夢を見ると、いつも丁度いいところで目が覚めてしまうのはなぜだろうか。
難関大学へ挑戦する夢では、合格発表時、自分の番号を探している最中に目が覚め、お宝を探す夢では、やっとの思いで最後の謎を解き、宝箱へ続く道を探し当てたところで目が覚める。幕末に飛ばされる夢では、あこがれの新選組の面々と会う直前。いつも、まさに「これから」という絶妙なタイミングで目が覚めてしまう。なぜだろうか。その宛先のない問いを、夢を見る度に悶々と、ただ悶々と、靄のかかった胸中に抱えて生きてきた。
◇
しかし今回、ついにその問いに対する答えのようなものを導き出すことに成功した。
いつも、夢の記憶というものは断片的にしか残っていない。難関大学へ挑戦する夢も、掲示板には貼りだされた5桁の番号の羅列を見た覚えはあれども、そこに至るまでどんな勉強をしたのかは覚えておらず、幕末の夢に関しては、気が付いたら新選組の詰所に立っていた。そこに行きつくまでにどんな道を通ってきたのか、誰と会話をしたのかなど、細かい要素はまったく思い出せない。基本的に、目覚める直前の光景以外は忘れているのである。
しかし今朝の夢は、比較的細かい部分まで思い出せる。冷えた感触も指に残っており、湿った匂いも鼻の奥にこびりついている。つまり、いわゆる明晰夢に近いと思われる。
◇
私は、ふと気が付くと、霧がかかった湖の上に立っていた。お気に入りの黒いスニーカーを履いて、湖の水面に立っていたのだ。
一歩、足を踏み出すと、接地、いや
私はこの状況にわずかな既視感を覚えた。だが、自分自身がここに来たという記憶は無い。これは、記憶の有無の話ではなく、〝知識として覚えている〟という感覚だ。
形容しがたい気分のまま霧が立ち込める湖を歩いていくと、やがて大きな影が見えてきた。まだかなり距離があるにも関わらず、見上げなければならないほど大きい、人間の身長とは比べ物にならないほど巨大な影である。
建物の麓にたどり着いて分かったことだが、それはドイツのノイシュバンシュタイン城の一部分を拝借したような、一本の巨大な尖塔だった。私は、その奇妙で衝撃的な存在に圧倒され、水の上に尻餅をついた。
塔は、地面ではなく水中から伸びてきており、そのまま曇り空を貫いていた。その姿は、神がこの湖に槍を刺したのだとか、北欧神話の世界樹を改造したのだと言われても、何の疑問も抱くことなく納得してしまいそうなほど、勇ましく、雄大であった。壁面に目を向けると、無数の小さな丸窓が、点斜線を描くように塔の先端を目指して伸びていた。麓から見上げると、それはまるで螺旋状の模様のようだった。
ここで私はハッと思い出した。そして、なぜ湖の上に立っていた時点で思い出せなかったのかと、なぜ忘れてしまっていたのかと、冷たく苦しい虚しさが胸を襲った。
これは、私が学生時代に熱中した、ヨーロッパの小説に登場する幻想の塔だ。その小説は、この塔を中心としたオムニバス形式の幻想奇譚であり、大まかなストーリーは、何か重大な悩み事を抱えた主人公が、夢の中でこの塔に招かれ、そこで多種多様な体験をして、その過程で悩みを解決するヒントを得る、というもの。短編ごとに結末の良し悪しも違い、たいてい、塔内で与えられる重大な選択を失敗してしまうと、その主人公はバッドエンドを迎えてしまう。この〝重大な選択〟の内容もキャラクターごとに異なり、なかにはどれがその選択だったのかわかりにくいものもある。なので、なぜこのキャラクターは不幸な結末を迎えてしまったのか、それに至る重大な選択とはどれのことだったのか、と考察するのもこの物語の醍醐味の一つである。
私は、一度でいいから、この塔に招待されてみたかった。自分の場合はどんな選択を迫られるのかを確かめてみたかった。そして、今の自分にすべきこと、必要なことを知りたかった。それが今回、叶ったのだ。
思わず体を動かせないでいると、真正面の白い壁に、植物の蔓を想起させる模様が浮かび上がった。蔓は徐々に伸びてゆき、ぐるぐるとゼンマイのようなトグロをいくつも巻きながら、両開きの扉の形に纏まっていく。そして最後、鍵穴を描き終わると、ゴッと重厚な音を響かせて、扉は私に向かって開いた。この一連の展開は、小説の中の展開とそっくりそのまま同じだった。
扉を潜り、白い大理石の床の感触を確かめるよう、靴音を鳴らしながらゆっくりと足を踏み入れる。
そこはエントランスだったが、やはり殺風景だった。これも小説と同じだ。円形の空間の中央にはホテルのコンシェルジュが使うテーブルカウンターがあり、部屋の両端には、壁の曲線に沿うようにして、これまた大理石の階段が上階へ伸びている。しかし、それ以外のものは何も置いていない。まるで上階へ案内するためだけの最低限の設備しか整えられていないよう。しかし、これがこの塔のエントランスホールなのだ。
テーブルカウンターの上に、天井から一枚の紙が、ひらひらと舞い降りた。天井を見上げて紙の出どころを探してみるが、それらしきものは見当たらない。私は早々にそれを諦め、紙を手に取り、内容を確認した。多くの場合、この紙には短編の主人公に関わる意味深な文章が書かれている。ある種のお告げのようなものだ。主人公はこのお告げを授かった後、階段を昇って主人公だけの体験をする。
私の紙はこう告げていた。
『汝、求めることなかれ。抗うことなかれ』
このお告げは小説には無かった。つまりこれは私だけのお告げだ。心が高ぶるのを感じた。
ここから、私だけの物語が始まるのだ。
テーブルカウンターを後にして、私は階段を昇った。
その先には一枚のドアがあった。相変わらずの真っ白なドアである。
私はドアノブを表面を舐めるように握りこんで、ゆっくりと回した。
その先は懐かしい部屋だった。正方形の床板に、縦六列横七列にずらっと整列する木製の机。うっすらとカビの生えた蛍光灯。霜が降りた黒板。紛れもなく、学校の教室だった。机のフックに掛かっている鞄を見るに、どうやら私が通った中学校のようである。服に目を向けると、これまで着ていたTシャツは学ランに変わっており、目線も少し下がっているので背も縮んでいる。後ろを振り返ると、先ほど通ったドアもそこには無く、古い学校特有の痛んだスライド式の扉が無骨に立っていた。
小説にもタイムスリップをしたキャラクターが何人かいた。なので、ああそういう感じね、といったように、特段驚きはしなかった。
しかし、これから私は何をするのだろうか。中学時代にタイムスリップしたのはいいのだが、私の中学時代は激動という概念と対極をなすほど穏やかで、いつ思い出してもモノクロで想起させられるような、酷く退屈なものだった。
そこまで考えたところで、なるほど、と手で小槌を打った。きっとこの物語は、そんな悠々の権化のような中学生活を、刺激に事欠かないようなものに変える物語なのだ。
と、その時、教室のスピーカーから甲高く連続した金属音がけたたましく鳴り響いた。この音が何の音なのか、私はすぐに合点がいった。この忌々しい音とはもう何年もの付き合いなのだ。
イヤ、嫌だ。私はまだここで何もしていない。私の物語は始まったばかりなのだ。それなのに、もう終わりか。終わりなのか。そんな馬鹿な。
私は近くにある誰のものかもわからない机を掴んだ。この空間に存在するものの感触を手で確かめていないと耐えられないような気がしたのだ。
みっともなく身体を震えさせていると、突如として、教室の前後の扉が音を立てて開き、大勢の生徒がわらわらと入ってきた。中には見覚えのある顔もいる。
私は盛大に息を吐いた。やっと始まったと思った。遅いと呆れた。スピーカーから流れる雑音も、心なしか遠くなったような気がした。
しかし、彼らは私に目もくれず、各々自身の机に座っていった。同じ部活の彼も、同じ委員会の彼女も、まるで私が見えていないかのように。
私は動揺を隠せなかった。誰か、誰か、と縋るように通り過ぎる同級生たちの顔を見た。誰か、私に話しかけてくれ。誰でもいいから何か選択肢をくれ、と。
すると、ようやく、一人の女の子が私に近づいてきた。幼稚園からの幼馴染である。そういえば、彼女はこの年に転校したのだったか。ともかく、懐かしい顔だった。
彼女は私と目を合わせることなかった。その代わり、すれ違いざまに耳元でささやいた。
「お前に選択肢はない」
野太い男の声で。
その意味を私の心が理解するのを待たずして、背後の壁が轟音を立てて崩れ落ちた。思わず振り向くと、教室の壁には大きな穴が開いており、その奥には雲の雪原が広がっていた。いつの間にこのような高所まで登ってきてしまったのだろうか、と思考を巡らせる暇もなく、突風が教室を席巻し、整列する机の合間を縫って私の身体を包み込んだ。私は突風に押し運ばれ、そのまま抵抗を許されることはなく、地上を覆いつくす雲海に放り投げられた。
◇
気が付くと、私はベッドの上だった。
シーツは汗でぐっしょりと濡れていた。目覚まし時計は寝坊だとしつこく怒鳴っていた。霧がかった湖も、雲海を貫く尖塔も、結局のところ、自分の手の届かない存在には変わりないのだと改めて実感させられた。
心は言い表せない虚しさに襲われていた。だが、頭はある知見を得ていた。それが、「なぜ夢を見るといつも丁度いいところで目覚めてしまうのか」という問いへの答えである。
答えは簡単だった。私自身が、無意識のうちに最高の状態で夢を終わらせていたのである。その後に待ち受ける最悪の結末を見たくないがために。