SAOエクストラストーリー   作:ZHE

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第117話 アダムとイヴ

 西暦2025年1月20日 環状山脈西、ふもとの境界。

 

 いつ以来だっただろうか、こんなにゆっくり寝られたのは。

 まどろむ意識のかなかでまぶたを持ち上げる。最初に目に入ったのは布の天幕。そしてその質素な布の向こうが、樹木の生い茂る森フィールドであることまで確認できた。

 日差しが感じられずやけに暗いが、リアルタイマーが示す時間はAM9:30。本日のALO時間に換算しても午前5時地点を回っているはずで、朝日が昇っていてもおかしくない。……という疑問は、木々の枝を利用して張られた簡易天幕の材質を見破ることによって自己解決した。

 陽の光を遮るアイテムの正体。聖樹に宿る深緑の葉と瑞々(みずみず)しいツタで編まれた《隠れ蓑の長布》と呼ばれるテントもどきで、外から見るとビックリするほど背景に溶け込めるウッドランドパターンの迷彩である。もちろん風雨もしのげる。

 これに囲まれた俺達は、モンスターはおろかプレイヤーにすら視認されにくくなる。ただし、耐久値に関わらず効果が持続するのは半日だけで、こちらも外の状況を把握し辛くなるデメリット付きだが。

 何にせよ、外に出ればすでにご光来は拝めるようだ。

 しかし、まあ……、

 

「(生きてんなぁ~、俺。……運がいいのか悪いのか……)」

 

 去年の11月7日、テンポラリエリアからアインクラッドの崩壊を眺めながら、かの茅場晶彦は6000人以上の生存者がいることを示した。となると、その日その場で300人の抽選を引けた(・・・)段階で俺達は非常に運が悪いわけだが。

 しかしそんなことを考えていると、布の()れるような音で隣にもプレイヤーが寝ていることに気づいた。

 それは俺をここまでせっせと運び、安全を確保してくれただろう人物。

 介抱されるのはこれで2度目。猫妖精(ケットシー)を拝命し、その広い視野と判断力でこれまで幾度となく仲間をサポートしてきた小さな勇者だった。

 《鼠のアルゴ》なんて辛気臭い2つ名がついていたとは思えない、天使のような――猫耳補正アリ――寝顔である。寝間着ではなく戦闘服なところがマイナスポイントなものの、俺と同様おなかに安っぽいブランケットがかかっているだけだ。大きな耳やスレンダーな脚が極めて無防備だが、俺がイヤらしい眼でガン見しても起きる気配はない。

 ……まったく。《体感温度精度》を最低にしているとはいえ、俊敏性に重きを置いた彼女のプレグリーンな衣装と、それゆえ露出を抑える数少ない布面積のタイツはただでさえキワド過ぎるのだ。これが『イエス』サインだと勘違いを起こす健全なティーンがいたとして、誰がそれを咎められようか。否、神にすらその権利はない。

 

「(くっ……ネコはせけーだろ、ネコは……)」

 

 擬人化の寝顔ほど尊いものはない。

 愛しのヒスイにチョコッとだけマジに懺悔(ざんげ)しつつ、胸から沸き立つドス黒い嗜虐心にほだされた俺は、自衛意識が足りていないイケナイ娘に対しオシオキを敢行することにした。

 

「お~い、アルゴ。起きてる……?」

 

 ちょん、ちょん、と肩をつつき、とりあえず小声で。

 反応なし。よしよし、まずは順調だ。

 俺は上半身をもっと起こすと、さらにささやきかけた。

 

「起きないとイタズラしちゃうぞー。あとで文句言っても遅いぞ~」

 

 ニアイコール変態のごとくすり寄ると、俺は目一杯顔を近づけた。気配を感じたのか影でも差したのか、彼女のまぶたがピクリと動く。

 しかしそんなことはお構いなしに、俺はほとんど口元をくっつけるほどの距離で、いきなり音量を上げて猫耳に叫んでやった。

 

「キスするぞ!!」

「わにゃぁぁあああああああああアアッ!?」

 

 ガマンの限界に達したのか、アルゴは真っ赤になりながら耳を抑えて飛びずさった。

 しかし、あっけらかんと「なんだ、やっぱ起きてんじゃん」なんて言うと、駆け引きに負けたアルゴはほっぺと心臓を手で隠しながら泳いだ目で答えた。

 

「な、ナっ、どうやっテ……オレっちハ……!!」

「んだよ気づいてなかったのか。シッポがちょいちょい動いてたぜ」

「ンナぁ……ッ!?」

 

 意味もなく今さら尻尾を抱き寄せるアルゴ。その愛くるしいしぐさに、不覚にも今度は俺の体温も上がってきたが、誤魔化すようにひとしきり笑っておいた。

 そして照れるアルゴに一連のセクハラを詫びつつも、この1週間の経緯を噛み砕いて説明してやった。この時だけはお互いに茶々を入れ合うこともなく、彼女達の道程についても俺は黙って聞いていた。

 共に苦労は絶えなかったようだ。《隠れ蓑の長布》を使用しているとはいえ、こうして俺達が半日もプレイヤーに見つからなかったのも僥倖である。アルゴも復調しているようだし、きっと最低限の睡眠はとっていたに違いない。

 もし無防備な状態で発見されていたら……。ただでさえ勝手に先制デバフ魔法が発動してしまう上に、ましてや相手が無抵抗のカモなら真っ先に略奪に来たことだろう。

 

「そっカ……アーちゃんのスクショはきちんと広まっていたんだナ。あとは……時間なんだケド」

「ああ。もう約束の1週間は過ぎた。次の定期メンテまで2日もない。……ワリと期待してたつもりだったけど、見事に音サタなし、っと。……あ~、さすがにアレだけじゃ話題にもならなかったか。くやしいけど、もう打つ手はないぜ……」

 

 フィールドが荒れる日曜日を通り過ぎたということもあるが、木々の隙間から刺し込む木漏れ日を浴びながら、2人して実に呑気なものだった。今この瞬間にも死角から狙われているかもしれないのに、まるで世界に俺達しかいないかのような錯覚を覚える。

 もっとも、人間諦めがつくとこんなものなのかもしれない。

 むしろ今までが過剰だったのだ。別に誰もかれもが脱走者を狙っているわけではない。だのに、『残機が1しかない』ばかりに、どこかこの妖精界を物騒に捉えすぎていた。現にこの2ヵ月で何組ものパーティとすれ違っては、互いに手を振り合うだけで干渉しないまま通り過ぎてきたことが幾度となくあった。

 どのみち、現時点で頼れる仲間もほとんどを失っている。今さら泣いても後の祭りだし、2人にまで減ってから何週間と持たせるのは難しいだろう。

 となれば、あとは限られた時間をどう使うか。

 そしてどうやら、彼女も考えることは同じだったようだ。

 

「終わったナ。何もかも……でも清々しいヨ。十分戦ったんだからサ。もしかしたら、オレっちにとってこの2ヵ月は、アインクラッドにいたころより濃密だったのかもしれなイ」

「そいつはよかった。……俺にとってもデカかったよ。なんかな……また人間として色々アガった気がする!」

「ムフフ、てきと〜」

「いやマジだって。みんなと過ごせて楽しかったし、ほら……ガマンを覚えたし! たとえ……全部忘れちまうんだとしても」

「ナハハ、オレっちの方がよっぽどか感謝してるヨ。いつの間にかこっちが学ばされたぐらいダ。実験のことなんてもういいカラ、この思い出だけはイジられたくないもんだナァ……」

「それ言えてる。次リンドに会っても話が合わないとかキツいっつーの……あ、そん時は俺の方も忘れてるのか……」

 

 終わりが近づいたことで、長いようで短かった2ヵ月の逃亡生活が克明によみがえる。

 しかし、思いついた限りネガティブ思考の共有を済ませたところで、俺はなるべくテンションを変えて建設的な話題を振った。

 

「なぁアルゴ。そのヘンのことは置いといてさ、せっかくだしアルヴヘイムをマンキツしようぜ! 人目につく、とかもムシ! 今までさけてきた絶景スポットとか観光してよ。んで、ウザかったこととか忘れるまで遊ぼう!」

「ぷフッ……完全に壊れたナ。でもいいのカ? 観光地なんて行って、デート中のカップルと戦闘になってモ」

「ハッ、そんときゃそんときよ。だいたい2対2(にーにー)なら俺らで勝てるっしょ! もうパーっと行こう、パーっと!!」

 

 俺は手の反動だけで立ち上がり防具の汚れを払うと、座ったまま苦笑いしていたアルゴに手を差し伸べた。

 

「さ、行こうぜアルゴ! 期間限定だけど、俺らだけの『思い出作り』だ!」

 

 2年前に比べ、俺はずいぶん前向きになれた。アルゴはそのきっかけをくれた恩人の1人である。

 そんな彼女にしてやれる、最初で最後のサシの恩返しのために。

 

 

 

   ◇   ◇   ◇

 

 

 

 そこからはもう、ほとんど興味がてらログインしている一般のプレイヤーだった。

 徒歩とわずかな翅を使って気になったエリアを練り歩き、その地方にしか棲息しない環境生物とたわむれたり、ファンタジーならではの絶景を思うままに写真に収めたり。

 意外だったのが非戦闘区画、いわゆる遊歩道(プロムナード)の充実具合で、今までは生存生活に関係のない要素を気にしないようにしていたが、モンスター生態の作り込みも舌を巻く出来だった。うまく誘導なりすれば大型MoBとの戦闘に利用できたらしい。こういった隠し要素は、手探りで試行錯誤をするより現実に戻ってネットで調べた方が100倍速いのだろうが。

 もちろん気ままな旅をする中でPK狙いのパーティはチラホラ見かけたが、アルゴが先に見つけては全力疾走or温存しておいた翅を解放して逃走を繰り返していたので、初動で距離を作れれば小回りの利く俺達に追いつける者は皆無だった。

 もっとも、緊急時以外で翅の使用を縛ると足の速いモンスターとの遭遇戦は物理的に不可避で、消耗品のストックは初日でだいぶ減らされてしまっている。

 しかしそうこう遊んでいると、不思議なことに時間とは早く過ぎるものである。

 物資の調達もせずに遊び通しているといつの間にか日も沈み、辺りはだんだん闇が深くなっていった。

 リアルでは18時頃を回ったところだが、1月20日現在、時刻はALO内でもほぼ一致している。

 俺達は一息つくと、巨大な熔山の近くにある岩屑地帯に無人の安全スペースを見つけた。地面の大半は灰色が占めているが、これは噴火の後に積もった堆積物が冷えて固まったから、らしい。椀状のカルデラを想像してもらえれば早いだろうか。

 いずれにせよこのエリアでは2人きり。警戒はしつつも、文字通り翅を伸ばして休んでいた。

 

「ふぃ~、楽しむと割り切ったら何とかなるものだな。どう考えてもパーティで動いてた時より戦闘減ってるぜ、これ」

「集団の方が目立つんだからそれは道理サ。でも、1日通して勝ち鬨が上がらなかったのも初めてだし、食糧モロモロ考えるト……この調子じゃ持って3日だろウ。あさってのメンテで『奴ら』が来たら2日カモだケド……」

 

 持って3日。というのも、俺達がやりくりしているこのアイテムと食糧の備蓄は、かつてのリンド達や敵集団の持ち物なのである。

 ALOでは戦闘に敗北すると死亡者の所持品の中からランダムに3割が天引きされ、勝者のインベントリ内に転送されるシステムが採用されている。無論、常時愛用している武器など、レア度の高いものまで1発アウトの危険性があるとあまりにもギスギスしてしまうため、それらは生存している仲間の共有ストレージに保管されるのだ。そしてメンバーが最終的に戦局を脱すれば、デスルーラした持ち主と合流してアイテムを手渡すことができる。

 そして昨日、俺達は戦いに勝った。

 しかも全滅まで追い込んだ。

 わずか3割、すべてが実用的なものではないとはいえ、相手側8人パーティから『保険枠』まで手に入ったのはラッキーである。こちらも残りは2人だけなので、アクティブにならず細々とやっていけば補充なし&消耗のみでもしばらく持つ計算となるのだ。

 

「ま、あと2日だろうな。俺は8日前、トブチに『次のメンテだけ見逃してくれ』って言ったんだ。……もう待っちゃくれないさ……」

「……ニャハハハッ。じゃあなおさら、もっとこの世界を堪能してから終わろうじゃないカ。この思い出作りを最高のものニ。……オレっちは……お前サンといて、すごく楽しかったヨ。ずっと一緒にいたいって……思うくらい……」

 

 その表情に、ゴクッ、と生唾を飲んでしまった。

 俺は視線と同時に話題を逸らす。

 

「そ……そか、サンキューな。そういやこの火山って、設定上じゃ地下をマグマが通る水源なんだよな? またよさげの温泉とかあるんじゃねーの」

「オ~、そうカモ。アノ日(・・・)からその手の娯楽施設はいくつか見つけたケド、メンツと時間的に素通りも多かったしナ。オレっち達が最後に入ったのいつだっケ?」

 

 別に体臭が付くわけではないが、女性のアルゴとしては不潔なままでの生活はあまりいい気分ではないだろう。という配慮から、一行 (2人だけど) はほとんどリスクを度外視したままエリアの奥まで渉猟(しょうりょう)した。

 そしてSAOの思い出話しに花を咲かせること20分。暖かい湯気と地熱を感じる空間に出てから、ほどなくして凹凸の少ない岩に囲まれた間欠泉を発見した。

 プレイヤーへの悪影響はないようで、腕防具を外して手を突っ込むと案の定ほぼ適温。ALOの運営が遊び心で取り入れた空間の1つなのだろう。

 間欠泉だけに一定周期で溢れ出す飛沫(しぶき)の規模が大きく、湯に浸かるにはうっとうしかったが、それもまた風情。モデル体型の女性被写体もいたことだし、彼女を正面にスクショを取ってみるとこれがまた非常に絵になったのだ。対面の山稜(さんりょう)にかかる月明かりが付随しているのも、フォトショなしに素晴らしい佳景(かけい)を際立てる粋なファクターになっている。

 SAOではどうしてもそそり立つ壁が目に入ってしまったが、こうした1枚絵を楽しむ分にはこちらのゲームに軍配が上がる。

 

「おー、よく撮れてる。動画配信者向けかもしんないけど、ALOってこういう作り込みスゲーよな~。ここにはモンスターもくんのかな?」

「ともあれ、プレイヤーには見向きもされないだろうネ。発売から相当たってるぽいし、採取できるアイテムも少なイ。まして日本人は慌ただしいんダ。仮想のオフロで身を清めることもないだろうサ」

「……だ、だよな。人来ないよな。……ん、んじゃあサクッと入っちゃう?」

「……今エッチな気配を感じたゾ」

「バッ、ちっげーって! 俺はアルゴのことを考えてだなぁ!」

 

 ――く、さすがにお見通しか。

 しかもアルゴはニヤッと笑うと、自分も頬を染めているくせに追撃してきた。

 

「どうだカ。例の温泉じゃあ、オレっちとシリカちゃんが同時に被害に遭ったらナ~」

「オイオイあれはジゴージトクだろう。俺はシンシに外で待ってたのに、アルゴがわざと悲鳴なんて上げるからー……」

「ナハハハ。棒読みになってるぞジェイドさんや。でもせっかくリフレッシュできるのに、ここに入らない手はないよナ~」

「(え……マジ……?)」

 

 そう言うと、彼女はケムリ立つ湯に近づいて足甲などを装備欄から削除。岩に腰かけて素足の状態で水面に沈めていた。

 なるほど脚まで、と。

 深さのほどは膝上といったところで、足湯としては深く温泉にしては浅いぐらいだった。ALOに来てわずか3日で発見した露天風呂と比べると全体的なグレードは見劣りするが、きっとあの場所が特別だったのだろう。

 とは言え、もともと家族で旅行なんてイベントとは縁遠かったのだ。こうした体験が貴重だからこそ、アルゴの半裸を拝めないのだとしても個人的には風呂に入りたいところだった。願わくばもう1度あの絶景露天風呂を味わいたいものだったが、いかんせんここからでは距離がありすぎる。

 多少諦めがつくと、俺も過去のことを忘れて具足を解除。アルゴに(なら)って適当なフラット面に腰を下ろすと、ザブンッと行儀悪く両足を突っ込んだ。

 直後に広がるのは、張った筋肉が弛緩するような脱力感と、暖かさに包まれた多幸感。

 強いて言えば、相変わらず間欠泉の飛沫がウザいが。

 

「くはぁ~、つかれてるだけに効くなーこれ。あの時みたいに特別なバフとかはないみたいだけど」

「ある方が珍しいけどナ~。捨てられた民宿のフロ場とかも勝手に使ってきたケド、結局あんなリゾート地には2度と巡りあえなかったナ」

「んー確かに。あの日は天気もよかったし。……うお、やっぱ湯につかってねーと寒いわ。俺マジで全身つかるけどアルゴはど-する?」

「……ソ、そうやってスグ人を脱がそうとすル……」

「やっ、今回はホントちげーって! 俺がぬぐから気を使ったんですー! てか、ぶっちゃけ俺はヒスイ一筋だから!」

「いま『今回は』っテ……」

「…………」

 

 失言をなかったことにしつつ口笛で誤魔化し、しれっとメニューを操作していたが、心なしか今のやりとりでアルゴが急に暗い顔をしだした。

 もっとも『期間限定の思い出』という前提から、今日だけでもテンションの下がった回数は数えきれない。「じ、じゃあオレっちはそのヘンで待ってるヨ……」とだけ言い残して立ち去った彼女もまた、おそらくこの生活の終わりを考えてしまったのだろう。

 俺はあえて気づかないフリをすると、ラフな布の短パン――おそらくこの世界用にデザインされた水着と思われる――だけになってから、改めて湯船に全身をひたらせた。ここで初め知ったが、海が遠いわりにこの湯は炭酸泉らしい。独特な刺激臭もする。

 

「(ま、悪くはねーな……)」

 

 やはり浅いので半ばあおむけで寝るような姿勢を取らざるを得なかったものの、疲労困憊で汚れた体を暖かい湯で洗い流すという行為は、細胞がDNAレベルで快楽と受け取るのだろう。日が沈んでいい加減寒さも気になっていたところなので、このぬくもりは相乗効果も生んでいる。

 俺がいることで恥ずかしがっているのなら、アルゴも極めてもったいないことをしている。別にクドこうとしているわけではないのだから、気楽に満喫すればいいのに。

 ――まあ、目の前でケモッ娘のストリップショーが始まろうものなら、記憶操作されても忘れないぐらい脳髄に焼き付けられる自信はあるが。

 なんてゲスいことを考えていると、信じられないことに背後からひたっ、ひたっ、と人が歩いて近づく音がした。しかも「え、まだ入ってるんスけど」と発言する前に、俺は世にも恐ろしいモノを目撃してしまった。

 

「アル……ゴ……ッ!?」

 

 上半身がバネのように跳ね上がり、思わず絞り出したような声が漏れる。

 細身の女性がバスタオル1枚だけを巻いて、非常に無防備なまま俺を見下ろしていたのだ。

 控えめの胸から膝上15センチぐらいまで布1枚。完全に肌色と白色しか見えない状態だが、まさかその下は一糸まとわぬ姿なのだろうか。いやしかし、マルチプレイ前提のオンゲーで誰がどう見てもいかがわしい格好になるなんて、そんなことが可能なのだろうか。なんにせよ実現できた時点で全年齢のレーティングではなくなる。

 

「じ、ジロジロ見るなヨ。……やっぱりオレっちも入りたくなったんダ。別にいいだろウ?」

「いやだって、えっと……俺まだその、入ってるし……」

 

 言いよどんでいると、目を合わせないまま恐る恐る彼女が入浴。かけ湯なし、タオルを巻いたままの入浴はマナー違反だぞ、という、むしろこの場合はどうでもいい思考がいくつもよぎった。そもそも彼女のタオルを取り上げようとした時点でアウトだ。

 それにしても……、

 

「(ここっ……混浴、だとっ!?)」

 

 湯の温度を超えて体温が上がる。

 そんないかがわしいこと、ヒスイとだってしたことはない。

 だいたい、アルゴはいいのだろうか。仮にも俺は異性。勝手に順番を決めたことは悪かったと思うが、だからといって肌を見せる行為には抵抗もあるはず。

 現に俺の視線はくぎ付けだ。水滴が張り付く華奢な肩を覗くだけで、よこしまな煩悩が暴発寸前まで膨れ上がっている。自制できるはずもなし。

 しかし彼女の答えは単純だった。

 

「い、今さら恥ずかしがってもしょうがないサ。無防備な時間は減らしたいし、その……どうせ忘れるんだカラ……」

「どうせ忘れる……そだよネ……どうせ忘れるもんネ……」

 

 どうせ忘れるならナニしてもアリだよネ、と危うく口走りそうになったが、そのセリフを聞いて俺もわずかに冷静さを取り戻す。

 恒久的な生存効率を度外視した初の翅休め。かつてアルゴは、人と共に過ごすことがこれほどかけがえのないものだとは思わなかった、などとこぼしていた。情報屋としてのキャッチコピーが特定人物との深い接触を妨げてきたからだろう。

 そして今、その記憶すら失おうとしている。

 この2ヵ月で取り戻した、本来誰にでもあったはずの感情。味わった葛藤や、新鮮な生活から得たまったく新しい価値観を。ギルドメンバーに会えなくて頻繁(ひんぱん)に落ち込んでいた俺に対し、一緒に暮らす中で滅多に悲観しなかった彼女でも、やはりこの現実は受け入れ難いのかもしれない。

 そこまで考えると、自然と声のトーンは下がっていった。

 まあ、言うてせっかくの据え膳。シリアスに振る舞うポーズの裏で、見られるものは見ておくのだけれど。

 

「なあアルゴ」

「アッチ向いテ」

 

 と思ったが、早速これだ。生殺しである。

 俺は首だけ回して口を動かす。

 

「……な、なあアルゴ。もしかしたらさ、奴らもオンジョーわいて実験に関するトコだけ消すカモだぜ……? この記憶残っちゃったら……したら俺、もうアルゴを友人として見れないカモだぜ……?」

「ナッ……っ……オ、お前サンも往生際が悪いゾ! やるだけやって変わらなかったんダ。こっちに譲歩してくれた土渕という男も、オレっちの印象から言うと、まともな人柄には見えなかったケド」

「ん~それなんだけど、俺やっぱりあいつら来たら全力で抵抗しちゃうかも」

「エエッ!? いやいや、約束破ったら今度こそ何されるカ……」

「え~だってケモッ娘と混浴とか忘れたくねーじゃんっ!!」

 

 「ほ、ホントバカ……」と言い捨てた切り、彼女は背を向けたまま黙りこくってしまった。首まで赤いが、このムスメも存外照れ屋なものだ。

 そして今日1日を通して感じていた違和感に気づく。

 『責め』が足りない。

 アインクラッドにいた頃はもっと、こう……どちらかがボケればすかさず皮肉めいたツッコミがあったはずなのである。特に俺の場合、無知ゆえに狙ったわけでもなく発言の度にこっぴどくからかわれたものだ。

 それが本日はどうだろうか。2人きりでいる時は終始挙動不審で、調子こいたセリフに対しても大半ははにかんで笑う程度。いくら期間限定とはいえ、これではテンションの塩梅(あんばい)に困ってしまう。

 

「だぁーもう、アルゴ!」

「ナッ、なんだ急ニ!?」

「ちょっと暗すぎだろう! ガラじゃねーんだよ、ソレ。いーじゃん、2日も先のことなんて考えなくてさ! ほら、あいつらだって表じゃ社会人だ。他の仕事とかであさって超忙しいかもしんないし!」

「……できる限りオレっちも気にしてないつもりサ。お前サンと違って、乙女には色々と悩みがあるんだヨ……!」

 

 しかし話す途中でアルゴが振り向くと、何度かまばたきしてからこう切り出した。

 

「デモ……そうだナ。どうせ忘れるナラ……今日ぐらい自分に正直になってもいいよナ……?」

「うんうん……ん、待て。どゆこと?」

「ジェイドだけには……オレっちの全部ヲ……」

「えっ……えっ……ちょ、アルゴサン……!?」

 

 彼女がザバッ、とおもむろに立ち上がったのである。おまけに、呑み込み切れていない俺を前に、体に巻いてある濡れそぼったバスタオルに手をかけたのだ。

 いったい……何のつもりだろうか……。

 正直申し上げると、焦点は胸にしか合っていない。ただでさえ肌色Maxの姿なのに、角度によっては極めてヨロシクない不適正かつ後々ヒスイに酌量の余地がなくなりそうな重大なターニングポイントを超えることもいとわないユートピアが顔をのぞかせ……、

 

「オレっちのキモチを!」

「わわぁあああああああああッ!?」

「な~んて、ナ! ニャハハハハハハッ!」

「……は、っ……!?」

 

 なんと、バッサ! と脱ぎ捨てられたその下には、きちんと水着が着てあったのだ。

 そもそも流血表現すら規制されているので、おそらく全年齢対象ゲームである本作において、『なんと』もクソもない。妄想全開でマッパを期た……危惧していた俺は、まんまとこのお調子者にハメられたらしい。

 サプライズ前なら様子がおかしかったのも納得だ。

 

「ナハハハっ! ニャーハッハッハッ! 朝の仕返しサ!」

「く、くそ! 笑いすぎだっつの!」

「ハァー、だってお前サン……プフフッ、スゴい顔してるゾ。今モ!」

「うっ……さい、この……このチジョ! そーいうのマジでしんぞうに悪いからな! これヒスイに言えないエピソード増えてっから、マジで!!」

「オイラの方から報告しといてやるヨン」

「ヤメロ! ホントそれジョーダンなしにナシだから!」

「じゃあカネがいるナ~。リアルキャッシュでたんまりとネ」

「うわ、現役ん時よりアクドクなってんじゃん……」

 

 それからはようやくアルゴも本調子に戻り、歯止めが効かなくなったようにお互い笑い転げていた。

 ただ、彼女が死ぬほど落ち込んでいたわけではなかったので、そこについてはもう煩慮(はんりょ)することはなさそうだ。

 こうして嘘のように短い1日が過ぎ、また夜が明けていった。

 

 

 

 翌朝、早朝の冷え込みこそ強めだったが本日も晴れ模様。大きな山のカール地形を描く窪みに身を潜めていたので、そこから顔を出せば眼前に広がる山々に薄くかかる、綿毛を編んだような幻想的な霧と虹の絨毯(じゅうたん)が飛び込む。

 俺達はいざとなれば翅を使った逃げ作戦だけ再確認してから、地上をスタスタ歩いて再び未踏の地を観光していた。

 めまぐるしく進歩する科学技術の情勢を見るに、いずれは「VRで海外、深海、宇宙旅行へ!」なんて時代が到来しそうなので、少しフライング気味だがその一端を味わっているのだと思えばいい。

 

「なあ、今日はどこ行こっか、アルゴ」

「気ままでいいサ。目的地を持っちゃうと、タイムリミットのせいでたどり着けなかった時に口惜しくなるゾ」

「それもそうか。じゃあこのまま火山を南下しちまおう。ケットシー領が近いから見たい放題だったりして」

「むぅ~! オレっちという女がいながらよそ見とはどんな了見カ!」

「ええ~アルゴが気ままでいいって言ったじゃん」

「よこしまでいいとは言ってなイ!」

 

 そんなことを言い合いながらも結局南を目指す運びとなった両名は、本日も1日かけてたっぷりデートを楽しんだ。

 仮想世界では朝日が燦々(さんさん)と照る、リアルでは夜になる頃になってから、やがて海に面する大地の端っこまでやってきた。

 波打ち際は非常に独創的なつくりをしている。円周の一部が欠けた陥没孔(かんぼつこう)が、そのまま海に面してしまった形状とでもいえばいいだろうか。狭い範囲で巨大な角岩(チャート)が累積し海フィールドから突き出している。

 そうした柱のような疑似足場が大小20以上。防波堤のようなゴツゴツの岩石群と荒い波が50メートルほど下に見えるが、翅が十分に残っていれば落下死する恐れはないだろう。

 もっとも、現在は移動と戦闘でずいぶん消費してしまったので、この場を借りて少しでも回復しておきたいのも本音である。

 という理由のもと、俺とアルゴは陽の当たる石柱を選んで陣取ると、発見されやすさに目をつぶりつつ、直径4メートルほどしかないてっぺんに腰を下ろして翅を休めた。

 少し遅めの夕飯。ちなみに陽が当たるという点は、寒いこの季節では無視できない恩恵もある。

 そして『苦労して踏破した山頂ならレトルト食品でも絶品と錯覚する現象』ではないが、男女2人きりで非現実的な夜食会となれば、おのずと固いパンにも魔法のスパイスがかかるものだ。昼まではうんざりしていた味が、アルゴと談笑しながらだとほおぼった食感まで変わったように感じるのだから不思議である。

 1日を通して4組のプレイヤーと戦闘に――迂闊(うかつ)にこちらから近づきすぎてしまった――なってしまい、どうにかすべてを撃退、あるいはスピードに任せて撒いてやったものの、人間誰しも体を動かせばしっかり腹は減る。ミクロな視点では笑えないほど世紀末だが、こうした摂理は変わらないのだ。

 はっきりとした勝利こそないが、朝からブッ通しで張りきった以上、確率的にしばらくは会敵しないだろう。

 

「くはー、うめェ。海を見下ろして食うメシもオツなもんだな」

「まーナ。本来は命綱なしじゃ休憩すらできないところだケド、だからこそ特別感が出るのカモ」

 

 ただし、少し首を捻って断崖であることを思い出すと、アルゴはブルッと体を震わせて意識的に食事に専念する。

 翅を消費させられた主な原因でもあるが、ここら近辺で幅を利かせる《パウンド・イーター》なるエイ状の飛行生物にだいぶ鱗粉を食われてしまったので、少なくとも無駄使いする余裕はまったくないのだから。

 

「ハハッ、あんま下は見ないことだな。……モンスターもたらふく設置されてたおかげで、オチオチ海水浴もできやしねえ。あ~あ、ネコちゃん達の水着見たかったわぁ……てか季節的に無理もいいとこか」

「昨日見せたろウ。あ、あれじゃ不満だったのカ……?」

「逆だよ、逆。味をしめたから忘れる前におがんどきたいの!」

「ニャッハハ……お前サン、吹っ切れてからずいぶん煩悩に忠実になったよナ。……ああ、ソノ……オレっちのでよければ……」

「シッ! アルゴ!!」

 

 アルゴが冗談を言う前に反応する。俺はいきなり彼女に飛び掛かると、その体を抱いたまま翅を使って次の岩柱まで飛んだ。

 ゴウ!! と、先ほどまで腰かけていた地面が炙られる。

 確率なんて宛てにならない。運が悪いことに、『敵集団』だ。

 しかし理解しても次弾までは避けられなかった。着地を狙われて俺達が受けたデバフ魔法は、飛行能力を奪う珍しいタイプである、幻属性の《削減する翼(リダクション)》だった。

 奇襲者は4人と3匹。うち3人は領の近いケットシーで間違いないものの、1人は装備の色からスプリガンだろうか。光属性の《静寂性(クワイエット)》などを利用して接近したのだろうが、こうして苦手属性を補えるよう、対立せず、かつ組織力の低い種族を傭兵として随伴(ずいはん)させる小隊はいくつか見たことがある。

 

「ハッハァ! 言ったろ、翅がなくてもイケるって!」

「ドンピシャでいましたね!!」

「さっすが隊長! こうなりゃ人数でゴリ押しだァ!!」

 

 観察と同時に、空戦があと30秒もままならなくなったことに小さく舌打ちする。

 しかしただでさえ損耗していた飛行力だが、よく見ると相手の翅の鱗粉も尽きかけていたので、この場に至るまでにかなりの長旅を経てきたものと推測できる。もしくは彼らも、例の鱗粉喰いモンスター群と一戦交えたのかもしれない。

 ゆえに、すぐ斬りかかるのではなく、こうしたひと手間が必要だったわけだ。

 ともあれ、ケンカは売られたら『勝てそうなら買う』のがポリシー。現に逃げの一手を封じられたからか、アルゴの反応まで早かった。

 彼女がリズミカルに足場を跳ねながら、手に持つ高級な《ピック》を惜しみなく相手の《使い魔》に投げつけたのだ。

 そのどれもがペット連中の羽に命中。羽付き動物どもは例外なく羽から揚力を得ているので、そのポイントにダメージ判定が出ると怯むだけでなくわずかに高度をも下げてしまう。

 散開する主に追随できなかった《使い魔》は、即座に俺の《タイタン・キラー》の餌食となった。

 

「ああっ!? こいつら使い魔を!」

「ひでェ奴らだ、クソ! もうよーしゃするなッ!!」

 

 その傲慢(ごうまん)さには逆に好感が持てる。おまけに盲目的になってしまったのか、何らかのコンビネーションを崩してまで俺を狙う単騎×3のケットシートリオ。まったく、奇襲してこれでは目も当てられない。

 こちらは翅をほぼ使い果たして各岩柱に縫い付けられているが、しかし翅とは違い心の余裕はこちらに分があるらしい。

 俺は斬りながら唱えていた9句のスペルを完成させると攻勢に出た。

 当然、彼ら4人は激しいディストーションによって聞き取れなかっただろうが、俺が発動したのは闇魔法の《因果応報(レトリビュージョン)》。発動者を中心に呪いがかかり、付近のモンスターからのヘイト値をいきなりMAXにする大技のデメリット魔法である。

 

「(足を止めるなッ……戦ってるフリでいいんだ!!)」

 

 連続移動による時間稼ぎ。しかし十数秒もすると、(くだん)の《パウンド・イーター》が音もなくわらわら集まってきた。光るエイのような浮遊生物だが、こいつらは離れたところからもプレイヤーの翅の力を吸い取り、自分達だけ上空から毒をまき散らしながら弱った獲物を捕食する、という生態設定の生き物である。

 しかも複数個体が同時に吸収や毒まきを行うと、その効果は共鳴するように膨れ上がる。

 効果はすぐに表れた。

 

「う、うわっ翅が!?」

「なんでっ!? まだ1分以上は……ッ!!」

「おい周り見ろ!! いつの間にか《パウンド・イーター》が来てるぞ!」

「おっ、落ちるぅッ!!」

 

 アルゴの足止め役だったスプリガンまで被害に遭うと、彼らは仲良く墜落し海のモズクとなった。せめて美食家の魚に食べられるがいい、なんてね。

 

「ハッハァ、いっちょ上がりィ!!」

「ジェイド気を抜くなヨ! こっちは飛べないシ、まだモンスターはいル!」

「あーッてるよ! 攻撃はいいから、いつものムチで引っ張ってくれよ! パスくれたら叩っ斬るからさ!!」

 

 喝を飛ばすと彼女は順に狙いを定めてバーブスを振り回す。

 そして逆棘に絡まった空飛ぶエイは、俺のアグロレンジヘ引き込まれあっという間に大剣の血錆となって消滅した。残りわずかとなっていた俺のHPだったが、モンスターの攻撃法が『毒の散布』だっただけに、デバフに侵されるまでタイムラグがあったことがラッキーだった。アルゴが定期的に対毒バフをかけるだけで事足りる。

 最後の1匹を倒した俺は、ようやく深いため息をついた。

 

「ハァ~……やっと終わった。食糧もっと減っちまったな。何なら全部口に放り込んどけばよかったぜ」

「それじゃあ魔法が唱えられないダロ。命があっただけ儲けものだヨ。……でもま、落下死が撃破じゃなくて自滅扱いになるのは納得いかないよナぁ」

「とりあえず翅もないし隠れるか。てかそっちまで遠! ジャンプで飛べるかな、これ」

「やめといたほうがいいゾ。オレっちの場所なら内陸まで飛び移れそうだケド、そっちの足場は明らかに遠いシ。大人しく翅の回復を待って……」

「いや行けるって、そこで見てな。……あ、アルゴちょっとそこどいて」

「……1分も待てないのかいナ……」

 

 確かに翅は1分単位で徐々に回復していくものの、スリルなしでは意味がない。アルゴは呆れた顔をして足場の端に移動したが、誰しも子供の頃に行うこうした無謀な遊びは、大人になっても楽しいものなのである。

 ……楽しいものなのである。

 レディにはわかるまい。

 

「とゥりゃああっ!!」

 

 間抜けた掛け声とともに、俺は足の瞬発力だけで飛び上がった。

 踏み込みは悪くない。姿勢もよし。ただし射出された体が最高点まで達した時、1つの答えに行きついた。

 

「あっ……」

 

 ――やっぱりムリだ、これ。

 

「のわぁああああッ!?」

「ちょ、ジェイドぉ!?」

 

 絶妙に手も引っかからない壁面にぶつかると、先ほど真っ逆さまに落ちていった4人の後を追うように俺も重力に引かれていく。

 しかし50メートルも下方にある乱泥流の荒さにゾッとしたのもつかの間、俺の腕に何らかのヒモ状のものが絡まり、どうにか墜落する運命から逃れられた。

 アルゴが愛用する《フォー・ハウジング・バーブス》。普通のムチと違って対象を絡め捕る用途を想定して作られているので、こうした一芸が可能なのだろう。

 何にせよ助かった。

 俺は縛られていない方の腕を振りながら真上に叫ぶ。

 

「おーうアルゴー! サンキューなぁ!」

「……落とすぞこのヤロウ……」

「ちょ、ダメダメ! 死んじゃうって俺!」

「じゃあこれからは! 人の忠告をありがたく聞くことだナ!」

 

 「だいたい重いんだヨ、主に剣ガ……」とか「こっちは筋力パラメータがだナ……」なんてブツクサ言いつつ、結局引き上げてくれるアルゴ。からかい甲斐二重丸。

 だが、またしてもトラブルが起こった。

 負担を減らそうと、俺が小さな突起に足をかけてジャンプしたタイミングで、彼女もまた大きく腕を引いて持ち上げようとしていたのだ。

 予期せぬ合力により、石柱の上まで体がフワリと持ち上がると、そのまま覆いかぶさるように小さな体躯を押し倒してしまった。

 「へぶっ!」という可愛らしい鳴き声をよそに、互いの顔が急接近。あわや唇が触れそうかといった寸前で運動が止まると、あっぶね! と思いつつ慌てて起き上がろうとする。すると、かなりとっさだったからか、手の支えの位置を誤った。

 右手がはっきりと彼女の胸に。反射的にモニュモニュしてから、それを押した反動で体を離していたのである。

 

「ぴゃああっ!?」

「(あ、ヤッベ……)」

 

 彼女は一気に頬を染め、俺の喉からはいかなる声も発せられない。

 もはや汗すら流れることはなく、俺はサッカーで言うところの『私ファールしてませんよ!』アピールのバンザイポーズのままフリーズしていた。

 レッドカードものだが。

 

「…………」

「…………」

 

 至近で威嚇し合う両者。

 しかしここで問題となるのが、すべての事象が悪気の介在しない偶発的な悲劇であることを打ち明けても、それを思春期特有の見苦しい言い訳と捉えられ、まったく逆効果として人生の汚点へと帰結しかねない点だろう。

 さてどうしたものか。

 1つ、ナイチチだから実質ノーカンだよね!

 2つ、揉むと育つらしいよ!

 3つ、ごめんなさい……。

 選択肢は絞られた。ただ、どうにも前者2つのルートは問答無用で(はりつけ)にされたあげく、キリストもドン引きな拷問をされかねない。せっかく1つのしがない命を守り抜いた彼女に、そんなことをさせてしまうのも忍びないだろう。

 という思考を2秒で済ませると、おのずと答えは導かれた。

 

「すまん、今のは俺が……」

「ゥゥ~ホンットバカ! スケベ! そのままシネ!」

 

 謝罪の途中でポカポカと殴りかかってくるアルゴ。「うわ、落ちる落ちる!」と慌てながらなだめたところで、どうにか殴打は止まってくれた。やけにデジャヴを感じる光景だったのは気のせいか。

 ともあれ、このまま元気にはしゃいでいると第2、第3の刺客を誘う危険性があったため、俺達は気まずい空気のまま内陸方面に東進し適当な(くぼ)みを見つけるや否や侵入。ようやく訪れた安穏の時間をむさぼった。

 光がほとんど差し込まない通路。人気もなく、しんと静まり返っている。

 座ってみると初めて心身ともに消耗していることに気づく。刻一刻と迫るタイムリミットがそろそろ気になってくる頃合いだが、同じことを考えているのか彼女の表情も精彩に欠いていた。

 しかし、その落ち込みは昨日今日で蓄積されたものではなかった。彼女のストレス……それが、一過性の不安からきているだけでないことを、俺は初めて知ることになる。

 

「……すっかり深夜だネ。あと数時間……長いこと生き長らえてきたケド……本当にこれで、オレっち達の戦いは終わりなのカナ……」

「なんだよアルゴ、やっぱり一緒に抵抗するか? 数日ぐらいは伸びるかもよ」

「ハ、ハ……それじゃあダメだヨ……」

 

 対面して座っていた彼女がおもむろに立ち上がり、インベントリを眺めていた俺のすぐ隣で腰を下ろしたのだ。

 恋人同士ではあるまいし。装備が密着するほどの距離だったが、ドキマギする気持ちを紛らわそうと「寒がりさんか、甘えんぼさんか」なんて、いつものようにからかってやろうとした寸前だった。

 

「やっぱり終わるのはイヤだナ……ずっと……ずっとこうしていたイ……」

「お、俺もそうだけどやけにストレートだな。それに今は2人まで減っちまってるから、正確には7人いたころに戻りたい、だろう?」

「……んーん、違う。『2人がいい』んダ……一緒に冒険して、モンスターを倒して、苦楽を共に……オレっちは、お前サン以外誰もいらなイ……」

「お、い……っ?」

 

 体を支えていた右手の甲に、彼女の手の平が置かれたのだ。

 そのセリフとセットはマズいだろう。小さな手は冬とは思えないほど暖かく、触れているだけでおかしくなりそうだった。ただでさえこの2日、肌を重ねるように睡眠をとっていた関係上、否応なく刺激されるようなシチュエーションが連発していたのだ。いくらヒスイを1番とのたまおうと、理性が揺らいだ回数は数えきれない。

 またからかおうとしているのだろうか。いずれ本業の情報屋が再開された時、切れるカードを増やそうとでも?

 ……いいや、違う。彼女の上気した表情に演技はない。少なくとも長く共に過ごした俺の目からも、そこに1つの真実を垣間見た。

 

「(ああ……クソ。ダメだ……アルゴ……)」

 

 その心の機微に薄々気づきつつ、ずっと見て見ぬふりをしてきた。この特殊な環境が惑わせてしまっただけだと言い聞かせてきた感情。

 肩に頭をコツンと乗せると、それでも彼女は最後の不文律を破った。

 

「……なァ、いつまで……そうして気づかないフリをするつもりダ。……何か言ってくれないと、オレっちは辛いだけだヨ」

「……ずるいだろ。俺にはヒスイだって……」

「今日で忘れる記憶じゃないカ。……それに、恋をすればいいって言ってくれたのはお前サンだゾ? ……ずっと我慢して……押し殺して……ゥ……オイ、ラだって……この気持ちがあったから耐えられた……頑張れタ! こんなにも、想っているのニ! ジェイドのことが好きなのに!!」

「アル……ゴ……」

 

 答え方がわからなかった。

 決して嫌っているわけではない。ここで受け入れたとしても、誰の記憶にも、どこの記録にも残らないことを理解している。彼女が隣で支え励ましてくれなければ、立ち上がる力さえ途絶えていただろう。

 だが。だとしても、俺の愛する女は1人だ。だから、俺は彼女から目を逸らした。すがるような視線から逃げた。傷つけない言い回しを考えるだけで精いっぱいだったのだ。

 ただ彼女は、是とも否とも解答しない俺の克己心(こっきしん)が、今までで最も揺らいだことを感じ取ったのかもしれない。

 ゆえに、行動に移した。

 狭間のような空白に近づき、体を大きく傾けて上半身を寄せる。気づくと彼女の柔らかい唇が触れていた。

 暖かく、つつましく、とても甘い。感じたことのない熱を注ぎ込まれる。それはさながら、ヒスイの関係を知り後押ししてきた自分が、己の決断に恐怖しているようにも映った。

 耳朶を打つくぐもった声。痺れるような官能感。

 俺は一瞬、このキスが心地いいものに思えてしまった。妨げることは可能だったのに、そぶりすら見せなかった深層心理が、この背徳的な行為をまったく別の情調へと変えてしまったように。

 

「ッ……!!」

 

 しかし、数秒だったのか、一瞬だったのか。危険な蜜のような味を感じたあとに到来したのは、圧倒的な違和感だった。

 このキスは俺の知っている感触ではない。誰だ、なんだ、これは。大切な思い出を侵害してくるような、得体の知れない不快感は。

 気づいた時には、アルゴの肩を突き飛ばしていた。尻もちをつく彼女をよそに、手の甲で口元をぬぐいながらフラフラと立ち上がる。

 思考も焦点も定まらなかった。たった今、ヒスイではない女性を受け入れようとした自分に怖気が走る。

 否定の言葉すら、弱々しかった。

 

「そんなつもりじゃ、なかったんだ……俺は……」

 

 ただし俺が罪悪感に呑まれるより早く、彼女の方が激情に突き動かされた。

 

「だ、だったらッ、受け入れないでヨ! キスだけじゃないッ……肌を見せてもいつも通りデ!! ……ぅ、ぅっ……拒むなら! 最初から手を差し伸べないデ!!」

「アルゴ……っ」

「お前サンのそういうところが嫌いダ! オイラにっ……夢を見させておいテ! 突き放すぐらいなら放っておいてよォッ!!」

 

 わき目も振らずわんわんと泣き、裏返った声で喚き散らし、アルゴはそのまま(きびす)を返して岩窟の奥へ走っていってしまった。

 追いかけなくては。ここで追わずに見失えば、もう2度と会えなくなるかもしれない。泣かせるつもりはなかったのに。

 勝手な考えばかりがよぎるが、こんな別れ方だけは嫌だった。

 

「ハァ……ハァ……クソ……アルゴ……!!」

 

 どこまで走っていくつもりだろうか。なけなしのパーティ登録だけが彼女の居場所を知らせてくれる。だが果たして、俺はこのまま追いかけていいのだろうか。きっと彼女はそれを望んでいない。いや、望んだとしても、きっぱりと俺の気が変わってからだろう。

 悩むことすらやめて、それでもなお足だけは動いた。

 随所に溜まる潦水(ろうすい)を踏み越えると、やがて分かれ道に差し掛かる。彼女の判断力もまともにはたらいていないのか、進んだ方向は袋小路になるエリアだった。

 行き止まりの奥に小さな背中が見える。小刻みに震えているのは、気のせいではないだろう。数歩、また数歩と歩み寄り、壁に顔をうずめたままの背に話しかけた。

 

「なあ、これで最後なんだ。……今までずっと一緒にいたのに……こんな別れ方をしたくない……」

「……来ないデ……」

「俺にとっては……アルゴも大切だから……」

「ッ! ……くっ、バカにして! オイラの気持ちがわからないのカ!? そうやって曖昧に言われるのがっ、もう辛いだけだって言ってるんだヨ!!」

 

 泣きはらした顔のまま、彼女は子供のように叫んだ。

 そして腰からシリカの形見である蒼晶の短剣(マリンエッジ・ダガー)を引き抜くと、その剣先を喉元に突き立てる。

 

「おい!? バカなことを!!」

「奪われるぐらいなこっちからくれてやル! こんな記憶なんていらなイ!!」

「くッ……!!」

 

 ガッ!! と、地表が砕けるほど加速した。

 5メートル以上あった距離が一瞬で縮まり、俺はアルゴの両手を乱暴にホールドする。両手の動きを封じられ、彼女はそれでも凶器を離さず睨み返した。まるで、これが根本的な解決にならないことを訴えるように。

 しかし間近で彼女の翠眼の瞳を覗くと、またも固めたはずの意志が揺らいだ。わがままな人間のために1人の女性がこれほど深く想い、そして思い詰めていた事実。以前からことあるごとに顔を合わせてきた日々。彼女を大切だと抜かした俺のセリフも、その場しのぎの慰めで放った言葉ではないのだ。

 だとしたら、この瞬間だけ……あと数時間で消え去る思い出の中でだけ、彼女の想いに答えてやることはそれほど罪深い行為だろうか。人を傷つけないウソがあってもいいのではないだろうか。

 心の中で強がりを並べると、今度こそ俺はあまねく抵抗意志を黙殺した。

 両手をゆっくり離して、代わりに小ぶりのあごを引くと、再び彼女にキスをする。一瞬驚いたような顔を見せたが、有無を言わさず強引に体を抱き寄せると弛緩しきったように脱力した。

 そうすることで、より彼女の息遣いを感じる。俺の腰に手が回ると心臓の音まで拾えるようだった。

 

「(背ぇちっさ……)」

 

 余計な思考は、後ろめたい感情がチラついていたのだろうか。より背を丸めてやると、なおのこと相手はむさぼるように身を預ける。華奢(きゃしゃ)な体には、少女のような初々しさと磨かれたような艶めかしさが混在していた。

 やがて深く溶け合うような情熱的な接吻を終えると、どちらともなく顔を背ける。

 先に均衡を破ったのはまたも彼女だった。

 

「またそうやっテ……この、女たらシ……」

「うわ、コクっといてよく言う」

「ナハハ……す、すまんナ。甘えてばかりデ……あれだけ困らせて、幻滅されたと思ったのに……デモ、好きだと言ったのは本当ダ。こうして応えてくれたんだカラ、せめてこの時間を大切にするヨ……」

 

 ようやく気が収まったのか、自決目的に抜刀した短剣を鞘に納める。ここまで来た以上、終わる時も一緒だ。

 俺は抱きしめていた彼女を離すと、同時にチクリとした痛みに襲われた。

 

「(けど……まあ、やっちまったなァ、とうとう……)」

 

 愛もないのにキスをした。ただでさえ掻き毟りたくなるような罪責感に苛まれたが、行為だけでなく脈打つ胸の高鳴りと高揚が余計にそれを加速させる。

 本当に最低野郎だ。合わせる顔がない。もっとも、あともう少しでそれらの感情すら忘却し、謝罪の1つも彼女に伝えられなくなるわけだが。

 

「……ここがSAOならできたのにナ」

「その発言はさすがにアウト」

「気づいてないのか、もうセーフなんてないヨ。……じゃあこうしよウ。今だけはオレっちが彼女だと思って、将来の話をしようじゃないカ。ALOを無事に脱出できたことを前提にサ」

「ええ~まだエグるつもりかよ……まあ、話すだけならいいか。アルゴって兄弟いるの? 1人暮らし?」

「1人っ子で1人暮らしだナ。ジェイドは?」

「姉が1人で実家暮らし。高校出ると同時に家も出るつもりだったけど、そうもいかなくなっちまったからなぁ……。戻った後のことはマジでわかんねェや」

「オオ、意外と歳いってなかったんダ。でもオレっちにも夢があるゾ。そうだな、向こうに戻ってまずしたいことハ……」

 

 そうして他愛のない話が続いた。

 仮に地球があと数時間で終末を迎えるとしても、きっと人間にはこれぐらいのことしかできないだろう。

 2ヵ月半にもおよぶ旅。幾重にもリマインドされる思い出のページが、ゆっくりとめくられていく。思えば、数ある選択肢の中で、こうした世界線に巡りあわせたことに俺はしっかり満足していた。

 まだ7人とも生き残っていた可能性や、あるいはもっとたくさんのプレイヤーと《ラボラトリー》を脱した可能性もあったかもしれない。しかし、寒灯の下を盤桓(ばんかん)し、今こうして彼女と穏やかな時を過ごした先で共に朽ち果てられるのなら……それはある意味、本望だった。

 それにトブチ曰く、実験はおおかた軌道に乗ったとのことらしいので、今までのように『記憶操作が失敗すれば殺害で口封じされる』という憂慮(ゆうりょ)も捨てることができた。

 それらが完了すれば、もう長いこと会えないままだったヒスイやカズ達と再会できるのだ。旅路の記憶を失うのであれ、その事実だけは喜ばしいことである。

 

「……ふぁ……ぁ……睡眠不足が重なりすぎてまぶたが重いヤ。今さらフィールドに出ることもないし、今日はここで寝ちゃおうカ?」

「おいおい、手ェつないだまま寝るつもりか」

「なんなら抱き合うのもいいナ。幸せそ~にしてる寝顔を見れば、あの悪魔どもも意識を奪うのを踏みとどまるカモ」

「ったく、アルゴの方こそ未練タラタラじゃねえか。やっこさんこそ、さんざんこっちの安眠ぼーがいしてきた元凶だっての」

 

 しかし、定期メンテナンスを前に先に寝てしまおうという意見にはおおむね賛成だった。意識のないうちに被検体になってしまえば、少なくとも奴らの勝ち誇ったような顔を拝まなくて済む。

 揺蕩(たゆた)う虚脱感に襲われると、全身の力を抜いてささやいた。

 

「もう終わりか……気合いで全部覚えてられるかな……」

「イイネ、それ乗っタ。今までのことでも反芻しながら待っていようヨ。人の意志もたまにはマシーンの力に勝てるカモ」

「ハハ、だといいな……」

「……おやすみ、ジェイド。楽しかったよ……ねぇ、向こうでも会えるといいネ」

「ああ、本当に……」

 

 寒さを忘れる、優しくて暖かい温度。肩を寄せ合い、支え合うように深いまどろみに誘われる2人。きっとこのまま、誰の目にもつかない暗闇で最期を迎えるのだろう。そして何もかも失って現実世界で目を覚ますのだ。

 ああ、悪くない。

 とても満ち足りた、人生最後の攻略生活だった。

 

 

 

 


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