一話完結
世の中には権力というものが存在する。人間という種が円滑に社会を構成する上で作り上げて来た同種間での力関係。
中でも頂点に君臨するのが王政の国であれば王様、大統領制の国であれば大統領。次点として貴族だったり華族だったりが続いて、その下で一般的に平民などが主に挙げられる。上流階級、中流階級、下流階級と身分が分けられる場合もある。
そんな上下関係の中で最も身分が低く、何の力も与えられず持たない者を作り出す、奴隷制度というものがある。奴隷になれば人権なんて与えられる筈もなく、主人にただひたすら搾取され、売り払われ、使いつぶされるなんて事も珍しくない。寧ろ、それが普通とすら言える最底辺。
私は奴隷だ。
いつから奴隷だったかと問われれば、それは生まれた時からと答える他ない。
蛙の子は蛙と同じで、奴隷の両親の間に産まれたらしい私は漏れなく、先天的にその身分に奴隷の文字が刻まれていた。らしいと言うのは、見たことも無い両親に代わり面倒を見てくれた、同じ奴隷が教えてくれた話だからだ。
清潔の対義語を表すかのような檻の中、麻布一枚を巻かれて、首には重たい鉄の塊。餌は最低限。寒さをよく通す床は絶えず体温を奪っていき、申し訳程度の毛皮も擦り切れて見る影も無い。物心ついた時にはこれが当たり前の環境で、理不尽だとも思えない。
周囲では自分と同じ奴隷たちが、毛布の上で体を丸め、少しでも寒さを凌いでいる。すぐ隣では昨日まで同じようにしていた子が横たわっているけど、もう暫くと動いていない。
翌日には、隣の檻の中はもぬけの殻となっていた。
処分する直前、管理者が腹立たし気にそれを蹴り上げていたけど、私は矛先が自分に向かないようにただ俯いて膝を抱えていた。
一つ間違えれば、自分も同じ末路を辿るのだと幼心に理解したのをよく覚えている。
この頃になると、時折管理者に連れられて綺麗な服を着た人がやって来ては、檻の中を覗きまわるようになった。檻の前で立ち止まれば、管理者に檻から出されて麻布をはぎ取られる。骨が浮き出る私の肢体を眺めた後、綺麗な服を着た人が首を振ると、決まって檻の中へと蹴り戻された。
酷い寒さの中、ジンジンと響くお腹の痛み。努めておくびにも出さないようにしながら頭を下げて、嵐が過ぎ去るのを待った。
そんな生活がどれほど続いた事だろう。多い時で一日に二、三度蹴られたりもした。なのに、悪運だけは強いみたいで、私は大した病気もなく生きていられた。
転機が訪れたのも、そんなとある日の事だった。
その日も、管理者は身なりの綺麗な人を連れてきた。けれど一つだけ異なったのは、更に後ろにもう一人が、周囲を見回しながら歩いてやって来たのだ。
年の瀬は自分よりも明らかに年上、けれど大人と言うには小さなその人は、シミ一つない服を身に纏って、さらさらとした髪を揺らしている。
目が合った。透き通った瞳と視線が交錯して、咄嗟に下を向いて逸らす。
間違えた、失敗した。私の胸中はそれに尽きた。不躾に眺めて気分を害してしまえば、後に待つのは酷い折檻と躾だ。
震えながらやり過ごそう膝を抱える。けれど、私の祈りとは裏腹に、近づいてきた足音は私の檻の前で止まった。心臓が壊れそうな程に鳴り響く。強く目を瞑って、沙汰を待つ。
「父様、こいつにする」
頭上から降ってきた言葉に、管理者が歓喜の声を上げたのが聞こえた。
恐る恐る顔を上げると、甲高い金属音を立てながら開いた檻の中へと、少年が足を踏み入れて、こちらに手を伸ばした。
「今日から、お前は俺のものだ」
初めて、こんな声を掛けられた。
戸惑いも隠せぬまま、二度三度と、差し伸べられた手と少年の顔とを往復する。そんな私に焦れたのか、少年は『んっ』とぶっきら棒に言いながら手を近づけた。
冷えた指先で触れた手の感触は、例え何があろうとも消えないよう今でも心の奥底に刻まれている。
この日、その少年が私のご主人様になった。
簡易な服を着せられた私が鎖に引かれて連れて行かれたのは、大きな大きなお屋敷だった。
広い敷地内を進む中、横目に同じ服を着た数人の奴隷の男達が手を止め立ち上がって、馬車に頭を下げているのが見える。馬車が通り過ぎれば、広大な庭の手入れを再開していた。屋敷まで続く道の端に均等な間隔で生え揃っている樹の伸びた鋭い枝を、ザックザックと音を立てて切っている。
お屋敷の前に到着して、ようやく馬車が止まった。
馬車から降りたご主人様に連れられて屋敷の入り口を潜ると、幾人かの使用人が待ち構えていた。黒と白を基調とした服を身に纏って汚れ一つない彼女らは、いかにもこの屋敷に似つかわしい。
眩しい室内に目を通しながら、慣れないふわふわとした赤いカーペットの上を、のろのろと歩いていると、催促するようにご主人様に引っ張られてしまった。
「こっちだ、俺の部屋に案内してやる」
たたらを踏む私にそれだけ言いつけて、ご主人様は屋敷の二階へと進んで行くので、私は小走りになりながら付いて行く。
道中、いくらかの奴隷とすれ違った。ご主人様の姿を見るなり、さっと端の方に寄って、恭しく頭を垂れる。それらに一瞥もくれずに、ご主人様は通路の真ん中を進んだ。
奴隷にはそれぞれ役割が与えられる。庭の手入れを行ったり、掃除をしたりとその用途は様々だ。ならば私は一体、どんな使われ方をするのか。そう考えてしまうのも自然だった。
チラリとご主人様を見上げる。私に背を向けたご主人様は何も言わずに、ただ私を引いて歩いていた。
「ここが俺の部屋だ。この場所は特によく覚えておけ」
とある部屋の前で立ち止まったご主人様は、後ろ目に私を見て言いながら扉を開けた。
部屋の中は、端的に言えば様々なもので埋め尽くされていた。床にはありとあらゆるボードゲームが乱雑に置かれ、ベットの上には本が何段も積み上げられて、壁にはいくつもの油絵がかけられている。
招かれるままに中に入った私を部屋の真ん中に立たせて、ご主人様は窓際に置かれたテーブルの傍にある椅子に腰を下ろした。
「まぁ、見ての通りだ。何分、この地域は雪が多い。その上、この屋敷は中でも極寒に類する場所に位置する。年がら年中積雪に悩まされ、他家と交流するのも一苦労な中、子供同士の交流など以ての外だ」
振り返って窓の外を眺めるご主人様に釣られて外の様子に目を向ける。鉛色の雲に覆われた空から、絶え間なく大粒の雪が生み出されていて、風に乗るそれらは矢のように降り注いでいる。
「とはいえ、使用人連中に相手をさせるわけにもいかない。あいつらはあくまで父様の使用人だ。俺に割ける時間も限られている。故に、お前がここに来た」
そう言って、ご主人様は床に散らばっているボードゲームの一つを拾い上げて、慣れた手つきで駒を並べていく。準備を終えると、ご主人様の向かい側にある椅子へくいと顎をしゃくって、私を促した。
「理解したなら座れ。どうせルールも知らないだろう。俺が手ずから教えてやる」
命じられるがまま、おずおずと逡巡を交えながら私が座ると、ご主人様は満足げににやりと口の端を上げた。
後から聞いた話だが、この時のご主人様の交友関係は皆無と言ってよい程だったそうだ。時折使用人相手に対局する事はあっても、満足に足り得るかと問われれば、否と答えるのがご主人様だった。だからこそ、奴隷である私に一からモノを教えるという行為すら、ご主人様にとっての娯楽と成り得た。
嬉々として説明するご主人様に戸惑いながら、私は教えられるがままに駒を動かす。こうして、私は生まれて初めて、役割というものを与えられた。
それからの私の生活は、基本的には他の奴隷と同様に屋敷の掃除など雑用を行い、呼び出された際にご主人様の元へと参じて、机に向かい合い駒を動かすというものになった。
けれど、ようやく求めていたモノを手にしたご主人様が、ちょっとやそっとで手放す筈もなく。最初の内は、一日の殆どの時間をご主人様の部屋で過ごしていた。そのおかげで、私は掃除のやり方を覚えるよりも先に、駒の動かし方やゲームのルールを覚えることとなった。
来る日も来る日も、食事の時間以外はご主人様と向かい合う。
結局、私が掃除のやり方を覚えたのは、それから二月後。ご主人様に家庭教師が付き、昼間の大半を勉強に費やすようになってからだった。とはいえ、全く呼び出されなくなった訳でも無く、日が暮れた後、夕食を終えてからご主人様が寝るまでの間に置き換わった。
一日の終わりに私と対局するのが、当時のご主人様の楽しみになっていたみたいで、ご主人様は就寝の準備を終えるとすぐさま私を呼び出していた。
昼間は他の奴隷と同様に働き、夜はご主人様の部屋で過ごす。この生活になってからは、自然と他の奴隷とも交流を持つようになった。
意外だったのは、他の奴隷たちの私への態度が、一様に同情的であったことだ。ご主人様のお気に入り、毎夜呼び出されている。私に対する彼女らの印象はこの二点で、部屋での対局については知らない。隠れた場所でよく頭を撫でられたり、抱きしめられたりもした。
私は、それが不思議でならなかった。
「しかし、お前は感情の起伏に乏しいな。生来の資質か、あるいは生まれ育った環境がそうさせたのか。…所詮は奴隷だ、そこに期待はしていない」
カツンと音を立てて駒を進めながらのご主人様の言だった。
無言のままこくりと頷いてから、ゆらゆらとランプの灯に照らされた影が揺れる盤面を見据えて打ち返せば、ご主人様は機嫌が良さそうに頬を緩める。
「その反面、打ち筋の変化は目覚ましい。対局の度に変化が見られる。覚えも良い。正直、奴隷にしておくには惜しい逸材だ」
ご主人様は投げかける言葉に返事は求めていない。私は、その言葉に耳を傾けて頷くだけで良い。
ただ、この日、私は生まれて初めて人から褒められた。奴隷相手にお世辞なんて言わない、それが分かっているからこそ、ほんのりと胸の奥が暖まるのを感じる。
そんな私を片目で見つめながら、ご主人様は『ふん』と鼻を鳴らしてカツンと再び駒を動かした。
檻の中と比べて時間は目まぐるしい勢いで過ぎていて行き、私がお屋敷にやって来てから数年が経過した。
私もそれなりに成長したけど、この頃になるとご主人様も成人間近となり、すっかりと背も伸びて、ただでさえあった身長差が更に開けた。
成人が近まれば、自然とご主人様の身の回りも騒がしくなる。外に出掛けて行く姿を見かける事も珍しくはなかった。けれど、夜の対局だけは途切れることなく、此の時分までも続いていた。
「最近、よく見合いを勧められるようになってな。俺もこの家の跡取りだ、必要な事だと理解しているのだが、如何せん碌な女がいない。相手を探すのすら一苦労だ。俺はこうも見る目が無かったのかと、思う度に辟易とする」
変わったことと言えば、年を経るにつれて、ご主人様はこうして身の回りに対する愚痴をよく零すようになった。奴隷である私は周囲に言いふらすなどする訳もなく、吐き出す相手として丁度良かったのだろう。
いつかと比べて物が減った部屋の中、盤面を挟んで、顎をつくご主人様の言葉へ静かに耳を傾ける。
「その点お前に関しては、当時も思ったが、我ながら中々の目利きだったな」
クックッと喉を鳴らしてグラスを傾けながら、ご主人様は今まさに対局中の盤面へと目を落とした。この時点での局面は大まかに互角。ややご主人様が優勢ではあるが、まだどちらに転ぶとも取れない状態だった。
駒を一つ手に取って弄びつつ、ご主人様はチラリと私を見やる。
「俺はこれで国内でも有数の指手だ。先日赴いた夜会でも、腕に覚えのある者が集まる中負け無しな程にだ。そんな俺を相手にどうだ、お前は互角以上に渡り合うようになった。奴隷のお前がだ。これ程愉快な事を笑わずにいられるものか」
カラカラと笑い声を上げるご主人様を前に、私は戸惑い気味にぺこりと会釈を返した。
あの日私を選んだ理由については、ご主人様は一言、勘だと言う。なんでも目が合った瞬間、こいつにしようと決めたらしい。
「しかしだ、現在の俺の見る目の無さを鑑みるに、お前の才覚を発掘したと言うよりも、単に俺の教えが良かった可能性の方が高いのが難点だ。そうなると、俺は人生を通して見る目が無い事になる。…やはり、この結果はお前の隠された才覚によるものだとしておこう」
おどけて両手を上げると、ご主人様はそのまま物思いにふけるように窓の外を見上げる。その双眸にランタンの灯が反射して、あたかも降りしきる雪が煌めいているように見えた。
「…近いうちに、このボードゲームを対象とした行事が催される。競い合い、最後に残った者が国内最強を冠する。これに出て見ろ、お前は難なく勝ち進み、頭角を現すに違いない。そして、果てには俺とお前が対局するんだ。仮に、お前が奴隷でなかったなら…いや、言っても詮の無い事だ。忘れろ」
瞼を閉じ、らしくない事を言ったと頭を振るご主人様は持っていた駒を盤面に置いた。その姿が、妙に私の記憶へと残っている。私は初めて、ご主人様の命に背くことになった。それからご主人様は黙々と駒を動かし、部屋の中にはカツンカツンと、盤面に駒が置かれる音だけが響き続けた。
その日から暫くして、お屋敷に見慣れない豪華なドレスを身に纏った女性が頻繁に訪れるようになった。
雪の激しい日でも関係なく、女性は馬車に乗ってやって来る。相手をするのは決まってご主人様で、普段と比べより一層畏まった格好をしているのを見るに、大事なお客様なのだろうと想像がついた。
ご主人様の前ではにこやかな彼女は、時折気に入らぬと、その腰に携えた鞭を持って奴隷に折檻を加えた。私は運よく地下室の掃除をしていたりとその対象にはならなかったが、鞭の痛みに悲鳴を上げれば更に数度と振り下ろされるそれに、多くの奴隷が傷を負う事となった。
打撲と違い、鞭による折檻は生傷が生じる。その為、よく労働の合間に、他の奴隷の傷を洗っていた。
女性がお屋敷に来るようになってから、もう一つ変化があった。
普段は冷静で理知的なご主人様が、何処かピリピリとした空気を発するようになった。夜の対局の最中でも、明らかに口数が減っていたし、使用人や他の奴隷に対する態度も以前より厳しく見えた。
だからだろうか、お屋敷全体の雰囲気は重苦しいものとなり、奴隷たちの間にも沈鬱な空気が漂う。一介の奴隷である私に、何が出来るでもなく、ただその変化を受け入れる他なかった。
この頃のお屋敷は、あの冷たく狭小な檻の中に似ていた。
日に日に冷たさを増していくご主人様と対面して、静寂を引き連れたまま、黙々と対局を続ける。そんな、とある夜の一幕に、突然ご主人様は駒に置いた手を止め、言葉を零すように口を開いた。
「次の月隠れの日、昼からの予定を空けた。あの女も、その日だけは屋敷に来ないだろう。ゆくゆくは領民を預かる身だが、偶には気を抜かねば、果てはいたずらに資源を消費する愚に落ちようというものだ」
駒を見つめがら淡々と話していたご主人様は、そこで一度言葉を途切れさせた。饒舌なご主人様がこのようにするのは珍しい。
私は椅子に座ったまま、静かにご主人様の言葉を待つ。やがて、ご主人様は顔を上げると、私の目を真っ直ぐと見つめた。ゆらりと揺れたランプの焔が、壁に映った私とご主人様の影を揺らした。
「その日は夜ではなく、昼から俺の部屋に来い。久しぶりに何も考えず、日がな一日、お前との対局に没頭したい」
後から思えば、この日のご主人様はらしくなかった。けれど私がそれに気づくことは無く、ジワリと骨身にしみ込むような心地よい感覚を覚えながら、こくりと一つ頷く。すると、心なしかご主人様が纏う空気が和らいだ気がした。
そしてご主人様は少しだけ、ほんの僅かに、その口元を緩めて見せた。
それから、ご主人様は以前のような穏やかさを取り戻したように思う。私も私で、昼は奴隷の雑務に追われ、夜はご主人様の部屋で過ごしながら、月が隠れるのを心待ちにしていた。
女性の方もあれから何度かやって来たけど、ご主人様に変わりは無かった。その女性の家はご主人様にとってあまり強く出れない立場にあるらしく、押し入るように屋敷に来る女性をないがしろに出来ないのはそういう理由なのだと、ため息交じりにご主人様は零していた。
奴隷以外にも身分や立場というしがらみはあるのだと、驚いたのをよく覚えている。
そうして迎えた、月に一度の月隠れの日。放たれた矢のように過ぎ去っていた時間が、この日までの間だけは、水の中にあるかのようだった。
私はご主人様の言いつけ通り、昼食を終えたご主人様の待つ部屋へ向かい、屋敷を歩いていた。こうして昼間にご主人様の部屋へ行くのは幼少期以来で、ふと当時の事を思い返していると、廊下の向こうから聞こえる喧騒に気が付いた。
出所は、丁度ご主人様の部屋がある辺り。甲高い声と共に、微かにご主人様の声も聞こえた。何か言い争っているらしく、部屋の傍に着いた私はどうしたものかと、その場で立ちすくむ。
やがて、部屋の中からガシャンと何かが床に落ちて割れる音と共に、勢いよく扉が開いた。中から逃げる様に飛び出てきたのは、ご主人様が今日は来ないと言っていた筈の女性で、大粒の涙をその眦に溜めたその女性は、扉の傍にいた私を突き飛ばす。
尻もちをついた私の横を、翻った豪華なスカートが通り過ぎて、女性はそのまま私に一瞥もくれることなく走り去っていった。
混乱しながらも、何とか立ち上がった私は、そっと部屋の中を覗き込む。
まず目に入ったのは、窓の外を見つめるご主人様の背中。その横では、私とご主人様が向かい合い座っていたテーブルと椅子が倒され、床の上には割れたランプと、テーブルの上に置かれていた盤と駒が散らばっていた。
私は咄嗟に駆け出して部屋の中に入ると、床に膝をつき、散らばったそれらを拾い集める。これは、ご主人様が最後に残したものだ。部屋から無くなっていく物の中で、唯一これだけは残されていた。
拾い集めた駒を腕に抱えて視線を上げれば、いつの間にか、ご主人様はこちらへと振り返っていた。
私が拾い集めたそれらを見て、ご主人様が歯を食いしばったかと思うと、鈍い音共に左頬に衝撃が走った。抱えていた駒が宙を舞い、私は床に投げ出される。口の中に、鉄臭いにおいが広がる。顔を上げて、横に振り切られたご主人様の左腕を見て、私はようやく自分が殴られたのだと悟った。
床に視線を向ければ、再び散らばった盤と駒。身を起こしてそれらを拾い集めようと手を伸ばす私に、ご主人様は背を向けた。
「…もういい、下がれ」
かすれ声で告げられた命に、はたりと、駒を拾う手が止まる。
私は奴隷だ。ご主人様の命令に背く権利なんて持っていない、命令に従わないなんて許されない、許されてはならない。
手に持った駒を静かに床に置いて、急いで立ち上がった私は、ご主人様の背に向けて頭を下げると、足早に部屋を出た。扉を閉めた直後、先ほどよりも一際大きく響く鈍い音を背にしても、私は部屋に戻ることはしなかった。
私達奴隷に部屋が割り当てられることは無い。奴隷が寝食を行うのは、屋敷の地下にある空間だった。
私は広い地下室の一角に座り込んで、ジクジクとした頬の痛みに感覚を寄せた。確認はしてないけど、殴られた箇所はきっと赤くなっている。ご主人様に手を上げられたのは、これが初めてだった。
分かっていた、理解していた事だけど、改めて私はご主人様の奴隷なんだと、突きつけられた気がした。
他の奴隷はこの場にいない、皆一様に上に出て働いている。なら、私も行かなければならない。こんな所で、蹲ってはいけない。私は立ち上がって、他の奴隷の元へと向かった。私の頬を見て、皆驚いたようにしていたけど、それを気にしないようにして、私はひたすら労働力として手足を動かし続けた。
次第に屋敷の外が暗くなって、奴隷が地下に戻される。いつもだったら、少し待機してからご主人様の部屋へ向かう頃合いだけど、昼の件もあり、どうすれば良いのか分からなかった。
もう、ご主人様の部屋へ行ってはならないのか、どうなのか。私が考え込んでいると、数人の使用人が地下へとやって来て、私を呼び出した。ご主人様からの使いだった。
けれど、この日はいつもと違った。私を呼び出すと、すぐに何処かへ行くはずの使用人たちは、私の手を取ると、奴隷は使用できない筈の洗い場へと連れていき、念入りに私を洗った。為されるがままの私を素早くタオルで拭き、髪を乾燥させると、着た事も無い上等なキャミソールを着せられ、上から防寒用の毛皮を被せられた。
そのまま私をご主人様の部屋の前まで送り届けると、ここでようやく使用人たちは去っていった。
ポツンと部屋の前に一人残された私は、一瞬の逡巡の後、震える手でノックをして扉を開けた。
部屋の中は暗かった。新しいランプに火は灯っておらず、ようやく目が慣れてくると、いつもの窓際の椅子に座ったご主人様の姿が見えてくる。
元の位置に戻されたテーブルの上には、盤が置かれて綺麗に駒が並べられている。それを確認して、私がほっと胸を撫で下ろしていると、ご主人様は徐に立ち上がって、私の側に向かい歩みを進めた。
言葉はない。ご主人様は、無言のまま私の目の前に立ち、そっとガラス細工に触れるように優しく、私の左頬へと手を添える。触れたご主人様の手から流れ込んでくる温もりは、緊張の氷を瞬く間に溶かして行った。体から力を抜いた私は、伸ばされた右手とは逆のご主人様の左手へ触れた。傷ひとつなかったご主人様の手には、今や薄く瘡蓋が出来ていて、少しざらざらとした。
上を向くと、ご主人様と目が合った。気を抜けば、途端に吸い込まれてしまいそうな瞳に魅入られて、動きを止める私にそっとご主人様の顔が近づいて、私も踵を上げてゆっくりと瞼を閉じる。
触れ合うご主人様と私を隠すように、風に吹かれた扉が焦らしながら閉じていき、淡い光を寸断して、がちゃりと音を立てた。
事が終わり、地下室に戻った私を迎えたのは、階段の傍に集った大勢の奴隷たちだった。この屋敷にいる奴隷の大半が、ここに居る。起こさないようにと静かに戻って来たのに、それは無駄に終わったらしい。
呆気に取られた私が立ちすくんでいると、よく私を気に掛けてくれていた女奴隷が割って出て、強く抱きしめられた。彼女の胸の中、微かに上から嗚咽が聞こえてくる。周囲の奴隷たちは、私の乱れた髪と、身に纏った上等なキャミソールを見て、皆同情的な痛ましい表情を浮かべていた。
違う、そう否定しようと頭を振ろうにも、強く抱き留められた体がそれを許しはしなかった。その日は、朝までずっと他の奴隷たちが傍にいた。
それから、数か月の時間が経った。私は相変わらず、ご主人様に呼び出されては盤を挟んで駒を動かす毎夜を送っていた。あれきり、ご主人様は私に手を付けようとはしない。代わりに、前にも増して、雰囲気が穏やかになった気がした。私も、楽しそうに話すご主人様に耳を傾けるのは楽しく感じる。
けれど一つだけ、奴隷の私にも悩みが出来た。
近頃、よく胃の中身を戻すようになっていた。それも一度や二度でなく、日に何度も強い吐き気を感じる。それでも、何とか周囲にバレないようにと気を張っていたのだが、一度、ご主人様との対局中に抑えきれず吐いてしまった。
奴隷が主人の部屋を汚した。その事実に顔を青ざめさせていると、少しして、ご主人様に立ちあがるようにと促された。命じられるがままに立ちあがれば、ご主人様は手を振りかぶるでもなく、徐に私の上着を捲り上げ、露わになった私の腹部にそっと手を当てた。そして、暫しの沈黙の後、ご主人様は手を離すと一言だけ、「下がれ」と私に命じた。
ご主人様の態度を不思議に思いながらも迎えた翌日の朝、地下から出た私を待っていたのは、件のご主人様と見慣れた年配の使用人だった。
近くの部屋に入れられて、使用人が聞いてくる幾つかの質問に頷くか首を振るかで答える。使用人は質問が終わると私の身体を確認しだし、最後に私のお腹に触れると、ご主人様の方へと向き直り一つ頷いてみせる。
私はこの時初めて、自分がご主人様の子供を授かったのだと知った。
使用人が出て行き、自然と部屋の中にはご主人様と私の二人が残された。会話も無く、私はポツンと現実味の湧かないままに立ち尽くし、ふと自分の腹部に手を当ててみる。ご主人様はそんな私をチラリと横目に見ると、小さく息を吐いて、部屋の扉の方へと歩いて行く。そして扉を開いて部屋を出る直前、足を止めたご主人様は微かにこちらへと顏を向けた。
「産みたければ産め」
それだけ言い残して、今度こそご主人様は部屋を後にする。その背中に向けて私は、ご主人様の言葉を噛み締めながら、深く頭を下げた。
最初こそ微かな命を宿すばかりだった私の腹部は、月を跨ぐごとに見違える様に確かな膨らみになっていった。ご主人様との夜の対局も、それに比例して短くなっていき、最近では一局だけで帰される事が多くなった。
そうして、すっかりと大きくなったお腹に時折振動を感じる様になった頃。この頃になると、奴隷の間でも私が妊娠している事は周知の事実になって、階段の上り下りですら、誰かしらが付くのが恒例化して、割り振られる仕事の量も、以前に比べて極端な程に減っていた。
私に出来る事と言えば、奴隷の寝所である地下室を掃除するくらいだが、あまり私が動き過ぎないようにか、先んじて他の奴隷が綺麗にしているモノだから、本当にやることが無い。
しかし、何もせずに時間が流れるのを待つにも、落ち着かない。これまで、いつも何かしら命じられて動いていた。それが何もなく、自分の意志で一か所に留まり続ける事が、私には出来なかった。
重心に気遣いながら階段を上がり地下室を出る。周囲に他の奴隷の姿は無く、窓拭き用の布を持った私は窓際に行き、順々に曇った窓を拭いていく。
外は相変わらず吹雪いていて、少し先を見通すことも出来ない。窓の外を眺めながら、ふと私は自分の膨らんだ腹部へと目を落とした。
この子は、産まれたらどうなるのだろう。奴隷の子は奴隷、私がそうだった。けれど、この子は違う。この子は私の子供だが、同時にご主人様の子供でもある。ご主人様のように家の跡取りにはなれずとも、せめて奴隷ではなくご主人様の子供として、と願うのは私の傲慢だろうか。
子供の奴隷は少ない。奴隷になる子供が少ないわけでは無い。劣悪な環境、少ない食事、子供が生き残るには、奴隷としての生活は厳しすぎる。労働力にならない為か、大した値もつかない事もその一因だった。
私は、運が良かった。運よく生き残れて、運よくご主人様に買われて、こうしてここに居る。けれど、この子もそうだとは限らない。
奴隷である私が、こんな事を願うのもおかしいのかもしれない。でも、この子だけはどうか、奴隷という身分から解放されて欲しい。ご主人様は、この子をどう思っているのだろう。初めて、ご主人様に聞いてみたい事が出来た。
「お前は、何をしている」
聞こえてきた声にぱっと顔を上げて振り返ると、丁度ご主人様がこちらに向かって歩いて来ていた。ここでご主人様と会うのは珍しい。慌てて頭を下げて、私が持っていた布を掲げて窓を指し示すと、ご主人様は目を丸くして、大きくため息をついた。
「お前への仕事は減らしていた筈だが、そうだったな、奴隷とは元来そういうものだった。そんな体ではまともに動けない程度の事、理解していないお前ではないだろう」
ご主人様はこめかみを抑えながら、何処か叱りつけるような口調で続けた。
「とはいえ、ここで帰してもお前はジッとしていられないのだろうな。なら、命令だ。正面扉の近く、お前の妊娠を調べたすぐそこの空き部屋だ。あの部屋で待機していろ。お前に、話しておきたいことがある」
ご主人様に言われて、私は目を瞬かせた。私も、丁度ご主人様に聞いてみたいことがある。しっかりと頷いて見せると、ご主人様は満足そうな、でも何処か疲れたような笑みを浮かべてから、廊下を歩いて行った。
その背中を見送った私は命じられた通り、よたよたと方向転換しながら、部屋の方へと向かう。少し動くだけでも一苦労なのは、ご主人様も言った通りだった。
ようやくたどり着いた部屋の取っ手に手を掛けると、バタンと後方で勢いよく扉の開く音が聞こえた。それに伴って、吹き込んでくる冷気が背筋を冷やす。
何事だろうと、ゆっくりと振り返っていると、横合いからドンと強い衝撃を受けた。足がよろけて、思わず壁に縋るように倒れ込む。遅れて、焼けるような痛みが全身を駆け巡った。霞む視界の端に、ひるがえった豪華なスカートが、扉の外へと消えて行くのが見える。
視線を下ろせば、腹部から短剣が生えていた。真紅の液体が、綺麗な銀色を伝ってカーペットの上へと滴り落ちている。
ぐらりと視界が揺れた。姿勢を保つことすらできず、床の上へと倒れ込む。あまりの激痛に、意識がどんどんと遠のいていく。けれど、私が意識を手放すことは無かった。波のように押し寄せた、より大きな痛みが、私の意識を繋ぎとめた。短剣とは別の、お腹の中から感じるそれに目を開くと同時に、太ももに液体の感覚を覚える。
子が生まれたがっているのだと、直感的に私は悟った。
再び、扉が開く音が聞こえた。戻って来たのかと思い、顔を上げると、そこに居たのはよく私の面倒を見てくれた女奴隷だった。
彼女は私の惨状に目を見開くと、慌てて駆け寄って来て、人を呼ぶように何度も大声を上げた。その声に反応して、屋敷の中も騒がしくなる。そして、直ぐにこちらにやって来たのは、ご主人様だった。
ご主人様は私の姿を見て、途端に表情を歪ませかけた。けれど、ご主人様の後から、使用人や他の奴隷たちもやって来る。ご主人様はすぐに立て直すと、私に背を向けた。
「…地下室に、連れていけ」
その命令に従って、私は他の奴隷の手で地下室へと運ばれた。ご主人様はこの場にいない。奴隷の入る地下室に、ご主人様のような人が入ってはいけない。
代わりに、年配の使用人が一人、私についてこの場に入った。
知識のある彼女の言葉に従って、私は何度も大きく深呼吸を繰り返す。女奴隷は、私の横でボロボロと大粒の涙を零しながら、ずっと呼びかけてくれていた。
真新しい布が、私の腹部に添えられては真っ赤に染まっていく。焼けるような痛みで、意識を手放しそうになっても、その度に波のように押し寄せるさらなる激痛に意識を引き戻される。まるで、子供が私を繋ぎとめてくれているようだった。
寒くて、痛い。あの頃とよく似ている、あの、全てに耐えるしかなかった頃と。けれど、今は確かな違いがある、違いがあるのだと分かる。
私は、この痛みが愛おしいと思えた。私を繋ぎとめるこの痛みが、ご主人様との繋がりを感じさせる、この痛みが。この世の何よりも、愛おしいと思った。
それから、どれだけの時間が経っただろう。永劫にも感じた時間は、突如として終わりを迎えた。
体の中から、子供が居なくなったのを感じた。途端に周囲からも歓声が上がったのが分かった。周囲の奴隷たちが歓喜の表情で抱き合って。けれど、直ぐにそれらはかき消えて、地下室に重苦しい沈黙が流れた。
静かだった。何も聞こえない。私は、耳が聞こえなくなってしまったのだろうか。傍にいる女奴隷に霞む視界の中視線を向けても、彼女は呆然とした表情で俯いている。あれだけ話しかけてくれていた年配の使用人も、痛ましい表情で黙り込んでいる。周りを見渡しても、誰とも目が合わない。
どうして?どうして、誰も何も言ってくれないの?私の子供は?私と、ご主人様の子供は?
「聞こえている」
静寂の地下室に、よく響くその声は天啓のようだった。顔を上げれば、ご主人様が一段一段と階段を下り着ているのが見える。その綺麗な瞳は、私を真っ直ぐしっかりと捉えている。
ゆっくりと私の傍まで来たご主人様は、今まで見た中でもとびきり優しい笑みを浮かべて、その場に膝をついて、私の手を取った。
「聞こえている。お前と、俺の子供だ。元気に産声を上げているぞ。よく、頑張ったな。…今はもう、休め」
暖かい。冷えた指先に触れるご主人様の手は、あの頃のまま、なんら変わらず私の心に熱を灯してくれる。
私のご主人様が、貴方でよかった。貴方の奴隷が、私でよかった。だって、そうだ。記憶の何処を探しても貴方が居て、貴方に恋をして、こうして、貴方の子供を産むことが出来た。これ以上なんて、考えられない。
脳の微弱な信号が、私を幸せで包み込む。最期の最期まで、ご主人様の温もりを指先に感じて、私の意識は暗闇の中へと落ちていった。
これが、私の結末。ご主人様に恋をした、奴隷少女が迎えた結末だった。