と思いながら綴ったものです。
とある平日。
薄曇りのキヴォトスにて、駅からオフィスへの道を歩いていた。
まとわり付くような重い空気を吸い込み、一息に吐き出す。これから山のように積まれた書類が待っていると思うと、今の空より澱んでしまう。
今回の出回りは、喧嘩の仲裁と周辺施設への被害に応じた謝罪がメインだった。
厚着をする程ではないが、半袖ではまだ肌寒い季節。温泉を求め、店のど真ん中に穴を開けた生徒を諌め、穴を埋めながら怒り狂う店主を宥めていれば汗で体が重たくなってしまった。
流石にため息すら出なかった。
これからシャーレに戻ったら、軽く汗を流して一息つけるだろうか。そう思いながらスマホを取り出し、時間を確認する。
すると、モモトークにメッセージが来ていた。今日の当番の子からであろうか?
流れる様にモモトークを開き、画面を見ながら歩く。
ホシノから「うへ〜。今日は早めに行けそうだから、もうそっちに向かうね」とのメッセージが来ていた。30分も前に入っている。
ひょっとするともう着いているのでは…?
と言う懸念を持ったが、直後に杞憂であったとわかった。
「あー。いけないんだ〜。歩きスマホは危ないんだよ?先生」
おっとりとした、どこか楽しげな声が聞こえる。この声には良くも悪くも、調子が乱されているのですぐに誰が発したものかわかった。丁度、シャーレの目の前に着いたところらしい。
「やぁホシノ。ちょっと所用でね。喫緊ではないけれど、当番に間に合いそうになかったから連絡しようと思ってたんだ」
嘘ではない。シャーレに居るという意味ではギリギリ当番に間に合っているが、出迎えられる状態であるか、という意味ではシャワーを浴びていたら間に合わなかっただろう。だから、全くの嘘ではない。
「えぇ〜?先生なのに言い訳しちゃうの〜?まぁでも、用事があるなら先に済ませちゃってよ。その間おじさんはゆっくり寝とくからさ」
そう言うだろうと思っていた。だが今回はそのほうが都合が良かったので、遠慮なく乗せてもらう事にする。
「悪いね。シャワーを浴びたかったんだ。だから…30分くらいはゆっくりしてていいよ」
ホシノは少し目を見開いて、いつもの様に、にへらと笑った。
「珍しいね?先生が流したくなる程汗をかくだなんて。なんかあったの?」
入り口のゲートを開けて、エレベーターへと向かいながらそんな会話をする。
エレベーターを待ちながら、今日の出来事を話した。まだ仕事が残っているのに、もう布団に飛び込めるくらいの疲労がきている。などと愚痴を吐いていると、エレベーターが到着した。
開いた扉に手を出して、ホシノを先に行かせる。
「うへへぇ…。それはしんどそうだねぇ…。おじさんは絶対にやりたくないよ」
ホシノは両腕を抱いて小さく首を振りながらそう答えて、エレベーターに乗り込んだ。
私もそれに続きながら、「できればこの後に待っている仕事の方がやりたくない」と呟いた。
シャーレのオフィスに2人で入る。エレベーターは8〜10人くらい入れるのでそこそこの広さがあるのだが、やたらとホシノにくっ付かれて気が気ではなかった。
「ねぇ。やっぱり結構臭ってるでしょ?電車でも結構気になってたんだよね…」
それなりに空いていたので座れたのだが、席が空いた途端に離れられたので実はかなり気にしている。
「う〜ん…。そうだね〜。結構先生の匂いはしたかなぁ。『あぁ、汗かいて大変だったんだな』って匂いだったよ」
遠回しなのか直接的なのか、よくわからない言い回しで汗臭いと言われてしまった。
「そ、そっかぁ…。とりあえず、シャワー浴びてくるね!その間適当にくつろいでて良いからね」
少し早口に言ってそそくさと脱衣所へと向かう。
「はぁ〜い。おじさんはソファで寝てるね〜」
そんな声を後ろに服を脱いで素早く風呂場に入り、シャワーを浴びた。
20分後、脱衣所に戻ると着替えが無かった。
着替えを用意せずにシャワーを浴びると言う愚行を犯してしまっていたのだ。
1人ならばタオル一枚で歩き回れるが、今はホシノがいる。事情を説明すれば許してはもらえるだろうが、向こう1週間はこの事でイジられそうだ。
髪を乾かしながら腹を決め、そろりそろりと脱衣所を出る。体にタオルを巻き、顔を先に壁から出す様に心がけながら自室へと向かった。
途中でオフィスを通ると、ホシノは宣言通りソファで寝ていた。
私のシャツを布団がわりにして。
動揺した。
自分の姿も忘れて、呆然としてしまった。頭に浮かぶのは「なぜ…?」ばかり。
確かに脱衣所に置いたはずのシャツがある事にも驚いたし、臭うと本人が言っていたのに大事そうにそれに包まっている事にも驚いた。
そして何より、“本当に眠っている事“に1番驚いた。
不意に大きなアラームが鳴る。
「先生!そろそろお仕事の時間でs…ギャあああ!!!」
アロナが話しかけてくる。止まっていた頭の時計が爆速で回転を始めた。
このアラームはシッテムの箱から鳴っている。シッテムの箱はホシノの近くのテーブルに乗っている。私は廊下に居るが、テーブルはホシノが寝ているソファと私を挟む様にレイアウトされている。飛び込めば、届かない距離ではない。アロナがまだ大声をあげているが、ホシノは起きる気配がない。今ならばアラームを止められるかもしれない。
高速で回る思考は、しかし空回りしていた。この時に取るべき行動は自室への素早い退避であり、アラームの停止ではないはずだ。
だけれども、片足を離した後に考えを改めたところで、身体は付いていかないのだ。
「!!!」
私はシッテムの箱を取り上げようと前に出る。同時にホシノにヘイローが浮かんだ。間に合わない。しかし、身体は止められない。箱を掴んで引き寄せる。
同時にホシノは体を起こした。
目と目が合った。アラームを止められたが同時に時も止まってしまった。
このまま何事もなかったかのように、ゆっくりと下がれば問題はないはず…そう思案する。
不意に、ホシノが急接近する-------。凄まじい速度、私は咄嗟に反応できない---------
「うわ、ホ、ホシノ…」
「うへ〜。えっと…これはその…」
珍しくうろたえるホシノ。しかし、ほぼ裸体の私をガッチリとその細腕でホールドしている。手には私のシャツがまだ握られたままだ。
「う、うへへ~!おじさんどうかしちゃってたみたい!毛布っぽくってさ。ついかぶっちゃったんだよね~…」
え、そっち?この状況でそっちに言及するの?
いや、そうではない。確かにシャツを握るに至った経緯について、興味はある。しかし、それよりも私の格好のほうが問題なのだ。
「う、うん。確かにポリエステル製の毛布もあるかもしれないね。でも先に手を離して貰えないかな?」
「いや〜…でもさ?ここでおじさんが手を離さないとマズいなー、とは思ってるんだよ?でもね?離したらマズいものが見えちゃうんだろうなーって言うのもわかるんだよね」
なるほど。つまりは身体に巻いたタオルが取れかかっているから、離すと全裸になって本当にワルキューレのお世話にならないといけなくなると言うわけだ。
いや、最終手段としてスーパーアロナちゃんガード(シッテムの箱で隠す)があるから大丈夫なのでは…?
あ、前科があるから何してもアウトか…
天井へと目線を向けて、現状から目を逸らす。このままでは湯冷めしてしまうな。だとか、いっそ押し倒してフリーズさせるか。だとか言う取り留めもない考えが浮かんでは消えた。3つ目が浮かびそうなタイミングで、ホシノが呟く。
「だからさ。このまま、抱き合ったまま先生の部屋まで行くしかないと思うんだ」
どう…かな?と続くが隠された意図を読もうとして思考が固まってしまった。返事ができる状態では無い。
抱き合ったまま自室まで連れて行ってくれ、など映画で濡れ場に突入する直前のようなシチュエーションだ。一回り近く歳が離れているのに、誘われているのか?それとも混乱した結果出てきた珍答なのか?そもそも自分が、先生が生徒に手を出すつもりなのか?
などと言った下らない思考が頭を満たす。かけるべき言葉を見失ってしまうのに、時間はかからなかった。
だからホシノに「えいっ!」と押されるまで、立ち尽くしてしまった。
「ほらほら、先生の部屋はこっちでしょ?ちゃんと歩かないとコケちゃうよ?」
強引に押している本人が、あっけらかんと言い放つ。ふと目線を下げると赤くなった耳が、鮮やかな彼女の髪から見え隠れしていた。
そのまま、後ろ向きで自室の前に来る。
「ありがとう、ホシノ。ここからは自分1人でできるから」
そう言って扉を開こうとノブに手を掛けた。
「あのね、先生。久しぶりにさ?夢を見れたんだ」
ホシノが独りごちるように語る。
「対策委員会の皆んなと一緒に、遊園地に行ったんだ。そこで、みんな自分の好きな所に行って楽しそうだった。…私は真ん中でポツンと立ってたんだけど、そしたら先生が抱きしめてくれてさ。そしたら…そしたら、『仕事のお時間ですー』ってアラームが鳴って起きたんだ」
彼女の眼を見返すように、未だ離れないつむじを見つめる。
「それで、起きたらね。みんなは居なくなってた。そりゃ、夢で一緒にいただけだから当たり前なんだけどさ。でも先生は居た。だから…うへへ。おじさん、何話してるんだろうね?」
不安だったのだろう。彼女は数舜先の未来ではなく、もっと遠くの未来を考えたのだ。
この《学園》と言う生活が終わった時、アビドスの借金がなくなった時、はたまたアビドスそのものがどうにもならなくなった時。自分がどこに向かうのか、どこへ進んでいけるのか、何を目指すべきなのかが、わからなかったのだろう。
でも、それらは今考えるべき事じゃない。
私は同じようにホシノを抱きしめる。
「うへっ!?せ、先生?///」
「大丈夫だよ。今は不安かもしれないけど、私がついてるからね。迷っても、ちゃんと道標になるから」
「先生…。うへへ…やっぱり先生には敵わないね」
そう言って顔を上げるホシノは、いつものようにニヘラと笑っていた。
「うん。やっぱりホシノの笑顔は良いね!心がポカポカする。朗らか、って表現するのかな?この感じは」
「や、やめてよ先生〜。おじさんを褒めたって何も出ないよ?」
「うん。でも、今そう思ったから。後で伝えるって言うふうにしたくなかっただけ」
「〜〜〜///」
声にならない声をあげて再びホシノは俯いてしまった。先生は狡いなぁと言う呟きが伝わってくる。
もう一度赤くなった顔を上げたホシノが、意を決して何かを言おうとした。
その瞬間に、チャイムがなる。
シャーレの別の当番の子が来たようだった。
お互いにビクりと身体を震わせて呼び出しのモニターを見る。
「別の当番の子が来ちゃったねー。私が対応しておくから先生は早く着替えちゃってね」
パッと離れていく温もり。陽だまりのような心地よい空間が、温度と共に薄れていった。
離れていくその子の心と同じ様に明るい髪を見つめてふと、陽射しが差し込んでいる事に気づいた。
曇は完全に晴れたわけではないようだが、隙間から射す光が、傾いた柱の様にオフィスとホシノを照らす。
その光景はまるで神話や叙事詩の様に美しく、尊くも見えた。
そう言えば、雲間から射す光を“エンジェルラダー“と呼ぶらしい。天使が降りてきた梯子だと思えば、なるほどどうして情緒的だと思える。
そんなことを考えながら、腕を組んで見ていると「まだ着替えてなかったの!?早くしないと来ちゃうよー!」と怒られてしまった。
苦笑いを浮かべ、自室へと入る。
ふと時計を見てみれば、もう夕方を過ぎていた。当番の子がもう1人来る時間なのだから、当たり前ではあるのだが。
正確な時間を知ってため息が溢れる。
「今日も…徹夜だ…」
憂鬱な気分だが、不思議と暖かい心地がする。何とかするぞー!と呟き、急いで着替えを済ませた。
後から来た子に「ホシノ先輩と先生から同じ匂いがする…」と詰められたのはまた別の話。