ヘッケン・ヴォルフはターニャ・デグレチャフのヒモだ。彼女の傷痍軍人恩給を頼りに暮らしている。
ターニャは今年で十三歳。戦争が始まったばかりの時は十歳にも満たなかった。そんな彼女は西部戦線で大暴れし、そこで生死の境をさまよう瀕死の重傷を負った。幾度かの手術の末に一命はとりとめた。幼い命はその火を潰えさせずに済んだのだ。喜ばしいことだった。本来ならば。
片目を摘出し、片腕と片足を一本ずつ切除した。足や腕のことを一本だとか、そんな風に数えることが出来てしまうことが、ヘッケンには悍ましいものに感じた。ターニャは生き残った。大口径の高射砲弾が直撃したにもかかわらずだ。
ヘッケンは思った。これは奇跡だ。彼女の生が、神に望まれているとしか思えなかった。けれど、同時になんて残酷なことを神様はなさるのだろうとも。
魔導を操り、遥かな上空を鳥や飛行機でもないのに自由自在に飛び回る姿に、いつか、憧れを抱いたことがあったかもしれない。けれども、戦争が始まってすぐに、その憧れは切実に、かつ生臭い渇望に取って代わってしまった。
逃げたい。逃げたかった。空の上に逃げたかった。延々と続く塹壕での暮らしに気が狂いそうだった。人の顔が見えない距離で撃ち合っている内はよかった。敵に弾が当たろうが、当たるまいが気にならなかった。寧ろ、銃を撃つという、狩猟以来の非日常の感覚に酔ってさえいた。支給される食事は実家で食べていたものには遠く及ばなかったけれど、それでも腹一杯に食べられるということは貴重な娯楽だった。
元々淡白だったヘッケンが軍に入ったのは、純粋に家訓のせいだった。代々将軍を輩出する名家に生まれ、ヘッケンも幼い頃は何もせずともそうなれるものだと考えていたのだ。だが、現実は違った。ヘッケンは温厚で、優しく、何かにつけて敏感で…挙げればキリが無いが、彼はとにかく軍人に向いていなかった。敢闘精神など皆無だ。喧嘩を仲裁するくらいの度胸があればよかったものの、彼は殴り合いの喧嘩だなんて野蛮な行為そのものに出くわした試しがない程度にはお坊ちゃまだった。
育ちがよい彼は周囲が唸るほどの美貌を兼ね備え、尚且つ人格にも素晴らしいものがあった。父親はヘッケンが政治家になれば首相になる日も遠くないとさえ考えていたほどだった。けれど、その前に戦争が始まってしまった。ヘッケンの様な貴族は、ほとんど習慣的に軍隊に入ることになっていた。勿論、戦争の実態を知っている貴族の中には、自身の親族や子息の兵役を回避する為に手を尽くすことも普通だった。
だが、ヘッケンの生まれた家は武門だった。筋金入りの武門の家に生まれて、しかも長男だった。ヘッケンには家を継ぐためにも、武門の当主に相応しい実績が求められた。その期待がどんなにヘッケンを苦しめるのか、大きな戦争がしばらくなかった欧州で、そのことを正確に理解している者は多くなかった。少なくとも、ヘッケンの周囲には。
その中には当然、彼の父親…グスタフ・ヴォルフ元帥…も含まれていた。生まれた瞬間から軍人になるために育てられ、軍人として生きることが当然だと考えていたグスタフは、愛息ヘッケンにも当然のようにそのことを要求した。それは要求ですらなかった。季節の変わり目と同じ類のことだった。グスタフはヘッケンを半ば強引に士官学校に送り込み、そこでのヘッケンの成績が鳴かず飛ばずであることを知ると、躊躇なく当時の士官学校の校長及びヘッケンの担当教員を更迭した。職権の乱用に違いなかった。そして、その割を食ったのはヘッケンだった。
士官学校でいじめられたヘッケンは次第に、元々嫌いではなかった学業に嫌気が差し、日がな一日寝て過ごす様になってしまった。そんなヘッケンのことを、周囲は怠け者と呼び蔑んだ。
幸か不幸か、グスタフの愛情だけは揺らがなかった。息子がどんな痴態を晒したとしても、進級の危機に陥ろうとも、グスタフのヘッケンに対する愛情は変わらなかった。だが、そのことがかえってヘッケンの人生に暗い影を、この後も継続的に落とし続けることとなった。
父親の七光りだけで士官学校を卒業したヘッケンは、厄介払いされるように閑職に送られた。何もせずとも、日がな一日を机に齧り付いていれば済むような日々が続いた。が、間もなく戦争が始まった。遊ばせておく人材はいないということになり、ヘッケンにも前線での勤務が命じられた。
この時、ヘッケンは初めて父親に自分の意志で懇願した。
「父さん、僕は行きたくないよ…僕が行ったところで、カミソリの刃ほども役に立ちゃしないよ」
これに対してグスタフは満面の笑みで言った。
「愛するヘッケン、お前の言いたいことは理解できる。だがな、父さんはこう思うんだ。お前は座学が苦手だっただけで、戦場に出ればその才能が見事に開花するんじゃないかって…期待してるぞ。頑張って来なさい。なに、上手くいかなければすぐに帰ってくればいい。父さんが帰りの列車を手配しよう。将官用の一等車に乗って、コーヒーでも飲みながら帰って来るといい。補給将校にも、お前宛にうんと物資を送るように言いつけておくからな」
そして、このようにも付け足した。
「安心しなさい。戦争は年末の祝祭までには終わるよ。腐った藁屋根の小屋が倒れるみたいに、連中は帝国軍の前に敗北するのだ。そして、その先頭に立つのがお前だ、ヘッケン。連中が書く降伏文書に、父さんとお前の署名が並ぶんだ…あぁ、実に楽しみだ」
ヘッケンは不器用に笑った。それから何も言えずに引き返し、声をころして泣いた。僕は死ぬ。間違いなく死ぬ。絶対に死ぬに決まってる。
ヘッケンは生来敏感だった。その敏感さは特殊な才能とさえ言い換えても良かったが、それは皮肉にも彼の父親の言葉を裏付ける様な悪運とも紐づけられていた。
そして、前線で自身の率いる部隊に着任したその日に…不運にも、ヘッケンは大勝利してしまったのだ。
《開戦初頭の大戦果!圧倒的勝利の立役者はグスタフ・ヴォルフ元帥のご嫡男ヘッケン・ヴォルフ中尉》
でかでかと新聞の大見出しに掲載された記事を見て、ヘッケンは泡を噴いて卒倒した。
ウソだ。そんなバカな話があるか。ヘッケンは叫んだ。そして、急いで父親に電報を送った。
「父さん!僕はもう帰りたい!こんなところはもう嫌だ!」
ヘッケンの叫びはしかし、検閲を経て書き換えられ以下のように修正された上で元帥の手元へと届けられた。
「父上様、私は今回の大勝利を足掛かりに更なる栄光を家門のもたらしたく思います。つきましては、激戦地を熱望致します。最前線での活躍をご覧入れましょう」
父は大いに怪しんだが、参謀本部が修正した電報を、その足で新聞社にタレこんだことで大々的に報道されてしまい、これは既定路線となってしまった。覆すことは、武闘派かつ元帥であるグスタフには、尚のことできなかった。そこに、自己保身が無いとは否定できないが、同じくらいに息子を案じての配慮があったことは想像に難くない。ここで安全な内地にでも返してしまえば、戦争の英雄から臆病者へと評価は一変しただろう。だから、グスタフはヘッケンの転戦に関する書類について黙ってサインする他なかった。
果たして、ヘッケンは戦場を転々とすることになった。最前線では元帥の目が届かないのをいいことに、砲弾の弾幕をものともしない突撃を上官からの命令で強いられた。武闘派の面目躍如…聞こえはいいが、その実は死体の山の上で蹲っていただけだ。それしか出来なかった。
ヘッケンは最激戦地に次々と投入され、不運にも一定の戦果を挙げ続けた。沈まず、浮かび切らない程度の戦果を。それ自体は喜ばしいことだったかもしれないが、生来繊細かつ敏感なヘッケンにとっては戦場での暮らしがより長引く理由になるだけだった。
「悪夢だ。地獄だ。ここは地獄だ」
ヘッケンは毎晩悪夢にうなされるようになった。上官からサーベルを、拳銃を突きつけられて部隊の先頭に立って突撃することを強いられ続け、それでも死なない。死んだのは彼の周りにいた兵士だけだった。ヘッケンの渾名は勝利の立役者であると同時に『死神』だった。周囲に死を振りまき、自分の死だけは回避しているのだ、と言う言説が実しやかに広まった。戦場にも彼の居場所はなかった。
そうして長い戦場暮らしが続き、父親の配慮も滞り始める熾烈な総力戦を、戦争全体が呈するようになると彼の精神はいよいよおかしくなっていった。彼は頻りに空を見上げるようになった。彼が目で追っていたのは航空機ではなかった。空を自由自在に飛び回る航空魔導師を眼で追い続けていた。その視線がどんな類のものだったのか、戦争中の彼の異変に気付いていた者達は皆、口を揃えてこう言った。
まるで夢をみているようだった、と。
ヘッケンの中にはこの頃、既に逃亡の欲求がありありと現れていた。そのことを隠そうともせず、しかし、口に出すこともしなかった。心底苦痛だという様子で戦場に立つことすら、ヘッケンには困難だった。ヘッケンの表情は欠落していき、気を抜けば、ある一点を凝視するようになっていた。その先に何が見えていたのかはヘッケンにしか分からない。ヘッケンは、完全におかしくなっていた。
それは徐々に奇行として表れるようになった。意味も無く塹壕から這い出しては戦場を歩き回ったり、そこから無傷で帰ってきては泣き喚くこともしょっちゅうだった。ヘッケンは壊れてしまっていた。だが、まだ一筋の理性を保っていたように思われた。まだ、このときのヘッケンは人間のままでいられたのだ。だが、その危うい均衡が崩れてしまう、致命的な出来事が起こった。それが、ターニャの墜落現場との遭遇だった。
結果から言って、ヘッケンはターニャを救った。ずっと空を見上げていたヘッケンは、いち早くターニャの異変にも気がついたのだ。高射砲の砲弾が直撃し、炸裂した光、轟音、黒煙、白煙、それから小さな人影が、翼を失った鳥のように地上に向かって堕ちて行った。
ヘッケンは軍務を放り出して駆けだした。心臓がバクバク鳴っていた。駆けた。駆け抜けた。敵の陣地さえ横切った気がしたが、そんなことの真偽を確かめることなどは些事だった。ヘッケンは走り続けた。血が喉を伝っていくのが分かった。濃厚な鉄の香りがしていた。久しく分からなくなっていたものだった。新鮮にさえ感じて、忘れてしまっていたものを取り戻したことを喜ぶ暇も無く、ヘッケンは両腕を振って駆け続けた。
そして辿り着く。穴ぼこだらけの土がむき出しの道路沿いにある家を。その無人の家屋は屋根が陥没していた。ヘッケンはよろよろと近づいて行って、そこでお人形さんの様な…瀕死の幼女を発見した。
殆ど千切れかかった腕。赤い毛糸で繋ぐことで、辛うじて身体から離れていないように見えた。ヘッケンは吐かなかった。それどころか、率先して彼女の救護に取り掛かった。軍服の袖を銃剣で引き裂き、兎に角、必死にやった。医療の知識など、応急処置意外に知らなかった。目の前の幼女は瀕死だった。このままだと間違いなく死ぬだろう。応急処置など焼け石に水だ。ヘッケンの判断は恐ろしく冴えていた。まるで人が変わった様に。
ヘッケンは軍服で幼女の体全体を包んだ。軍服は直ぐに真っ赤に染まった。ヘッケンは頭の中が空っぽで、自分のことを俯瞰してみている様だった。それくらい必死で、身体が勝手に動いていた。この時を逃せば、他のどんなときも無価値に終わってしまうとでも言うように。そして、金髪の幼女を抱き起そうとして、その体の小ささに我に返った。幼女は小さかった。あまりにも、小さかった。高高度での利用を考えられている防寒服の重さを含めて尚、細身のヘッケンが抱きかかえられるほどに、幼女の体は小さかった。幼く、か弱く、柔軟過ぎるくらいに、手足は力なくだらりと垂れていた。
ヘッケンは再び走り出した。向かう先は野戦病院だった。元来た通りに駆けた。駆け抜けた。上官の声掛けも聞こえず、制止されれば馬鹿力で押し通った。そして、他のあらゆる優先順位をすっ飛ばして、彼は軍医にターニャを治療させた。野戦病院の中には切り落とされた手足がごろごろしていて、大抵は血で真っ赤の桶や盥に纏めて放り込まれていた。ヘッケンは、もう血の匂いが分からなくなっていた。
時間が経ち、ターニャは一命をとりとめて、後方に最優先で護送された。なんでも、有名なエースだったらしい。らしい、というのはヘッケンは噂話をできる仲間も既に誰一人いなくなっていたせいで、恐ろしく世間のことに疎かったからだ。彼は何も知らなかった。国が負けそうなことも、国が負ければ父親が戦争責任を問われるかもしれないことも、何もかも。
ターニャが無事だと分かった彼は、上官からの処罰を従容と受け入れた。食事も与えられず、雨ざらしの独房で三日過ごしてから、ようやく外に出されて軍法会議に掛けられた。本来は死刑だったが、これまでの戦果を踏まえて軍籍の剥奪だけで赦されることになった。今更になって、父親から「帰ってこい」の電報が届いた。そして、それに応じる間もなく、戦争は終わり、父親は絞首台の露と消えた。
家が没収されて、母親が病死して…ヘッケンの家族は随分酷い目に遭っていた。そして、ヘッケン自身も。
故郷に帰ったヘッケンを待っていたのは、彼の指揮下で死んだらしい兵士たちの遺族だった。彼らはどうしてヘッケンが生きて帰って来て、自分の家族は生きて帰ってきていないのかと彼を責め立てた。ヘッケンは正直に答えた。
「わからないよ。わからないんだ。本当なんだ」
「僕が真っ先に死ぬと思ってたんだ。なのに、何時までも死ななかった。僕の周りは死体だらけだったのに、傷を負っていない兵士なんかいないくらいだったのに、僕はなんでか無傷だった」
「大砲の弾が落ちて来て、ようやく僕の番だと思ったんだ。でも、そいつは不発だった。神を恨んだよ…いつまで、こんなのが続くんだろうって」
「鉄条網で手を切ったことがあった。でも、それっきりだった。町に入って仲間がレジスタンスに殺された。僕も同じ場所に居合わせた。銃を向けられていて、あとは引き金を引くだけだった。でも、そいつは何もせずに引き返していった。僕だけが生き残った」
「戦車が来て、頭の上を通って行った。頭を突き出して死んでしまおうとも思ったけど、怖くてできなかった。体を丸めて震えていたら、陣地は壊滅していて、捕虜にされるかと思ったけれど、敵はもうとっくに先に進んでた。僕は歩いて後方に戻った。僕しか戻らなかった」
「自殺しようかとも思った。けど…なんでだろう、なんで自殺しなかったんだろう…実は僕にもわからないんだ。なんでだろう」
ヘッケンがすっかり壊れていたことを理解した遺族たちは、同情的な視線を送る者もいれば、彼が演技をしているのだと考えて非難する者もいた。
ヘッケンは、黙ってその非難を受け止めた。そして、遺族が一人残らず帰ってから、今日こそは自殺してみようと思った。
ヘッケンは悩んだ。拳銃で頭を撃ち抜くか。首を吊るか。小銃を咥えようか。毒を飲もうか。あるいは、高い場所から飛び降りてみようか、とも。
その日の夜、ヘッケンは高い場所を探して街のあちこちを徘徊した。死に場所に相応しい、うんと高い場所を探した。そうして歩いている内に、街中に溢れかえる傷痍軍人の姿が目に映った。五体満足なのはほとんどいなかった。五体満足でも、顔に傷があったり、心を病んでいたり。ヘッケンも似たようなものだった。でも、ヘッケンは顔を知られていた。戦争の英雄として。また、戦争を勝利に導けなかった側の人間として。
ヘッケンは傷痍軍人と会うたびに、うんざりするほど罵倒された。或いは、憧憬を顕わにして賞賛され、最敬礼を返された。腕が無い者も、口が裂けている者も別なく。ヘッケンは罵倒され、賛美された。もうなにがなんだか分からなかった。ヘッケンは歩き疲れていた。そして、ベンチに腰掛けた。
この日は昼までは雨だった。お陰で尻が冷たかった。水がズボンに染み込んで、下半身がブルりと震えた。塹壕でふやけた足を思い出した。何も感じない。何も感じなくても、腹が減り、眠たくなった。ヘッケンは悲しくなり、けれど、それが表情に表れることはなかった。どうしようもなくて、張り詰め、凝固した表情のままに顔を手で覆った。指先にはまだ泥が詰まっていた。糞尿と血と臓物が混ぜ込まれた不快な泥の香りが思い出された。どれだけ手を洗っても落ちないそれに、ヘッケンは辟易としていた。まるで呪いのようだ、と。
ベンチに座って、いったいどれだけの時間が経っただろう。ヘッケンは結局、この日に死ぬことを断念した。もう暗くなっていて、おまけに空爆のせいで背の高い建物はのきなみ崩れ去っていた。廃墟に上って死ぬのなんて御免だった。彼はとぼとぼ歩いて帰った。
家に帰ると、何故か家に明かりがついていた。いぶかしんだが、ヘッケンは泥棒でも構わなかった。なにせ盗る貴重品など、今の家に住まわせて貰う為に全てうっぱらってしまった後だったからだ。先祖伝来の宝物なんかは全部没収されて、売り払ったのは父親から貰った万年筆や、懐中時計、母親の形見のネックレスや指輪なんかだった。ヘッケンを構成する全てを金に換えて、彼は生き延びていた。だが、それも遠からず終わりが見えていた。餓死するというのは、なんとも現実味があった。だが、それよりも先に家の中にいる誰かを見てみなければ。問題の先送りだとしても、そう思い、ヘッケンは黙って扉を開けた。
「やぁ…中尉。いや、元中尉か…元気にしていたかな?私は…君のお陰でこの通り元気だとも」
部屋の中には、車いすに乗った金髪碧眼の幼女がいた。裸電球の光に照らされて、それがまるで後光のように見えた。ヘッケンはなんとなく、その瞬間が来たのだと思い、その場に膝をついた。もう、一歩も動けなかった。
「…君が私を助けてくれたことには、まず一つ、感謝しておこう」
そこで彼女は言葉を切った。
「…なぜ助けた?だとか、どうして死なせてくれなかったんだ?とか…そういう無駄なことは尋ねるつもりがない。だから、安心して欲しい」
「ただ、一つだけ…君の御父君。グスタフ閣下が生前の最後の命令で私に色々な便宜を図ってくれたことを、君に伝えておかなければと思ってね…お陰で私にはつつがなく、傷痍軍人恩給が払われている。この身体でも何不自由なく暮らしていけるくらいに…格別な処置と言うやつだ…いやいや、権力と言うものは恐ろしいな」
「……」
彼女は俯き、それから伏したままの視線を、顔を上げずにヘッケンの方へ向けた。
「閣下の事は残念だった。私は個人的な配慮を受けてしまった所為で、客観的な評価を下せる立場には居ないんだが…それでも、立派な人だったと思うよ…閣下はね、私に過剰なまでの、本当に過剰なまでの恩給を発給したんだ…戦後世界がどのような形になろうとも、二人の人間が身を寄せ合えば飢えることなく暮らせる程だ…それは戦争に故国が敗北した今でも変わっていない。流石は元帥にまでなるとなんでもかんでも鋭い。君にその血は確かに受け継がれているとも思うのだが…どうだろう?」
「…私は生き残った。三食食べれているし、身体を清潔にしておくことも出来る。冬の燃料費に困ることも無ければ、病院の待合で待たせられることすらない…白い目で見られるかって?馬鹿馬鹿しい…私は見事に戦争の英雄だ。敵が強大であればあるほどに、それを倒した側の格が上がるというものだ…おまけに、私が瀕死の重傷から復帰したという話は色々と美味しいものなのだよ」
「悲劇だ。喜劇だ。私は引っ張りだこだ。無論、目の敵にする者もいるが…興味関心と共に、或いは憧憬と畏敬と共に私と接する者のほうが圧倒的に多い…となれば、だ。私はこれを商機だと捉えている。既に本を書いていてね。腕も一本、目も一個しかないせいでね、これが遅々として進まないのだよ…」
金髪碧眼の幼女…ターニャ・デグレチャフは俯けていた顔を上げた。
「勘違いするなよ?君の御父上は、君のことを頼むだなんて一言だって言わなかったぞ…これは、私自身の選択なんだ。私自身が、帳尻を合わせる為に、合理的な納得を得る為に必要な事なのだ。だから」
「だから私と一緒に来い。私と一緒に暮らせ」
ヘッケンは何を言われているのか理解できなかった。これから死のうと思っていたのに。どうして今更…そんなことを言うのだろうか。ヘッケンには理解できなかった。父の事だ、きっと自分のしたことを無駄にしない様にと、バカ息子の為に嬉々として職権を乱用したに違いない。ヘッケンの視界が霞んでいた。目頭が熱くなった。でも、涙は流せなかった。目の前の彼女の話はまだ終わっていない。泣くのは全てが終わってからだ。
「何をボーっとしているんだ?何のために五体満足なんだ?理由が分からないのか?この期に及んでも?」
幼女は勢いよく身体を前に倒した。ガタッ!彼女の体が床に放り出される…すんでの所で、ヘッケンが彼女の身体を受け止めた。小さいと思った身体は片足、片腕、片目を取り除かれた分、今にも何処かへ行ってしまいそうなほど軽く感じた。流されて、何処へでも行ってしまいそうだった。ヘッケンは思わず彼女のことを抱きしめた。壊れ物を扱う様に。力を込めすぎない様に。今にも折れそうな栄養失調の自身の身体に鞭打った。
ふと、彼女とヘッケンの視線が交錯した。幼女は悔しそうに頬を赤らめた。ヘッケンは何が何だか理解できない。ターニャも、何が何だか理解できなかったが、間もなく体のいい悪者の姿を脳裏に思い描いた。全部ソイツのせいにしてしまおう。
「クソ!存在Xめ!」
「ヘッケン・ヴォルフ!貴様は今日から私の世話をしろ!喜べ!私の全てを世話させてやる!」
「だからっ…死ぬなっ…」
ヘッケンは一応彼女の名前を憶えていた。もう二度と会えないかもしれないと思いつつも、血に塗れていても美しい彼女の名前が頭から消えることは無かった。
「ターニャ…僕は、どうすれば…」
「いい度胸じゃないか…私の言葉を流すとは…いいだろう!全部、貴様の全部は私が決めてやる。今この瞬間から、私が貴様を導いてやる。だから、お前も私の全部の責任をとれ!」
責任をとる。
ヘッケンにとって責任をとるという事は、死ぬことでしか果たせないものだと思われた。
「違うぞ?死んでどうする?死んだら誰が貴様を埋葬するんだ?私にさせるつもりか?お断りだな、五体満足の貴様の亡骸を、どうして手足のない私が埋めてやらねばならんのだ。悼むつもりもない。痛みなど…もう沢山だ!悼むのは貴様の方だ。最期まで面倒を見て貰うぞ。そのつもりで覚悟しておけ」
ヘッケンはターニャの身体を車椅子に戻した。それから、立ち尽くして、ターニャの言葉を待った。
「ふんっ…いい子だ。よし、それじゃあ私の車椅子を押せ。駅に行くぞ。終電を逃すなんて無能がやることだ。こんな陰気な場所で暮らすことは二度とないってことを理解しろ…これからは、私と二人で暮らすんだ。私の世話をしろ。私が話したことを本にして貰う。閣下が言っていた。息子は誰よりも美しい字を書くとな。心根がそのまま表れたような字を書くと…な。降伏文書に署名したのは閣下だったが…いやはや、負けた側とは思えん、見事な署名だった。達筆でな。静謐で迷いのない字だった」
ターニャはヘッケンが車椅子を押しながら、進み始めるのに合わせて、彼の父グスタフの話を始めた。
「貴様の居場所を見つけることが出来たのも御父上のおかげだ。御父上はありとあらゆる機密文書の焼却を命じていたが、ご家族の資料に関しては手つかずのままだった。戦後の計画まで、ご丁寧に書いてあったよ。負けた場合が先に来ていた。聡明な方だったんだよ、君の御父上は。ちと、親バカが過ぎたのも事実だったが…」
「参謀本部の連中以外は、誰もが君の父上を弁護した。でも、この戦争にケリを付ける為には犠牲が必要だった。君の御父上は名前が通っていたからね。話題を掻っ攫って、戦争が終わったことを宣言するにはもってこいだったんだ。世界の新しい日常と引き換えに、君の御父上は絞首台に立ったんだ」
「ついさっき、あの人はあらゆる資料を焼却したといっただろう?それにはね、実は私の…所謂、戦争犯罪に相当する戦闘行為に関する報告書も含まれていたんだ…まぁ、この年だ、どの道、こんなか弱い幼女を吊るすだなんて、連中には出来っこなかっただろうが…それでも、恩は恩だ。貰ったモノは、ちゃんと返さないと気が済まないタチなのでね。感謝しているんだ。これでもね」
「…死刑まではいかなくとも、本来ならば恩給だって取り消されて、今頃は孤児院に逆戻りだったかもしれん…寒い孤児院の部屋の隅で餓死するなど考えたくも無かった。勲章を剥奪されずに済んだのも功を奏したよ。これも、元帥の名の下に何もかもを取り繕ってくれたグスタフ元帥閣下のお陰だ…君のことは、すまない、調べさせてもらった」
駅の中に入り電車を待つ間、話題はヘッケン自身のことについてへと変わっていた。
「君がどんな人生を歩んできたのか…十分に調べたつもりだ。私は幸運にも、その隅々までの情報にアクセスする権限を、戦争の最終盤まで与えられていたのでね。君の人生を狂わせた戦争も悪いが、君が戦場へと向かうことになった御父上にも責任があり、君のことを英雄に祭り上げた挙句、擦り切れるまで使いまわしてから、軍籍を剥奪して使い捨てた…参謀本部にも大いに責任がある。私の分析するところでは、そんなところだろう…」
「戦争だからしょうがない。もしも、そう言えたならば…そう言えた頃の私であれば、君と再会を望むことは無かっただろう…こうして再び相まみえることも」
「仏心が出たのかな?いいや…私は未だに神に祈った試しがない…信じられるか?私は君に祈ったんだ。君に会えますようにって…」
「君が飢えていませんように。君が困っていませんように。君が優しくしてもらえますように。君が大切にされていますように。君が、また日常を…また歩き始めることが、できていますように…クククッ…なんて
「だがッ…!私は、幸せになることにした。今も私のことを、この世界の事を見下ろしている存在に対して、ハッキリとNOを突きつけてやるのだ!…君に救われた命だ。君に救われたのであって、断じて存在X、貴様によって救われた命ではない!私の命は私のものだ!私の命を好きに出来るとすれば、私以外には私を救ったものにだけ許されるべきだ!そして、そんな存在は君以外に存在し得ないッ…」
「ヘッケン・ヴォルフ…これからも苦労は続くだろう。だが、安心したまえ。君には私がいる。君が私を救ってくれた様に…だから、君も神になど祈るな。祈るのなら、目の前の私に対して祈ってくれ!私は、存在Xとは違う!私は実力主義者だ。そして、今の私にとって、私の命よりも価値のあるものなど無い。そんな価値あるものを救われた場合、私はどうすれば君に報いることが出来るだろう…だから、誓おう」
「君に全てを与えると誓う。君に私の全てを捧げてやろう。神にじゃない。君にだ、ヘッケン・ヴォルフ…」
その時、丁度汽笛が鳴り響いた。駅のホームの空気を入れ替えるように、風を纏った列車が入ってきた。
「これからよろしく頼むぞ?私も君も、一人じゃ生きられない身体なんだからな…死にたくなる暇もないほどに、君のことを存分にこき使ってやる」
「だから、生きろ」
「私と一緒に…これから死ぬまで。君が死ぬのは私が死んでからにしろ。いいな?何度でも言ってやる…私は君のことなど埋めてやらない。私は君以外の手で看取られる気もない…だから、これからはずっと一緒だからな」
ヘッケンはターニャに導かれるままに進んだ。車椅子を押して、彼女の為に用意されていた一等車の席に腰を下ろした。間もなく出発した列車は、何時の日か、帰るときに乗って来いと亡き父に言われていたものを思い起こさせた。ヘッケンはようやく涙を流すことが出来た。
「いいんだ…泣いていいんだ…君は、もう十分によくやったよ…だから、もう何もしなくたっていいんだ…私の隣にいてくれれば、もうそれだけで」
泣き続けるヘッケンの背中を、ターニャは一本しかない腕で何度となく撫でていた。ターニャのまなざしは穏やかで優しいものだったので、ヘッケンは余計に涙が流れて仕方なかった。幼女に縋りつく青年の図に、一等車の他の客は何事かとざわついていたが、ターニャが一睨みすると、幼女らしからぬ殺伐とした眼光に誰もが視線を逸らした。ヘッケンの涙は結局、ターニャの家の最寄り駅に到着するまで止まらなかった。
ターニャの家に向かう為に、二人で電車から降りて駅を出た。駅から程近い場所にあるらしいが、ヘッケンはターニャに車を拾ってはどうかと提案した。だが、ターニャは断った。「君と一緒に景色を見ながらゆっくりと進みたい」と。
並木道を通った時、木枯らしが吹いて、二人の身体を冷たい風が叩いた。ターニャはそっと手を伸ばして、車椅子を押すヘッケンの手を握った。ターニャの手は小さくて、でもとても暖かく感じた。