第13話 相互の支え
西暦2023年2月6日、浮遊城第9層。
時刻は午後を回って半刻。つまり、あと30分であの忌まわしい日からちょうど3ヶ月がたつことになる。
思えばあの日、今か今かと待ちわびた午後1時に「リンクスタート」なる言葉を発してしまったがために、俺はこうして迷宮区で命の削り合いをさせられている。普段の生活が刺激的だったわけではないが、俺ははっきりと現実世界に帰りたいと願っていた。
学校の連中に会いたい、と……そう思えるほどには、知らず衰弱しているのかもしれない。
俺を含む在学生は端的に言えばみなバカで、学校へ行くことすら苦痛と感じる日々だったが、それでも野郎と騒ぐのは楽しかった。たまにヤンキー連中の会話からプレイ中のゲームネタが飛び交う時はテンションが上がったものだ。もし帰られるのなら、苦手な勉強をしてやってもいいとさえ思えてくる。
「今じゃあいつらの方が勉強できんのか……」
端から大差なかった気もするが、ふと感傷に浸るように声を出してしまう。誰もいないのだから大目に見て欲しいものだ。
そして同時に、これは因果応報なのだろう。
俺が不良とツルんでいたのにも理由がある。それは醜い自尊心だ。
「こいつらよりはマシ」、「俺はいつでも抜け出せる」、「組織に属していれば、自分の力を大きく見せられる」。そんな程度である。
もっとも奴らのことだ、勉強など忘れて遊び回っているだろう。正直同級生相手なら勉強など
「(一緒に卒業は……無理だろうな、やっぱ)」
同じ勉強机に座ることも、ない。
ヒマな時に電卓を使って計算してみたが、どんなに楽観的に見てもプレイヤーが100層へ辿り着くのは来年一杯を持ってしても不可能だということが判明した。卒業式には間に合いそうにない。
されど、希望はあった。
1ヶ月前のクラインとそのギルド、『ヒスイ』と名乗ったあの女や他の協力し合ったプレイヤー達とこの世界に来て初めて騒いだ夜。久し振りに、本当に久し振りに俺はたくさん笑った。心のどこかではもう帰れないと諦めた自分が。
きっと、あの夜から俺の考えは少しずつ変わり始めたのだろう。
《トールバーナ》の付近でプレイヤーが『死ぬ』所に遭遇したあの時か、もしくは茅場晶彦が決定的なルール変更をした時から、どこか自分の未来を散っていった者達と重ねていたのに。
今ではそれがない。悪夢にも出ない。
戦うに値する明確な意志もある。明日……いや、今日にもこの9層の迷宮区をマッピングしきって、そしてあの部屋を見つけたらそこの主の首を容赦なく跳ねてやる。
フロアボスの首を、今度こそ俺が。
「(《索敵》に反応なし。ここらもほぼ狩り切った、か……)」
洞窟の中で周囲を見回し、5時間以上張りつめていた警戒を解く。ソロの旨みは、こうしたこまめなスポットで柔軟にスローター作業に没頭できる点である。
もちろんノーリスクとはいかない。途中、注意していたにも関わらずザコMobに《武器奪われ》、すなわち《スナッチアーム状態》にまで持っていかれた時はさすがに恐怖を感じたものだ。
しかし替えの武器は用意してあったし、すでに構成され尽くした独り身なりの
そして気を抜いたことで、空っぽの腹がいい加減限界を告げてきた。
「(キリつけて安全地帯で何か食うか。……ん?)」
マッピングされている《安全地帯》に近づくにつれ、そこに人の気配を感じた。おそらくは俺と同じで、最前線たるこの迷宮区を切り開いている途中に昼飯を取っているプレイヤーだろう。
別に会話を強制されるわけではないが、先客がいると入りづらいのも確かである。飯も1人で食べたい。
だが場所を変えよう、と決心する寸前。
「って、アレ、ヒスイじゃねーか」
別の安全地帯まで距離があるので名残惜しくもチラチラ覗き込んでいると、そこには比較的スリムな防具を纏ったヒスイが1人でぱくぱくおにぎり――らしき丸い餅状の固形物――を食べていた。
声で相手も俺に気付く。
「ジェイド……良かったぁ。またぞろおかしな人達に狙われているかと思ったわ」
「ああ……あの時のな。ん、ンでもあんなのメッタにねェから……」
2ヶ月前のイベントボスでの奮闘から、一気に『最前線の女性プレイヤー』として時代の
毛嫌いでもあるのか、組織への所属こそ避けているようだったが、人と触れ合い、誰それと戦場へ出る機会というのはかなり増えたらしい。
……のだが、それらが必ずしもいい結果を生んだとは限らなかった。
原因、というより起きた事件は2つ。
1つ目は彼女が勧誘されたギルド内の話で、俺は関与するところではなかったが、しかし2つ目は俺が直接事件に関わっていて記憶にも新しいことだ。
なにせそれは、ほんの10日前のことである。
◇ ◇ ◇
「(いったん安置で休むか。そういやメシ2日も食ってねぇし……つか、ここ最近まともに寝てねぇし……)」
泥まみれになりながら、汗も拭かず迷宮区を歩いていたのを覚えている。当時胸を張って『なかなか強い方』だと自慢できる防具素材を集めるために、連日立てこもっていた狩り場でこんな言葉を内心呟いてから、やっとこさ《安全地帯》に足を踏み入れようとしていた時だ。
俺はこのソロの女性プレイヤー、ヒスイと再会した。
つまり、今のように安全地帯で彼女と出会したのだ。しかし状況は比べものにならないぐらい最悪のものだった。
「……や、やめッ……」
「おい口押さえろ」
深夜に複数の声が聞こえる事実そのものに不振な影を見ながら、そんな声が聞こえてくる方へ歩を進める。俺は警戒しながら半自動的に《
するとそこには4人のプレイヤーがいて、そして3人が1人を囲っているのが見えたのだ。その1人は両手足を2人がかりで抑えつけられ、残る1人に乱暴されかけていた。
その1人こそ当のヒスイ。
「(おいおい、何でされるがままなんだよッ)」
俺がそう思ったのは、当然3人の行為が《ハラスメントコード》に抵触しているはずだと考えたからだ。
《ハラスメントコード》は、主に仮想空間内での性犯罪を防止及び取り締まるために設けられた機能である。視界左上にアイコンが表示されれば、それを指でタップするだけで簡単に暴漢どもを排除できる。
しかし後になってわかったのだが、彼女はこの時多人数で抑えつけられて手足とその指の先まで動かすことができず、《黒鉄宮》へ飛ばすアイコンを押せなかったそうだ。
《ハラスメントコード》の初期動作として一瞬だけ暴漢どもを弾いたそうだが、仮眠を取っていたヒスイはその隙を活用できなかった。
結果、数の力も合間って押さえつける2人を振り切れなかった。そしてそれは、ゲスの極みをはたらいていた3人の男達が前線プレイヤーだったからでもある。
『前線プレイヤー』。覆ることのないパラメータ的に優位な存在。
彼らがこのような下心を暴発させる、果ては殺人という狂気に手を出したとしたら、まずターゲットにされるのは当然ソロ。このゲームが開始された当時の俺でさえ、この結果は予想できていた。
それを、とうとう行動に移す輩が現れたというわけだ。
ヒスイはソロで美人というだけでも危ないのに、その上お人良しの甘チャンときている。
たった2週間の時点で俺も襲われたが、あれは動乱に便乗していた――実際彼らにはその日の食いブチすらストックがなかったらしい――に過ぎないし、正確に言えば俺だって弱者相手に同じことをしている。
「(どうする、止めに入るか……いや、そんなことしたら今度は俺が狙われて……)」
自らの有り様を見つめ直す機会がなければ、きっと秒で
それでも即行動、とはならなかった。人助けはいいものだ。心が洗われるようで、こんなクズのような俺でもひとときの善人面が堂々とできる。
しかし、ここは現実世界よりも残酷だ。法律のない空間で、果たして人は人を斬らないと言えるのだろうか。俺が彼女を助ける義理は、諸々のリスクを負ってでもあるのか。全知全能の神でない限り、言いきることはできまい。
考え抜いた直後に、甲高い悲鳴が上がった。
「く……アンタら何やってる!」
だからこそ、大声を出していた。
正直怖かった。言った直後にわずかに後悔もした。
だが、見なかったことにはできない。キッパリ割りきることは、小悪党でも意外に難しいのだ。
場所は最前線の1層下で、深夜3時を回っていたため、プレイヤーが姿を現すはずのないとタカをくくっていた3人は、俺の声に相当驚いていた。これはただの推測だが、3人は彼女が『小ギルドとのいざこざ』で
彼らは面倒ごとを避けるために俺を仲間に誘ったが、俺は頑なに抵抗して遂には3人に剣を抜いた。
そして拘束の解けたヒスイと共に3人を蹴散らしたのだ。
結果だけ見れば全てが『未遂』で無事に済んだように思えたが、やはり乱暴されかけた彼女にとってはかなりのトラウマになっていた。
「……ひぅ……ジェ、イド……ヒック……ありが……と……」
彼女はHPを《レッドゾーン》にまで落とし、剣を置き、泣きながらこれだけを言った。
安全地帯はモンスターこそ侵入しないが《
そして、オレンジ化覚悟で一線を超えた。だのに彼女を殺しかけてしまったことで、犯罪者3人の剣に迷いが生じて追い返せたのだから、世の中皮肉なものである。
その後もしばらく嗚咽のみが安全地帯に響いた。
俺は彼女にほとんど言葉もかけてやれなかったが、ヒスイが「もういいわ、ありがとう」と、再び感謝を寄越して翌朝には別れた。
◇ ◇ ◇
「(やっぱ……思い出してんのかな……)」
後で聞いた話だが、ヒスイはいちいち寄せられる男の視線に
それでも彼女は戻ってきた。そして過去の恐怖に抗い、今も8000人の解放のために心身を犠牲にしてプレイヤーを励まし、自分自身も攻略行為に勤しんでいる。
「(強ぇな、でも刺激すんのは止めよう……)……あ、ああっと……わ、悪いなジャマして。んじゃ俺はもう行くからよ」
「待って、ジェイド……」
そういって立ち去ろうとした俺をしかし、彼女は目を伏せるようにして弱々しく呼び止める。
「…………」
「…………」
どこか気のせいではすまされないもの凄く歯がゆい空白がそこにはあった。
無言が続く。
――逃げたい。
喉まで出かかったこれらの言葉が実際に喉を通らなかったのは精神の成長ゆえか、はたまた単純な意気地無しか。
ともかく、数秒の思考を薙ぎ払い彼女が先に口を開いた。
「ちょっとだけ……お話ししない……?」
わずかに赤く染めながら、そんなことを言い出した。
こいつは想定外である。肯定の返事は死ぬほど情けなくなってしまったが、彼女の方からそう申し出た以上断る道理もないだろう。
「いいけど、攻略のこととか……? あ……となり座るぞ」
「ん、どーぞ」
ちょこん、と岩場に腰掛ける。
センチ単位で距離が気になる。現時点で恥ずかしい。さすがは根暗ゲーマーだ、会話の糸口すら掴めない。
「ワリ、ハラ減ってるから」とだけ断ろうとすると、その直前に割り込まれた。
「もう3ヶ月だね」
「へっ? ……ああ~、ホントだ。こりゃ学校生活は終わりだな……ハ、ハハッ……」
時間を見ると本当にジャストだった。
あと5秒。3、2、1……0。
西暦2022年11月6日の午後1時から今日で、いやさたった今で3ヶ月。
このゲームが始まってからの時間だ。とは言っても俺は今、あの時からは想像もできないほど
「(こいつ、こんなにカラんでくるんだ……)」
この黒髪の女にとって、俺の第一印象はメーターをマイナスに振り切った状態でスタートしていたはずだが、不思議なことも起きるものだ。
なにせ3度目の
甘い香りのする華奢で脚の長い女と2人きり、なんて言い方をすると失礼かつやましい気持ちでいっぱいだと思われるかもしれないが、少なくとも公園のベンチよりは景観の悪い狭い空間に、大して仲がいいわけでもない女プレイヤーとマンツーマンで座っているのである。
初めてお邪魔する友達の部屋よりは居心地が悪いことは想像に難くないだろう。
「……ああ……何つーか、あっそうだメシ食おう!」
危うく忘れるところだった。わけのわからない緊張感に筋肉を硬直させたまま座っていたら、食事に対する優先度が低い俺は昼飯を食べ損ねていてもおかしくはない。危ない危ない。
やはり慣れないことばかりしていると目の前が真っ白になる。
「ぷ、くふふっ……ど、動揺しすぎ~あははは」
「なっ……なッ!?」
我慢しきれないと言いたげに、座ったままのヒスイが足をばたつかせていきなり笑い出した。
それにしてもなんて奴だ。『あの時』を思い出しかねない状態だというから気を使ってやっているというのに、俺のコミュ障を笑いやがった。薄情者だ。無神経だ。
「んのやろぅ……人の好意をッ」
「ありがとね……」
俺の声を遮った次の言葉は感謝だった。
よって俺はいいように操れている自覚を持ちながらも、怒ったり同情したりを繰り返しつつ、もやもやしたまま上げかけた腰を下ろした。恐ろしきは美少女の魔力といったとろだが、情けなさすぎて
「……ったく。そう思ってるなら、からかうのナシな……」
「ふふっ……でもね? あんまり気にしないで昔みたいに話そうよ。気兼ねなんてなかった頃の……あたしもそうして欲しいわ」
まったく、よくわからない女である。「昔のように」というと、俺が女だというだけで見下し切った態度をとり、どうせ戦力外だろうと決めつけ大暴れしていた時期を真っ先に思い出す。まさかあのような品性の欠片もない社会不適合者をご所望なのだろうか。だとしたら物好きもいたものだ。
しかしここで俺の気遣いを指摘するとは、可愛くない女である。初めからそう言ってくれたら、ここまで緊張することはなかっただろう。
「わかったよ、なるべくそうする。でもメシ食いながらになっけどな……」
「あ、じゃあそれ見てよっと」
「……えっ……」
「ん? 食べてていいよ。それ見てるから」
――よし、食事中断。
昼飯は夜まで先送りか。仕方あるまい、昼飯は置いといて一旦話題の切り替えといこうではないか。
そして右手に持った、行き場のない固形物を前に、俺はふと疑問に思ったことを口にしていた。
「……にしてもさ、よく最前線に1人で戻ってこれたよな、あんた。ああ、イヤミじゃなくてな」
「うん、アスナは……最近ギルドに入っちゃったしね」
用意してきた非常食用の固いパンをポーチに仕舞いつつ話しかけると、ヒスイは顔をそらしながらそう言った。
ちなみにヒスイがアスナを知っているのはボス攻略の際に顔合わせをしたからで、当然キリトもエギルもキバオウもその他何人かの前線プレイヤーも知っている。認めたくはないが自分と同じ女性プレイヤーだからか、アスナは俺が同じパーティに初めて入った時の100倍は喜んでいた。
いや、俺の時の喜びをゼロとしたら無限倍しても届かないか。
「まあその、フレンド登録ぐらいしたんだろ? ならいいじゃねーか、女同士気が合ってたみてぇだし。それよりヒスイもアスナんとこ入ったらどうだよ? ……ええっと確か、《血盟騎士団》だったか?」
「いいって。だいたい、あたしソロって決めてるから。あ、決めてると言うよりは、ここ最近のいざこざを踏まえて、改めて決意したって感じかな。そこデリケートなところだから深堀りするのはやめてね」
髪を耳にあげながら言うが、自分から
そもそもこのお方、絶対遊んでらっしゃる。怒っているそぶりを見せつつも顔が笑っているのがそれを物語る。
「(メンドーなやっちゃ……)……そう言うなって。相談するだけで気が晴れるっていうじゃん。あんたもテスターだろ? 例えば……スタートダッシュでビギナーとモメたとか? ま、答えたくなきゃいーけど」
「あなた見た目バカっぽいのに鋭いわね。まあ、だいたいそうよ」
「…………」
肯定されたはずが、否定された気分である。見た目バカっぽいのか俺。遊びほうけていて教養がない事実は揺るぎないが、それは俺が口を開かなければバレないものだと思っていたのだ。まさか口を開く前からそう思われていたとは。
ショックを受ける俺を見て、彼女は「あ、違うからね。バカっぽいって言っても不良に見えるって意味よ。ほら不良の人って頭悪そうじゃない?」と付け足しているが、残念ながら計ったように1ミリもフォローになっていない。後ひと声でふて寝してしまいそうだ。
どうやら俺はまったく嬉しくない方向性で神に愛されているらしい。年始の負い目がなければ、可能な限りこの女に罵倒を浴びせたいものだ。
「って言っても、ソロで行こうって決めた原因作ったそいつは男だけどね。初日は別行動だったし、それで……ね。まぁ、結果だけ見るとあたしが見捨てたって言うか……。助けられたはずなのに、あたしは声をかけなかったの」
「…………」
なるほど、こいつもソロに走った経緯はだいたい俺と同じ、というわけか。
効率、利益、そして責任逃れと打算。これらを掛け合わせた答えが友を見捨てるというものだった。複雑な話は一切からまず、そこには男女もクソもなく。例え友人だったカズがタイプの女でも、命と引き換えとあれば同じように見捨てていただろう。
彼女もそうだとしたら、ちょっぴり意外である。
しかし俺が死ぬ寸前まで散々味わったものを思い出すだけで、こうして自責の念に駆られて自分を追い込んでいく彼女の姿も納得できる。
俺自身、最初の数日間ですでに限界に近い
当然その報いは倍返しで降り注いだが。
「あ~……まあ、いいんじゃねぇの! 生き残るためだろ、ようは。あんたもウジウジしてないで胸はってりゃいいんだよ。張る胸なさそうだけどな! ハハハッ」
「……殺すわよ……?」
「ちょ、や……ほらさっき気がねなくって……」
「今マジメな話してるの! む、胸当てが隠してるだけだし!」
「わ、わかったって。サーセン! ……でも考えてみろ。それでガタガタ抜かす連中こそ、自分カワイさで言ってんだぜ? 弱いから助けてください、ってな。気にすんなよ」
「……そう、かもだけど……」
死にかけたが、それはさておき。
これはなんとも恥ずべき説得である。なにせこの助言は、紛れもなく自身への言い聞かせでもあるのだから。
自分が生き残るために、友人の生命線を切った。不可抗力で、そして情状酌量の余地が入る、人を傷つけないようにした絶妙な言い回し。同意された分だけ免罪符も加算。
しかし、そんな事情はみなまで言うまい。ヒスイだって所々ぼかしている風に打ち明けているが、それは俺にも全てを話す気がないことを示しているからだろう。
「あ~あ……あの頃は楽しかったのになぁ」
と、ふとヒスイがそんなことを言った。このゲームがまだロールプレイングゲームだった頃のことだろうか。
たった数時間だけの安全なSAOのことを。
「そうだな。……俺もあん時ははしゃぎ回ってたもんだ。フィールドでさ、誰もいないことをいいことにモンスターに話しかけたりしてたんだぜ」
「ふふっ……くふふっ」
「……んだよ、2回目の笑いは」
「いえごめんね、つい思い出しちゃって。初日の強制転移で中央広場に送られたの、覚えてる?」
「ああ。忘れる方がムズいけどな……」
「あの時のことなんだけどね、何かすっご変な人がいたの。あんまり顔は見えなかったけどなんか印象的でね」
「へぇ……どんな奴だよ? あっ、《手鏡》のぞいた瞬間、美少女がブサイク男になったとか!」
「え~そんなのたくさんいたじゃん!」
自然と会話が弾んでいた。
それにしてもゲーマーがゲームの世界に入ると人が変わることは実は多いらしい。つまりそれは、その時見たプレイヤーがリアルでも面白いとは限らないことを意味するわけだが、しかも今となっては皆が必死になって作ったアバターもどこかへ消え失せている。
ある意味ここは、厳密には仮想世界とは呼べないのだろう。
だからこそ、別にこの女に特別な感情が生まれたわけではないが、数奇な縁と境遇を意識し、俺はせめて彼女の前では着飾らないようにしようと決めていた。
「うーんとね……何かこう、『おれしゅじんこおぉおッ』って言いながら壁に突進してる人がいてね」
「…………」
――おや。ナンか、どっかで聞いたことあるな。
俺は無言かつ無表情で続きを催促した。
「し、しかもねっ、聞いたこともない声出しながら壁に激突しててね……あははっ。あ~ごめん、あたしだけ思い出して。でも本当に面白かったの。クラスの男子に似た人がいるのよ。そいつもたいがい考えナシで行動するタイプなんだけど……」
「…………」
彼女は口に手を当てて必死にこらえながら続けようとしていたが、俺は途中から話など聞いてはいなかった。
「あっでも信じらんないことに、そいつその後あたしのパンツ覗いてきたの! ……あれは許せなかったなあ、普通に。今度見つけたらその顔ネットで晒して社会的に……あ、今は顔違うのか」
「いやアレ見えてなかったから! 見えそうだったけど見えてないから!」
「……え?」
「……あっ」
あ……。
「ああいや、そういう話しをむかしどっかで誰かに聞いたような……ないような……」
「……ふぅん……なるほど」
ヒスイの首をかしげてからのドヤ顔が酷かった。
まさに『してやったり』顔だ。完全に弱みを握られた。頭が大変よろしくないことは自分でもコンプレックスだったが、真っ先に口からでた言い訳がさらに最悪だった。日本語すらおかしかった上になんの言い訳にもなっていない。
「あれ、あなただったの……」
「いや……でも……」
「でもぉ?」
「み、見てないのは……ホントだし……」
――おお体が熱い! いや熱いって言うかもう痛い! 全身バチバチする!
よし決めた。恩を仇で返すようなこの女は泣かすとしよう。泣かぬなら、泣かすとしよう、俺の手で。
「あははっ、すっごい偶然もあるものね。……まあでもいいよパンツぐらい」
「……ったく、見えてねえっつうのに……」
その後のことはあんまり覚えてない。正直人はその場のノリというかテンションというか、つまり1回笑い出すと話しの流れに関わらず笑ってしまうものだ。
そうしてしばらく俺達の笑い声だけが、恐怖に包まれるはずの最前線迷宮区に響いていた。
「変わった……よね。
「かもな……でもお互い様だぜ、
そして2人して落ち着くと、互いに顔を合わせないまま声のトーンを下げる。
思い出すのはやはり生きてきた中でもこの3ヶ月だ。
俺はヒスイに言葉で打ち負かされて以来、なんだかんだと人を見下した言い方や弱小プレイヤーからの金の巻き上げをやっていない。
正義感に目覚めたのか……いや、それは少し違う。
実際、前線プレイヤーが強力なモンスターに囲まれていて死にかけている場面に鉢合わせても、命の危険を冒してまで助けに行くかと聞かれればさすがに答えはノーだ。赤の他人にできることは、せいぜい自分がそこの戦闘で確実に死なないと判断できた時の手助け程度である。
「(ん~……でも、だとしたらこの女は俺にとって例外だってことか?)」
頭の中でふと巡らせ、いやしかしと考え直す。
なにせ、もはや彼女は他人ではないからだ。見てほしい、こいつのせいで狩りが遅れてしまっている。もし他人からこんなことされたとしたらコルを賠償金として要求していたはずだ。
「ジェイドもさ、ソロにこだわるのは何かあったの?」
「……ヒスイと似たようなもんさ。初日にエンを切った、それだけだ。んでそいつは……俺のこと、もう友達じゃないってさ……」
「そ……か……」
あの時初めて友人に捨てられる悲しさを知った。
だがルガは……カズは、それを1ヶ月以上長く味わっているのだ。なら俺に感傷に浸る権利などない。あるのは元テスターとして解放を目指す義務と、利己的な行動を繰り返す俺に課せられた罪の鎖だけだ。
なし崩し的に完成されたとは言え、ヒエラルキーの頂点に立つ俺達は責任も付きまとう。
「でも……俺はあきらめてねェぜ。人間誰でもミスはする。けどそれが、全部帳消しできないことはないだろ? だから……なんつうか、どっかでケリ付けないと、って思うようになったんだよ」
「……そう、だよね……」
「ああ……ハハ、つまり……まあなんつうんだろ。言葉にしにくいな。ま、ヒスイも区切りつけたらさ、どっかギルドにでも入って、そのたっかい装備ジマンしてやれよ。……んで、この3ヶ月の分まで楽しんで過ごすんだ。悪くないだろ?」
「ジェイド……」
わかっている。それは俺にもあてはまると言いたいのだろう。
だが俺は弱いのだ。弱く、致命的なほど協調性に欠ける。それにヒスイと違ってたくさん悪さをしてきた。その事実は頭を
「あなた本当に変わったわね。……ふふっ、あたし少しだけ嬉しい」
「なんだそりゃ。俺が変わってうれしい?」
「ええもちろん。初めは自分でも、仲間を捨てておいてどの面下げて言っているのかと思ってたわ。でも、ブツクサと説教を垂れた意味があったのよ。それだけで嬉しい」
「…………」
実はそれで変わった人間より、更生に期待して地道な説得をする方がよっぽどか凄いことである。正義感の強い彼女は、そんな些細なことより俺の
だから今だけは「あん時はその……どなって悪かったよ」と、ほんの少しだけ素直になって謝っておく。
それにしても、時間を見ると1時間ぐらい話し込んでいた。
我ながら驚きである。俺が女と2人で会話in60分なんて、普段では考えられない。
とは言え予想以上におしゃべりが過ぎてしまったため、独占するにはもったいないようなアイドル女との会話を名残惜しいと思いつつ、俺はようやく重たい腰を上げて立て掛けておいた大剣を背負った。
「んじゃそろそろ攻略に戻るよ」
「あっ……ええ、そうね。ごめん時間とっちゃって」
「いや、正直人生レベルで貴重な体験だったよ。こっちこそサンキュな」
「あはは、何それぇ」
しばらくはこれで会わないかもしれない。それでもこいつは前線に戻ってきたのだ。ならばここは「さようなら」ではないだろう。
「ヒスイ……その、すっげぇ楽しかった……またな!」
「え? ……ええそうね、また」
ヒスイが何かを言う前にダッシュ。恥ずかし過ぎて顔向けなどできようはずもない。
笑えよ、こんちくしょう。そう心の声で罵りながら俺はひたすら足を動かした。
「(ああもう知らんッ!)」
この後は振り向きもしなかった。
だからこの時のヒスイの表情は、今でもわからず終いだ。