SAOエクストラストーリー   作:ZHE

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第110話 人のあがき(スライグレスト)

 西暦2024年11月9日 《虹の谷》隠しエリア洞穴最奥。

 

 木材を削って作られた大門と、それを守護する西洋甲冑――ダンジョンで戦ったパイレーツ系のアンデットウォリアー同様、もう人ではないだろうが――のボス《カーディンズ・ホロウ》との戦いは5分が経過した今もまだ続いていた。

 棒切れ一本、逃げ場なしの打ち合いにしては異常な長さだ。敵の物理耐性が高いのも原因ではあるが、だとしても魔法攻撃力が付与された俺の大剣ならある程度解消できているはず。

 おまけに欧米人顔負けの体躯。体重を乗せた重撃を流れるように連続で叩き込まれると、スペル詠唱に集中力を割くこともできない。

 ガンッ! ガンッ! と互いの愛刀がぶつかって弾かれると、俺達は距離が開いたまま何度目かもわからない(にら)み合いを始めた。

 踏み外せば即死の高度。極限の緊張感。

 湿度の高さからか足場にできた薄氷(うすらい)が割れると、その小さな音すら反響した。

 

「じ、ジェイド……オレっちも代わろうカ? それか、せめて回復とか……」

「ハァ……ハァ……いや、まだいい。タゲを変えたくない。ハァ……硬ェけど当たってはいるんだ……このままいきゃ勝てる!!」

『……未だ助けも乞わぬか。実力も伯仲……願ってもいない剣技に相見(あいまみ)えた。吾なりの礼を尽くし、引導を渡すとしよう』

 

 何らかの区切りまで削ったのだろう。

 ガーディアン男のセリフに対し、俺はいっそう警戒を強めた。

 邪魔そうなショルダー部を気にするそぶりも見せず左手を掲げると、彼の後ろにある木製大門の上側に彫られていた、壁にはりつけにされたガリガリの罪人の裸像が(きし)むように胎動。ボスではなく彫刻が備え付けの弓を力強く引きながら、古代ノルド語でスペルを唱えだしたのだ。

 俺とて世界転移からまだ3日。ゆっくりとした発音にもかかわらず、裸像の彫刻が唱える呪文から魔法を逆算できない。

 アルゴが機転を利かせ、光属性魔法《体力回復(ヒールバイタル)》を唱えてリターンさせようとしてくれたが、俺は体内に巡る警鐘(けいしょう)に従って大剣のポメルにある虹色の宝石を半回転させていた。

 直後に矢が放たれる。

 しかし俺も《エッケザックス》を前面に展開させ、敵の光矢を跡形もなく消し飛ばした。

 エクストラスキルの使用はこれで3回目。派手な白煙のエフェクトを手で振り払うと、なんと意外なことに敵は憤慨(ふんがい)するどころか今までより楽しそうに哄笑(こうしょう)を見せた。

 

『フハーハッハッハッハッハァ!! 寄せ手の送る情けすら()ね付ける! 良き! 良きかな、理解者よ!!』

 

 同時にピロン、と視界の左上にメッセージが届いた。

 フォーカスすると短く『分岐選択、《正々堂々(フェアンドスクエア)》』とだけある。

 いったい何のことだ。カーディンは「敵の塩を受け取らなかった」という(むね)のセリフを吐いていたが、俺はまさか敵からのバフ魔法を打ち消してしまったとでもいうのか。しかも大剣の貴重なデュラビリティを消費してまで!

 

「(ヤッベ、判断ミスった! ……剣の耐久値減らして自分から不利になるとか、ずいぶん笑えねェなこりゃあ……)」

 

 今度ははっきりと背中に冷や汗が流れるのを感じた。

 この(たぐ)いの隠しルートならぬ散りばめられたミッションタスクは、達成した際のリザルトに色を付けてくれることが多い。だが、前提はもちろんゲームオーバーにならずにタスクを達成できたらのお話だ。

 アルゴが後ろで「あ、アレッ……回復魔法が効かないゾ!?」なんて驚いているので、おそらくパーティメンバーからの援護は、俺の選択のせいでシステム的にブロックされているのだろう。試す意味もないだろうが、放出系の攻撃魔法とて今や効果があるのは俺が放つ物のみのはずだ。

 

『……ゆくぞ!』

「来いっ!!」

 

 瞬時に判断するとポーチの水瓶(すいびょう)を一息に(あお)り、カラの瓶と共に魔法を織り交ぜた戦法を潔く捨てる。

 俺は迫りくる2メートル以上の長身相手に真正面から激突すると、ブレードの接触部からはおびただしい量の火花が散った。

 迷いは敗北に直結する。

 後がなくなったことで、ある意味では残留していた緊張が希釈(きしゃく)され、背後の激励(げきれい)すら鼓膜からミュートされた。

 幾度となく重ねた打ち合いで、行動パターンの解析はある程度進んでいる。

 何にせよゴリ押せないなら立ち回り勝負がMob戦の基本。俺が2年かけて得た《見切り》のノウハウは、バイザーの奥で(きらめ)くオリーブ色の眼光を見逃さなかった。

 敵の初動はすでに俺が予測された動きそのもので、反動で背中へ移動した大剣のベクトル方向に逆らわず、続く垂直振り攻撃を右回り背面スレスレで回避しながら、生まれた捻転力をまったく制動をかけずに振りぬいた。

 これがモンスターと対人戦の決定的な違い。

 ほとんど振り向きざまの攻撃。ゴオウッ!! と、右肩から垂直に《エッケザックス》が純鉄を貫通した。

 

『ぐ……ぬっ!?』

 

 確かな手ごたえ。まるで未来予知をされたかのような完璧なカウンターを前に、鎧のカーディンが初めて膝をついた。

 一泊の呼吸すら飛ばし、顔面へ右の肘打ち。反り返すがごとく鋭角な斬り上げ反撃を左手で無理やり停止させ、その顎へ全力の膝蹴り。

 強制的に起こされた彼の上体は無防備となり、バランスが崩れたその首元へ結晶大剣を一閃させた。

 決して()ダメは少なくない。

 俺は獣のような咆哮(ほうこう)を上げると、握りしめた業物をさらに前へ押し出す。

 

「いっけえェええええッ!!」

『ぬ……ううっ!?』

 

 石橋の表面をブーツ底のリベットでザリザリと削りながら、5メートルも後退したところでようやく両者は停止した。

 ギリギリと(やいば)をせめぎ合わせながら、俺は敵ながら内心で称賛を送っていた。

 ()う者に呪われた地だか知らないが、翅で飛べず逃げ場もなし。しかも魔法を使わない大剣1本の直球勝負。時代錯誤の西部劇でもこんな場所をロケ地にはしないだろう。

 だからこれは、楽しませてくれたことへの俺なりの感謝だった。

 

『おおおおっ!!』

「らァアアあああああッ!!」

 

 バチンッ!! と互いの剣が風を切ると、俺達は瞬きするのも忘れて両者の肉体を斬り合った。

 花火のように舞うエフェクト。

 受け、いなし、見極め、叩き込む。敵には大量の攻撃パターンがあるように見え、実際は連撃を途中で止めたりしているだけだ。目が慣れてきた俺は完璧に敵の動きを察知し、徐々に一方的な斬撃が鎧に突き刺さっていた。

 逸れたら落下の一本橋にもかかわらず、片足で一気に2メートル以上跳躍すると、カーディンの頭の上から大剣を振り下ろす。

 乾いた金切り音。寸でのところで攻撃は防がれたが、そのまま彼の頭上を越え、足元に自分の武器を捨てつつ敵の背後を取った。

 ごく短く呼吸すると、股下と首に空いた甲冑のわずかな隙間に腕と指を刺し込む。ここで発せられた怒声はもう、敵騎士のものなのか自分の(のど)が震えているのかも判断がつかなかった。

 踏ん張りを利かせると、目が開けられなくなるほどの重量を、大地を(きし)ませながら敵を肩に持ち上げたのだ。

 背中越しに担がれ、ジタバタともがくそれは酷く滑稽(こっけい)だった。

 間髪入れず、全力で木製大門へ投げつける。耳を塞ぎたくなるような轟音すら無視し、足元にある《エッケザックス》の太いグリップを握り直すと同時にダッシュをかけた。

 急接近。敵は態勢を立て直しているが僅差(きんさ)で遅い。

 

「届けェええっ!!」

 

 ゴッパァアアアアッ!! と、突進と迎撃がぶつかった。

 敵の得物が左手の籠手を穿通(せんつう)するが角度が浅い。対して俺の大剣は(さび)ついた敵の鎧をブチ抜き、深々と根元まで(えぐ)り取っている。

 オーバーラッシュをかけると石橋すら通り抜け、背後の大門に縫い付けた。

 またしても激突。

 しかし、これだけの攻撃を経てなおHPバーが微量だけ残る。大剣の攻撃属性は斬撃(スラッシュ)系。貫通(ピアース)のそれと違って、刺した後はじっとしていてもダメージを与えてくれないのだ。

 俺は三度(みたび)運動エネルギーを生み出そうとしたが、今度は壁に張り付いていたカーディンの左手が俺の右肘あたりをがっちりと掴んだ。

 信じられない握力だ。大剣ごとピクリとも動かせない。

 

『見事な……捌き……』

「ぐ、ウッ……まだだァ!!!!」

 

 だが、俺は上半身だけを逸らすと、何の躊躇(ためら)いもなく相手の兜に頭突きをくれてやった。

 ゴガンッ!! と、スパークが走るようなエフェクトに、バイザー越しでも衝撃が伝わったのか、数瞬だけ(くら)んだ奴の拘束が連動して緩む。

 すかさずあらん限りの力を両腕に注ぎ、銅製のメイルを踏み抜き、バク宙しながら結晶の刃を引き抜いた。

 ギシュンッ!! と大剣が抜き取られる。反動で無様に地をゴロゴロと転がって砂まみれになったが、惰力(だりょく)が収まると同時に膝をつきながら剣を構えた。

 しかし敵からの追撃はなかった。

 力なく2、3歩よろけると、黄土色のガーディアンは甲冑ごと色褪(いろあ)せていきながら満足気につぶやく。

 

『傭兵に堕ちた吾が、久しく遺却していた……血の(たぎ)る剣戟よ。貴族ゆえ、騎士ゆえ、名残もある。どうか汝に遣わそう。……吾が名はカーディン。嗚呼、生きた証を、いざ此処に……』

 

 それが大男の最期の遺言だった。

 糸が切れたがごとくバラバラに、けたたましく崩れ落ちる《カーディンズ・ホロウ》。まるで最初から誰もいなかったかのように、中身のない空っぽの錆びた甲冑。

 そして、透けるような黒漆(くろうるし)が施され、他に装飾のない無骨な大剣だけが墓碑のように戦場に(のこ)っていた。

 

 

 

  ◇   ◇   ◇

 

 

 

 今回のイベントボス討伐で得られた直接的な報酬は3つだった。

 1つは新たな大剣。まさに先ほどまで血を求めあった古き騎士と共に、1度は身命を賭した銘釼(めいけん)だ。敵を安易に『落下死』させなかった報酬と思われる。

 完成時は息を呑むような美しさだったのだろう。

 材質は黒錆を(まと)った高純度の(はがね)。古式鍛造方式で磨き上げられたぶ厚くバランスのとれた刀身はスチールグレイに色付き、その刃先は全周を通してさらに白く砥がれていて鋭い。

 剥落(はくらく)しかかっているとはいえ奢侈(しゃし)な漆のコーティングに、(ガード)は二段構造である点以外はシンプルなデザインに仕立てている。両手で握るにもずいぶんな長さを誇る握り(グリップ)には幾層にも包帯が巻かれ、それに染み込んだ血痕(けっこん)と手垢が、主と並び歴戦の武器であることを物語っていた。

 尖った剣先から計り、エッジにアールのかかったヘキサゴンの柄頭(ポメル)まで1.8メートル近くもあり、《エッケザックス》以上のリーチを誇っている。斜めに背負っていても剣先が地面に()りそうなほどだ。

 刀匠不明。銘は《タイタン・キラー》。

 簡素であり、なお威圧する巨神殺しの剣。奇を(てら)ったような名もなく、魔法属性の攻撃力などは設定されておらず、宝石や塗装による個性的な意匠(いしょう)もなし。

 突き刺さった重厚なそれを地面から引き抜いた瞬間に確信した。

 これはまさに俺が求めていた、本懐を果たすためだけに存在する、まっすぐな凶器。

 

「スゲェ重い。玉鋼(たまはがね)っていうんだっけか、きたえた時に使われるインゴットの密度がケタ違いだったんだろう。……いい剣だ」

「念願のおニューが手に入ったナ! し、しかしジェイドの戦い方は凄いヨ……それか、危ういって言った方がいいカモ。優れた剣士というよりは、サカッた獣に知恵と武器を与えたような感じダ」

「わたしも見ていて怖かったです。まあ、たまに何もしてなくても怖いですけど……」

「なあ、シンミョーな顔して素でディスんのやめない?」

 

 毀誉褒貶(きよほうへん)定まらない感想に眉をヒクつかせながら抗議すると、《エッケザックス》をインベントリに戻し、入手した金属大剣を背の剣帯に収納した。

 なんにせよ新しい業物だ。耐久値も申し分なし。当面は武器のことで心労を負わずにいられるだろう。

 そしてもう1つの討伐報酬は、まさかの3種類もの《魔導書》である。

 マンツーマンで戦うことが条件ならかなりハードな内容とは思っていたが、これは嬉しい誤算だ。おそらく没落貴族カーディンが去り際に放ったセリフと一緒にドロップさせたもので、これこそが隠しミッションタスク達成のご褒美だと思われる。

 1つはバフをつかさどる光魔法で、その《魔導書》の名は《正々堂々(フェアンドスクエア)》。

 ミッションのサブタイトルと同一の名を冠するこれは、一定範囲内のユニット全てがポーションや魔法による一切の回復行為を封じられるというもので、持続時間は長いがスペルも長い。ただし武器や防具の効果による回復は防げない仕様のようだ。

 バフ系と言いつつリスクもあって使いどころに悩むが、そもそも《光属性魔法》スキルの熟練度上達は遅い種族なのでアルゴかシリカにあげるとしよう。

 そしてもう1つ……否、もう『2つ』はペアで初めて機能する、つまり活用しようとしたその時点でスロット2つを占領しつつ、さらに2種類のスペル暗記を要求してくる闇属性魔法だった。

 名は《合成反応(シンターゼ)》と《脱離反応(リアーゼ)》。

 説明欄にはスペルの読みが順に、エック・バインダ・メイドゥ・ギィファ・カインダ・セガノーン・クリィスタス・エイト。そしてセアー・ビィルダル・エック・ブロード・レイズ・スィーザ。とある。

 我は留める。害成す侵略、祝福の水晶と共に。

 彼らは背負う。己が侵犯した、業の意味を。

 という和訳らしい。

 和訳はともかくノルド語読みはなかなかに長い。ただでさえ英単語を覚えるのも苦手だったが、幸い英語が混じったJポップを歌う練習ならギリギリ好きなので、似たような感覚で覚えるしかあるまい。

 《シンターゼ》の効果は、発動すると武器を装備していない手の平に直径1メートルほどの透明な風船じみた球体が発生し、30秒以内にその球体で触れた魔法を吸収、風船内に固縛(こばく)するといったもの。

 そして《リアーゼ》はその反射。なんと敵の放った魔法を、ダメージ量2倍、および射程補正のおまけつきで術者にお返しできてしまうのだ。

 道理で魔法を操る騎士でもあったはずのカーディンは、3種の《魔導書》を所持していながらどれも使ってこなかったわけである。その理由は明快で、俺が《エッケザックス》と2年間(つちか)ってきた自分の剣技を信じ、魔法戦を完全に排除したからだ。

 ちなみに、単に追尾魔法などを相殺したり撃ち落とすだけなら、《炎の妖精の加護(ディバイン・フレイム)》を初めとした、《~アクア》、《~ウィンド》、《~ガイア》といった4元素バージョンや、《迎撃魔弾(インターセプター)》など、――こちらはスペルこそ同一だが妖精ごとにライトエフェクトが異なる――ポピュラーなものがいくつか用意されている。

 しかし《リアーゼ》を使いこなせたとしたら、そのトリッキーな邀撃(ようげき)方と奇襲性はピカ一だろう。

 《シンターゼ》の成功からさらに30秒以内の制約付きで、かつ敵依存の弱点は無視できないが、戦術の引き出しを増やすためモノにしておくのも悪くない。対人だけでなく攻撃タイミングのわかりやすい大型Mobに対してもよく刺さる(・・・)だろう。

 2時間前にスプリガンチームがドロップした《重力渦旋(グラビテーション)》同様、幸運にもどちらとも闇属性魔法であり、《闇妖精(インプ)》の俺はスロット不足の問題さえ解消すればすぐにでも……、

 

「(……いや、《グラビテーション》の時とは違う。どうもこりゃあ、熟練度が足りてないパターンかな……?)」

 

 と思ったが、《闇属性魔法》スキルの熟練度問題もあった。装備不可という事実に、ウィンドウを眺めていた顔色が(くも)る。

 モノゴト何でも《暗中飛行(オプシディアン)》等の初期魔法を外してスロット数を稼げば解決するワケではない。

 分類上はそれなりの希少魔法なのだろう。こういった魔法ありきのアクションRPGでは特段珍しい話でもない。効果範囲、スペルワードの数、消費マナポイント、射程、命中率、即効性から持続性まで、多種多様な効力を持つ魔法が状況に合わせて使用されているのだ。

 そして種類が増えれば威力もレア度もピンキリになってくる。フィールド面積や脚本のボリュームに(ともな)って膨大な量を用意すればなおさら。

 つまり現段階での俺は、せっかく手に入れたこの高位の《魔導書》を発動可能状態にすらできないことになる。

 もちろんこうした事態は予想していた。

 というのも、SAOから引き継げていないパラメータで最も致命的なものが魔法関連だったからである。

 いくら伸び率の高い得意魔法とは言え、あくまで俺の《智力》の種族値は並み以下のD。もしこれが得意属性でない魔法の習得だったなら、いかなレア魔法だろうと活用はきっと諦めていただろう。

 初日から徹底しているが、当面は戦闘で手に入れたスキルポイントは、《魔導書》の空きスロット数拡張と《闇属性魔法》スキル強化に()てなくてはならないか。

 

「……んで、こいつが3つ目の報酬というわけだ。つか開くのか、このクソ重そうな門」

「知ってるだろうジェイド。システムが勝手に開錠する系のほとんど全ての門は、クエストクリアさえすれば敏捷値極振りのオレっちでも人差し指で押せば開くのサ!」

「こちらの世界では極振りとかもないですけどね」

 

 シリカの訂正をスルーし、凝った彫刻の施された木製大門を宣言通り人差し指で――おかげで雰囲気もへったくれもない――ゴゴゴゴ、とこじ開ける。片側は蝶番(ちょうつがい)の錆びを律儀に再現しているのかピクリともしなかったが、とにかく数歩進んだ時点で奥の空間から熱気の強い湿った空気が流れ込んできた。

 まず眼前に現れたのは石造りのいくつかの段差と、溢れるほど贅沢(ぜいたく)に源泉をかけ流す露天風呂だった。

 四方5メートルはある。岩をくりぬいた浴槽(よくそう)からは、地熱を帯びた湯が壊れた蛇口よりも勢いよく流れ出て、ほのかにヒノキが香る湯けむりの奥には、壺湯のような1人用の入浴スペースがある。壺湯は湾曲した木材で囲うことで形作られているが、リラックスさせる香りはここから発しているのだろう。

 これがカーディンの言っていた『秘湯』というやつか。

 空間そのものは長いところでも10メートルとないものの、着替え用なのか薄い仕切りに見立てた岩壁もデザインされ、最低限の(てい)はなしている。

 無論、男女分けされてもいなければ脱衣所とのはっきりとした境目もない。角度によっては湯船につかりながらでも見えてしまいそうなので、これで簡単なカーテンすら無しとは、若干ばかり開放的すぎる気もするが。

 そして、どこからともなく湧く源泉の先はシアター用スクリーンのように岩壁が取り除かれ、圧巻の景色が広がっていた。

 地面がずっと下に見え、広大な緑と豊かな自然が(はる)か遠くに感じる。

 のっぺらとした平面ではなく、大きく隆起(りゅうき)した大地がそこかしこで特色を見せ、また実際には存在しないだろう背の高い樹木も攅立(さんりゅう)し、片手の指では数えきれない大小の滝の付近には多彩な生物が生きついている。

 崩れかけた廃屋や水車、時代を感じる文明を元に設計された城塞や建造物。上流にある巨大な溜め池からは大量の水が川となって横断し、湖畔(こはん)には古びた村とわずかながらNPCらしき影が営む風景。

 その奥は湿地草原フィールドが広がり、ここにも大型モンスターの生態を一望できた。さらに、はだれ雪の山々を借景(しゃっけい)にした視線を南東にずらすと、今度は境目すら見えない澄んだ海峡(かいきょう)と幻想的な漁火(いさりび)が飛び込む。

 三日月湾の中心には瑞々しく色鮮やかな島と、大陸との往来を唯一可能にする大きな跳ね橋も見えた。奥には今にも賑やかな音楽が聞こえてきそうなエスニック調の街並みがあり、見張り塔らしき鐘楼(しょうろう)から狼煙(のろし)まで上がっている。あれが噂に聞く《水妖精(ウンディーネ)》領の首都なのだろう。

 美しい以外に形容しようがなかった。

 何より、この絶景を独り占めにする優越感がある。

 財宝をしこたま蓄えて思うままに人生を謳歌(おうか)したはずの『賊の王』とやらが、金で強力な傭兵を雇ってまで避暑地を守らせた理由がこれか。

 外からは丸見えだが標高が尋常ではなく、揚力を稼げない上空では妖精たちの(はね)も無意味なのだ。最近知ったのだが、いま俺達が根城にしているこの《虹の谷》もひと飛びとはいかず、冠雪(かんせつ)した山を上から翅任せで強引突破はできない仕様になっているらしい。

 ゆえに秘境への到達方は限られる。

 突っ立っているとスーパー寒いのがネックだったが、こと露店風呂に限っては寒い冬に入るのが真の醍醐味(だいごみ)だと主張している手前、この環境に文句もない。

 まあ、何にせよ風呂だ。清潔な湯で満たされた風呂がある。

 そして俺達はなんと、3日間風呂に入ってない。

 

「ジェイド! シリカちゃん! これはトンでもない穴場を見つけちまったんじゃないカ!? まるで高級ホテルの展望風呂みたいだヨ!」

「ほ……本当に夢みたいな景色ですね。こんなぜいたくな温泉があるなんて……」

「てか俺らの場合、フロどころか湖にダイブとかばっかだったしな。匂いがつかないからいいものの、さすがに体ぐらい洗いたかったぜ」

「エ、ジェイドってそんなところで律儀だったノ?」

「しっ、失礼な! これでもキレイ好きな方だよ! ……まったく。あ~高級ホテルとか旅館は泊まったことないけどな。脱衣所ってあんなスカスカなのか?」

 

 「んなワケないだロ」と冷静なご指摘を頂いてから、さっそく俺達は入浴の順番を決めようとした。

 しかし真昼の絶景を見ると感覚が狂いそうになるが、リアル時間では現在午後11時をとうに過ぎている。ここでシリカを後回しにするのは酷だろう。という結論から、まあここはゲームの中――ゆえに残り湯に男性を入れてしまうといった発想は薄れる――だし、と割り切ってレディファーストの運びとなった。

 さて、ここで問題が起きる。

 非常に繊細(せんさい)な、モラルの問題だ。

 

「じ、ジェイドさんは仕切り岩の後ろだと危ない気がします! ノゾいてきそうです!」

「ばッ!? 見ないっての! だいたい俺がヒスイのこと好きなのは知ってるだろう! シリカみたいなお子チャマは対象外なの!!」

「それはヒドいです!!」

「ええっ!? どっちだよっ! これ言うとアレだけど、なんならアルゴの中学生みたいな体型も圏外だぞ!」

「アアーーっ!? いまので怒っタ! モウ怒ったぞジェイド! オレっちだってなァ! お、オレっちだって……寄せればギリギリ谷間ぐらい……」

「アルゴさん、自分を苦しめてます! それ以上はやめましょうっ!! ……ジェイドさんも謝ってください。アルゴさん泣いちゃったじゃないですか!」

「ええい、んなモン普段のイジリで相殺だよ! ソーサイ!!」

 

 なんて具合にギャアギャアと騒ぎ立ててしまったが、ノゾキ対策にしても断崖(だんがい)()かる長い石橋の向こうまで40メートル近くも渡って待機させるのは(はばか)られたのか、2人からは木製大門に侵入する手前なら……という、寛大かつ有難い御達しを頂戴した。

 ちなみに動いた方の門も開けたら最後、押せども引けども動かなくなっている。閉められないわけだ。

 もう一方の門に隠れるようにするしかないが、壁を挟んだら当然風景など楽しめるはずもない。

 しかも熱波までしっかり遮断されるので、気温の下がり方が笑い話では済まされない気もするが、門の彫像(ちょうぞう)でも眺めて待っていろ、ということなのだろう。

 

「(ここ、解放したの俺なんだけどな……)」

 

 とは言え、彼女らの主張もわかるので俺は大人しく座って待つことにした。リザルトの整理と今後の対策でも考えるとしよう。

 確かに見えない花園(だついじょ)でシュウン、シュウン、と装備が解除され、薄着になるサウンドが聞こえる度に、よこしまな煩悩(ぼんのう)がほころんだ理性に付け込もうとしてくる。だが、俺は男の威厳を失わないようにかぶりを振ると、全力の心頭滅却態勢で追い払った。

 とそこで、座ったまま背中を預けていた門の反対側から、またもシリカの人を疑うような、あどけない声がした。

 

「ジェイドさん……ぜぇぇったい見ちゃダメですよ!」

「…………」

 

 いかにも年頃だ。こんなエリアを作成した以上は水着らしき衣装もデザインされているはずだが、現状は誰も手に入れていない。おそらくシリカ達は完全に下着姿だろう。

 しかしそこまで念を押されると、逆にノゾキの反応を見たくもなる。

 

「ハイハイ見ねぇっての。それよりあとがつかえてるんだ、さっさと入ってくれ」

 

 言うて、俺も年頃。どうしても生まれるエッティな妄想が誤魔化しきれなくなる前に、適当な返事を装ってシリカを追い返した。彼女もようやく疑いの目を晴らしてくれたのか、ゆっくり足音が遠ざかる。

 しかし、今度は別の足音が近づいてきた。

 猛烈に広がる嫌な予感。

 

「ネコ耳の女の子……」

「うっ……!?」

 

 そして見事予想が的中し、思わず顔が引きつってしまった。

 今度の声はアルゴのものだ。しかもこれは、『悪いコト』を企んでいる時の。

 片側だけ開いた門の端からあざとく顔だけを出し、火照った頬をバッチリ見られてから、彼女はわざとらしく大きな耳をピクピク揺らし、一向に目を合わせようとしない俺へ追い打ちをかけにきた。

 

「ふさふさの耳に、長いシッポ……」

「ぐ、バカな……なぜ、俺の……ッ!?」

 

 そう、俺が懸念(けねん)していたのはこれだ。

 もとより俺はヒスイで『ある程度』慣れている。詳しいところまでは割愛(かつあい)するが、コアなインドア派ゲーマーにしては場慣れしている自負があるだけに、普段の2人であればどうってことのない我慢だったはず。

 なにせ全年齢対象の本ゲーム内では、最大でもスポーツブラと生地の薄いホットパンツ姿までにしかなれないのだから。

 しかしこれは卑怯だろう。俺はSAOにダイブするずっと昔から擬人化娘の画像集めをするほどこれらのジャンルに目がなかったし、この世界のアバター再現度はそういった人種を釣ろうとしているようにしか見えない。彼女らの非の打ちどころのない擬人化は、もはや有名絵師の描く卑猥なイラストをも凌駕している。

 しかもあろうことか、その弱点にアルゴが気付いている。もっとも気づかれてはいけない敵に!

 

「そのザマで隠し通せるとデモ? オネーサン達には望んだものが付いてるぞ。……ムフフフ、人生最後のチャンスかもな! プライドを捨てるというのナラ、その願いチョットだけ叶えてやるのもやぶさかじゃないんだけどナ~」

「ぐぬぬぬ……よ、よぉーしいいだろう。俺はンなチャチい誘いにダマされないぜ? どうせなら賭けたっていい。俺が誘惑に負けたら、1日何でも言うこと聞いてやるさ」

「よしノッタ! オレっちが負けたら、そうだナ……非公開の秘密をお前サンにだけ特別に教えてやるヨ」

「ほほう……」

 

 珍しい、こいつは大きく出たものだ。

 思わず片側の口角が上がってしまう。

 前提としてアルゴは金の亡者である。大金でどういった暮らしをしていたかまでは知らないが、よく賭け事にも興じていたのは知っている。

 しかしだからこそ不自然だ。彼女は自分が不利になるような賭けは滅多に乗らないのである。

 にもかかわらず、今回のこれは明らかに勝負の行方を俺に(たく)している。いくらこの数日で相手の性癖(せいへき)を暴いたところで、俺の我慢次第ではあっけなく勝敗は決まるだろう。

 だがすでに勝った気でいるのか、彼女は鼻唄(はなうた)交じりに奥の浴槽に向かっていった。

 ――クックック。奴としたことが、俺のヒスイへの愛を甘く見たな。

 秘密を解放するというのなら望むところ。お言葉に甘え、存分に弱みを握ってやろうではないか。

 抵抗のつもりかパシャ、パシャ、とかけ湯をすると、地熱に暖められた湯船につかるなり「アア~肌に染みるナ~」やら、「耳まで潜ると気持ちいいナ~」やら、果てはシリカを不意打ちでくすぐってその幼い嬌声(きょうせい)を聞かせてくるといった暴挙にも出ていたが、そんな浅はかな作戦など無意味だ。

 無意味。そう、無意味ったら、無意味。

 

「(……まったく……呆れるわホント。それともアルゴの奴、自分のプロポーションに相当な自信を持ってんのかな……。……まあ、俺は胸より脚派だから、あいつらの体格はそっちの面でもヤバいな……てか声がやまないんだが。ヤメて欲しいんだが……)」

 

 耳を塞ごうにも、聞くだけなら禁止されていないし、可能な範囲でストレス発散しておかないともったいないよね、といった発想それそのものがしっかりとした遮音(しゃおん)を妨害する。

 見たい。セクシーな据え膳があるなら、男として味わいたい。

 門は高さ4メートルほどと大きく、腕力任せによじ登って上側から覗けば、彼女らの監視の目を一瞬すり抜けることもあるいは? なんて発想まで生まれてきやがった。

 だんだん心臓の鼓動がバクバクと速く打ち始める。

 2人の濡れそぼった細身の肢体がすぐ近くにあるという高揚と恐怖。とうとう都合のいいバンドゥビキニ+(なま)めかしいケモッ娘姿によるグルーミングまで幻視すると、「ああああああああああああああああっ!!!!」と心の中で叫んでから、《タイタン・キラー》のガード部分で何度も頭を殴打した。

 甲冑騎士も可哀想に。まさか自らを下した剣士に愛刀を盗られた挙句、こんな用途で初陣を飾られるとは。

 だが俺は負けず嫌いだ。賭けた以上、勝ちに行く。

 独りでドツボにハマっているだけのようにも思えるが、策士アルゴの手の平で遊ばれているかと思うと、微かに(にじ)んだ悔しさが抵抗した。

 

「(おおお思い出せ。俺には太陽系で1番可愛い彼女がいるだろう! こんなんじゃ悲しむぞ。あンないい娘を裏切るのか、このスカタン野郎ッ!!)」

 

 俺にとってナンバーワンはヒスイだ。だったらこの反応はいかがなものかと思わなくもないが、勘違いしないでほしい。これはあくまでケモッ娘補正であって、彼女らが持つ本来のポテンシャルではない。であれば当然、ヒスイが猫耳と尻尾を生やし裏声で「にゃあっ」とでも鳴けば、すぐに逆転するパワーバランスなのである。

 なんて言い訳しているが、現実は劣勢。

 鼻息を荒くしたまま戦利品にかじりつくと、先の戦闘でドロップしていた砥石を適当にオブジェクト化させ、新品同様の大剣を意味もなく研ぎ始める。

 まず必要なのは落ち着きだ。それさえ取り戻せば有利になるのは間違いない。

 なぜなら俺には人を(あざむ)く才能があるからだ。思えばクラスメイトにもよく言われていたものである。お前はバカだけど、初対面の人間にしばらくバカを悟らせないようにするのがウマい、と。

 持って生まれた才能なら、今こそまさに自分自身を(だま)す時。

 

「(こ、攻略のことでも考えよう。攻略っていうか、この世界からの脱出だ。集中しろ……よし、まずは紙類にでも書くか。頭のおかしい連中が人体実験をしている的なことをびっしり書いて、次に出くわした奴の目の前で捨てつつ抵抗しないで逃げるんだ。そうすれば、その奇怪な行動を怪しんだプレイヤーは俺達の言葉を紙越しに読んで、運営本社に一報を入れれば事件は無事解決……と)」

 

 うむ、無理がある。信じる信じない以前に、そんな七面倒なことを保証された報酬なしに率先してやってくれるほど、ゲーマーという人種は優しさに(あふ)れていない。だいたい本社への連絡先を知らないので紙にも記せない。

 それに反撃せずに逃げ回るとなると、生存率は一気に下がるだろう。やはり現実的ではないか。

 そこで萎える気持ちに追い打ちをかけるように、ビル風ならぬ断崖風が差し込んだ。

 おかげでオーバーヒート気味だった体温が消え失せてどうにか自我を取り戻したが、俺は《スイッチ》で割り込んできた眠気と寒気に震えながら上着の(えり)手繰(たぐ)り寄せる。

 

「(しっかし、こう標高が高いとマジで寒いな。風呂付きつっても、フィールドで完全非武装はちょいと勇気がいるしよォ。……安全地帯みたいだからモンスターは来ないとして、それでも入り口はボス倒した時点で解放されてるわけだし、谷底とか橋の向こう側は筒抜けだよな……)」

 

 一応警戒しておくに越したことはないだろう。いい景色と引き換えに無防備もいいところだ。何の気なしにフィールドを眺め続けているが、人間というのは古来より入口からしかやってこないとは限らないものである。

 単純な飛行のみでこの高度へ辿り着けないだけで、例えばクライム用の装備が市販されていた場合、それらのアイテムを駆使して外壁をよじ登ってくるなんてことも……、

 そこまで考えた瞬間。

 

「ウワァアアアアアアアアッ!?」

 

 という悲鳴が門の奥から響き渡った。アルゴのものだ。しかも騒々しく飛沫(しぶき)を上げるような水音が連続している。

 悲鳴はやまず、俺の脳内には最悪の事態が列挙された。

 まさか本当に敵プレイヤーが壁を登って? だとしたら完全な不意打ち、アルゴ達は丸腰。鉢合わせ直後に攻撃され、抵抗する間もなく、死んっ……、

 

「アルゴォっ!!」

 

 砥石を投げ捨てた俺は《タイタン・キラー》を構えたままリワードエリアへ突入した。

 敵妖精の種類はなんだ。近接タイプではないかもしれない。だとしたらスペル詠唱は終わっているのか。終わっているなら攻撃のタイプは、属性は……、

 しかし様々な対策を立てるのと裏腹に、露天風呂やその先にある広大な景色が俺の視界に入っても、敵はおろか小さな野生動物すらもいなかった。

 代わりに、岩に腰かけて腕と足を組んだまま満足げに笑うノーメイクのアルゴと、頭の上にある大きな猫耳を両手で隠すように伏せ、顔をゆでダコのように赤らめつつアゴ下まで浴槽につかるシリカだけがそこにいた。プルプル震えている。

 エッティな脇が見えそうだぞシリカ、なんて冗談を抜かす余裕もなく、まだ呑み込めずにいた俺からは「はい……?」と気の抜けるような声だけ漏れた。

 

「ぅぅ……見ないでって、言ったのに……ジェイドさんのバカ……」

「にゃーハッハッハッハッ、賭けはオレっちの勝ちだなジェイド!」

「なっ……お……おいクッソ、マジで言ってんのか!? カンベンしてくれこのビッチッ! ガチで心配したんだぞ! 今度やったら……に、2度と助けてやんねェからなこのアホー!!」

 

 負け惜しみだけ置いてすごすごと門の方へ歩きながらも、状況を完全に理解した俺は掛け値なしで開いた口がふさがらなかった。

 あの策士女め。

 よくシリカも黙っていたものだ。アルゴの奴は、

 

「ニャハハハ! ニャーハハハハハハハッ!!」

 

 なんて、タガが外れたように笑いこけているし、結局は俺の我慢強さなんて関係なかったのだろう。見方を変えるとは諸刃(もろは)の剣に近いかもしれないが、この女にとって俺なんてゴボウか何かに見えるのかもしれない。

 

「(やれやれ……いったいどんな命令されるのやら……)」

 

 今から気が重くなるが、しかし俺の本音は現金だった。

 期せずして花園に侵入を果たした数秒間で、とんでもなくデンジャラスな映像が目に焼き付いてしまったからだ。

 シリカはほとんど湯に埋もれていたがしぐさそのものが可愛かったし、アルゴに至っては勝ち誇ったように堂々と入り口付近の岩に座っていたため、局部のみ隠れたスレンダーな全身、圧倒的な肌色が見えてしまった。

 見えてしまったのである。

 勝負に負けたはずが、違う意味で大勝利したような……。

 しかしこれは大変だ。邪推しないでいただきたいのだが、俺は決して下心ありきで助けに向かったのではない。わずかな可能性ではあったものの、本当に敵の侵入を危惧し、浴場での戦闘を覚悟していた。

 ――欲情だけに。

 黙れ、俺。

 しかし、だとしても1つの事実を否定しきれなかった。

 

 俺はいま、とても幸せなのではないか、と。

 

 そこまで考え、乱暴に髪をかくと俺は全力で否定した。

 いやいやまさか。バカなことを言ってはいけない。金髪翠眼の小娘が鼻につくドヤ顔で座っていただけではないか。それにそんな、今まで事務的な話しかしてこなかった、言ってしまえばニアイコール他人な存在に性的な感情を(いだ)くなんてそんな、思春期思考が盛んな荒唐無稽(こうとうむけい)のご都合妄想じゃあるまいし、若さゆえの過ち的なまさかが起こるはずもなかろうて、とは断言しきれないこともないこともないが……、

 

「ジェイド」

「うわぁあいっ!?」

 

 真後ろからのアルゴの呼びかけに、絶賛深読み中だった俺はリアルに内臓が飛び出るほど驚くと、両手を万歳ポーズにしてしまった。先ほどのは声に出ていなかっただろうか。

 からかうのもいい加減にしてほしいものだ。こっちは恥ずかしさで顔も合わせられないというのに。

 しかもまだ半裸なのか、彼女は門から顔しか出していない。

 

「ん、んだよ……賭けは俺の負けでいいって……」

「イヤ、せっかくだし感想を聞こうと思ってナ。ムッフッフ、どーだったかネ、オネーサンのカ・ラ・ダ・ハ」

「ええいっ、失せろバイタが!」

 

 振り向きざまにペイントボールを投げつけたが、軽やかに回避すると「ニャーハッハッハッハ」と高笑いして去っていった。完全に深夜のテンションである。

 本当に何なのだ、コイツの大胆さは。連日続けて長時間行動を共にするようになったこの2年で初めての経験だったが、よもやあの有名なソロの情報屋がここまであけすけな性格だとは思わなかった。

 あと、俺とシリカが話している時に、聞かないフリをしつつ物陰に隠れてこっそり会話を盗み聞こうとする昔の悪いクセを早く直してほしい。

 日々の暮らしに問題がありすぎて、勝手に口からため息が出てしまう。

 

「(はぁ~、調子狂うよホント。カズ達がいねえからかな。そういやあいつら、今はどうしてるんだろう。無事に帰れてりゃいいけど……)」

 

 ギルドのことを思い出すとまた憂鬱(ゆううつ)になる。

 不覚にも、この世界に転移した翌晩には、会えない寂しさと孤独感で涙も溢れた。彼らが本当に釈放され、かつての暮らしを取り戻せたのか確信できなかったからでもある。情けない姿は見せたくなかったので、彼女達が寝静まった後でよかったものだ。

 もうあの日常に戻れない非道な現実が、みんなと苦楽を分かち合えないだけでここまで身体的に辛くなるとは思わなかった。これが失って初めてわかる大切さというやつだろうか。

 

「(でも……もし帰れていたとしても、まだ動けないか。床ずれだっけ、そういうのもキツいだろうし……あ、あと筋肉もほぼなくなってるよなぁ。リハビリのこと考えると俺達なんて探してる場合じゃないカモだし、その辺はもう期待しない方がよさそうだ……)」

 

 希望を持っていたからこそ、この3日間でもしやと思うこともあった。

 どこか別々の場所に留置させられたプレイヤーが、それぞれの方法で牢を脱出し、フィールドで再開できないものかと。もしくは違法行為の実態を知りえたまま現実に復帰した者がいるのではないかと。なにせ、俺は初日の戦いのさなかに別所で捕らわれていたアスナらしき人物の姿を目視していたのだから。

 しかし3日間で音沙汰なし。アルゴなんてアスナの件をどこか半信半疑に聞いていたらしいが、確かにこうなると望みは薄いだろう。

 例の科学者達の会話を思い起こすと、おそらくあの場にいたプレイヤーが拉致、および監禁者の全てだったのだ。

 そして同時に、自由の身になれたのも3人で全て。

 あとどれだけ生き残れるのかもわからない。いわんや生き残れたとして、俺達の現状を現実世界の誰かに伝えられないのなら意味はない。だからこそ俺は寝る間も惜しんで、まずは生存率だけでも上げようと躍起(やっき)になっているわけだ。

 今度こそ黙りこくったままインベントリの整理をしていると、10分ほどしてからアルゴとシリカが着替えを済ませて戻ってきた。

 入れ替わりでまた茶々を入れられたが、なるべく反応しないように岩場まで来る。SAOの経験上、ウィンドウに収納すると怖いので大剣だけは近くの壁に立てかけ、とりあえず脱衣所らしき空間で順に武装解除していった。

 あっという間にボクサーパンツ一丁の姿へ。気持ち丈が長い気もするが、そんなことより筋肉の欠片もない微躯(びく)に嫌気がさす。

 しかし華麗(かれい)に見なかったことにすると、とりあえず信じられないほど寒かったのでかけ湯もすっ飛ばして風呂に浸かった。

 総体積の変化で溢れた湯が岩の端からザパッ、と流れ出る。

 全身を充分に浸漬(しんし)させると、液体に設定されたテンパルチャ・エンジンがアバターを暖かく包み込み、俺は3日ぶりとなる癒しの快楽を味わった。

 しかも驚いたことに、消耗品の節約のためとわずかに減少していたHP、MPを放置していた俺だったが、湯に入った時点でそれらが全快してしまったのだ。説明こそなかったがそういう効能なのだろう。

 体内に取り入れても有効なら、水筒に入れてあとで飲もうか。なんて迷いもあったが、彼女らに死ぬほど引かれそう……を通り越して、2度と口をきいてもらえなくなる上に、社会的に死にそうなのでやめておいた。

 お湯自体は少し熱いぐらいだが、環境の寒さによって中和されたぬくもりが全身に浸透し、初めて装備を解いて得た文句なしの解放感に酔う。

 おまけに大画面の絶景付きときているのだ。

 この3日間の冒険の途中では、活火山の頂上に手すりなしのパイプ製の足場を乱暴に設置しただけの、《アルカントラ展望台》なんて絶景スポットもあった。だが、ここには見て楽しむためだけのあれらと比較できない付加価値がある。

 

「(うっは~、サイコーだなぁおい。……このまま寝ちまいそう。まさかプレイヤーに10連勝もしといて、死因ができ死はカンベン願いたいもんだけど……)」

 

 なんてことを思いつつ、ザパッと肩に湯をかけ思わず目をつぶっていた。

 そのまま四肢を脱力させると心地いい睡魔が手招きしてくる。

 どれくらいそうしていたかはわからないが、しかし本当に寝てしまうわけにもいかなかったので、俺はひとしきり露天風呂と景色を堪能(たんのう)すると、数分と待たず完全武装状態に戻った。

 ちなみに下着は濡れたままにしておくと股下に無視できない不快感が襲ってくるが、実はフィールド環境が雨などでない場所で私服を何度か着脱すれば、水濡れエフェクトをすぐに取り除けてしまうのだ。

 風情(ふぜい)も何もあったものではないが、下着1枚程度ならこの方が手っ取り早い。

 

「2人とも、もう入ってきていいぞ~」

 

 という声に反応すると、他愛ない雑談をしていた2人はすぐに暖かい空間に戻ってきて、仲良く冷えた手だけをまた温めていた。

 風が吹いても門の内側ならある程度遮られるため、今日の寝床はどうもここで決まりのようだ。適温の地熱もあることだし。

 

「今日は日付けが変わる前に安全地帯を見つけられてよかったですね。しかもココがかくしルートなら、人もそんなに来ないと思いますし」

「フィールドで経営される宿屋があればいいんだケド……マ、ゼータクは言えないサ。とにかくずっと同じ場所でアンブッシュしてると特定のパーティに狙われちまうカラ、明日も移動し続けるしかないだろウ」

「つっても逃げるのはもう慣れてきたところだし、そろそろ死なない程度に反撃してみるとするか。……あのクソッたれの科学者共にさ」

 

 俺は風呂の時間中考えついた案をとりあえず挙げ、手順や決行日を明日以降に話し合うことにして、その日はもう寝ることにした。

 

 

 

 それから2時間半。

 リアル時間で深夜2時。ほとんど麻痺(まひ)してきた脳を叱咤(しった)し、俺はなおも夕日が地平に消えかけた(よい)の空を飛び回っていた。

 しかも飛び回るだけではない。同時に鋼鉄の大剣を振り、古代ノルド語の勉強もしているところである。

 ぽたぽたと滴る汗を紺のグローブで拭うと、詠唱途中の魔法をファンブルさせながら一息つく。

 そう、自分で勝手につけた名だが、俺は『手無し運転』の練習をしていたのだ。

 このシステム外スキルは極めようとするほど奥深さに驚嘆(きょうたん)する。

 肩から肩甲骨に広く伸びる筋と背筋をうまくコントロールすることで、補助コントローラ使用時よりも幅広い飛行性と推進力が得られる技術。なんて聞くと簡単なプロセスにみえるが、空中戦(エアレイド)をするとなるとその難易度は跳ね上がる。

 というのも、実際に飛びながら剣を振ろうとすると、どうしても肩から背にかけて余計な筋肉に力がかかってしまうからだ。これでは剣を振った瞬間に意図しない推力が生まれヒットポイントがずれてしまう。

 特に重い両手用武器となるとその使い辛さは他と比べるべくもなく、ゆえに片手が封じられるのを防ぐために『手無し運転』の完全マスターはほぼ必須となっている。

 代わりにこれらの両手武器は、攻撃力とは別にヒット時の衝撃や《怯ませ値》といったポイントが桁違いに高く設定されている。スティックありきの初心者からしたら納得のバランスかもしれない。

 その点、背中に力を入れる必要がないことを考えると、一般人の大半が空戦・陸戦に難度の変化がない魔法に頼りきりになるのも必然だったわけだ。味方へ確実に貢献できる数少ない手段の1つである。

 しかしこれはある意味好機。

 俺は2年以上も前から両手剣使いだったし、おかげでそれらの扱いに多少の自信もある。ということは、手無しさえマスターしてしまえば、それだけで高く設定されたスペックが戦力に上乗せされることになるからだ。

 だからこそ、こうして穏やかな丘陵(きゅうりょう)を眼下に、深夜にブツブツと意味不明な言語を唱えながら、見えない敵に大剣を振り回しているわけである。

 ――決してアブない人ではないゾ。

 

「寝床にいないと思ったラ……」

「うおっ、なんだアルゴか!?」

 

 突然後ろから声をかけられて驚いてしまったが、振り向くとアルゴが厚着のまま翅を広げて滞空していた。

 ビックラこいてしまったが、未だ彼女の姿に見慣れないのもそのはず。今はチャームポイントの6本ヒゲがないのである。あと超絶可愛い猫耳がある。

 ちなみに俺達のいる高度は露店風呂のあった位置より相当低い。日光が差し込むかの場所では問題なく揚力を回復できたので、そのまま外壁より段差を利用してジャンプ混じりに翅が使える高度まで下ってきたのだ。寝相が悪すぎて崖から滑落(かつらく)したのでなければ、こちらの元《鼠》さんも同じようにして下ったのだろう。

 だがどういうわけか彼女もすでに汗だくで、俺が納刀しても彼女はバツが悪そうにしながら近づいてきた。

 

「……スペルと飛行、それに剣の同時練習カ……。ホントに精が出るナ。いつも眠そうにしてたケド、お前さん毎晩こんなことしてたのカ……?」

「あ~そういうこと。まあ……そうだな、欠かさずしてる。けどこのことで気負うなよ? 俺が勝手にやってることだ。おっと、マナは消費してないから安心してくれ。最後の一句は発音しないようにしてわざとチャンファさせてるんだよ。今日に限ってはさっきのフロ入り直せば済む話だけど……おいアルゴ、聞いてる?」

「えっ? ああイヤ……チョット感心してサ……」

「……そっか。まあ、長期的に戦っていくなら、ジョバンで無理してでもこの辺の基礎はマスターしといた方が効率いいだろうと思って。……ほら、その方が2人も……しっかり守れるしさ」

「うん……」

 

 なぜだろうか。てっきり歯の浮くようなセリフとキザな動機をなじってくるとばかり思ったが、顔を真っ赤にしたアルゴは殊勝(しゅしょう)な態度のままだった。

 俺に負荷を集中させた罪悪感と思っていたのだがどうも違うようだ。

 しかし、微妙な静寂(せいじゃく)が気まずくなってきた俺はあえて話を()らした。

 

「それよりどうした、こんな夜遅くに。俺が起こしちまったわけじゃないよな。アルゴも自主練か?」

「んんっ……イヤ、ちょいと寝付けなくテ。フードとヒゲがないからカモ。……そうだ、そういえばスプリガンを倒した時に塗料がドロップしたらしいナ? いい加減落ち着かないと思っていたんダ、プレイヤーにペイントできるタイプだったらオレっちにくれヨ」

「え~ない方がいいぞ……って、いつもなら言うところだけど、そのカッコだと逆にヒゲがないと違和感だな」

「ないと痛いヒトになっちゃうしナ!」

「いや普段『ニャア』とか言ってるし、アルゴは十分イタい奴だと思うぜ!」

「なにおーウ!!」

「あっはははは」

 

 そんな、屈託(くったく)のない笑みと雑談にどこか安心したのか、つられて大きな眠気まで襲ってきた。

 

「くぁ……ぁ……ふぁ。しかしさすがにねみ~」

「なら本気でそろそろ寝た方がいいゾ。明日だってプレイヤーがログインしてくる前には起きたいだろウ? ほら、こっちダ」

 

 翅をゆっくり動かして数秒ホバリングすると、俺とアルゴは適当な足場を見つけて着地した。難度が高いとされる着地も、3日半ひたすら繰り返していればコツも掴めるというものだ。ただでさえアバターの操作は一流なので、半分寝ながらでもできてしまう。

 しかしあまりの疲労からか、俺はものの数秒も立っていられなかった。

 しかも平たい岩を背もたれにどっかり座ってインベントリ上で作業していると、俺が動けないと見るや彼女は隣に密着してチョコンと座ってきたのだ。

 一瞬だけ跳ねた動悸(どうき)を悟られぬよう、なるべく平然と返す。

 

「……俺じゃなかったらアブねぇぞ。カン違い起こすかも」

「勘違イ~?」

「ああそう、カン違いだ。こいつ俺にホレてんのか!? ってね」

 

 プフッ、と(こら)え切れずに笑っているあたり(あなど)れない女である。

 

「ほいよ、《タッカー製の変色塗料》。人にも使えるんだと……うわ、ちゃんと12色あったけどこいつはメンドーだぞ。日光を浴びると樹脂かナンかが反応して色が変わるらしい」

「ン~じゃあオレンジはあるカ?」

「変化後前提なら……ほらこれ、濃い緑のやつだ」

「オ、サンキュー……と言いたいところだケド、せっかくだしソレ、ジェイドがオネーサンにペイントしてくれヨ」

「はァ!? い、いやだよ自分でやれって……ッ」

「にゃはははっ、まだまだ甘いネ。そんなに照れなくてもいいのニ。それにホラ、ここじゃあ鏡もないだろウ? ンンっ?」

「クッ……まったく勝手な奴。じゃあさっさと済ませるぞ」

「んっ……」

「……おい、動くの俺かよ」

 

 座ったまま目をつぶっていやがる。

 俺は動く気配のないアルゴに代わって態勢を変えると、彼女の目の前を陣取った。

 いざ正面を向いて整った小顔を直視するのは気恥ずかしかったが、どうにか深呼吸するとオブジェクト化させた円筒形の小物入れから、今度はクリーム状のワックスじみたものを指ですくう。もちろんグローブや籠手はあらかじめ外している。

 塗料は予想より冷たかった。流動性はほとんどなく、粘り気のある特定樹脂の含有率(がんゆうりつ)が高い、という説明欄のそれは、フォーマットを張り付けただけでなくきちんと正しいようだ。

 だが問題は、それを彼女の顔に塗るといった行為をいかがわしいものと本能が直感してしまったことだろう。

 その最たる原因は、つい数刻ほど前に見てしまった例の肌色だ。

 透明な雫と上気した肌でデコレーションされた生唾ものの極上のケモッ娘――という表現には自分でも引くが――2人は、否が応でも脳裏にピンク色のアレやコレやを浮かべてくる。

 おかげで睡眠欲もたじろぎ、まともに目が合わせられなかった。

 

「なんか遠いゾ、ジェイドさんヤ」

「あ、アルゴが足を伸ばすからだろう……」

「オイオイ、まさかオレっちの顔を見ずに塗る気なのカ? 剣がないと意外とチキンだったんだナ。イヤ、意外でもないのかナ? ムフフフッ」

 

 その言われようにはさしもの俺もカチンときて、彼女の瞳をまっすぐ射貫(いぬ)きながらキスができそうなぐらい顔を近づけてやった。

 「エゥっ!?」とヘンな声が出てビクついたのを見ると、この行動まで読んだ冷やかしではなかったようだ。気を抜くと真珠のようにキレイな碧眼に吸い込まれそうだったが、彼女の慌てた様子から得たわずかな満足感でごまかす。

 とはいえ、俺は四つん()いでの前傾姿勢で、アルゴはこわばったまま伸びた背筋を壁に貼り付ける背水の陣。至近で見つめ合い顔を染めながらも、引くに引けないので互いに続行するより他なかった。

 

「ほら……塗るから髪持ち上げろ」

「ち、チョッと待っテ。心の準備ガ……」

「大丈夫だって、2年も見てたんだぜ。だいたい覚えてるから」

「ヤ……そういう意味じゃア……」

 

 ごそごそと細かく動いて抵抗するアルゴに(わずら)わしくなった俺は、とうとう彼女の着る長袖装備の裾を(ひざ)で踏み押さえ、空いた手で勝手に髪をかき分けると、あらわになった頬に樹脂液を塗り始めた。

 すると「ひゃうっ!」という、わざとらしい嬌声を上げてきやがった。

 その不意打ちに心臓が飛び出そうになる俺。

 

「なんっ、つぅ……こえ……だすんだよ……ッ」

「だ、だってソレ、思ったより冷たくテ……」

「いいから声出すなよ。その……集中できねぇ」

「うん……」

 

 いきなり早鐘のように打ち始めた心拍に()かされるように、次の液体をすくい上げた。

 今度は躊躇(ためら)わずに塗りたくる。

 指先から柔らかな弾力が返ってくると、どうやっても上がるテンションを死ぬ気で押さえながら慎重になぞっていった。

 しかし女の肌というのはなぜこんなにもハリがあるのだろうか。すべすべで、触り心地が良くて、とても甘い香りがする。やましいことは何もしていないのに、頭に(もや)がかかったようにくらくらしてくるのだ。

 アルゴは俺がペイントしている間、口を手で押さえて必死に声を殺し、目を固くつぶり、頭にある大きな耳をしきりにパタパタさせていた。

 かといってそれ以上後ろに下がることもできず、結局は観念するしかない。細かい痙攣(けいれん)も、漏れそうになる吐息も、しぐさ1つ1つが煽情的(せんじょうてき)でふとした弾みで間違い(・・・)が起こってしまいそうだった。

 

「ァノ……ジェイド、なんカ……オレっち……ッ」

「(今日のアルゴ……スゲー可愛い……)」

 

 指を()わせるたびに、面白いぐらい反応が返ってくる。

 アルゴも緊張してくれているのだろうか。もし俺に対して気を張っているというなら、それはいったいどれ程だろうか。足や股が服越しに接触しても(おこ)りもしない。こんなシチュエーションで接近することはもうないだろう。セクハラ覚悟でそのモダンな服の上に手のひらを押し付けて、彼女の鼓動(こどう)をはっきり確かめたくなる。

 甘ったるい吐息と頬を紅潮させる彼女に、いつしかくぎ付けになっていて……その気持ちを確かめたいという黒い欲求が湧きたつ。

 それを満たそうと、体が制御を外れた瞬間だった。

 

「……あの~」

『っ――ッェ~!・~っ!?』

 

 背後から届いた声に言葉にならない悲鳴をあげて、剣やポーチをガシャコーン、と蹴飛ばしながら、俺とアルゴは超特急で互いに距離を取った。

 声はシリカだ。振り向くと、手で壁にもたれかかったまま、軽装の彼女は眉をハの字に曲げてこちらを見ている。

 しかしいつ接近した。見られたのだろうか、それとも聞かれただけだろうか。だとしたらいつからだ? ずっとか!?

 なんて思考を一瞬で済ませ、どうにか小さき乱入者の方へ体を向けた。

 

「よ……よお、シリカ。その……よい子は寝る時間……だぜ?」

 

 なんじゃそりゃ。と自分でツッコミを入れるも、続けようとした弁解をする前にシリカが割り込んだ。

 

「寝る時間……そうですね。わたしはグーゼンお湯の音で起こされましたけど、お2人がいなくなってて本当に心細かったんですよ……?」

「うっ、それはマジで悪かった」

「でも、いざ必死になって探してみると、お2人は岩カゲに隠れて抱き合っていました。じゃあ聞きます。2人は……ここでなにを?」

「抱き合ってねェし。その……ナニってそりゃあ……なあアルゴ? ほらコレだよ、コレ! ねずみのアルゴつったら6本ヒゲだろうっ? 塗料が手に入ったモンだから、ほら……」

 

 俺は顔面とワキに汗をびっしょりかきながら、ゼンマイ仕掛けのオモチャのように円筒形の小物入れを指さして言った。

 シリカの疑いの色しか灯さない暗い視線がゆっくりと右手の方に移り、そのままアルゴのふにゃっとした表情を見て、そして何の変化もなく俺の顔の方へ戻ってくる。それはもう、若干中学生ぐらいの年齢の女性がしていい表情ではなかった。

 

「よくわかりました。ウワキですね」

「ち、違うっつのシリカ! 信じてくれ! だいたい俺はさっきまで夜の特訓をしてただけでだなァ……おい、アルゴもなんか言ってやれよッ」

「そっ、そうだゾ、シリカちゃん! これはオレっちが頼んだんダ。か、鏡がないからネ! ネコの手でも借りたいと思っていたところデ……あ、ネコはオレっちか!」

「やかましいわ!」

 

 しかし俺とアルゴの即興茶番に反応はない。

 どころか、どんどん目からハイライトが失われつつある。あとちょっとで病む。

 

「夜の特訓……アルゴさんからの頼み……ふぅん。これでも、わたしが心配しているようなコトは一切ないと?」

「あ、ああっ、もちろんだ! 俺は人生でウソをついたことがねぇ!」

「早速つきましたね。じゃあヒスイお姉さんに言いつけますけど、イイですね?」

「うぐぅッ!? そ、それは……どうか!!」

「『どうか』じゃないですよっ、やっぱり後ろめたいコトしてたんじゃないですか! このヘンタイ! 女の敵!!」

「ジェイドは黙ってテ! シリカちゃんは勘違いしてるんダ! これには深いワケがあってだなア……!!」

 

 やれやれ結局ひと悶着だ。3日でこれでは、先が思いやられるというものである。

 そんなこんなで(にぎ)やかな夜になってしまったが、俺とアルゴはシリカの誤解を解くのに優に半刻も費やしてから、ようやくその日も浅い眠りにつくのだった。

 

 

 

 


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