンカチに染みが出来るくらい出るのは少々異常だ。これはヤバい症状なのではと、普段ならば病院に行く事も検討する体験だったが、何故だか涙を流した後の目のスッキリ感が物凄い。目を丸ごと洗って、新しい目に変えたようなスッキリ感だ。
(少し視力回復……なんてな)
涙を拭くと視界がクリアに見える。多分勘違いではあるだろが、何だがか楽しい気分だ。そうして良好になった視界を満喫していると、トニオがお皿を1枚持ってテーブルへと近づいてきた。
「インサラータディポルポ。タコとセロリのサラダデス」
「お」
(さてさて、どんなものか…)
料理と言える料理はこれが初めて。勿論この料理だけで全部判断するつもりはないが、大きな指標になるのは間違いない。
「いただきます」
(実食…!)
トニオが見守る中、タコの足とセロリをフォークで刺し、口の中へと運んだ。シャキシャキ、グニュグニュ、野菜とタコの独特な食感が口内で交わる。
「…美味しい」
「有難うございマス」
(味もそうだけど、食感が楽しいな、これは)
レモンのお陰かさわやかな感覚だ。パクパクと食える軽さはとても良い。これから来るメインに向けて、胃袋をウォームアップするには丁度いいだろう。
「ご馳走様でした」
「次の料理をお持ちしますのデ、少々お待ちヲ」
(これは当たりかもしれないな)
再び注がれた水を口に含み、中へと味の残りを流していく。最初は怪しんだが、先程の料理で期待の方が大きくなってきた。次は何が来るのか、そんな事を妄想しながら料理を待つ。
(偶にはこういうのも悪くないな)
思えば大人になれば、よくも悪くも自分自身が料理を選び食すのが当たり前になる。子供の時のような、今日のご飯は何かなというワクワク感は無くなって久しい。その点この店は出て来る料理が来るまで分からない。そんなランダム性に昔の気持ちを懐古しながら、ワクワク心を抱えてトニオが消えた店の奥を見ていた。
「ペスカトーレ。どうぞご賞味アレ」
(おお!ペスカトーレか!エビがデカい!)
ゴロゴロと良い意味で沢山転がっている海老。勿論それだけではないが、ええい先ずは食ってからだ!
(あ、好き。これは堪らない…お腹ペコ虫も大満足だ。)
クルリクルリとパスタとともに巻いていく。沢山の海の味が口の中に入り込む様は、さながら大海原だ。一口一口が幸せで、それでいて満足であった。少なめではない量であったペスカトーレを、あっという間に食べ終えてしまった。
(ん?何だか足が熱い…?)
食べ終えた後に、何だか熱を感じた。しかし少し経った後には感じなくなったので、勘違いかもしれない。
(まだイケそうだな…でもメイン来ちゃったし…追加とか出来るのかな?)
お腹中はまだ入りそう。しかしこの場所ではトニオがメニューを決める。他の店とは違い、気軽に追加注文出来ないのは辛い。すると…
「お客さん。まだ食べられますカ?」
「はい!食べられます!」
「では、更にピッツァをお届けしますネ」
(ピザ!いやピッツァか!何ピッツァだろうか)
嬉しい誤算。奥から聞こえたトニオの声は、追加で料理を出すという提案だった。元気よく肯定の返答を返すと、返ってきたのは王道ピッツァのお言葉。イタリアといえばピッツァ。否が応でもワクワクする気持ちを抑えきれない。
「お待たせしまシタ。マルゲリータ、デス」
「いただきます…!」
(シンプル!だがそのシンプルさが良い!)
沢山の具材が乗っているピザではなく、質素なピッツァ。口の中に広がるトマトの酸味が心地よい。自然と頬が緩んでしまう。
(当たりも当たり。大当たり。今日はお前の命令に従って良かったよ)
ピッツァを摘みながら、お腹へと視線を送る。今日のメシは美味くて良かった。旅先で出会える一期一会の飲食店。良き思い出に新たに乗った店であった。
「またのお越しをお待ちしてマス」
「美味しかったです」
「…それは何よりデス」
会計を済ませて、店の外に出る五郎を見送ってくれたトニオ。そんな彼に、感謝を込めて微笑みながら、五郎はご飯のお礼を言うのだった。
料理人にとっては何よりの報酬。それを受け取ったトニオもニッコリと笑うと、五郎に再び微笑み返した。
「また何時か来たいな、杜王町」
電車の中から遠ざかる町並みを見つめる。明日からもまた仕事だが、彼の店と料理がかなりのパワーを貰った気分だ。何時もより軽い肩を回して、五郎はまた次の街へと足を運ぶのだった。
露伴先生をよくある面倒な客で出してから、トニオさんの店って行きたかったけど。先生の注文凄く細かそうだから辞めた。頼む物は普通でも、何処から取って、何時作られたものだとか、絶対気にするし注文してくる。